〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月17日 『伊平屋島と伊是名島』

歩兵第32連隊 終わらない戦場 / 二つの島の残置離島工作員 / 島の特攻さん

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設 - 泡瀬飛行場

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沖縄戦証言 中頭郡 - Battle of Okinawa

泡瀬飛行場: 米軍は泡瀬周辺をシモバルとよび、6000人以上の民間人を収容していた。その後5月15日から20日にかけて再び住民を移動させ、5月1日から飛行場建設を開始、残っていた町並みもすべて破壊され、広範囲に軍事拠点化された。(現 泡瀬通信施設)

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Panorama (north) of MAG-14 camp site at Awase Airstrip, Okinawa, nineteen days after breaking ground.

泡瀬飛行場にある第14海兵航空群野営地の全景(北方面)。沖縄本島にて。着工から19日後。(1945年7月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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泡瀬飛行場にある第14海兵航空群野営地の全景(北方面)。沖縄本島にて。着工から19日後。(1945年7月17日撮影)

Panorama (north) of MAG-14 camp site at Awase Airstrip, Okinawa, nineteen days after breaking ground.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

歩兵第32連隊の終わらない戦場

山形、北海道、沖縄の出身者で編成されたおよそ3000人の部隊は、8月29日の武装解除までには300人余りになっていた。

歩兵第32連隊 (沖縄出身19歳) 比嘉恒吉さん証言

生き残ったものだけ、あの壕、この壕と転々と。Aという壕をやられると、Bの壕へ。転々と何べんか繰り返して。みじめなもんです、それはね。… 今の歩兵が持ってる銃も、小銃も、もうほとんどないぐらい。手りゅう弾もない。戦う能力は全くない。だから転々と移るよりほかに、方法がなかった。そういうことですね。

Q: 転々として暮らしてるときというのは、どういうふうにして、食いつないだりしていたんですか?

食料探し。初期のころは、アメリカが戦闘に使ったレーション(米軍の携帯用食糧)、戦闘用のレーションとかありましてね。… 夜に出て掘って、それを持ってきて。そのころから前線は、兵隊みな首里の方向に行っていますからね。後方は手薄ですよ。そのころ我々は食料探しで。中グスクの大きな壕がありましてね、ジャム壕と言って、ジャムがいっぱいあってね、アメリカの。それを取ってきて。日本の食糧はかなり残ってましたからね、米とかね。食糧倉庫。そういうものを探してみたり。もう、食いつないで。… みじめな生活ですよ。毛も抜け、色は青白。ちょうど真ん中の壕道で。4、5、6、7、8、9月は初めまでだから、5カ月ぐらい、日の光を浴びてないものだから青白くなってね。毛は抜けるし。おかしくなってましたよ。

比嘉 恒吉さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

伊平屋島の残置離島工作員「宮城太郎」

伊平屋島伊是名島にはそれぞれ陸軍中野学校出身の残置離島工作員が潜入していた。

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沖縄玉砕後も「ゲリラ戦続けろ」 民間スパイ機関が暗躍か | 沖縄タイムス

伊平屋島の「宮城太郎」(斉藤義夫 旧姓菊池)

伊平屋島には「宮城先生」(本名は斎藤) のほかに遭難した特攻兵2人 (伊井と篠崎) がいた。6月3日の米軍上陸後も、若い特攻隊員2人は島の人にかくまわれ翌2月頃まで島の人たちと共にいた。伊是名島に流れ着いた宇土部隊の平山隊7名は、伊平野島までやってきて斬り込み計画を立てようとしたが、伊平屋島の「宮城」と特攻隊の伊井は計画を引きとめた。

私の家の裏座で、菊池 (伊平屋島の残置工作員) さんを囲んで、この敗残兵たち (平山隊) がみんな集まって相談をしているところを私も聞いていました。敗残兵の彼らがいわく、岬の電波探知機 (伊平屋の米軍基地) に総員で斬込みをかけよう、というわけです。浜に武器はかくしてある、これを使ってやろうと主張したわけです。これに反対したのが菊池さん伊井さん (特攻隊) でした。今そんなことをやれば村民がまきぞえになってしまう。兵隊がそういうことをやるのは当然だが、村民を犠牲にすることは絶対にいかん、と反対したわけです。

沖縄県史 伊平屋島・伊是名島 ~ 戦争証言 - Battle of Okinawa

 

伊平屋島から見た特攻作戦

 あのころの特攻機というのはひじょうにあわれなもんでした。私も若くて、こわさもわからんでよく見物に行ったもんですが、特攻機が飛んできてやられるのを五、六回見ましたよ。見ちゃおれないですね、あれは。設備機も何もつかんで、超低空一点ばりで一機とか二機とかやってくるんです。いつも西海岸の方でしたね。見ていると、アメリカのグラマンが上の方からおそいかかってくるんです。こっちは機銃も何も持ってないですよ。ただ、突っこめの態勢で重い爆弾をかかえてブルンブルンとやってくるんです。無蔵水のところの高い岩山のところ、あそこから小さく見えてきて、来たかと思うとすぐグラマンおさえられてしまうんです。逃げまわるだけで、西から東へ島を横ぎっていくと、山にいる私らのところに薬きょうがパラパラ降ってきたりするありさまです。変な言い方ですが、あれはもう戦さではないですね。実に気の毒なもんでし私の知っている範囲で、田名の周辺だけでも、特攻隊員の死体が四体あがっていますね。飛行機が撃墜されて、遺体が浜にうちあげられてきたんですよ。防衛隊なんかが埋めたりしましてね。伊井少尉は、特攻機が撃墜されて、それでも幸い命びろいしてこの島に助けられた人です。伊井さんは、飛行機が野市と島尻の間に撃ち落されて、人事不省になっているところを、村民がサバニを漕いでいって、みんなで助けたわけです。… 篠崎さんとか伊井さんとかは、頭が低くて、ここの料理でも何でも食べてくれるし、仕事も部落民といっしょにまったく同じように働くし、すっかりみんなの中にとけこんでいました。部落の人たちも、自分の息子と同じ位に大事にしていましたよ。だから、二人のことが発覚して、アメリカの兵隊がつれに来たときは、みんな泣き別れしているんですよ。ちょうど旧正月の元旦でしたがね、お酒のせいもあってか、みんな泣いて送ったものです。アメリカにつかまったら、もうどうなるかわからんと思っていたもんですから。

沖縄県史 伊平屋島・伊是名島 ~ 戦争証言 - Battle of Okinawa

 

伊是名島の残置離島工作員「西村良雄」

伊是名島の「西村良雄」(本名・馬場正治)

伊是名では西村という名前の残置離島工作員がおり、その他、6月10日頃にクリ船で伊是名島にたどり着いた宇土部隊の平山大尉ら七名、生良駐在らが、地元の防衛隊員を率いた。宇土部隊はここでも住民虐殺に関与する。3人の米兵捕虜の殺害、また終戦9月2日には奄美少年3人をふくむ4人の住民虐殺を引き起こしている。

米軍上陸の危機からは免れた伊是名島だったが、

このとき (6月3日の伊平屋上陸)名嘉徳盛という青年が野甫から伊平屋に泳いでいって、この島には軍事施設は何もないから攻撃しないでくれと米軍に頼んで、それが聞きいれられてこの島は救われたわけです。この名青年は諸見部落から野甫島に養子に行っていたわけですが、海外移民がえりで、知恵も勇気もある青年でした。

『沖縄県史』 伊平屋島・伊是名島 ~ 戦争証言 - Battle of Okinawa

残置離島工作員宇土部隊の敗残兵、巡査らは島の恐怖支配を続ける。伊平野と伊是名の二島は行き来できる近さにありながら、まったく違う状況にあった。

伊平屋島に米軍が上陸した一週間後6月10日頃、伊是名島には宇土部隊の一員平山勝敏大尉はじめとした七名の日本兵が逃げ込んできた。(人数は諸説あり) 平山は国頭村の山中を逃げ回るさなか、沖縄県出身の日本兵の提案で、佐手集落(国頭村の海岸)からくり船に乗り、妻の実家がある伊平屋島を目指したが たどり着くことができずに伊是名島に上陸したのである。

《川満彰『陸軍中野学校沖縄戦: 知られざる少年兵「護郷隊」』 吉川弘文館 (2018/4/18) pp. 149-150 》

敗残兵のほかに、特務機関の西村という者がいました。学校の先生をやりながら青年団を組織して、斬込みとかゲリラ戦の訓練をやっていました。また、各部落に防衛隊をつくっていましたが、防術隊もこの西村とか平山とかの命令には従わないわけにはいきませんでした。この西村はここの女と結婚して子供もできていましたが、本人は最後にクリ舟で与論島逃げていきました。その後のことはわかっていません。

生良巡査というのがいて、これは伊計島の出身ですが駐在できていたわけです。この巡査がまたこわい存在で、空襲中でも壕をまわって歩きよったですが、いつも住民の動きに目を光らせていたわけです。生良巡査はいつも敗残兵とぴったりくっついて、住民に直接命令するのはこの男でした。

沖縄県史 伊平屋島・伊是名島 ~ 戦争証言 - Battle of Okinawa

 

戦後、伊是名住民虐殺を調査する研究者にも元巡査は執拗な脅迫を続けていた。

 

そのとき、住民は・・・

伊平屋島の米軍基地と収容所

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6月3日、米海兵隊は激しい艦砲射撃と3万人という異例の上陸作戦で、上陸で47人の村民が犠牲になった。伊平屋島に上陸した米軍は住民を伊平屋島北端の田名へ収容し、米軍基地を建設した。

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Playing It Safe on Iheya Shima 

伊平屋上陸後、慎重に進む海兵隊員 伊平屋島  (1945年 7月17日) 6月3日の誤記と思われる。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

6月3日伊平屋島上陸は不可解な点が多い。事前偵察をしていない*1新規の増援部隊を派兵し、山の形が変わるほどの砲撃を加え、二千人余りの島に六千人以上の部隊を上陸させた、などである。無抵抗の住民47名が命を奪われただけではなく、米軍も同士討ちで18名の死傷者を出している。沖縄戦に新規に参入する第8海兵隊連隊の上陸演習を兼ねていたという見方もできる。

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Goats-Eye View of War

ぬかるみの中の戦車とヤギ 伊平屋島 1945年 7月17日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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米国沿岸警備隊: Iheya Shima Carry-All
兵士を乗せた水陸両用車と並んで歩く幼い弟を背負った少女 伊平屋島 1945年 7月17日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

伊平屋島海兵隊基地

軍はこの島を占領するとここに大変な設備をこしらえました。前泊に仮飛行場ができて、あの岬のクバ山の上には電波探知機があって、クマヤーの洞窟は弾薬庫、この道に沿っていったところにあるヒジャ部落は飲料水取り場になっていました。米軍がこんな島にこれだけの基地をつくったのは本土上陸にそなえていたわけでしょうね。そのころはまだ日本は降伏していないわけですから。

私は実際にその基地にはいっていったことがあるんですが、これは偶然そこに迷いこんだわけです。捕虜になると私らは軍作業をやっていたわけです。作業をやらんと一日分の米の配給がもらえんわけです。その時は、自分らは負けたわけではなくて捕虜になっているだけなんだと思っていました。沖縄戦が終ったことはわからないですよ。… しかし、変な話ですが、口では言わないだけで、ほんとは戦は負けているとはっきりわかっていたです。あの艦砲射撃を見たときから、これはもうダメだと思っていたんです。… 村じゅうの住民がみんなこの部落に集められたうえに、米兵なんかもいっぱいでしたから、もう授業もできる状態ではなかったです。米軍がこの島から引揚げていったのはその年の11月2日だったと思います。それまではずっと戦争中と同じ状態でした。

沖縄県史 伊平屋島・伊是名島 ~ 戦争証言 - Battle of Okinawa

軍作業にむかう伊平屋島の人々。

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Coast Guard Photographer Shows Ihiya Jap Workers “under New Management“
米軍の監視の下、作業へ向かう地元住民 伊平屋島 (1945年7月17日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

例のごとく「家」とは米軍が指定した収容所と思われる。

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米軍侵入後、それぞれの家へ向かう二人の伊平屋島住民(1945年7月17日撮影)

Young Iheya Shima Natives Ride Back to Homes after Invasion.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米国陸軍通信隊: Radar installation at north end of Iheya Shima showing, L to R: radio truck repair tent, power unit, and antenna. / 伊平屋島の北端に設置されたレーダーと無線設備。左から、無線車両修理テント、電源装置、アンテナ。1945年7月27日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

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*1:伊平野・粟国島作戦 Iheya Aguni Operation では共通して事前偵察をしていないか、あるいは偵察したことを記録していない。偵察なく大規模な上陸作戦を計画することは通常では考えられないことである。準備期間は長く、米公刊戦史記録に「第8海兵隊が沖縄に到着した5月30日までに、完全な艦砲射撃と航空支援のスケジュールがすでに確立されていた。」とあるように、あたかもサイパンから新規の増援部隊としてやってきた第8海兵隊連隊のこてだめしのようにタスクが与えられている。また多くの記録写真を撮影している。

東海岸離島の上陸作戦における偵察

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