〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年5月17日 『死者は血の海に横たわる』

ハーフムーン / 月面の52高地 / 防衛隊 / ソテツ地獄

 

米軍の動向

後方で進む基地建設

米軍は、沖縄に上陸した直後から、前線では戦闘を、後方では基地建設に邁進した。

ホワイト・ビーチ地区

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沖縄県「沖縄から伝えたい。米軍基地の話。Q&A Book 令和2年版」

ホワイト・ビーチ地区とその訓練空域・海域。勝連半島南側と西側一帯、および西側の大きな円状の海域一帯がホワイト・ビーチ地区の空域海域になる。

ホワイトビーチ基地の建設

現在のうるま市勝連半島にある米軍基地ホワイト・ビーチの建設。

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The temporary pontoon pier was built by the 7th Construction Battalion on White Beach.

ホワイトビーチに第7建設大隊によって作られた仮設浮桟橋(1945年5月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

嘉手納基地の建設

日本陸軍の中飛行場は、いまや米軍の嘉手納飛行場となり拡張された。

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View showing southwest end of Kadena Airstrip as a Marine plane takes off on its 100 foot wide completed strip. Other part of airstrip still under construction by 1878th Aviation Engineers Bn. Okinawa, Ryukyu Retto.

海兵隊の飛行機が嘉手納飛行場の南西の端にある100フィート幅の滑走路から離陸するところ。滑走路の別の部分はいまだ第1878航空工兵大隊による建設中。(1945年5月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Wagon drills, operated by men of the 1878th Engineer Aviation Battalion at coral quarry on Okinawa, Ryukyu Retto, drills 6 foot holes for dynamite charges. Demolition men, at left, are placing the explosives. Note crane in background loading coral rock on trucks.

第1878工兵航空大隊隊員はダイナマイトを仕掛けるために6フィートの穴をドリルであける。左の爆破係が弾薬をセットする。後方ではクレーンで石灰岩をトラックに積んでいる。(1945年5月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

総攻撃7日目 - シュガーローフの戦い

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Chapter 08 | Our World War II Veterans

5月17日の時点で、日本軍の支配する地域は沖縄の、ほんの一部しか残されていなかった。しかし、米軍はわずかな支配地域を奪い、ひろげるために途方もない代償を支払っていた。沖縄戦がはじまって以来この日までに、米第10軍は3964名の戦死者と、1万8258名の負傷者302名の行方不明者、それにくわえて9265名の非戦闘損耗死傷病者を出していた。沖合に展開している海軍もまた4千名をこえる戦死傷者を出していた。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 309-310頁より》

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

17日の作戦ではシュガー・ローフを東側から攻撃することになった。第29海兵連隊の第1と第3がまずクレセント高地を攻撃し、そこを確保して第2大隊を支援してシュガー・ローフを占領することになった。攻撃開始に先立って、40センチ砲や曲射砲による砲撃や、飛行機で450キロ爆弾を落としての猛爆が加えられた。午前8時30分、第1、第3大隊から出た海兵隊が、クレセント高地の西端を襲った。戦車と歩兵が砲兵の支援を得て多くの陣地を破壊し、この進撃でシュガー・ローフの東部がくずれ、第2大隊のE中隊が左翼に回って攻撃を開始した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 347-348頁より》

真嘉比 クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)

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ゆいレールおもろまち駅東側にある小高い丘、那覇市真嘉比の「ハーフムーン」。この丘には日本軍の陣地がありました。ハーフムーンは、丘の形が半月に見えたことから、アメリカ軍が、攻撃目標としてつけた呼び名です。昭和20年5月中旬、日米両軍は、この丘で激しい戦闘を繰り広げました。日本軍は丘の斜面に揮取り、激しく対抗、多くの犠牲者が出たといいます。戦前、この土地は墓地として使われていました。日本軍は、墓を壕として使っていました。戦後、まわりの開発が進み、ハーフムーンだけが、手付かずのまま取り残されました。戦後もそのままの形を残してきたハーフムーンですが、区画整理事業により今、その地形が大きく変わろうとしています。

那覇市 ハーフムーン【放送日 2008.7.2】|NHK 戦争証言アーカイブス

私たちは大勢を失いました。けがをしたり、大勢の仲間が・・・指揮官は何をすべきか忘れていました。分かったことは、シュガーローフがハーフムーンとホースシューによって守られており、あちらからさまざまな武器で攻撃されたのです。

グレン・ニュート「南部で自決した住民たち」|戦争|NHKアーカイブス

クレセント攻撃がまだ続行されているあいだ、第2大隊の海兵隊はシュガー・ローフのほうに進んでいった。最初は大がかりな攻撃で鉄道路線を切断しようとしたが、左方からの砲火で失敗に終わり、また接近戦を試みようとしたが、これも斜面が急勾配のため、かなわなかった。そこでE中隊の2個小隊は、丘の北東部の斜面を利用して頂上にたどりついた。しかし、この頂上制圧のさい、米軍は日本軍の猛攻撃にあって、ふたたび頂上から駆逐されてしまった。

F中隊の1小隊も稜線沿いに西のほうに進もうとしたが、これも小隊長が戦死したため、小隊は、迫撃砲の猛火のもとを退却せざるを得なかった。E中隊は、3回も頂上制圧をこころみ、2回とも白兵戦で追い返され、3回目にやっと日本兵を撃退できたが、そのときすでに海兵隊は弾薬を使い果していた。中隊はまたも退却せざるを得なくなった。その日の戦闘で160人の死傷者を出したあげく、海兵隊は陣地を放棄したのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 348頁より》

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首里で、戦車の後方を線路に沿って進む第29海兵連隊第1大隊の兵士たち。火炎放射器を携行している者もいる。(1945年5月17日撮影)

Men of the 1st Battalion, 29th Marines advancing along the railroad tracks on Shuri behind our tanks. Some men carry flame throwers.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

大名(おおな)

5月17日の朝、第3海兵大隊は第1大隊と交替して、大名丘陵を3日間にわたって連続的に攻撃した。しかし、そのたびに沢岻南端の元の陣地に押しかえされた。この攻撃では、たいていの場合、頂上まで到達することはできた。しかし、頂上にようやく達したと思ったとたん、たちまち前面と両翼から、迫撃砲や機関銃の熾烈な砲火にあい、せっかくの頂上も制圧はしたものの、確保はできなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 361頁より》

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MARINE SIGHTS IN ON A JAP SNIPER-- A Marine of the 1st Division draws a lead on a Jap sniper with his tommy gun as the division was engaged in taking Wana Ridge before the town of Shuri, on Okinawa. His companion ducks for cover.

日本軍狙撃兵を狙う海兵隊員。首里防衛の最後の要衝であるワナリッジ(大名丘陵)攻略戦の際、日本軍狙撃兵に向けてトムソン式小型機関銃の引き金を引く第1海兵師団の兵士。仲間は身を低くしている。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

石嶺丘陵

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p335.jpg

石嶺丘陵

ISHIMMI RIDGE, extending from right foreground almost to spinner of airplane from which this picture was taken, rises out of flat ground northeast of Shuri. Immediately behind the ridge is the village of Ishimmi and the draw before Okinawa's ancient capital. From these positions the enemy could pour mortar fire into the small group of the 307th Infantry, 77th Division, on the hill.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

… E中隊は、夜がまさに明けようとするころ、石嶺丘陵に辿りついた。…第3小隊は左のほうに、第2小隊は中央、そしてC中隊から来た1小隊は右に、また中隊の第1小隊は後方に動いて、円形陣地をつくった。東の空がしらじらと明けるころ、米軍はすでに陣地についていた。日本軍はまだ気づかないようすである。将校が1人、副官をつれて声高に話し合い、笑いながら壕の中から出てきた。とたんに米軍陣地から銃火がひびき、2人とも米軍がいることに気づくまもなくやられた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 364、365、366-367頁より》

日本軍は、E中隊の機関銃座をただちに発見、集中砲火をあびせてきた。 …機関銃手はほとんど全員が戦死した。午前7時までに軽機が2梃ともやられ、…そして10時までには、米軍の全迫撃砲が使いものにならなくなってしまった。… 日本軍は、一気にこの中隊を殲滅しようと総攻撃を試みた。第3小隊は、相手を撃退したとはいえ、左翼に3回も斬り込まれ、榴弾で多くの死傷者を出した。中央部にいた第3小隊も、石嶺南側の丘にいた日本軍の攻撃で多大の損害を出した。両側では、百メートル離れたところにいた日本軍が、迫撃砲2門で交互に米軍陣地を、片っ端から組織的に撃滅していった。死者は血の海に横たわり、負傷者は生きている兵にかくれた場所を与えるために、みずから穴の外に這いだして絶命した。米軍は日本軍に対して集中砲火を浴びせたが、日本軍は攻撃の手をゆるめなかった。E中隊は、第2小隊、第3小隊とも兵力は半分に減り、他の中隊も多大の損害を出した。…その夜、救援隊が出てE中隊に向かったが、途中で日本軍に殲滅され、わずかに生き残った兵は、原隊に引き返していった。石嶺丘陵の米軍はその日の夜、大砲や迫撃砲でさんざんに撃ちまくられていたが、それでもどうやら日本軍の数回にわたる攻撃をはね返した。

砲火は、一晩中あたりを照らし、米軍もこの炸裂する砲火のあかりのなかを、日本軍が接近してくるのを見て、それに備えていた。睡眠をとることは許されない。…兵隊たちは、タコ壺のなかにうずくまって夜が明けるのを待っていたのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 367、368頁より》

石嶺(いしみね): チョコレート・ドロップ(130高地)周辺

第77師団では、石嶺の大石森と5号線道路のあいだにある地域を、麾下の第307連隊がじわじわと進撃していた。こうして5月17日になると、チョコ・ドロップ付近で、米軍はにわかに進展ぶりをみせた。歩兵連隊が、両翼を中隊砲兵隊に掩護させて、チョコ・ドロップ両側から洞窟のほうに攻めていったのだ。日本軍のそのほら穴の中には対戦車砲4門、野砲1門、機関銃4梃、60ミリ迫撃砲2門、その他の迫撃砲4門があった。夕方までに、その洞窟の一部が封鎖された。その夜、日本軍は、周辺の米軍に対して反撃を試みて失敗、25人の戦死者を出して退却した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 379頁より》

運玉森(うんたまむい): コニカル・ヒル 

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東海岸の平地 (中城湾と与那原一帯: 右上にシュガー・ヒルがある)

EAST COAST FLATLANDS, over which the 184th Infantry, 7th Division, advanced to Yonabaru after of the east slope of Conical Hill.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

第381連隊の第3大隊は、第382連隊のE、F中隊と交替し、これで第96師団前線の全3連隊が配置についたことになったわけである。もしこの部隊が、コニカル・ヒルの東側の掃討戦に成功すれば、予備軍の第7師団は、出動して海岸線を通り、首里本陣を攻撃できるのだ。コニカル・ヒルの頂上から、南へ約750メートルほど離れたところに、シュガー・ヒル(俗称サーター山)がある。これは第381連隊の攻撃目標であった。その後方の丘陵地帯は、攻めるに難しく、確保するに難しかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 391頁より》

 

第32軍の動向

月面の52高地 (シュガーローフ)

安里(あさと)・真嘉比(まかび): 52高地 (シュガーローフ)

17日、米軍は戦法を変え、2コ大隊で52高地の東の拠点を奪いとり、返す刀で、もう1コ大隊を支援し、52高地に突入しようとしたが、頂上までのぼると、そこで救援に駈けつけてきたわが15連隊第1大隊に追い落され、またまた敗退

もうこのころになると、戦場は、相貌を一変していた。両軍の砲弾の炸裂で、緑という緑は吹きとび、丘、台地、すべてが月の表面を見るように、弾痕だらけになっていた。第6海兵師団は、西から首里に迫ろうとしており、そのためにはどうあってもここを突破しなければならず、したがって日本軍としては、どうあってもここを守りとおさねばならなかった。

ただ問題は、兵力量の差。後方補給の差であった。日本軍は、死傷者続出によって、刻々に人が減っていく。補充ができない。米軍は、もともと兵力が大きい(米軍5コ師団、日本軍2コ師、1コ旅。ただし、このころは、62師団はほとんど戦力を失ない、24師団も兵力半減。両軍戦力のバランスは、5対1といってよい)のに、それがさらに大きくなっていた。とすれば、戦闘がつづき、時間がたてばたつほど、日本軍が決定的に不利となるのは自然であった。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 262-263頁より》

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IN THE WAKE OF WAR - This polka-dot pattern of rain filled shell holes and the splintered stumps of leafless trees on an Okinawan hillside attest to the deluge of Tenth Army artillery poured on strong Jap positions around Shuri Castle. The demolished Jap radio tower in the left foreground was one of 11 such installations around this nerve center of the defensive system manned by 80,000 fanatical troops. Note caves in small hill at upper left in which Japs hid to escape bombings, and pup tents of American doughboys around hill in the center.

丘の斜面にある雨の溜まった水玉模様の地面の穴や、葉の落ちた木の幹の裂かれた様は、首里城周辺の日本軍陣地に対する第10陸軍の猛攻をあらわにする。左手前の倒れた鉄塔は、8万の狂気じみた部隊で防御体系をなしていた中央制御部の周りにあった11の同様な施設の一つであった。丘には日本軍が爆撃を避けるための洞穴が、中央には米歩兵部隊の携帯テントが見える。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

那覇北方地区においては、17日天明独立混成第15聨隊第1大隊が、大隊長率先先頭に立って52高地の米軍を逆襲し同高地を確保した。0830ころから米軍は、猛烈な砲射撃の支援下に戦車を伴って52高地、眞嘉比地区に猛攻を開始した。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 313、315、316-317頁より・日記内容は英文からの翻訳》

米国海兵隊: SUGAR LOAF HILL--A month after the battle showing scene of complete desolation. シュガーローフ・ヒル--戦闘から1ヶ月後の完全に荒廃した様子。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

シュガーローフと防衛隊

日本軍は飛行場の建設や雑役を名目として地元の住民を22,000人以上の防衛隊員として召集した。しかし、防衛隊はやがて手榴弾を持たされ白兵戦や斬り込みを強いられるようになる。シュガーローフに送り込まれた防衛隊員はおよそ1,000人で、その多くが戦死したと考えられている。

ドキュメント沖縄戦 (6)シュガーローフの戦い

米国海兵隊: SUGAR LOAF - A month later Marine probing into empty Jap cave on reverse slope. In foreground remains of Jap soldiers body, gas mask, rifle. Note: Jap skull with bandage right, foreground.
“シュガーローフ”--1ヶ月後。反対斜面にある無人の日本軍壕を調べる海兵隊員。手前には、日本兵の死体やガスマスク、ライフル銃の残骸がある。手前右の包帯に巻かれた日本兵の頭蓋骨に注目。 

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

海兵隊員の証言

この歳になると・・いろいろなフラッシュバックに襲われるんです。例えば、シュガーローフ・ヒルに登る途中の開かれた場所を通過するのに待っていたとき、これは皆が知っていることですが、味方の戦車すべてが爆破されました。誰も生き残った人はいませんでした。36ミリの日本側の大砲から飛んできたのではなく、自爆用のこん包爆薬を抱えた子どもが爆発させたものもありました。そして、我々は、荷車の中に束になった竹やりを見つけました。先がとがっているやつですね。それを彼らがどう使うかというと、夜間に壕に向かってはってきます。柔らかい人体に触れると、突き刺し殺すんです。ですから軟らかい砂袋などを置いて、彼らが我々の体ではなく砂袋を突き刺すようにしておきました。そして、2人の少女が・・2、3人だったと思いますが、少女たちが殺されました。彼女たちは・・・長い竹やりを持っていました。 

「住民を巻き込んだ戦場」|戦争|NHKアーカイブス

 

捕虜収容所 - 遺体の埋葬

激戦地から送られる遺体の埋葬。

沖縄戦の絵】「米兵の墓地」

米軍が読谷村に造成した墓地での光景。昭和20年5月、捕虜になった奥間さんはここでの作業に従事した。午前と午後に1回ずつ、トラックが南部戦線で戦死した米兵の遺体を積んでやってきた。5月の暑さで遺体からはものすごい悪臭がした。遺体は身元確認の後、米兵によって埋葬された。墓地には遺体を埋める深さ2メートルほどの穴が掘られ、白く塗られた十字架が整然と並んでいた。奥間さんたち捕虜は埋葬作業ではなく、通路の縁石を整える作業に従事した。捕虜生活は7月まで続いた。 奥間さん『南部戦線では多くの同級生が15~16歳で死んでいった。生き残った自分が体験を語り描くことで、戦死した学友の冥福を祈り、二度と戦争が起きないよう願っている』

米兵の墓地 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

そのとき、住民は・・・

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音楽を聴きに集まって来た沖縄の子供たちに蓄音機をかけてみせるガン上等兵、ウィリアムソン上等兵、ルイス軍曹(1945年5月17日撮影)

Pfc. Paul Gunn, Cobden,  Illinois; Pfc. Harry Williamson, Dayton, Ohio, and Sgt. Howard Lewis, Indianapolis, Indiana, play their phonograph, while three Okinawan children gather around to listen to the music.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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米国海兵隊: Wounded and sick Okinawans wait outside medical tent for treatment at 6th Marine Division Compound.
第6海兵師団収容所の医療テントの前で受診を待つ、負傷し、罹患した沖縄住民 (1945年5月)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

  

ソテツ地獄

8歳の時、北部・喜如嘉集落(大宜味村)に母子2人で収容された 渡慶次雅子さん(浦添市)は、マラリアに苦しんだ。先に罹患した母は、何日も高熱に浮かされた。「母ちゃん、私一人になるから死なないで」。そう呼びかけ、母は一命を取り留めたが、記憶の大部分をなくした。毎日のように収容者の遺体が海岸に埋められた。渡慶次さんは今も海岸を訪れ、静かに手を合わせる。

[戦世のあと]<上>収容所苦難の日々…飢え・マラリア 無念の死:地域ニュース : 読売新聞

アメリカ軍の本島上陸から1ヶ月半が経過。本島北部では食糧不足が人々の命を奪っていました。65年前のきょう5月17日、アメリカ軍の第6海兵師団は現在の那覇新都心、シュガーローフを占領するため、激しく日本軍と戦っていました。その頃、本島北部はその殆どがアメリカ軍によって占領され、住民は捕虜として収容所に連行されました。しかし、まだ山奥に息を潜めて避難している住民たちも多く、飢えとマラリアに苦しんでいました。

喜如嘉出身の崎浜悦子さんは戦時中、食べるものがなく、ソテツまで食べたと苦しい体験を本に記しています。『ソテツはくきの皮をよく削り落とし、しんの部分を板うようにさき、それをよく乾燥させて水にしたしてくさらしてから炊いて食べるのだ。家族の命を支えるのに両親と叔母は無我夢中だった。』

ソテツは調理方法を誤ると死を招くこともある食物。住民はそこまで追い詰められていたのです。同じ頃、喜如嘉の山奥には当時14才だった島袋シゲさんも避難していました。島袋シゲさん「まあなんとか食いつないでいきました。ソテツ食べたり。次男の弟はソテツをいっさい食べ切れなかった。もう骨と皮になって、やがて死亡でしたよ。(山を)出るのが少し早かったから、命びろいして元気ですけど」

山の中で避難生活をし、人々の身体は衰弱していました。下山後にも栄養失調とマラリアで命を落とす人々が続出したのはその所以だと言え、特に老人と幼児が多かったと記されています。

65年前のきょうは1945年5月17日 – QAB NEWS Headline

 

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