1945年 5月5日 『最後の一人まで』

日本軍の反攻

東部〜中央戦線

棚原(たなばる)

『米第17連隊の歩哨は、双眼鏡で、月明かりの中を一隊の日本軍が北西の方、棚原高地へ向かって進撃していくのを見た。連隊は、ただちにこの部隊めがけて砲撃を開始したが、味方の米軍を危機に陥れるおそれがあって、十分には威力を発揮できなかった。日本軍の別の一隊は、明らかに通過したにちがいない。彼らはすばやく米軍の通信施設を発見して、連隊本部と3個大隊との電話線を切断した。…日本軍はまた、丘陵ふもとの物資集積所を包囲攻撃して、これを破壊した。』(317頁)

『日本軍のほうでは、各戦線で優位を占めつつあった。彼らの砲火は第1大隊の物資集積所や、丘の北側にあるモーター・プールをおおい、米軍をして近づくことを許さなかった。棚原の一隊は、村落を通る道路に地雷を埋め、さらにその道路を、機関銃の弾幕でおおっていた。

5月5日の昼ごろ、米軍連隊に、ようやく不安の色がみなぎってきた。それは果たしてどれ位の勢力の日本軍が侵入してきたか、まだ確実につかむことができなかったからである。』(317-318頁)

『…2個小隊を前線に立て、戦車隊で支援させ、棚原に突進して、にわかづくりの日本軍陣地を撃滅した。村落向こう側では、米軍は洞窟から無数の砲火をうけたが、一日中かかって、このあたり一帯の日本軍陣地を撃滅し、…そして午後5時30分、中隊は迫撃砲による予備砲撃ののち、やっと棚原高地頂上を占領した。』(318-320頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 318-320頁より》

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日本軍が侵入、占領した棚原高地一帯のスケッチ

POSITION OCCUPIED BY THE JAPANESE IN THEIR PENETRATION TO TANABARU ESCARPMENT, 4-7 MAY

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]

 

中央戦線

幸地(こうち)

『日本軍は、5月4日の夜から5日の夜中にかけて、米軍第306連隊の前線に、ものすごい砲撃を加えてきた。その後、午前2時0分、幸地北西部の首里、宜野湾街道への分かれ道付近で攻撃をはじめた。米軍では、砲兵隊がこれを阻止した。ところが、3時間後に、ふたたび日本軍は、大隊の勢力をもって戦車隊もまじえて攻撃してきたのである。戦車6輌はまもなく擱座させられたが、彼らはなおも米軍との接近戦に出ようと、砲火の中を進撃してきた。このため米軍大隊の観測地点はついに孤立化され、5名の死傷者が出た。

日本軍は米軍の猛烈な砲火をものともせず、米軍前線からいくらも離れていないところに迫撃砲をならべ、重機をおき、さらに75ミリ砲まですえようとしたが、これはついに失敗した。いまや米軍連隊の全戦線で猛烈な砲撃戦が展開された。

一群の日本兵が隊をつくって、まともに米軍の中隊にぶつかってきた。が、これは自動砲火の前に撃退された。日本軍のほとんどは、白兵戦を交え得るところまで前進しようと試みたが、ついに接近できず、米軍陣前の塹壕内に身をかくさざるを得なかった。榴弾は飛びかい、たがいの砲火は、まるで真昼のように激しく応酬し合った。だが、夜がしらじらと明けるころまでには、戦況はすでに米軍に分があった

米戦車隊は、塹壕にそって進撃し、機関銃によって塹壕内の日本兵を掃討した。生き残った日本兵は、煙幕にかくれて、どうやら逃げのびることができた。米第77師団の戦線内には、日本兵の死体248体が、機関銃、迫撃砲、小銃とともに遺棄され、中には75ミリ砲弾数百発も残されていた。』(315-316頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 315-316頁より》

 

前田(まえだ)・浦添丘陵

『…5日から反対側の丘腹は徐々に占領され、洞窟は破壊されるか封鎖されるかした。しかし、この日の夜から6日の真夜中にかけて、日本軍は丘陵奪回のため、幾度にわたって反撃してきた。そのうち一つはとくに激しく、第307連隊の第3大隊に奇襲してきたが、白兵戦で250名の戦死者を出した末、撃退されたのである。』(294-296頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 294-296頁より》

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MAEDA ESCARPMENT STRONG POINTS included the Apartment House and a cave-tunnel-pillow network. The Apartment House barracks area, just east of Nakama, was captured 5 May as the 307th Infantry, 77th Division, cleaned out reverse slope of Maeda Escarpment.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

 

 

第32軍の総攻撃・2日目 

東部〜中央戦線

棚原(たなばる)高地の奪取: 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

夜が明けると、すぐに敵の反撃が開始された。敵歩兵は、戦車を伴い迫撃砲弾を浴びせつつ、伊東大隊を四周から攻め立ててきた。数十メートルの至近距離、大隊の兵たちも負けじと応射する。

…全般の状況はどうかと南を振り返ってみると、前田高地に砲弾の雨が降り注いでいる。彼我いずれのものかわからないが、おそらく敵が第2大隊の防御陣地を砲撃しているのだろう。

今のところ友軍の攻撃が進捗している様子はなく、棚原以東の南上原一帯に友軍突進部隊らしき姿は見えない。…大隊は完全に孤立していた。…さらなる前進は不可能だった。友軍の攻撃が進展するまでは、何としても持ちこたえなければならない。

朝の6時になっていた。とにかく聨隊本部と連絡をとらなければならない。…暗号手の1人は、昨夜の攻撃途中で戦死していた。残る1人もつい先ほど重傷を負って、暗号化できない。そのままの文章(生文)で必通を祈りながら打電させた。

大隊は本5日4時  棚原西北側154・9高地を占領せり」』(188-189頁)

『聨隊本部からは激励の返電があって然るべきだったが、届いたのは、次のような内容だった。「暗号書紛失の理由を知らせよ。爾後の進出はしばらく待て」これではまるで叱られているようだった。伊東はがっくりと肩を落とした。…孤軍奮闘の大隊が生き延びる道は、友軍の進出を待つ以外になかった。

になって、各隊から戦況報告の伝令がやってきた。どの隊もかなりの損害を出していたが、なかでも大山隊の報告は伊東に大きなショックを与えた。…大山隊長が死んだ。伊東が最も信頼を寄せていた中隊長だった。』(190-193頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 188-189、190-193頁より》

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]

 

軍司令部

反攻状況

5日の夜が明けてから、間もなく一大ニュースがはいった。第32連隊長北郷大佐の報告によると、部下伊東大隊が棚原高地占領の火光信号らしきものを揚げたというのである。沈鬱な空気に滅入っていた軍司令部洞窟は、急に生気が蘇がえった。軍首脳部の努力は、伊東大隊の戦果確認に集中した。…ところが昼間は敵の独り舞台で、わが軍相互の通信連絡は意の如くならぬ。北郷連隊長と、伊東大隊長との間の連絡は、全然途絶えているらしい。第一線大隊が戦果を揚げた際には、機を失せず連隊長が予備隊を増加して戦果の拡張を図り、ついで師団長が、師団予備を投入し一層大きく、戦勢を有利に導くのが、戦場指揮の常套である。5日の午後になっても、第24師団にこうした動きは見られず、伊東大隊の奮戦はなかば夢物語的印象に止まった。』(282-283頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 282-283頁より》

『たしかに、奇襲攻撃による陣地占領には成功した。米軍にも、5日の昼ごろには、不安がひろがっていた。そこまでは、総攻撃は大成功であったが、占領してそれを維持する段階で、立ち直った米軍特有の圧倒的な砲爆撃が、マトモに降りかかってきた。前に日本軍が、そこを手中に収めていたときは、地形を活用した洞窟、地下壕陣地で、米軍の砲爆撃をかわし、かれらが接近するとともに待避所から躍り出て、集中砲火を浴びせ、撃退した。ところが、いまは、味方は機動中であり、適切な陣地がなく、したがって米軍の砲爆撃を防ぐスベがなかった。局面は一転した。

急速に、こわいほどの死傷が出た。しかしそのことは、軍司令部には、すぐにはわからず、その結果としての戦線の膠着ー攻撃が進展しないという形で次第に事態が明らかになってきた。

棚原高地に突入占領、米軍の物資集積所を破壊してきた32連隊の第1大隊(伊東大隊)の成功のほか、前線のいたるところで攻勢は失敗に帰していた。そして伊東大隊すら、通信連絡がうまくとれず、軍司令官には実状がよくつかめなかった。』(249-250頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 249-250頁より》

  

総攻撃失敗・反攻中止

5月5日の夜になって、牛島中将は、反攻作戦が失敗に帰したことを知った。味方の損害はひどく、その上、米軍の前線を突破することは、棚原以外は全戦線とも失敗だったことが報告された。…将軍は、いまは防衛戦に作戦を変えねばならなくなったことを知り、新たな命令を下した。

「わが軍は敵に痛撃を加え、時を得るため暫時攻撃を止め、首里方面における戦闘にて徹底的に敵勢力を消滅せんとす。第24師団は本来の守備陣地に転進すべし」

牛島中将のこの虚勢にもかかわらず、陸軍第32軍の本部は、反攻作戦の失敗で悲嘆にうち沈んでいた。』(321頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 321頁より》

八原高級参謀の回想:

5月5日18時、自席に座して依然黙座する私を参謀長ではなく、軍司令官が直接お呼びになった。重い足どりで参謀長室の前まで来ると、奥の司令官室から「八原大佐!高級参謀ちょっとこい」と牛島将軍の声がする。私はそれ!いよいよ最後の突撃命令か? いよいよ最後かなと、はっ!とした。参謀長に黙って敬礼して傍らを過ぎ、静かに、司令官の前に直立不動の姿勢で立つ。

将軍は、平素の如く、畳の上に膝組んでおられる。やや暫し、沈痛な面持ちで、しげしげと私を見ておられたが、ようやくにして、静かに口を開かれた。

「八原大佐。貴官の予言通り、攻撃は失敗した。貴官の判断は正しい。開戦以来、貴官の手腕を掣肘し続けたので、さぞかしやりにくかったろう。予は攻撃中止に決した濫りに玉砕することは予の本意ではない。予が命を受けて、東京を出発するに当たり、陸軍大臣参謀総長軽々に玉砕してはならぬと申された。軍の主戦力は消耗してしまったが、なお残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄の島の南の崖、尺寸の土地の存する限り、戦いを続ける覚悟である。今後は、一切を貴官に委せる。予の方針に従い、思う存分自由にやってくれ」

軍の戦力尽きんとする今日、司令官の言は何事ぞ!すでに手遅れである。憤怒の情さらに新たなるものがあったが、真情を吐露して訥々と語られる将軍の素直な人格に打たれ、ともに軍の運命を悲しむ気持ちに変わった。

いかなる重大事も参謀長以下に任せ、いささかの疑いも挟まぬこの将軍をして、今のようなことを述べねばならん苦境に突き落としたのは、結局私の補佐が十分でなかったからである。真に軍の安危にかかわると信じたならば、死を賭しても、その主張を貫くべきではなかったか。もちろん私は、全力を尽くしたと信ずる。しかし必死の誠意に欠けるものがあったことを、悔いずにはおられぬ。』(286-287頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 286-287頁より》

総攻撃は一日で大失敗に終わった。陣地をでた日本兵は米軍の火力の敵ではなかった。戦死約5000人。第24師団は歩兵の実に60パーセント近くをこの攻撃で失い、砲兵団も米軍の反撃で大損害をこうむり、3分の1になってしまった。この攻勢の失敗により第32軍は、それまでせっかく温存していた第24師団をすりつぶしてしまった。この結果に大本営陸軍部(=参謀本部)も大いに失望、沖縄作戦への期待を失ってしまった。以後、大本営の感心は沖縄から離れ、完全に本土決戦準備へと移っていく。』(83-84頁)

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 83-84頁より》

 

  

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