〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年4月9日『嘉数の戦い』

嘉数の戦いと逆斜面陣地 / 沖縄語の禁止と「スパイ」の処刑 / チヂフチャーガマ

 

米軍の動向

続々と送りこまれる増援部隊

 新しい部隊がぞくぞく送り込まれた。予備軍として海上にいた第27師団は、4月9日読谷村渡具知に上陸し、攻撃増援軍となり、第24軍団に配属されて、第96師団とともに西部を固めた。4月15日までには、第27師団は配置につき、攻撃準備態勢をととのえていた。このほかさらに1200の増援部隊が、第7師団と第96師団に送られ、攻撃部隊に加わった。これらの増援部隊はサイパンで訓練をうけ、整備をととのえ、数時間で沖縄の部隊と交替した

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 185頁より》

日本軍の中飛行場は今や米軍「嘉手納飛行場」としてフル稼働していた

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On its way up to the front lines, this amphibious truck had to pass along Kadena airfield, where planes of fighter squadrons of the 2nd Marines Air Wing are already operating against the Japanese. この飛行場ではすでに、第2海兵航空団飛行中隊の戦闘機が日本軍に対して作戦行動を行っている。前線へ向かう途中、この水陸両用トラックは嘉手納飛行場に沿って進まなければならなかった。(1945年 4月9日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

北進する米軍 - 名護

北進する海兵隊は本部 (もとぶ) 半島に侵攻する。

THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

 

南進する米軍 - 嘉数の逆斜面陣地

南進する陸軍はついに日本軍が陣地を構築している地点に到達する。

第1線、宇地泊ー牧港ー嘉数ー我如古ー南上原ー和宇慶

4月9日 今日のマップ (クリックで拡大)

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難所の階段と弾痕の堀

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嘉数高台公園|普天間基地が一望できる沖縄戦の激戦地

反斜面陣地 (reverse slope): 第32軍は、波打つような沖縄中部の地形を利用し、沖縄の住民を動員して、首里攻防のための反斜面陣地を構築した。

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第32軍 (沖縄守備隊) 首里の攻防ライン ~ 「反斜面陣地」とは - Battle of Okinaw

写真 (左が北側、右が南側)では左に米軍、右側の高台には日本軍の主陣地があった。川を越え斜面を上がった米軍の戦車を日本軍が待ち構える。

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嘉数の戦い - YouTube

沖縄守備隊第32軍の作戦参謀八原博通の反斜面陣地が進撃する米軍を迎え撃つ。

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 5]

嘉数を中心とする日本軍の陣地はあらかじめ地形を利用して計画的に構築されていたものであったので、米軍もその攻略に手をやいた。丘陵のふもとに塹壕が掘られており、そこに軽機関銃・擲弾筒(手榴弾の発射装置)・小銃が配されている。丘の中腹には重機関銃があり、迫撃砲が丘の反対側斜面に隠されている。こうした丘陵陣地は隣接するものどうし、巧みに支援しあうように銃座が設けられていた。要所要所には観測所があって、首里の南にある第5砲兵司令部などと連絡をとり、砲撃を要請する。丘陵陣地の地下には自然洞窟を巧みに利用して網の目のようにトンネルが掘られている。トンネルには出口がいくつもあり、米軍が砲撃や爆弾をかけているときには日本軍の兵士はそのなかにひそみ、米軍歩兵が接近してくるとトンネルからはいだし、さまざまな角度から銃撃・迫撃砲攻撃を加えるのである。銃座には米軍から見て反対側の斜面にも多く設置されていたので、米軍は丘陵のあいだにある平坦地に不用意に進出すると、四方八方から射撃をうけなければならなかった。日本軍陣地は米軍の艦砲射撃や砲撃・爆撃によく耐えた。この地方の地表が非常に硬い隆起サンゴ礁から成っているためである。

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 80頁より》

斜面の頂上から裏側にかけて陣地を構え防御しながら、やってくる敵を有利に攻撃するのが逆斜面陣地。

日本軍の構築した反斜面陣地。手前に見える斜面裏側 (反斜面) のいくつもの洞窟が洞窟陣地。地形の切れ目 (川) の向こう側がこちらからはよく見える。

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 10]

4月8日、メイ大佐は、第383連隊の第1、第3大隊に対し、翌日嘉数高地を奪取すべきことを命じ、翌4月9日、両大隊は攻撃前進を起こした。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 234、236頁より》

4月9日、米軍は嘉数丘に攻撃を加えてきた。米軍は丘の東部と西部の二手に別れて攻撃し、まず西の丘を占領した。しかし、4月9日の戦闘は全く激烈をきわめ、日本軍は420人の兵員を失った米軍は326人の戦死者を出し、無傷はたったの3人で、いったん占拠した西部丘を捨てて退去する羽目になった。

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 58頁より》

 

第32軍 - 首里の攻防・第1線

守備軍陣地は、牧港から嘉数、我如古、南上原、津覇を結んだ線上に配備され、ほとんど東西に島を横切る格好となっていたが、それは首里の守備軍司令部を守る数本の防衛戦のいちばん外側にあった。そこでは、藤岡武雄中将指揮下の歴戦部隊第62師団が高台地に機関銃や迫撃砲をたくみに配置していたほか、陣地のまわりに鉄条網や対戦車砲、地雷原などを二重三重に張りめぐらして守備にあたっていた

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 84頁より抜粋》

 

嘉数の戦いが始まる

嘉数では、4月8日から24日まで、16日間の激戦が続けられた。

嘉数地区を守っていたのは、独立歩兵13大隊大隊長は、寡黙、実行家肌の原宗辰大佐。大隊人員1233名を率い、5コ歩兵中隊(1コ歩兵中隊189名)のうち1、2中隊を嘉数高地、3、4、5中隊を前進陣地におき、中頭地区の狭くなった部分の左翼(西半分)を押えた。

嘉数高地は、高さ84.3メートル。嘉数部落の北側に、米軍の進攻方向にたいして直角に連なる約1キロの稜線。前(北)面は、典型的な沖縄の隆起サンゴ礁の特徴を見せた断崖ーといっておかしくない急斜面で、振り返ると、南面は緩やかな傾斜をして低くなり、低くなった底部に嘉数部落がある。それから約2キロのうしろには、もう一つの、高さ約130メートル前後の浦添高地の稜線が、右手(西端)から伊祖、仲間、前田、高地と連なり、棚原に及んでいる。嘉数高地前面の断崖の下には、狭い谷があり、小川が流れていて、戦車の戦いには困難である。

火網の焦点は、その小川を含む谷あいで、その谷あいに顔を出したら、どんなところに顔を出したものも、日本軍の鉄火の洗礼をのがれられないように、地下壕で前後左右に連絡した迫撃砲や機関銃を配置した。また、南面の方も、斜めから、後ろから、横から、どこからでも射てるよう銃座が配置され、すでに疎開して、無人になった部落の家々を囲んだ暴風よけの石塀にも、銃眼をうがって、いつでも使えるように準備された。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 190-191頁より》

嘉数に無数に作られたトーチカ

トーチカとはロシア語で「点」や「拠点」を意味する軍事用語で、防御の中心となる陣地のことです。このトーチカは鉄筋コンクリート製で、厚さは最大1mあり、内部は2m四方で大人が3名ほど入れる広さです。北側の比屋良川(ひやらがわ)に向けて、射撃するための銃眼(写真の四角い穴)が2か所あり、そこから小銃や機関銃などを出して米軍を攻撃しました。

嘉数高台公園|普天間基地が一望できる沖縄戦の激戦地

9日未明、この嘉数高地は、米383連隊の奇襲を受けた。このときの13大隊兵士は、1、2中隊のほとんど全員(約400名)と、前進陣地から後退してきた3、4中隊の生存者20数名(5中隊は、8日夜の斬込に出て大部分戦死)。1コ大隊といっても、500名足らずの小人数でしかなかった。米軍は、1コ連隊。約その6倍の兵力。その2コ大隊が、谷あいの向こう側にひそかに忍び寄り、3コ中隊が小川を渡って、稜線の頂上近くまで登ってきた。

米軍のいつもやる事前のジュウタン砲攻撃を、まったくせす、日本軍のおカブをとるような朝駈けの奇襲であった。外から見たところ、それほどの防備がしてあるとも見えぬ嘉数の小高い稜線であり、奇襲で奪取できると判断した。日本軍を過小評価していたことも事実であったが、その日本軍も、まさか米軍が鉄量戦法をとらずに奇襲をかけて来ようとは考えていなかった。それで、不意を討たれはしたが、気付いたあとの立ち直りが、日本軍の方が早かった。洞窟や地下壕から、500人が躍りだし、高地全体が一瞬に爆発したように、息もつかせぬ十字砲火を浴びせかけた。こんどは、米軍が不意を衝かれた。いまのいままで、奇襲に成功したと勝利感をいっぱいにしていただけに、このドンデン返しは強烈だった。

「退れ。引け、引け」と叫んでも、越えてきた谷あいが、今は火ぶすまを立てられ、通ることができない。それを見ながら、米軍の本陣は援軍を送ることもできない。味方射ちがコワくて、砲爆撃もできない。その位置で、米3コ中隊は釘付けにされ、みるみる被害がふえていく。

大隊長は、機を失せず、この釘付け部隊めがけて、反撃を命ずる。嘉数部落のそばから射ちかける迫撃砲に支援されて、果敢な逆襲。敵味方入り乱れての乱戦となる。(191頁)

… 「万難を排して高地を確保せよ」400メートルと離れていない谷の向こう側から、米軍の大隊長、連隊長がヤッキとなって厳命を下す。二階に上がったとたん、ハシゴを外された釘付け部隊に、踏みとどまれというのはムリであった。東側の米2コ中隊は、10時ころには崩れはじめ、煙幕を張り、死傷を覚悟して後退。西側の1コ中隊も午後4時ころまでには全部撃退された。193頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 190-193頁より》

日本兵の体験談:

4月9日、大隊本部守備軍陣地、嘉数高地での白兵戦でのたたかいで、私は右胸を撃ち抜かれました。米軍はこの日の戦闘で最大の戦死者を出し、副隊長は即刻更迭されたといいます。わずか90メートル足らずの高地の争奪に、1日の戦闘だけで、日米双方で800名近い戦傷者を出したのでした。

その夜、私は後方の野戦治療室の壕内に担架で送られましたが、雨戸を敷き詰めた上に寝かされ、治療は傷口のガーゼを3回くらい取り替えるだけでした。狭く暗い洞窟のなかは灯火の油煙糞尿血と膿のにおい酸欠、次から次と運び込まれる負傷者の叫び声…。もう地獄を見る思いでした目をふさがれた者、手足をもぎ取られた者、あごを飛ばされた者、精神に異常をきたした者…。しかし、血清注射など治療薬や、ガーゼなどの補給もなく、助かる命もどんどん失われていきます。(34-35頁)

《最前線兵士が見た「中国戦線・沖縄戦の実相」〜加害兵士にさせられた下級兵士〜 (近藤一・宮城道良著/学習の友社) 34-35頁より》

 棚原上原和宇慶

一方、東半分を担当する歩兵14大隊正面にも、米軍大部隊が押し寄せた。棚原、上原方面では、激戦が続いたが、日本軍は強固に戦って、一歩も退かなかった。ただ、東端、和宇慶のそばで、東海岸の狭い平野部に入ろうという端の、155メートル高台が、9日米軍に占領された。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 193-194頁より》

 

沖縄語を使うものは「間諜とみなし処分す」

間諜とはスパイのことで、処分とは処刑を意味していた。教師や記者など、監視の対象を具体的に上げて住民同士の監視を煽った。

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戦陣訓は言います。「一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備え厳に警(いまし)めざるべからず。・・・軍機を守るに細心なれ。諜者は常に身辺に在り」。外国系の会社、学校教師、宣教師、通信員、学者、芸術家、留学生、観光客、みんな油断がなりません。スパイを防げ、日本を守れ。

スパイを防げ|戦時録音資料|NHK 戦争証言アーカイブス

また第32軍は標準語とよぶ日本語を強い、沖縄語を話す沖縄人を間諜として「処分」つまり処刑すると命じた。

1945年4月9日に第32軍(通称・球部隊)司令部は、諸事連絡通知「球軍会報」に次の方針を載せた。

爾後軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ

沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜(引用注・スパイ)トミナシ処分ス

沖縄の住民に対する疑心暗鬼が表れている。これまで陣地造りや砲弾運びなどに住民を大量動員のあげく、日本軍の情報を敵に漏らしてはしないかと、軍は神経を尖らせた。沖縄の言葉を理解できないもどかしさと、英語などの外国語を使える移民経験者が多くいることも、疑いを深める要因になった。もとより戦陣訓は軍隊の基本において、「軍機を守るに細心なれ。諜者は常に身辺に在り」と教導した。(103-104頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 103-104頁より》

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女スパイが暗躍しているというデマが数多く流され、無実の女性たちが日本軍によるスパイ狩りの標的とされることも多かった。

「上原トミ」の処刑。日にちは不明、複数の証言あり。5月10日頃という証言も。また実際には「か細い声」ではなく、凄惨な「処刑」であったことが複数証言されている。作戦参謀の八原は、女性が精神錯乱あるいは障害のある女性かもしれないと知りつつ、「処刑」を止めることはしなかった。

八原高級参謀の回想:

闘開始後間もないある日、司令部勤務のある女の子が、私の許に駆けつけて来て報告した。「今女スパイが捕えられ、皆に殺されています。首里郊外で懐中電灯を持って、敵に合い図していたからだそうです。軍の命令(?)で司令部将校から女に至るまで、竹槍で一突きずつ突いています。敵愾心を旺盛にするためだそうです。高級参謀殿はどうなさいますか?」私は、「うん」と言ったきりで、相手にしなかった。いやな感じがしたからである。「スパイ」事件はときどきあった。二世が潜水艦や落下傘で、沖縄島に上陸して活動しているとか、軍の電話線を切断する奴とか、そしてこの女スパイのように、火光信号をもって敵と相通じるとか。しかしこれまで真犯人はついぞ捕えられたことはなかった

私は、ふっと、3月25日午後、首里山頂天守閣跡の広場で見た狂女らしい女を想い出していた。私はそこにあった監視哨に状況を聞くため、一人で広場に立っていた。空は曇り、かなりひどい風が吹いていた。…かなり広い広場に、たった一人の琉装の狂女が呪文を唱えながら、両手を大きく振り、天を仰ぎ、舞の仕草を続けている。あるいは狂人ではなく、沖縄破壊の一大出来と、天に祈っていたのかも知れぬ。

私は、竹槍の一突き一突きに痛い!と、か細い声をあげながら、死んでいったという女スパイが、この狂女ではなかったかと、憐れに思えてならなかった。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 210-211頁より》

兵士は住民を完全に抑え込むため、あらゆる局面で「スパイ」という言葉を武器のように振り回した。

戦後、沖縄の言葉とむきあい、沖縄学の権威と呼ばれるようになった外間守善の証言

住民はもっと可哀想だった。子どもをつれた女や老人が、艦砲が落ちる戦場をさまよっていました。壕には日本兵が一杯で、追い出されていたのです。沖縄の人は方言しか語せない人もいて、何人かの住民がスパイとみなされて殺された

南部では、沖縄の女性がスパイだと捕まってきたのを、私が通訳して助けてあげたことがある。中部では、やはりスパイといわれて引きずられてきた老人も助けました

外間守善の言葉 沖縄戦と沖縄学 地獄の前田高地と沖縄語の美のはざまで - Battle of Okinawa

数々の秘匿基地が的確な徹底攻撃を受けるなどして、焦る第32軍はスパイ狩りに躍起になっていたが、実際には、上陸前から既に全域にわたる詳細なターゲットマップを作成。米軍はそのための多くの情報を、精密な空撮写真の解析太平洋上の戦場での日本兵捕虜や、鹵獲した日本兵の記録文書や手帳、などを翻訳することから得ていた*1。日本軍のある種の恐怖支配から解かれた捕虜に対して、情報を引き出すための拷問などはまったく必要なかった*2。また上陸前の米軍語学班は日本軍が兵士に日記をつけるなという基本的な諜報対策もしていないことに驚いた。米軍の諜報戦略は理知的かつ効率的であった。

【米陸軍公刊戦史から和訳】敵と沖縄本島に関するアメリカの諜報は、多くの困難に直面して、何ヶ月にもわたってゆっくりと習得された。沖縄は日本人によって世界から隔離されていたため、この帝国の戦略的内部防衛線に関する軍事的価値の情報は不足しており、入手するのは困難だった。限られた基本的な情報は、太平洋の島の戦場で捕らえられた捕虜と文書琉球の 元居住者の尋問、そして 古い日本の出版物から得られた。データの大部分は、航空写真による偵察によって取得された。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 1]

 

そのとき、住民は・・・

爆撃された町

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Wreckage on Okinawa after US aerial and naval bombardment. Damaged buildings in village. 米軍による空爆と艦砲射撃を受けた後にできた残骸。沖縄本島にて。被害を受けた村の建物。(1945年4月 9日)

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Wreckage on Okinawa after US aerial and naval bombardment. Damaged sugar mill. 米軍による空爆と艦砲射撃を受けた後にできた残骸。沖縄本島にて。被害を受けた製糖工場。(1945年4月 9日)

 

日本兵は奪ったが、アメリカ兵は与えた」

米軍は収容した住民に最低限の食事と医療を提供すると規定していたが、米軍の収容所運営は一貫しておらず、収容所間でかなりの格差があった。

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Some of the beauties of the island. 島の美女たち (1945年4月9日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

アメリカは殺すどころか助けてくれてるから、大丈夫だと、そこですぐ安心感ができたんですね。そのときもう、1か月くらい30日ほどご飯というご飯食べてませんから、出てきてお菓子なんかくれるとね、こんな喜びはないですよ。・・・ 今までね、だってもう、戦争で殺すとか、女性はその、暴行されるとか、いろんなあれがありましたので・・。それどころか、もうどんどん食べさせてますから。

玉那覇 清仁さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス 戦後日本のあゆみ 

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Native women beating rice in their crude way and showing type of implements. 粗末な道具で米をつく沖縄の女性たち(1945年4月9日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/119750.jpg

An aged woman cooking in the stockades.

収容所で調理をしているおばあさん。(1945年4月9日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

嘉数 - 住民の避難壕「チヂフチャーガマ」

嘉数、前田、宜野湾 - 軍の有無による死亡率の違い

嘉数住民はテラガマ、チヂフチャーガマなどの洞窟に避難していました。日米両軍の戦闘が始まる前に、南部方面へ避難した人と嘉数に残った人がいましたが、いずれも戦闘に巻き込まれ、住民の半数以上が亡くなりました。

嘉数高台公園|普天間基地が一望できる沖縄戦の激戦地

嘉数集落は独立歩兵第13大隊の駐屯地であった。

1944年(昭和19年)ごろ、住民は184世帯820人であった。最初第9師団(武部隊)が駐屯したが、台湾へ移動したあと、独立歩兵第13大隊の1200人がきた。これが60戸に分宿した。住民より軍人の方がはるかに多い。嘉数高地の陣地構築のため住民は輪番制で動員された。4月1日の米軍上陸直後は平静で、艦砲射撃で2、3軒焼失した程度だった。子どもたちは庭のガジュマール樹にのぼって米軍上陸の模様を見物していた。ところが6日から艦砲射撃が激化、家庭防空壕ではしのぎきれなくなった。天然壕に分散避難することになった。チジフチャーガマに400人、寺ガマに100人、マーヒガマに30人、アンガーに100人入った。ガマというのは洞窟のことだ。4月7日から10日にかけて住宅はわずか2戸を残して焼け落ちた

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 88-89頁より》

RBC琉球放送】戦後70年の地平から「嘉数高地の戦闘」

嘉数高地の戦闘 | 琉球放送

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浦添市牧港の住宅地の一角に、奥行き100メートルの壕「チヂフチャーガマ」があります。この壕は、沖縄戦で避難壕として使われましたが、もともとは風葬が行われていた地域の神聖な場所のひとつでした。戦争時、沖縄本島を南下しているアメリカ軍が迫る中、この壕には南部に行くことができなかったお年寄りや子どもたちが避難生活を送りました。湧き水が流れ、人々は、暗く湿気の多い環境での生活を余儀なくされました。多いときで400人が避難したといわれています。

浦添市 チヂフチャーガマ|戦争|NHKアーカイブス

 

 

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*1:see. 中田整一『トレイシー : 日本兵捕虜秘密尋問所』講談社、2010年4月9日

*2:この時期の米軍による捕虜尋問では宣撫・懐柔が有効と位置付けられ、またそれはかなりの効果をあげていた