〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月22日 『爆撃機は、北へ、北へ』

敗残兵の「食糧徴発」 / 蛟龍隊ワタナベ大尉と護郷隊 / 頻発する女性の連れ去り

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設 - 牧港飛行場

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1945年の沖縄戦に米軍は11の飛行場20あまりの小飛行場を建設した。そのいくつかは日本軍の飛行場を接収し拡張したものもあるが、新たに建設したものもある。

牧港飛行場

日本陸軍の特攻用滑走路「仲西飛行場」は建設放棄された後、米軍に接収され 6月1日から牧港飛行場として再建設が開始された。後の米軍牧港補給地区となる。

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那覇の北で建設中の新しい飛行場。(1945年7月22日撮影)

New airstrip under construction, just north of Naha town on Okinawa in the Ryukyus.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

1946年には牧港飛行場は兵站基地化し、1968年1月8日には米国民政府が移転した。

 

第32軍の敗残兵

恩納 - 食料の「徴発」

4月1日、特設第1連隊第44飛行場大隊は約3分の1の戦死者を出し、石川岳を経て4月4日から恩納岳を中心に潜伏し、夜になると食糧「徴発」のため里に下りた。

私たちが放浪の末にやっと落ちつくようになったアジトは、谷茶部落から石川岳に通じている雑木林の中のだらだら坂道を登ってゆき、急坂になっている9合目あたりの左方に、琉球松やフク木の原生林に深くおおわれた、洞窟のように口を開けている険しい谷間であった。谷間はすぐにまた、左右2つの沢に分かれていて、下方の谷間には住民の残していった避難小屋があり、すでに海軍の3人組が住みついていた。そこで私たちの2組は、上手の谷間をえらんで、奥まった断崖の中腹に木を切り倒し、木の枝や、草をおおって雨露をしのぐだけの小屋をつくっておさまった。

徴発のたびごとに往き来する見通しのよい谷間には、身の丈ほどもある羊歯やヘゴ、熊笹などが生い茂っていて昼なお暗く、おまけに大樹が数本、障害物となるように跨いで通るように切り倒されていたから、敵が入ってきてもドーッ、と急襲される心配はなかった。警戒してさえいれば事前に高所から俯瞰もできて、いち早く避難するに都合のよい灌木地帯が小屋の後方につづいていたから、私たちはまるで鷹が産卵のために住みついた巣のように、いままでにない安心感が得られたわけだ。それでも私たちは用心のために、徴発が終わったたびごとには、決って落葉をバラまいて足跡を消すことに気を配っていた。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 245-246頁より》

前途になんの光明もない絶望のなかで、敵の掃討戦におびえ、飢と疫病とも戦いつつ生きねばならない兵隊たちは、もう誇りも理性もうしないかけていた。この人間性の崩壊したあとに残るものは、生きようとする動物的な本能だけであった。

髭はぼうぼうとのびて、もう長いこと髪も切っていない、戦いに疲れきった人たちの土と垢によごれはてた顔は、誰の目にも山賊のように見えた。

夜は食糧さがし、昼は犬を連れた米兵の掃討を警戒して、ジッと灌木内に潜伏していた私たちは、ピシッーと、下枝の折れる音ひとつにも「米兵ではないか」と判断しなければならない、生命の危険と隣り合わせ、緊張のほぐれる間もない日々が、私たちの精神をさいなんだ。

その辺に生えているキノコやツワブキ、なんでも手あたり次第とって食った。また谷間をチョロ、チョロ流れているせせらぎの石や岩を片端からとり除いて、サワガニも捕った。沖縄には実は2種類の蛇が棲息していて、胴に丸く区切ったような模様のある、赤マタ、という毒性のない蛇も捕って食った。ハブは恩納岳で食ったのみで、ついに見つからなかった。もし見つかれば、たちどころに私たちに食われてしまったことだろう。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 247-248頁より》

昼は敵の掃討を警戒して、じっと密林の奥に潜伏していた私たちも、夕暮れを待って食糧探しのために、ひそかにこの谷茶部落におりていった。これは後に投降するまで、日課のように続いたので、谷茶はなによりもなじみ深い部落となった。

沖縄北部の地形は海岸まで山がせまっていて、さすがに小さな平地には、敵の基地がなかった。

私たちが活躍する夜にも、敵のトラックがライトを灯してときおり通る。それを見はからって軍用道路を越えると、潮の香がツーンとする。東シナ海の海だ。それが私の郷里横浜の海に通じると思うと、懐かしさがこみ上げてくる。… 故郷の肉親もいまごろは、沖縄の玉砕をきいて、私の死を悲しんでいるにちがいない。その私がこんな乞食のような姿になって、まだ生き残っていようとは、夢にも思ってみないだろう。

… 暁の空には、敵の大型爆撃機の編隊が爆音をとどろかせながら、日本本土の空襲に行くのであろうか、北へ北へ飛んで行く。菅原軍曹が「戦争は負けだ」とはっきりいって、彼はパーッと唾をはいた。もはや、だれも「神風」のまぼろしを信じる者はいなかった。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 249-250頁より》

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Consolidated B-24 ”Liberators”, 11th Bomb Group, 7th Air Force, preparing to land on Yontan Airstrip, after completing a bombing mission somewhere over Japan. Okinawa, Ryukyu Retto.

日本のある区域での爆撃任務を完了した後、読谷飛行場へ着陸準備に入る第7空軍第11爆撃群、コンソリデーテッドB-24リベレーターズ。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

海軍特殊潜航艇隊・蛟龍隊の渡辺大尉 

5月12日今帰仁の謝花喜睦ら惨殺など、少なくとも住民5人の虐殺に関わったとされる第二蛟龍隊の渡辺大らは住民の集落を襲っては食糧を奪っていた。

運天港に配置されていた日本の海軍部隊は、米軍上陸後は山奥に潜伏していたが、住民が米軍に収容されたあとは、毎晩住民の集落に潜入して食糧を奪っていた。渡辺戦没者名簿には6月13日*1に死亡と記載されているが、住民の証言には、民間人をよそおい大浦崎収容所でかくまわれていたことが記録されている。

7月22日CIC の尋問で逮捕されたことがわかっている。

(1945年)7月22日対敵諜報隊(CIC=Counter Intelligence Corps)からの報告によれば、日本海軍将校のワタナベ大尉(Lt.)という者が、大浦崎キャンプ[辺野古]において匿われていたということである。地元住民から構成される政治組織の一部の者達も、ワタナベ大尉の存在を認識しており(黙っていようと)合意していたということである。(翻訳・保坂廣志)

彼は軍人として捕まることを恐れ、民間人を装って辺野古大浦崎の難民キャンプにいたのだ。しかも、命令を聞く住民のグループに、くれぐれも日本軍将校であることを伏せるよう口裏合わせをし、地元民の格好をしてかくまってもらっていた。

三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史集英社 (2020/2/22) 》

日本軍は「訓練」と称して兵士を苛め抜いて人間性を破壊する。その暴力の最終的な矛先は住民に向けられる。

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米軍が1946年2月に撮影した製造中の蛟龍 (広島県呉市)

蛟龍は本土決戦の切り札として期待された5人乗りの特殊潜航艇で、終戦直前の昭和20 (1945) 年5月28日に正式採用されている。攻撃手段は体当たりではなく魚雷だが、生還の可能性が極めて低いことから事実上の「特攻兵器」といえる。…僕らは10代で、汚い世の中の縮図を体験しました。軍隊とはそういう社会なんです。これは、いまの若い人たちにも絶対に覚えておいてほしいです。

特殊潜航艇・蛟龍隊の生き残り、岡田明さんの戦争

今帰仁の運天港に配備された「特殊潜航艇」蛟龍。3月28-29日に秘匿基地が破壊され、敗走。以降、第2蛟龍隊の渡辺は、スパイリストをもち、恩納岳で護郷隊の少年兵らを配下に従え一連の住民虐殺で恐れられた。

5月2日、ついに米軍は、各部落の区長達を玉城区の民家に集め、村の生産と復旧の計画を建てさせ、一日もそれを急ぐようにと命じた。その頃、運天港にいた海軍特殊潜航艇隊の渡辺大は、数人の部下と共に、夜になると米軍の目を逃れて、部落へやってきた。山中に匿れている兵隊は、大抵、住民の着物をつけ、藁の帯をしめていた。渡辺は陸戦隊の黒い庇帽を被り、日本刀を吊っていた。彼は村民に、喰物をせびって歩いていた。そして、「米軍に通じる奴は、国賊だ。生かしてはおけぬ」と脅し文句を吐いては、山へ引き上げていった。

沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 321-322頁より 今帰仁村の住民虐殺 - Battle of Okinawa

護郷隊の少年兵を率い、徒党を組んで米軍基地の襲撃や食糧の徴発などを行っていたため、渡辺配下の少年たちは親子関係も分断され、共同体に戻ることを困難にさせた。渡辺隊の少年兵は戦後、このように証言している。

海軍部隊は自分がいなければ困るわけ。食糧運んでいくし、言葉も年寄りとは通じないでしょう。それで煙草でキゲンとったりなんかして、自分は何のためにいたか判らなかったがー。… … なぜ死ぬのか、何時死ぬのか判らない状態だったから人を恐いとは思わなかったんだが、… こちらは軍服着ているので人を何とも思わなかった。… 殺すといっても何とも思わなかった

自分が二、三日いなかったといって、ひどく怒られたことがあった。うちに帰ったら戦闘やる気持がなくなったのかといって、…

沖縄戦証言 護郷隊 - Battle of Okinawa

敗残兵は洗脳された少年兵を利用して生きのびた。渡辺大尉は最終的には懇意にしていた女性たちのつてなどをつかってか、大浦崎収容所に民間人を装ってまぎれこみ、生きのびて復員したはずであるが、戦後は戦没者として記載されている。映画監督の三上智恵は、著作で「ワタナベ大尉」の謎の消息をたどっている。

 

そのとき、住民は・・・

軍作業 - 洗濯

民間人収容所での女性の軍作業。

石川収容所に収容された読谷村出身の女性の証言

その避難民収容所では、何区、何区と班に分けてあり、班ごとに芋掘り作業などがありました。そして、必らず一家から一人づつ出るようになっていました。後に、米軍が洗濯する人を何名か出して欲しいと頼んできたので、各班から女の人を三名ずつ選んで洗溜に行かすことになりました。

沖縄戦証言 中頭郡 - Battle of Okinawa

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Native women, employed at the only ”cement mixer” laundry known to be operating in the Pacific, scrub and rinse all white clothes after they have been given the works in the converted washer.

太平洋地区で唯一、稼動が知られている「セメントミキサー」洗濯場で働く地元の女性。改造洗濯機で洗濯された衣類の中から白い衣類を全て、さらに洗ってすすぐ。(1945年7月22日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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米海軍設営隊と海兵隊のために設置されている洗濯場責任者の男性。1日の終わりに軍政府からの贈り物として沖縄の女性に石鹸を与える。(1945年7月22日撮影)

Men in charge of laundry operated for Seabees and Marines give Okinawan women, paid by military government, a gift of soap at day's end.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米国陸軍通信隊: Aged Okinawan receives into from girls who keep civilian records for mil. govt.
軍政府の住民記録に記録する女子職員から配給を受け取る年寄り 撮影地 久志 1945年 AMGセンター

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

辺土名収容所 - 米兵の「女さがし」

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大宜味村喜如嘉では7月15日から下山が始まり、田井等収容所に収容された。7月23日には辺土名収容所が拡大され大勢が収容された。

国頭村・奥間、女性の証言

河原に降りていくとそこには三〇〇名ぐらいの避難民が集められていて、座りこんで、ヒソヒソ不安そうに話し合っていました。私はたぶんそこで殺されるだろうと思っていました。アメリカ兵はビスケットやチョコレートをくれるんですが初めは誰も毒がはいっていると思って食べないです。アメリカ兵は自分で食べてみせたんですが私はそれでも食う気にはならなかったです。敵から物をもらって食べるということは恥だと思っていましたから、栄養失調で今にも倒れそうなんですが山を降りるまで食べませんでした。

そこから行列をつくって、二〇メートルおきぐらいに銃を構えたアメリカ兵が監視をして山道を宇良の部落につれていかれました。大雨のあとで道は滑りやすくてけわしい坂道を歩いたり大きな岩をよじ登ったりしましたが緊張のせいか子供をおぶりながらもよく倒れなかったと思います。

途中のできごとですが、私の前でも後でも女の人たちがアメリカ兵につれ去られていきました。列のなかには那覇から避難してきたジュリ(遊女)たちも混っていましたが、この人たちは色が白くてすぐ目立つのでとくに狙われたようでした。あっちこっちで「アキサミヨーゥ」とか「助けてくれ」と叫ぶ声が聞こえました。私の見ているところでも五、六名ぐらいつれ去られています。その人たちは私たちが捕虜になって部落に落ついてからも帰ってきたという話はありませんでした。後で私が蒲団を取りにまた山小屋に行ったとき、椎の木の下に十二、三体の白骨があったんですが、ジュリとわかるような女性の遺体も混っていました。

その時のこと、私のすぐ前を胃腸を患って今にも倒れそうな六十ぐらいの爺さんと年ごろの娘さんが歩いていました。たぶん孫だったと思います。女たちはたいてい顔に泥をこすりつけたり男物の著物をつけたりしていたんですが、その娘さんは若いので目立ったのだと思いますが、アメリカ兵に手首をつかまれてつれ去られようとしたわけです。すると爺さんが全身の力をふりしぼって体ごとアメリカ兵にぶっつかっていったんですね。アメリカ兵はよろめいて離れたんですが、銃を向けてきて安全装置をガチャンとはずしたんです。すると爺さんは胸を張って撃つなら撃てと立ちふさがり、これを見て避難民たちもアメリカ兵をとり囲むようにして無言でにらみつけたわけです。アメリカ兵はだんだん後ずさりして、とうとう娘さんをあきらめてしまいました。

十二キロぐらいの山道を歩いて宇良部落につきました。そこで一泊して、翌日一里ほど離れた自分の部落に帰されたんですが、そこでまず米と塩の配給がありました。皆は配給されるのも待ちきれずにワッと塩の方にたかっていきました。それほど塩に飢えていたんで、砂糖みたいにうまそうになめたものです。

私たちははじめて沖縄戦が終ったことを知らされました。しかし、それでもすぐ平和になったわけではなく、捕虜になってもまだ安心できませんでした。山から降りてきたその夜から毎晩のようにアメリカ兵が女さがしにきて、どの家でも女をかくすのにひじょうに苦労したものです。もう一つは、山から降りてきてからも食糧事情は悪く毎日のように栄養失調で倒れていく者がでたことです。とくに老人がバタバタ死にました。部落で葬式のない日はないといったありさまでした。米軍がくるまえ二月ごろ私の家には読谷から疎開してきた人たちが四世帯20名ぐらい住んでいましたが、山から降りてきたときは5、6名ぐらいしか生き残っていませんでした。あとはみんな山の中で栄養失調で死んでしまったそうです。

沖縄戦 国頭村 - Battle of Okinawa

 

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