1945年 4月18日『戦場の女性たち』

  本部半島制圧

『17日も八重岳の北側で激しい戦闘が続いたが、18日の掃討作戦でほぼ本部半島を制圧した。このとき、真部山陣地などから多くの日本軍文書を押収し、捕虜や民間人の尋問などと合わせて国頭支隊の構成を把握した。』(93頁)
名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 頁より》

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周辺離島の制圧

伊江島(いえじま)

『米軍は、伊江国民学校に陣取り日本兵を掃討するかたわら、ブルドーザーで飛行場の修理工事を開始、上陸後3日目の4月18日には、早くも飛行場の使用を開始した。』(257頁)

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 257頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-20.jpg

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7] 

『米国史上最も有名な従軍記者の一人で、無名兵士たちの友人、そして代弁者として世界中にその名を知られたアーニー・パイルは、伊江島で戦死した。4月18日のことで、彼はその日の朝、連隊長のJ・クーリージ中佐とジープに乗って前線へ向かう途中だった。右前方の草むらから日本軍の機関銃がひをふき、それっきりであった。…彼はなんら武器も持たず、一本の鉛筆とタイプライターを下げて戦場に出た。…41歳にもなったアーニー・パイルは、もう従軍するには年をとりすぎている、として2、3日後には故国へ帰る予定だった。』(108頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 108頁より》

 

南進する米軍

嘉数(かかず)高地より南への総攻撃計画

『第24軍団司令官ホッジ将軍の攻撃計画は、首里周辺の複雑な防御組織を撃破して該高地を占領し、那覇ー与那原道に到達せんとするにあった。第7師団は、東方において178高地を奪取し、爾後その作戦地域を那覇ー与那原道に向かい進撃する。第96師団(第383連隊欠)は、直路首里中央部に向かい突進し、首里およびその南方の公路に至る地区を占領する。

以上両師団の攻撃発起はH時(4月19日午前6時40分)と規定された。

第27師団は、H+50分、前夜占領した陣地より攻撃発起する。その任務は、嘉数高地、前田断崖、その南方地帯および海岸地帯の那覇ー与那原道に至る地区を占領する。第27師団の攻撃発起の時機を遅らせたのは、砲兵の集中火を東方より逐次西方に指向せんとする計画に基づくのである。』(249頁)

『…4月19日攻撃に先だって、指揮下第7、第96、第27の三師団長に与えた前進目標は、那覇首里ー与那原道の線であった。』(252頁)

『ホッジ将軍は、戦局の進展に多大な期待をかけた。…「これはいよいよ困難になってくるわい」と攻撃の2日前に述べた。「6万5千ないし7万の日本兵は、南端で穴にこもっている。彼らを駆り出すには一寸刻みに爆破するより他に手がない」と。』(249-250頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 249-250頁より》 

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 Chapter 07 | Our World War II Veterans

 

 

第32軍の動向

北部戦線

本部(もとぶ)半島周辺: (国頭支隊・宇土大佐)

日本兵による民間人虐殺

『米軍攻撃による八重岳陥落からほどなく、伊豆味という地区で本部国民学校の照屋忠英校長日本兵に取り囲まれ、射殺された。山の中で道に迷い、難聴のため上空を旋回の米軍機に気づかなかった。敵機を恐れない照屋校長の行動に日本兵は、敵に通じるスパイではないかと疑った。』(104頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 140頁より》

 

伊江島(いえじま): (国頭支隊・井川少佐)

女子救護隊

沖縄戦で悲劇の部隊と呼ばれて、あまりにも有名なのが「ひめゆり部隊」。年端もいかない女学生が無残にも戦火に巻き込まれ、短い生涯を閉じた。こうした少女、婦人は県内いたる所にいた。女子救護隊もその一つだ。伊江島でも昭和20年1月に、17歳から24歳までの未婚の女子青年を集めて救護隊が編成された。』(174頁)

『女子救護隊はおよそ100人。各中隊、小隊、分隊に2人ずつ配置された。軍の炊事、雑役に当たっていた25歳以上の婦人・婦人協力隊とともに米軍の上陸を迎えた。…救護班とはいいながら、配られたのはヨーチン、ガーゼ、包帯だけで、負傷兵に対する治療にはならない。仕事は砲弾の運搬と、切り込みでキズを負った兵隊を壕内に運び込むことだった』(174頁)

『上陸3日目、18日になって、…隊も初めて学校台地争奪の切り込みを行った。』(174頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 174頁より》

午前3時頃、井川隊将校の斬込みがあった、伊江島女子救護班4、5人がこの将校団の斬込みに参加を希望した。彼女達は、頭髪を剪り戦闘帽を被り、軍靴をはき、男装した。そして赤十字バン爆雷とマッチを持って、壕を飛び出した。夜間行動のために、皆、白布で背中に円形の標識をしていた。この斬込みで井川少佐以下幹部級が殆ど全滅した。』(44頁)
《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 44頁より》

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RBC琉球放送】「戦後70年の地平から」伊江島の戦闘

慶良間諸島沖縄本島に相次いで上陸したアメリカ軍は4月16日に伊江島に上陸し、70年前の4月21日、島を占領しました。
多くの住民が戦闘に巻き込まれ、「沖縄戦の縮図」といわれた伊江島の戦闘。村内ではこの日にあわせて平和祈願祭が行われ遺族たちが犠牲者をしのびました。

伊江島の戦闘 | 琉球放送

 

伊江島慰安所

1944年5月、日本軍は「東洋一」の飛行場建設に伴い伊江島慰安所の設置を決めた。伊江島の女性住民らと同様に、慰安婦らも女子救護隊として戦場にかり出されていた可能性がある。

『東洋一の飛行場建設のためには、3千人を超える一次徴用者の力が絶対的に必要であった。…最も警戒すべきことは兵士たちの性欲による過ちであり、「一般婦女子」に対する性行為、性欲は「断然厳重に処断」すべき行為であった。そして、中国戦線で「強姦を防止するため」という名目で慰安所設置が正当化されたのとどうように、満州で編成され沖縄に送られてきた第50飛行場大隊は、伊江島でも「一般婦女子」を保護し、「民心ヲ離反」させることを防ぐため「特殊慰安(所)」の設置を急いだ

要塞建築勤務第6中隊が慰安所建設を始めた。…「陣中日誌」には、5月24日、要塞建築勤務第6中隊に慰安所建設を命じた記録が残る。以降、用材伐採・運搬、敷地の整備、慰安所への道路整備、そのため動員した兵士や作業時間などが詳しく書き残されている。他部隊の外出日でも、慰安所建設には2倍近い人員が動員され、5月31日まで急速な慰安所建設が続く。さっそく兵士たちの月例身体検査も行われ「花柳病」に対する性病検査も実施されている。』(182-183頁)

『1944(昭和19)年8月2日「陣中日誌」には、10時から12時まで「特殊慰安婦人10名ニ対シ救急法ヲ教育ス」という記録が残っている。救急法の教育まで受けた慰安婦たちも戦闘に巻き込まれ全員戦死した可能性が高い

伊江島における慰安所の特徴は第一に、第32軍創設以降飛行場建設のために上陸した部隊が設置したという点、第二に、慰安所建設を急いだ理由が、兵士たちのストレス解消のためであると同時に、労働力として動員された住民と軍隊との「協力関係」を円満にするという目的もあったという点、第三に、慰安婦に戦闘参加の教育が行われ、軍隊に「性」の「慰安」を提供する以外に、戦闘員としての「動員」も準備されてりた点である。』(185頁)

名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 頁より》

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慰安婦問題に迫る!沖縄戦時の慰安婦と性暴力問題を掘り下げる画期的企画展 (画像3/5) | ウォーカープラス

伊江島慰安所に関する証言:

『(慰安所は)「船頭主」の屋敷のそばで、通学路だったので子どもたちが見に行っていたりして、みんな良く知っています。兵隊が並んでいるのを見ました。十・十空襲のあとです。バラック建てでした。』(183頁)

『…伊江島慰安所は民家を借りて作ってありましたが、ベッドとベッドの間に天幕を下げて仕切られていました。兵隊たちはここに何十人も並んで、順番を待っていましたが、横着な兵隊は後がつかえているからといって天幕をあけて、いたずらするのもいました。でも皆が皆、慰安所に行くわけではなくて、あんな所には行かないという兵隊も沢山いました。』(184頁)

名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 頁より》

 

 

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【戦世の証言】伊江島の義勇隊(伊江村)

www.nhk.or.jp

 

【戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音】伊江島にあった慰安所が問うもの

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 伊江島にあった慰安所が問うもの