1945年 5月17日 『死者は血の海に横たわる』

後方で進む基地建設

米軍は、沖縄に上陸した直後から、前線では戦闘を、後方では基地建設をした。これは、日本本土への出撃基地とするため、また、沖縄での地上戦の足場として、航空基地建設、補給路確保のインフラ整備が必要なためだ。

『沖縄と伊江島に基地を建設しようというその狙いは、もちろん、将来の作戦にそなえて、艦隊や航空隊の前進基地補給基地にすることであった。とはいえ、最初のうちは、全建設作業は、進攻作戦遂行のほうに向けられた。幹線道路と、物資集積所への主要道路が建設され、読谷と嘉手納の飛行場は使用を開始し、海岸沖合のタンカーと連結したガソリン貯蔵施設の建設がはじまった。』(444頁)
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 444頁より》

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ホワイトビーチに第7建設大隊によって作られた仮設浮桟橋(1945年5月17日撮影)

The temporary pontoon pier was built by the 7th Construction Battalion on White Beach.

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海兵隊の飛行機が嘉手納飛行場の南西の端にある100フィート幅の滑走路から離陸するところ。滑走路の別の部分はいまだ第1878航空工兵大隊による建設中。(1945年5月17日撮影)

View showing southwest end of Kadena Airstrip as a Marine plane takes off on its 100 foot wide completed strip. Other part of airstrip still under construction by 1878th Aviation Engineers Bn. Okinawa, Ryukyu Retto.

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第1878工兵航空大隊隊員はダイナマイトを仕掛けるために6フィートの穴をドリルであける。左の爆破係が弾薬をセットする。後方ではクレーンで石灰岩をトラックに積んでいる。(1945年5月17日撮影)

Wagon drills, operated by men of the 1878th Engineer Aviation Battalion at coral quarry on Okinawa, Ryukyu Retto, drills 6 foot holes for dynamite charges. Demolition men, at left, are placing the explosives. Note crane in background loading coral rock on trucks.

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第1878航空工兵大隊による嘉手納飛行場建設。ワゴン・ドリルと空気ドリル用の圧縮機が手前で作動している。大隊の隊員も手前で爆破の準備をしている。(1945年5月17日撮影)

Construction of Kadena Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto, by 1878th Aviation Engineers Battalion. Compressors for wagon drills and pneumatic drills in operation in foreground. Men of the Battalion also sit in foreground to right preparing demolition charges.

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米軍の総攻撃・7日目

5月17日の時点で、日本軍の支配する地域は沖縄の、ほんの一部しか残されていなかった。しかし、米軍はわずかな支配地域を奪い、ひろげるために途方もない代償を支払っていた。沖縄戦がはじまって以来この日までに、米第10軍は3964名の戦死者と、1万8258名の負傷者302名の行方不明者、それにくわえて9265名の非戦闘損耗死傷病者を出していた。沖合に展開している海軍もまた4千名をこえる戦死傷者を出していた。』(309-310頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 309-310頁より》

 

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail64_img.jpg

沖縄戦の絵】「米兵の墓地」

『米軍が読谷村に造成した墓地での光景。昭和20年5月、…午前と午後に1回ずつ、トラックが南部戦線で戦死した米兵の遺体を積んでやってきた5月の暑さで遺体からはものすごい悪臭がした。遺体は身元確認の後、米兵によって埋葬された。墓地には遺体を埋める深さ2メートルほどの穴が掘られ、白く塗られた十字架が整然と並んでいた。』

米兵の墓地 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

西部〜中央戦線

シュガーローフ: (52高地)・クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)

17日の作戦ではシュガー・ローフを東側から攻撃することになった。第29海兵連隊の第1と第3がまずクレセント高地を攻撃し、そこを確保して第2大隊を支援してシュガー・ローフを占領することになった。

攻撃開始に先立って、40センチ砲や曲射砲による砲撃や、飛行機で450キロ爆弾を落としての猛爆が加えられた。午前8時30分、第1、第3大隊から出た海兵隊が、クレセント高地の西端を襲った。戦車と歩兵が砲兵の支援を得て多くの陣地を破壊し、この進撃でシュガー・ローフの東部がくずれ、第2大隊のE中隊が左翼に回って攻撃を開始した。

クレセント攻撃がまだ続行されているあいだ、第2大隊の海兵隊シュガー・ローフのほうに進んでいった。最初は大がかりな攻撃で鉄道路線を切断しようとしたが、左方からの砲火で失敗に終わり、また接近戦を試みようとしたが、これも斜面が急勾配のため、かなわなかった。そこでE中隊の2個小隊は、丘の北東部の斜面を利用して頂上にたどりついた。しかし、この頂上制圧のさい、米軍は日本軍の猛攻撃にあって、ふたたび頂上から駆逐されてしまった。

F中隊の1小隊も稜線沿いに西のほうに進もうとしたが、これも小隊長が戦死したため、小隊は、迫撃砲の猛火のもとを退却せざるを得なかった。E中隊は、3回も頂上制圧をこころみ、2回とも白兵戦で追い返され、3回目にやっと日本兵を撃退できたが、そのときすでに海兵隊は弾薬を使い果していた。中隊はまたも退却せざるを得なくなった。その日の戦闘で160人の死傷者を出したあげく、海兵隊は陣地を放棄したのである。』(347-348頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 347-348頁より》

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首里で、戦車の後方を線路に沿って進む第29海兵連隊第1大隊の兵士たち。火炎放射器を携行している者もいる。(1945年5月17日撮影)

Men of the 1st Battalion, 29th Marines advancing along the railroad tracks on Shuri behind our tanks. Some men carry flame throwers.

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中央戦線

大名(おおな)

5月17日、第2海兵大隊は55高地を攻撃しようと試みたが、機はまだ熟していないようであった。大名丘陵に陣取っている日本軍が、機関銃や迫撃砲をもって、進撃してくる海兵隊を阻止し、47ミリ砲で戦車2輌が擱座させられたために、進撃はおおいに阻まれ、わずか丘陵の一部だけしか占領できなかった。』(359-360頁)

『…5月17日の朝、第3海兵大隊は第1大隊と交替して、大名丘陵を3日間にわたって連続的に攻撃した。しかし、そのたびに沢岻南端の元の陣地に押しかえされた。この攻撃では、たいていの場合、頂上まで到達することはできた。しかし、頂上にようやく達したと思ったとたん、たちまち前面と両翼から、迫撃砲や機関銃の熾烈な砲火にあい、せっかくの頂上も制圧はしたものの、確保はできなかった。』(361頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 361頁より》

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日本軍狙撃兵を狙う海兵隊首里防衛の最後の要衝であるワナリッジ(大名丘陵)攻略戦の際、日本軍狙撃兵に向けてトムソン式小型機関銃の引き金を引く第1海兵師団の兵士。仲間は身を低くしている。

MARINE SIGHTS IN ON A JAP SNIPER-- A Marine of the 1st Division draws a lead on a Jap sniper with his tommy gun as the division was engaged in taking Wana Ridge before the town of Shuri, on Okinawa. His companion ducks for cover.

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石嶺(いしみね)丘陵

『沖縄作戦では、米軍は朝のうちに進撃するのを常としていた。そして午後は、おそくなってから陣地を構築、夜には強力な円形防衛陣をつくるようにしていた。もちろん、第77師団も2、3回は、夜の進撃を試みたことがある。この夜の進撃は、5月17日、第307歩兵連隊によって行われた。』(364頁)

『…E中隊は、17日午前3時0分を期して、夜陰に乗じて進撃を開始した。谷間の西側を伝わって下のほうに降り、午前4時には出発点ときめられた地点に到着、そこで、C中隊からの増援小隊と合流した。15分後には、この増援部隊でふくれあがった中隊は、音も立てずに、一歩一歩しのび歩くように低地帯を進んでいった。』(365頁)

『…E中隊は、夜がまさに明けようとするころ石嶺丘陵に辿りついた。…第3小隊は左のほうに、第2小隊は中央、そしてC中隊から来た1小隊は右に、また中隊の第1小隊は後方に動いて、円形陣地をつくった。東の空がしらじらと明けるころ、米軍はすでに陣地についていた。日本軍はまだ気づかないようすである。将校が1人、副官をつれて声高に話し合い、笑いながら壕の中から出てきた。とたんに米軍陣地から銃火がひびき、2人とも米軍がいることに気づくまもなくやられた。

第2小隊は、12人ほどの日本兵塹壕のなかに寝ているのを発見し、突っ込んでいって銃剣で刺し、小銃で射撃した。そして、午前5時30分ごろまでには、完全に警戒態勢についた。日本軍は壕のなかから飛びだして、谷間を横切って、米軍に対し攻撃を加えようとしたが、機関銃火にあって倒された。まもなく大砲や迫撃砲、機関銃、小銃が不毛の地の峰を撃ちまくり、米軍は岩かげに退避した。砲弾はあらゆる方角、後方からさえ飛んできたばかりでなく、峰の下のほうにつくってあるトンネルの入口からさえ、日本軍は迫撃砲を撃ちまくってきた。』(366-367頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 364、365、366-367頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p335.jpg

石嶺丘陵

ISHIMMI RIDGE, extending from right foreground almost to spinner of airplane from which this picture was taken, rises out of flat ground northeast of Shuri. Immediately behind the ridge is the village of Ishimmi and the draw before Okinawa's ancient capital. From these positions the enemy could pour mortar fire into the small group of the 307th Infantry, 77th Division, on the hill.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

 『日本軍は、E中隊の機関銃座をただちに発見、集中砲火をあびせてきた。…機関銃手はほとんど全員が戦死した。午前7時までに軽機が2梃ともやられ、…そして10時までには、米軍の全迫撃砲が使いものにならなくなってしまった。

…日本軍は、一気にこの中隊を殲滅しようと総攻撃を試みた。第3小隊は、相手を撃退したとはいえ、左翼に3回も斬り込まれ、榴弾で多くの死傷者を出した。中央部にいた第3小隊も、石嶺南側の丘にいた日本軍の攻撃で多大の損害を出した。両側では、百メートル離れたところにいた日本軍が、迫撃砲2門で交互に米軍陣地を、片っ端から組織的に撃滅していった。死者は血の海に横たわり、負傷者は生きている兵にかくれた場所を与えるために、みずから穴の外に這いだして絶命した。』(367頁)

『米軍は日本軍に対して集中砲火を浴びせたが、日本軍は攻撃の手をゆるめなかった。E中隊は、第2小隊、第3小隊とも兵力は半分に減り、他の中隊も多大の損害を出した。

…その夜、救援隊が出てE中隊に向かったが、途中で日本軍に殲滅され、わずかに生き残った兵は、原隊に引き返していった。石嶺丘陵の米軍はその日の夜、大砲や迫撃砲でさんざんに撃ちまくられていたが、それでもどうやら日本軍の数回にわたる攻撃をはね返した。

砲火は、一晩中あたりを照らし、米軍もこの炸裂する砲火のあかりのなかを、日本軍が接近してくるのを見て、それに備えていた。睡眠をとることは許されない。…兵隊たちは、タコ壺のなかにうずくまって夜が明けるのを待っていたのである。』(368頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 367、368頁より》

 

石嶺(いしみね): チョコレート・ドロップ(130高地)周辺

『第77師団では、石嶺の大石森と5号線道路のあいだにある地域を、麾下の第307連隊がじわじわと進撃していた。こうして5月17日になると、チョコ・ドロップ付近で、米軍はにわかに進展ぶりをみせた。歩兵連隊が、両翼を中隊砲兵隊に掩護させて、チョコ・ドロップ両側から洞窟のほうに攻めていったのだ。日本軍のそのほら穴の中には対戦車砲4門、野砲1門、機関銃4梃、60ミリ迫撃砲2門、その他の迫撃砲4門があった。夕方までに、その洞窟の一部が封鎖された。その夜、日本軍は、周辺の米軍に対して反撃を試みて失敗、25人の戦死者を出して退却した。』(379頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 379頁より》

 

中央〜東部戦線

コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

『第381連隊の第3大隊は、第382連隊のE、F中隊と交替し、これで第96師団前線の全3連隊が配置についたことになったわけである。もしこの部隊が、コニカル・ヒルの東側の掃討戦に成功すれば、予備軍の第7師団は、出動して海岸線を通り、首里本陣を攻撃できるのだ。コニカル・ヒルの頂上から、南へ約750メートルほど離れたところに、シュガー・ヒル(俗称サーター山)がある。これは第381連隊の攻撃目標であった。その後方の丘陵地帯は、攻めるに難しく、確保するに難しかった。』(391頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 391頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p354b.jpg

東海岸の平地 (中城湾と与那原一帯: 右上にシュガー・ヒルがある)

EAST COAST FLATLANDS, over which the 184th Infantry, 7th Division, advanced to Yonabaru after of the east slope of Conical Hill.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

 

 

第32軍の動向

52高地: (シュガーローフ)

17日米軍は戦法を変え、2コ大隊で52高地の東の拠点を奪いとり、返す刀で、もう1コ大隊を支援し、52高地に突入しようとしたが、頂上までのぼると、そこで救援に駈けつけてきたわが15連隊第1大隊に追い落され、またまた敗退

もうこのころになると、戦場は、相貌を一変していた。両軍の砲弾の炸裂で、緑という緑は吹きとび、丘、台地、すべてが月の表面を見るように、弾痕だらけになっていた。第6海兵師団は、西から首里に迫ろうとしており、そのためにはどうあってもここを突破しなければならず、したがって日本軍としては、どうあってもここを守りとおさねばならなかった。

ただ問題は、兵力量の差。後方補給の差であった。日本軍は、死傷者続出によって、刻々に人が減っていく。補充ができない。米軍は、もともと兵力が大きい(米軍5コ師団、日本軍2コ師、1コ旅。ただし、このころは、62師団はほとんど戦力を失ない、24師団も兵力半減。両軍戦力のバランスは、5対1といってよい)のに、それがさらに大きくなっていた。とすれば、戦闘がつづき、時間がたてばたつほど、日本軍が決定的に不利となるのは自然であった。』(262-263頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 262-263頁より》

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丘の斜面にある雨の溜まった水玉模様の地面の穴や、葉の落ちた木の幹の裂かれた様は、首里城周辺の日本軍陣地に対する第10陸軍の猛攻をあらわにする。左手前の倒れた鉄塔は、8万の皇軍で防御体系をなしていた中央制御部の周りにあった11の同様な施設の一つであった。丘には日本軍が爆撃を避けるための洞穴が、中央には米歩兵部隊の携帯テントが見える。

IN THE WAKE OF WAR - This polka-dot pattern of rain filled shell holes and the splintered stumps of leafless trees on an Okinawan hillside attest to the deluge of Tenth Army artillery poured on strong Jap positions around Shuri Castle. The demolished Jap radio tower in the left foreground was one of 11 such installations around this nerve center of the defensive system manned by 80,000 fanatical troops. Note caves in small hill at upper left in which Japs hid to escape bombings, and pup tents of American doughboys around hill in the center.

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那覇北方地区においては、17日天明独立混成第15聨隊第1大隊が、大隊長率先先頭に立って52高地の米軍を逆襲し同高地を確保した。0830ころから米軍は、猛烈な砲射撃の支援下に戦車を伴って52高地、眞嘉比地区に猛攻を開始した。

52高地は包囲攻撃を受け接戦激闘が続き、米軍を撃退したが、わが損害も多大であった。眞嘉比北側高地は米軍に占領され、眞嘉比東側陣地(独立混成第15聨隊砲陣地)も米軍の馬乗り攻撃をうける状況となった。同聨隊第3大隊〔長  西村信義大尉(少18期)〕は聨隊砲弾地の奪回攻撃を行なったが失敗した。この日軍は海軍の1コ大隊(伊藤大隊)を独立混成第44旅団長の指揮下に入れ、牧志(安里南側)付近の防備を強化させた。(日本側の公式戦記: 戦史叢書沖縄方面陸軍作戦より)』(313頁)

陸軍の混成大隊に歩兵として配属された、海軍所属の兵士の日記』(315頁)

5月17日 缶詰を食う。敵の動きを偵察する任務に就く。各人に2個から3個の手榴弾が支給される。石部隊の小隊が、艦砲射撃の直撃を受けて全滅する。10メートル四方ほどの場所に60発もの集中砲撃は、極めて危険である。次の海軍記念日には、聯合艦隊がやってきて敵を蹴散らしてくれるとの噂がある。』(316-317頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 313、315、316-317頁より・日記内容は英文からの翻訳》

 

 

そのとき、住民は・・・

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音楽を聴きに集まって来た沖縄の子供たちに蓄音機をかけてみせるガン上等兵、ウィリアムソン上等兵、ルイス軍曹(1945年5月17日撮影)

Pfc. Paul Gunn, Cobden,  Illinois; Pfc. Harry Williamson, Dayton, Ohio, and Sgt. Howard Lewis, Indianapolis, Indiana, play their phonograph, while three Okinawan children gather around to listen to the music.

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