1945年 4月18日『戦場の女性たち』

米軍の動向

北進する米軍: 本部(もとぶ)半島を制圧

本部半島名護(なご)

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小規模の激しい戦闘の中、進軍する海兵隊員。(1945年4月18日撮影)

Marines advancing through heavy brush fire.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

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105ミリ砲で掩護する砲兵隊(1945年4月18日撮影)

Artillery support of 105mm.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『17日も八重岳の北側で激しい戦闘が続いたが、18日の掃討作戦でほぼ本部半島を制圧した。このとき、真部山陣地などから多くの日本軍文書を押収し、捕虜や民間人の尋問などと合わせて国頭支隊の構成を把握した。』(93頁)

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 93頁より》

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『…宇土大佐がいた陣地には莫大な貯蔵物資が発見され、かつて同大佐が遠距離にいる部隊の指揮をとった精密な電話交換台が無数にあった。

4月18日、海兵第4連隊と海兵第29連隊は合流し、逃走する日本軍を追跡して伊豆味-満名の道を北に進撃していった。』(139頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 139頁より》

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高地に向かって進軍する第4海兵連隊の部隊。(1945年4月18日撮影)

Troops of 4th Marines advancing forward in drive for high ridge.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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攻略した丘--谷へと進軍する第4海兵連隊。(1945年4月18日撮影)

Secured hill-4th Marines advancing into valley.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…こうして守備軍側に2千数百名、米軍側に約250名の戦死者を出して攻防戦は終わった。その間、名護は師団本部として全部隊を指揮する中枢部となっただけでなく作戦用物資を陸揚げするための心臓部の役割をもはたした。』(103頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 103頁より》

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航空写真、名護

Aerial views of it. Nago, Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『名護は、師団本部として全部隊指揮系統の中枢であった。作戦用物資は、この地域に至る道路がすべて放棄されていたのでそのままLST船で港に降ろすことができた。名護南方の道路管理は海兵隊本部に移され、師団工兵隊は本部半島の架橋資材を集めはじめた。』(133-134頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 133-134頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/240383.jpg

航空写真、名護

Aerial views of it. Nago, Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

周辺離島の制圧

伊江島(いえじま)

4月の18日と19日、城の南側と西側で行われた戦闘では、第77師団は、いまだかつて経験したことのない猛烈な抵抗にあった。師団の伊江島での損害の大部分はここでこうむった。』(161頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 161頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-20.jpg

伊江島攻略図(1945年4月18日)

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

水納島の砲兵隊に伊江島に対して猛攻撃を加えさせてから、第305連隊の第3大隊は午前11時30分、720メートル前方の日本軍陣地に攻撃を開始した。洞窟の陣地や家が一つ一つねらわれ、ある兵は「道路一つが一作戦の区画を意味した」と報告している。

…砲兵隊もたくさんの日本軍陣地に対しては効果がなかった。そればかりでなく日本軍陣地の近くに友軍がいるので、めったには砲撃もできなかった。自動操縦砲は、地雷や瓦礫のため進撃もできずに狭い通路で立ち往生の状態だった。

部隊は、どうにか町の北西部を半分まで進撃したが、退却して郊外の比較的安全な場所に位置を占めた。…この日、米軍が前進できたのは、一日かかってわずか330メートルほどであった。』(163-164頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 163-164頁より》

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伊江島の中間地点のたこつぼ陣地にいる歩兵。(1945年4月18日撮影)

Infantry in foxholes halfway across island at Ie Shima, Ryukyu Islands.

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 『第307連隊の攻撃は、4月18日の昼、…丘の真南まで来て完全に行き詰まってしまった。それで連隊の第3大隊を右翼へ回すことになった。』(155頁)

『第3大隊は徐々に前進し、東前村落北方300メートルの地点まで進撃した。中型戦車と自動操縦砲で…洞窟、塹壕、町や伊江城にある敵陣地めがけて直撃弾をあびせた。』(156頁)

『…日本軍は岩の割れ目や…丘に穴を掘ってつくった陣地から、米軍に迫撃砲や機関銃、小銃で猛反撃を加えてきた。』(162頁)

『…はげしい日本軍の機関銃や迫撃砲のため、米軍歩兵は後退を余儀なくされ、装甲車は爆薬箱をかかえた日本兵のとび込み自殺を受ける危険にさらされた。彼らは、穴の中にかくれて戦車や砲が至近距離内に近づくのを待っていたのだ。』(156頁)

『歩兵は、工兵隊の協力な爆破隊と密接に相呼応したとはいえ、みずからもまたしばしば手榴弾を持ち、銃剣をつけて日本軍陣地におどりこみ、日本軍を駆逐しなければならなかった。』(162頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 155、156、162頁より》

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伊江島タッチュー(城山)周辺の空爆後の効果を示す写真。(1945年4月18日撮影)

Area near Iegusuku Peak showing result of aerial bombardment at Ie Shima, Ryukyu Islands.

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『…第305連隊第1大隊は、…4月18日の午後3時、第307連隊と合流して、その先の方に出て北方へ進撃し、連隊の陣地から海岸にいたるまでの地域を受け持った。ときどき散発的な敵の機関銃攻撃を受けたが、先発隊は日が暮れるまでにはおよそ1キロ前進した。…が、連隊の右翼を守るために東前村落東方およそ600メートルの地点まで後退した。』(156頁)

『伊江城北方での第306連隊は、日本軍が〝尖塔〟から全行動を観察し、ほとんど休む間もなく大砲を撃ちつづけてきたにもかかわらず、日中かなりの進撃ぶりをみせた。連隊は第2大隊を軸として回り、伊江城の麓を攻撃し、日没までには城の北西およそ300メートルの地点まで進撃して、陣地を確保した。

ちょうど連隊の中央部にあたるところで、第1大隊は日本軍の4つのトーチカに遭遇したが、これも何回かの攻撃の末、ついに殲滅することができた。一方、第3大隊の方は北部海岸沿いに前進していたが、洞窟に構えていた日本軍と何時間か近距離応戦をくかえしたのちにこれを殲滅させた。

…この日、陽がおちるまでに、第306連隊の散兵線は、伊江城北西部の麓から島の北東部海岸におよんだ。』(156-157頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 156、156-157頁より》

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沖縄近海から撮影した伊江島飛行場の空中写真。

Aerial of Ie. Shima airfield off Okinawa Ryukyu Is.

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『米軍は、伊江国民学校に陣取り、日本兵を掃討するかたわら、ブルドーザーで飛行場の修理工事を開始、上陸後3日目の4月18日には、早くも飛行場の使用を開始した。』(257頁)

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 257頁より》

従軍記者アーニー・パイルの死

『米国史上最も有名な従軍記者の一人で、無名兵士たちの友人、そして代弁者として世界中にその名を知られたアーニー・パイルは、伊江島で戦死した。4月18日のことで、彼はその日の朝、連隊長のJ・クーリージ中佐とジープに乗って前線へ向かう途中だった。右前方の草むらから日本軍の機関銃がひをふき、それっきりであった。…彼はなんら武器も持たず、一本の鉛筆とタイプライターを下げて戦場に出た。…41歳にもなったアーニー・パイルは、もう従軍するには年をとりすぎている、として2、3日後には故国へ帰る予定だった。』(108頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 108頁より》

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従軍記者のアーニー・パイル。沖縄にて。

Ernie Pyle war correspondent on Okinawa, Ryukyus. Is.

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嘉手納飛行場

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海兵隊コルセア戦闘機による空中支援攻撃に使用するロケット弾を組み立てているのは、嘉手納飛行場に駐屯する米第2海兵隊航空団の兵士たち(1945年4月18日撮影)

Assembling rockets, in an abandoned Jap building, to be used in air support strikes by Marine Corsair fighters are these men of 2nd MAW stationed on Kadona airfield on Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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コルセア戦闘機に搭載するロケット弾に徹甲弾頭を取り付けるカーチナク二等軍曹(1945年4月18日撮影)

Marine T/Sgt. Martin Kerchnak, Freeland, Pennsylvania, son of Mrs. Mary Kerchnak, 937 Washington Street, screws an armour-piercing nose on a rocket to be attached to a Corsair fighter plane.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南進する米軍

嘉数(かかず)高地以南への総攻撃計画

『米第24軍団のホッジ少将の作戦は、中南部に敷いた日本軍の複雑巧妙をきわめた陣地を突破して低地帯と与那原-那覇を結ぶ線を奪取することであった。そこで、第7師団に命令を発して中城村和宇慶西方の178高地を占領、さらに南進して与那原-那覇の道路を確保せよと命じた。

…攻撃開始時刻は4月19日の午前6時40分。この時刻から50分後に、第27師団は、その前夜にとっておいた陣地から攻撃を開始し、宜野湾村南部の嘉数丘陵を占領、あわせてその辺一帯の丘陵地帯を確保する。前進は徐々に行い、戦況の進展に応じて米軍砲兵隊を東から西のほうへ進撃させるということになった。』(181-182頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 181-182頁より》

http://www.ourwwiiveterans.com/okinawa/maps/USMC-M-Okinawa-20.jpg

Chapter 07 | Our World War II Veterans

『米軍の前方では、しだいに地形が悪くなり、3師団ともこれに直面せざるをえなかった。第27師団の進むところには右側に牧港の入江があり、中央には小川があり、その周囲には低地帯になっている水田があった。この水田地帯は周囲が高く、まんなかがくぼんでいて、…その左手には嘉数の丘陵地帯や村落がひかえていた。

第96師団の方はどうかというと、ここ西原付近には丘陵がるいるいとそびえ、墓があって、あまり目立ちはしないが、すべてが堅固な陣地として構築されているばかりか断崖絶壁の棚原高地に直面しなければならなかった。また、第7師団の正面では、頑強な178高地と和宇慶村落が米軍の前進をはばんでいた。』(183頁)

『米軍の第27師団は軍団の右翼にいた。同師団の任務は予備奇襲攻撃を加えることだったが、…牧港入江の北側にいた第27師団の、とくに最右翼の第106歩兵連隊は、入江の向こう側にある日本軍陣地からはまる見えだった。…入江におおいかぶさるようにそそり立つ絶壁に陣取った日本軍や、あるいは後方1キロの彼方にある丘陵地帯からでさえ手にとるようにはっきりと見通せるのである。』(187頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 183、187頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p186.jpg

総攻撃前の沖縄島南部方面(高度7500フィートから撮影)

STRATEGIC AREA OF SOUTHERN OKINAWA seen from an altitude of 7,500 feet.

投稿者註: 手前右下は中城湾と与那原、右中央に翁長・小波津、右上に嘉数・牧港・浦添村・前田高地、中央上に首里、その奥が牧港飛行場、左手は那覇方面

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 8]

『宇地泊の前方、さらに第27師団の最初の攻撃目標である浦添高地と師団のあいだには、およそ1キロにわたって空地がある。日中、この空地を横断して進撃することは、西に牧港入江、中央に小川と水田、それに東に丘陵地帯をひかえて障害物に邪魔されるばかりでなく、日本軍からはこの空地が完全にまる見えなので、遮蔽物もない米軍が一斉射撃をあびることは火を見るよりも明らかであった。

…そこで、右翼(牧港方面)にいた第106歩兵連隊は入江を渡り、さらに進撃して4月18日の夜から19日にかけて、闇夜にまぎれて丘陵地帯に出て、夜が明けるまでには1号線道路と浦添村が境が境をなすところまで前進しておく。それから米軍攻撃部隊は丘陵地を南東の方にかけ降りて、その付近の重要な高地を占領するということになった。』(188-189頁)

『牧港の入江には、4月18日の夜から19日にかけて、夜のうちに4つの橋をかけなければならない---攻撃部隊が夜のうちに渡河できるような歩行橋1本と、ベイリー・ブリッジ(浮橋)2本、これは砲兵隊用のもので全長約30メートル、そして補給物資を積んだ2トン半トラックの通行にたえうるようなゴム製の船橋1本である。

…工事はすべて秘密裏にやることが非常に重要であった。が、工事自体が大工事であり、しかも日本軍の陣地からはすべてまる見えとあって、相手にわからないようにすることは極めて困難だった。

入江付近に高く積まれた架橋用の建設資材は日本軍の目をひき、あるいはこちらの作戦を見抜く結果にならないともかぎらない。工兵隊としては、日本軍の陣地から見えないような遠くに資材を積み、さっとトラックで輸送できるような方法をとらねばならなかった。ゴム・ボートは空気を抜き。橋用の資材はすぐトラックに積めるようにまとめて置かれた。』(189-190頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 188-189、189-190頁より》

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浮橋の建設(撮影地: 牧港)

Construction of Pontoon bridge.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

4月18日の午後4時7分、一発の弾丸が、…牧港入江の東方約180メートルのところに落ちてきた。煙幕弾だった。

…煙幕弾にかくれた米軍歩兵は、…入江を渡り、向こう側の絶壁の下に集まった。

…各小隊ごとに、ガケをよじ登って日本軍の陣地に対して攻撃を開始し、午前零時までには、何回かの斥候戦と伏兵戦で撃ち合いの末に牧港地域の日本軍を片づけた。

…南国の陽が落ち、あたりが暗くなって間もなく、ブルドーザーが動き出し、歩行橋やゴム舟橋近くの地面をならし、入江の端に資材が積めるようにした。

闇夜の中を、工兵隊は静かに邪魔されることなく作業をはじめた。午前零時までには約100メートルの歩行橋が完成し、午前3時にはベイリー・ブリッジができ上がった。』(191-192頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 191-192頁より》

 

 

第32軍の動向

北部戦線

本部(もとぶ)半島周辺: (国頭支隊・宇土大佐)

日本兵による民間人虐殺

『米軍攻撃による八重岳陥落からほどなく、伊豆味という地区で本部国民学校の照屋忠英校長日本兵に取り囲まれ、射殺された。山の中で道に迷い、難聴のため上空を旋回の米軍機に気づかなかった。敵機を恐れない照屋校長の行動に日本兵は、敵に通じるスパイではないかと疑った。』(104頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 140頁より》

 

伊江島の「六日戦争」

伊江島(いえじま): (国頭支隊・井川少佐)

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/111-35-3.jpg

空襲で破壊された壕。米軍が伊江島を占領した際に発見した。ここで、日本軍の補給品や弾薬が保管されていた模様。(1945年4月18日撮影)

Bombed-out caves found by US forces when they occupied Ie Shima in the Ryukyus. Showing enemy supplies and ammunition storage.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

 

女子救護隊

沖縄戦で悲劇の部隊と呼ばれて、あまりにも有名なのが「ひめゆり部隊」。年端もいかない女学生が無残にも戦火に巻き込まれ、短い生涯を閉じた。こうした少女、婦人は県内いたる所にいた。女子救護隊もその一つだ。伊江島でも昭和20年1月に、17歳から24歳までの未婚の女子青年を集めて救護隊が編成された。』(174頁)

『女子救護隊はおよそ100人。各中隊、小隊、分隊に2人ずつ配置された。軍の炊事、雑役に当たっていた25歳以上の婦人・婦人協力隊とともに米軍の上陸を迎えた。…救護班とはいいながら、配られたのはヨーチン、ガーゼ、包帯だけで、負傷兵に対する治療にはならない。仕事は砲弾の運搬と、切り込みでキズを負った兵隊を壕内に運び込むことだった』(174頁)

『上陸3日目、18日になって、…隊も初めて学校台地争奪の切り込みを行った。』(174頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 174頁より》

午前3時頃、井川隊将校の斬込みがあった、伊江島の女子救護班4、5人がこの将校団の斬込みに参加を希望した。彼女達は、頭髪を剪り戦闘帽を被り、軍靴をはき、男装した。そして赤十字カバンと爆雷とマッチを持って、壕を飛び出した。夜間行動のために、皆、白布で背中に円形の標識をしていた。この斬込みで井川少佐以下幹部級が殆ど全滅した。』(44頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 44頁より》

youtu.be

RBC琉球放送】「戦後70年の地平から」伊江島の戦闘

慶良間諸島沖縄本島に相次いで上陸したアメリカ軍は4月16日に伊江島に上陸し、70年前の4月21日、島を占領しました。
多くの住民が戦闘に巻き込まれ、「沖縄戦の縮図」といわれた伊江島の戦闘。村内ではこの日にあわせて平和祈願祭が行われ遺族たちが犠牲者をしのびました。

伊江島の戦闘 | 琉球放送

 

伊江島慰安所

1944年5月、日本軍は「東洋一」の飛行場建設に伴い伊江島慰安所の設置を決めた。伊江島の女性住民らと同様に、慰安婦らも女子救護隊として戦場にかり出されていた可能性がある。

『東洋一の飛行場建設のためには、3千人を超える一次徴用者の力が絶対的に必要であった。…最も警戒すべきことは兵士たちの性欲による過ちであり、「一般婦女子」に対する性行為、性欲は「断然厳重に処断」すべき行為であった。そして、中国戦線で「強姦を防止するため」という名目で慰安所設置が正当化されたのとどうように、満州で編成され沖縄に送られてきた第50飛行場大隊は、伊江島でも「一般婦女子」を保護し、「民心ヲ離反」させることを防ぐため「特殊慰安(所)」の設置を急いだ

要塞建築勤務第6中隊が慰安所建設を始めた。…「陣中日誌」には、5月24日、要塞建築勤務第6中隊に慰安所建設を命じた記録が残る。以降、用材伐採・運搬、敷地の整備、慰安所への道路整備、そのため動員した兵士や作業時間などが詳しく書き残されている。他部隊の外出日でも、慰安所建設には2倍近い人員が動員され、5月31日まで急速な慰安所建設が続く。さっそく兵士たちの月例身体検査も行われ「花柳病」に対する性病検査も実施されている。』(182-183頁)

『1944(昭和19)年8月2日「陣中日誌」には、10時から12時まで「特殊慰安婦人10名ニ対シ救急法ヲ教育ス」という記録が残っている。救急法の教育まで受けた慰安婦たちも戦闘に巻き込まれ全員戦死した可能性が高い

伊江島における慰安所の特徴は第一に、第32軍創設以降飛行場建設のために上陸した部隊が設置したという点、第二に、慰安所建設を急いだ理由が、兵士たちのストレス解消のためであると同時に、労働力として動員された住民と軍隊との「協力関係」を円満にするという目的もあったという点、第三に、慰安婦に戦闘参加の教育が行われ、軍隊に「性」の「慰安」を提供する以外に、戦闘員としての「動員」も準備されてりた点である。』(185頁)

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 183-183、185頁より》

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慰安婦問題に迫る!沖縄戦時の慰安婦と性暴力問題を掘り下げる画期的企画展 (画像3/5) | ウォーカープラス

伊江島慰安所に関する証言:

『(慰安所は)「船頭主」の屋敷のそばで、通学路だったので子どもたちが見に行っていたりして、みんな良く知っています。兵隊が並んでいるのを見ました。十・十空襲のあとです。バラック建てでした。』(183頁)

『…伊江島慰安所は民家を借りて作ってありましたが、ベッドとベッドの間に天幕を下げて仕切られていました。兵隊たちはここに何十人も並んで、順番を待っていましたが、横着な兵隊は後がつかえているからといって天幕をあけて、いたずらするのもいました。でも皆が皆、慰安所に行くわけではなくて、あんな所には行かないという兵隊も沢山いました。』(184頁)

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 183、184頁より》

 

中南部戦線

蚊蛇平(がじゃんびら)台地・小禄(おろく)飛行場付近: 独立高射砲第27大隊第1中隊

通信班・陸軍二等兵の回想:

『4月中旬のある日、私たちは当然予想される首里方面からの敵を迎え撃つ用意に、蛸壺の整備を急いでいた。その矢先、大隊本部から一挺の軽機が支給され、坂尾、浜田、私の3名が指名された。軽機には「国防婦人会献納」と白いペンキで書いてあった。だが、浜田も私も軽機どころか小銃を撃った経験もない。坂尾だけが使い方ぐらいは知っているといったが、心細いかぎりであった。

陣地構築の作業には私たちだけでなく、火砲分隊の同年兵たちも来ていた。私たちは岩蔭に集まって、今後の戦局の見通しと、守備陣地の作戦について可能なかぎりの結論を引き出してみた。

首里が陥落したらおそらく敵は戦車を先頭に那覇の街を経て、一日後には小禄陣地を攻撃して来るにちがいない。それに対するわが方には、首里方面に向けて撃てる砲は3分隊の1門しかない。わずか砲1門では抵抗のしようもなく、3分隊の壊滅は時間の問題である。そのあと敵が侵攻して来るとすれば、正面80度の急勾配を避けて側面の糸満街道、または後方から攻撃をしかけるのが必定である。双方とも遮蔽物のない丘陵で、戦車で攻撃をしかけるには格好の地形である。そうなれば最後、小銃や手榴弾では歯が立たない。一人残らず撃ち殺されるか、さもなければ急造爆雷を担いで肉弾攻撃をしかけるか、二つに一つの方法しかない。

この急造爆雷という代物は、爆薬の詰った木の箱を飛脚のように担いだまま戦車の下に飛び込むしかけで、とどのつまり、私たちの運命は絶体絶命であった

「菊水作戦とはなんのことじゃ」と誰かがいった。

「楠正成が神戸の湊川に出陣して討死したように、爆雷を担いで死ぬことじゃ」と嘆息まじりにいう者もあった。

「いつか新聞で読んだが、敵はけがをした兵隊を戦車の前に並べて轢き殺すそうじゃ」

「鬼畜米英というからのう」

「こんな小さな島に来たのが運のつきじゃ。逃げようにも逃げ場がない」

「馬鹿いえ。日本は神国じゃ。負けるはずがない」 

上級者のいない気易さからみんな勝手なことをいい合っていたが、所詮は逃れようのない死を前にして、恐怖をまぎらわしているとしか見えなかった。』(75-77頁)

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 75-77頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

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沖縄の少年とその弟(1945年4月18日撮影)
A native youngster and his baby brother.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

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【戦世の証言】伊江島の義勇隊(伊江村)

www.nhk.or.jp

 

【戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音】伊江島にあった慰安所が問うもの

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 伊江島にあった慰安所が問うもの

 

アーニーパイルの碑 | 伊江村公式ホームページ