1945年 7月17日 『八原の脱出計画』

〝沖縄〟という米軍基地

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/113-38-1.jpg

泡瀬飛行場にある第14海兵航空群野営地の全景(北方面)。沖縄本島にて。着工から19日後。(1945年7月17日撮影)

Panorama (north) of MAG-14 camp site at Awase Airstrip, Okinawa, nineteen days after breaking ground.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/113-37-2.jpg

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

高級参謀のその後 ①

1945年7月、第32軍の高級参謀、八原博通(やはら・ひろみち)陸軍大佐は、冨祖崎(ふそざき / 現・南城市)の民家にいた。

6月22日(または23日)に同軍司令官、牛島満(うしじま・みつる)陸軍中将と参謀長の長勇(ちょう・いさむ)陸軍中将が摩文仁の丘で自決した後、八原は米軍の包囲をすり抜け、海岸近くの洞窟に部下数名と共に潜んでいた。

八原は自決を許されず、沖縄島を脱出して本土へ渡り大本営に戦況を報告するよう命じられていた。機会を伺いながら北上し、沖縄島北部から脱出する計画であった。

しかし、6月26日、潜んでいた洞窟が米軍に発見され、米軍の呼びかけに応じて投降する。だが、偽名を使い、年齢も偽って民間人を装ったため、他の避難民と一緒に米軍の民間人収容所へと送られた

数日間そこで収容されたが、6月29日、米軍の監視下にあった民家に移るよう命じられた。その民家に置かれていた十数名の避難民は、昼は軍作業に出ていたが、八原は体調不良ということもあり、民家で一日を過ごすという日々が続いていた。八原の脱出計画では、7月末日に国頭村半地(くにがみそん・はんぢ)で部下と合流する予定であった。

(投稿者註: 一部の資料や文献では、八原大佐が捕虜となった時期を1945年7月15日としているが、ここでは、八原大佐自身が執筆した回顧録に記載された内容を紹介する。上は「沖縄決戦 高級参謀の手記」440-469頁を要約)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/54/Yahara_Hiromichi.jpg

第32軍高級参謀 八原 博通(やはら・ひろみち)陸軍大佐

Hiromichi Yahara - Wikipedia

八原高級参謀の回想:

7月中旬を過ぎても、難民の国頭疎開は容易に実現しそうにない。現在の境遇は惨めではあるが、隠れ場としては理想的でもある。しかし千葉准尉や、勝山、新垣らと約束した半地村集合期日7月末日が、漸次切迫する。国内情勢や、アメリカ軍の動きは知るに由なく、だんだん気が急いてくる。本土決戦に間に合わぬようなことになれば大変だ。三宅や、長野はもし敵線突破に成功しておれば、すでに本土に帰っているはずだ。私も、いつまでもぐずぐずしてはおれない。それには、まず周辺の敵情を明らかにしなくてはならない。
…氏や…氏に敵情を聞くが、ただ沿道至る所敵の幕舎でいっぱいだと返事するのみで、具体的なことはわからぬ。況や大局的な敵の動きなど、知る由もない。あまり根掘り、葉堀りの質問は、私の身分を疑われることになる。彼らもいやな顔をする。アメリカ軍の幕舎掃除などをする場合、アメリカの新聞でもあったら、持ち帰るよう頼んでみたが、何日たっても入手はできない。
7月17、8日ごろであったか、…氏が親切に「アメリカ軍の作業に出た方がよい。君の欲しがる新聞も、手にはいるかも知れぬし、アメリカ軍の様子もわかる。そして煙草も、キャンデーも、1日3合の米ももらえる。作業は形式的なもので、さして労力を要するものではない。私と一緒に行けば気も楽だ」としきりにすすめる。私は、彼の勧めに心動き、出かけることに決心した。』(469-470頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 469-470頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

伊平屋島(いへやじま)伊是名島(いぜなじま)

http://vill.izena.okinawa.jp/izena/wp-content/themes/izena/images/map_izena.jpg

伊是名島のごあんない【島の紹介】 | 伊是名村役場

沖縄本島の北方の両島には日本軍はいなかった。ただ陸軍中野学校出身の特務機関員が教員として1人ずつ配置されており、また途中から敗残兵が本島から逃げてきていた。

伊平屋島では村の幹部たちは事前に話し合い、米軍が上陸してきたら「白旗で降伏する」ことを決めていた。6月3日に米軍が上陸してきたとき、国民学校長を先頭に住民は白旗を上げて投降した(県史2ー588〜602頁、伊平屋村226頁)

伊是名島には伊平屋島の米軍が検分をしにやってきただけだった。島出身の青年が伊平屋に行き、島には軍事施設はないから攻撃しないでくれと頼んだので、米軍は攻撃しなかったという。この青年は移民帰りだった。一方、島の幹部たちは米軍が上陸してきたときのことを事前に話し合い、米軍が来たら「白旗をかかげて降参すること」を決めていた(県史2ー603〜622頁、石原昌家『虐殺の島』108)。』(181-182頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 181-182頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/09-12-2.jpg

伊平屋島住民の帰郷(1945年7月17日撮影)

Iheya Shima Native Returns to Home

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『両島の幹部が白旗を掲げて投降することにしていた背景には、特務機関員の指導があったようだ。特務機関員は占領された後の後方攪乱を任務としており、自分を含めて日本兵がいることを知られては困るし、住民が自決してしまっても困るからであろう。また敗残兵たちも自分たちが助かることを考えて「玉砕」するつもりはなかった。

しかし特務機関員らによって住民虐殺がおこなわれ、漂流してきた米兵の処刑もおこなわれている。「集団自決」を強要しなかったものの、スパイ容疑での住民の処刑はおこなわれていた。

伊是名島には日本軍は配備されなかったのだが、沖縄戦が始まってから本島から敗残兵が流れてきた。そのなかで隊長となったのが平山大尉だった。また陸軍中野学校出身の特務員が教員として派遣されていた。

島では、米軍が来た場合には白旗を掲げて降伏すること、日本兵はいないことにすることなどを取り決めた。敗残兵たちも名前を変え、住民であるかのように装った。伊是名に米軍がやってきたのは6月なかごろだったが常駐せず、ときどき伊平屋からやってきただけだった。島にはアメリカ兵が2度にわたり3人が流されてきたが、いずれも密かに処刑された。』(182頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 182頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/09-13-2.jpg

米軍侵入後、それぞれの家へ向かう二人の伊平屋島住民(1945年7月17日撮影)

Young Iheya Shima Natives Ride Back to Homes after Invasion.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

伊是名島での住民虐殺

『日本が降伏した8月以降、2件の住民虐殺がおきた。1つはチナースーと呼ばれていた40代の…で、彼はバクロー(家畜商)をしていて牛馬豚などの買付けのために自分でサバニを持ち、 島を回っていた。伊平屋にいたときに米軍が上陸し、そこで保護された。内妻とその子が伊是名にいた。

ある日、彼は米軍といっしょに伊是名に来て、島民たちに日本が負けたことなどをしゃべった。また日の丸をお土産に米兵に渡したらいろいろ物をくれると勧めたりした。そうしたことから彼はスパイと見なされた。伊平屋にいる彼を、日本兵の意をうけた島の漁師たちが、義理の父が危篤だとだまして連れ出し、伊是名に連れてきた。彼はそこで日本兵に引き渡され、処刑された

同時に伊是名にいた奄美出身で身売りされてきていた少年3人も、スパイだという疑いで処刑された。それらの虐殺はいずれも10月ごろの出来事と推定されている。戦争がすでに終わっているにもかかわらず、また米軍がそれを知らせたにもかかわらず、島の人々や敗残兵たちはそれを信じず、ともにそうした虐殺に加わった。ここにあげた、虐殺された4人はいずれも島から見ればよそ者であった。閉ざされた島のなかで、日本兵と島民とが一体となって、疑わしい者、米軍に協力する者を殺害した事件だった。島の人々が平山大尉ら日本兵は敗残兵にすぎないことを知るのは、その後のことであった(石原昌家『虐殺の島』、仲田精昌『島の風景』)

「集団自決」こそなかったものの、軍の特務機関員と地域の指導者たちが一体となって、島にとってのよそ者をスパイ視、迫害し、そして殺害していったのである(仲田精昌『島の風景』がもっともくわしい。ほかに石原昌家『虐殺の島』、県史2ー607〜611頁。なお1989年に刊行された伊是名村史はこの虐殺については触れていない)。』(182-183頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 182-183頁より》

  

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

ryukyushimpo.jp