1945年4月3日『日米両軍の作戦変更』

米軍の動向

1945年4月1日に沖縄島の西海岸から上陸した米軍は、東方へと進撃、上陸2日目には中城湾付近まで到達した。上陸地点から東へと横断し、中城湾までの戦線を敷くことで、島を南北に分割することができた。

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Chapter 05 | Our World War II Veterans

『米軍が実に簡単に上陸し、橋頭堡をあっけなく確保してしまったので、今度は、いったい日本の陸軍はどこにいるのだろうかということになって、噂は噂を呼んだ。そのなかで最も楽観的な見方は、日本軍は戦術で米軍に出し抜かれてしまったので、どこか他の島、たとえば台湾あたりにでもいて、そこで米軍に備えているのではないか、というものだった。いや、もしかすると、沖縄が第二のキスカ島にならなければよいがと考える者もいた。海兵隊が沖縄の南方海上で陽動作戦を展開したため、日本軍はそれに引きつけられて南部に移動したのかもしれない。陽動作戦は、ほんものの上陸部隊が朝霧や煙幕にかくれて迂回戦術で沖縄本島に近づいているとき、沖縄南方の海上において、海兵隊が、わざわざ日本軍に丸見えになるように近づいていたからだ。いや、そうではないかもしれない。日本軍は米軍が実際に海岸に上陸するやいなや、一大反撃を加えるために、勢力を貯えているのかもしれない。しかし、日本軍が、こういう反攻を試みる時期が到来し、それが去ってしまっても、なお日本軍は姿をみせなかった。敵はどこにいるのだろう。』(102-103頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 102-103頁より》

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沖縄の道を進軍する海兵隊員。(1945年4月3日撮影)

Marines move up along an Okinawa road.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

作戦変更: 北部侵攻を早める

日本軍からの反撃らしい反撃がなかったのが幸いし、当初の計画よりも早く事が進んだことから、沖縄攻略における全地上軍及び陸海空軍の統合部隊司令官であった第10軍のS・B・バックナー陸軍中将は、4月3日に作戦を変更、沖縄島北部の進撃を前倒しすることにした。

この段階では、主に戦線の北側を海兵隊が、南側を陸軍が担当した。

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バックナー陸軍中将 (左)、ガイガー海兵少将 (右)
In early April, Tenth Army commander LtGen Simon B. Buckner, Jr., USA, left, and Marine MajGen Roy S. Geiger, Commanding General, III Amphibious Corps, met to discuss the progress of the campaign. Upon Buckner's death near the end of the operation, Geiger was given command of the army and a third star. Department of Defense Photo (USMC) 128548

The Final Campaign: Marines in the Victory on Okinawa (Countdown to 'Love-Day')

『米軍の進撃ぶりは、米軍自体にとっても信じかねるほどの早さであった。…米軍の沖縄攻略作戦は、三段階に分かれ、第一段階では、南部沖縄の攻略と初期における諸整備作業をすませ、第二段階で伊江島と北部沖縄を制圧する。そして第三段階で、その他の南西諸島を占領し、本土侵攻作戦の準備をすることになっていた。しかし、予想外の早い進撃をみてバックナー司令官は、上陸3日目に作戦を変更、第3水陸両用軍団のガイガー司令官に対し北部への進撃を命じた。』(70頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 70頁より》

 

北進する米軍

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日本軍の敷設した道路を使って石川方面の前線へ進軍する第22連隊第2大隊の兵士と戦車。(1945年4月3日撮影)

Tanks with men of Second Battalion 22nd Marines advancing to front towards Ishikawa on Jap road.

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『「貴軍の北部侵攻にあたり、全責任を貴殿に委任す」この伝達が、バックナー将軍から米第3上陸司令官ガイガー将軍にもたらされたのは、4月3日、第6海兵師団が仲泊-石川ラインに進撃中のことであった。

この伝達は、沖縄作戦の重要な変更を意味した。もともと第二期作戦では、本部半島の確保や北部沖縄の孤立化は、沖縄南部を占領したあと、ということになっていた。バックナー中将はこれを変更して第一期作戦に入れ、第24軍団が首里防衛陣を攻める一方で、第3上陸軍は北部の日本軍を攻撃せよという命令を出したのである。

遅滞なく北部進撃をするには、それ相当の理由があった。早ければ早いほど日本軍の再編とか防衛計画は後へ後へとずれ込んでいくことになるからだ北部守備隊の宇土大佐は、沖縄県民からなるゲリラ隊を組織しつつあるといわれていた。また日本軍が九州やあるいは本州からでも移動して北部の小さな港に逆上陸するおそれもある。この逆上陸は港を確保すればそのおそれはなくなるのだ。』(126-127頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 126-127頁より》

 

南進する米軍

4月3日になると、それまで東進して、中頭で南北を切断しようと急いでいた米軍が、南に向かいはじめた湊川沖の米艦艇は、艦砲射撃をするだけで、1日、2日と繰り返した擬勢上陸の構えは見せず、そのかわり、沖縄の北西側(本部半島)、東側(与那原、大里付近)にも艦砲射撃を加え、艦載機約850機が、沖縄上空をわが物顔に乱舞した。』(154頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 154頁より》

4月3日、第24軍団は進撃路を南へとった。第17歩兵連隊を残留させて後方を固めさせ、第32歩兵連隊はその3大隊をもって、中城湾を海岸沿いに南下した。4.5キロ進撃して久場崎を占領、村落南西部の端から海岸までつづく丘陵地帯の海岸沿いにある第165高地の日本軍戦線と相対峙した。日本軍が高地から撃ちまくってきた。米軍もこれに応戦し、短時間の砲火戦で日本兵数名を殺した。米軍連隊の一部は、10回にわたる日本軍砲兵の攻撃を浴びた。これは反撃がますますひどくなることを示したものであった。

第96師団は左翼に第32歩兵連隊をおいてよく呼応しながら、第156高地と上門めざして進撃していった。この高地占領は、その後、何回となく試みられ、何回となく失敗に帰した。第96師団の別の部隊は、喜舎場や安谷屋付近と野嵩北東方に進撃し、普天間とその550メートル南方の高台を占領した。

西側の戦線では、同師団は伊佐浜から喜友名南東部にいたる線まで確保したのである。』(93-94頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 93-94頁より》

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町中を通り前線へと進軍中の第27師団(1945年4月、撮影地: 普天間

Troops of the 27th Division on their way to front lines pass through the town.

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『第96師団は、車輪の回るように急速に右翼へ旋回して移動を完了し、第7師団と共に南進態勢を整えた捕虜にした民間人や兵隊の話で、日本軍が南下したことを知ったからだ。第24軍団の進撃も速く、いまやその攻撃部隊の2個師団の担当地区は新たな境界線を必要とするほどになった。

翌4月4日、4個連隊をもって石川地峡を横断する線まで進撃することに決まった。すなわち東方から第7師団の第32連隊が、そして西方からは第96師団が第382連隊と第383連隊をもって攻めることになったのである。』(94頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 93-94頁より》

3日、米第10軍司令官のバックナーは第27師団に対し、沖縄本島の東の島々を占領、本島に上陸、第24軍を掩護せよと命令を発する。』(157頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 157頁より》

 

大補給作戦: ここでも計画変更

『米軍は、上陸第一波が海岸を横切って傾斜地を進撃すると同時に、これまで幾ヵ月もの間、策をこらして綿密に計画された大補給作戦を展開した。

問題は、海岸を越えて、10万の兵にいかにして食料を運び、弾薬や武器を補給するかにあった。これには、まず180メートルから306メートルの広さにおよぶ切り立った珊瑚礁岩を渡って砂浜に到着し、その後方にある物資集積所に物資を輸送しなければならない。そこから各部隊へ運ぶのだが、それだけではなく、道路をひろげ、飛行場を直し、さらに住民が戦争の邪魔にならないようにするかたわら、彼らを戦争の災禍から助けてやらねばならない。

海岸は広範囲にわたって、かなり地形も変わっていたので、物資補給の点でも一様ではなかったが、大体において陸揚げ作業には適していた。』(96頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 96頁より》

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揚陸艇と車両兵員上陸用舟艇が補給物資を岸に運ぶとただちにトラックに積み込まれる。左側に日本軍のガソリンドラム缶が見える。“イエロービーチ3”にて。(1945年4月3日撮影)

As fast as LCT's and LCVP's can carry supplies ashore they are unloaded into trucks immediately. Jap gas drums can be seen at left. Yellow Beach #3.

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『4月2日からは、フラッド・ライトを使用しての夜間の陸揚げ作業ががじまった。この夜間作業は、近海に日本の飛行機が飛来している時間以外は休みなくつづけられた。』(97頁)

『海軍の陸戦隊指揮官は、海岸で艦船と連絡をとって上陸用舟艇の時間や、照明灯舟艇の作業時間のわりふりを指示した。4月3日総陸揚げ作戦は開始されたのだ。』(97-98頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 97、97-98頁より》

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食糧臨時集積場で、2両の水陸両用車から食糧を降ろす作業を指揮するユージン・R・ビーン一等兵(鉛筆と帳簿を手にしている)(1945年4月3日撮影)

Pfc. Eugene R. Beane, 908 2/1 Mound(?) St., St. Paul, Minn., … Beane is directing the unloading of chow from two amtracs at a chow dump (he is the one with pencil and pad).

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『米軍は大補給作業をはじめたものの、まもなく、海岸から物資集積所にいたるまでの輸送能力には、限界のあることが明らかになった。場所は限られているが物資は送り込まれてくる。これが着くと同時に前線に輸送するには、兵員と設備が足りない。こういうことがすぐにわかってきたが、…海兵師団とともに上陸してきた陸兵5千を当てて緩和策とした。

進撃速度が早く、読谷や嘉手納の飛行場があっというまに占領できたので物資の補給方法の順序を再考しなければならない破目になってしまったのだ。

日本の本土近くで、こうもこみいった計画をやり直すことは、実に驚くべきことであった。』(98頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 98頁より》

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Okinawa Landings, April 1945. View of one of the beaches taken by CPhoM E.W. Peck off USS Tulagi (CVE 72), April 3, 1945. Several LSTs and LSMs are on the beach with other shipping offshore. Note LVTs in fields in the foreground. 80-G-339237.

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日本兵と民間人捕虜の収容

『沖縄作戦の遂行で、米軍が直面して最も頭を悩ました問題は、沖縄の民間人が米軍に対してどう出るかということだった。だが、これはまもなく、たいした問題にはならないということがわかった。というのは、まず日本軍は、15歳から45歳までのほとんどの男子を徴兵したから、残った者は、それほど戦闘的ではないだろう、ということだった。』(442頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 442頁より》

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那覇出身者にインタビューする通訳のハケット中尉。この男性は日本軍に労役を課せられた。(1945年4月3日撮影)

An Okinawan from the City of Naha being questioned by Marine interpreter 1st Lt. Roger F. Hackett,  22, (02442) whose Mother Anna Hackett lives at 120 Wayne Pl. S.E., Washington, D.C. His father Harold Hackett is a Navy Lt. The Okinawan had been conscripted as a laborer by the Japs.

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沖縄住民は、日本人とは人種的にいささか違うし、文化的に見ても同じではない。それにこれまでの統治者からは、どちらかというと他の日本人ほど民族主義軍国主義精神は強くないとみられてきている。そういうわけで沖縄の住民は日本人ほどには米軍に対して敵意はもっていないだろうし、また狂信的でもあるまいと考えられた』(45-46頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 45-46頁より》

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空襲のとき山へ逃げていた沖縄出身の鍛冶屋に質問する海兵隊通訳のハケット中尉 (1945年4月3日撮影)

A Blacksmith from Okinawa, who fled to the hills at the bombardment is questioned by Marine interpreter 1st Lt. Roger F. Hackett, 22, (02442), whose mother Anna lives at 120 Wayne Pl. S.E. , Washington, D.C. His father, Harold Hackett, is a Navy Lt.

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42歳くらいの教師と農業に従事する14歳の少年が尋問のために連れてこられた。教師は捕虜になるより銃殺を望み、少年はこれに反論しなかった。(1945年4月3日撮影)

An Okinawan teacher about 42, and a farm boy 14, are brought in for questioning. The old man wanted to be shot rather than be taken. The boy didn't object.

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約2時間にわたる説得ののち、子供二人を殺し、自らの命も絶とうとしていた民間人が壕から出てきた。負傷者を収容する救護室で彼らは自分の喉を切ろうとした。(1945年4月3日撮影)

After about two hours of coaxing the civilians come out of their cave with two dead children that they themselves had killed and then tried to take their own lives. They were taken of the Regiment Aid Station where their wounds were treated. They had tried to cut their throats.

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たこつぼ壕で眠っていたところを発見された沖縄人(1945年4月3日撮影)

An Okinawan native found asleep in a fox hole.

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第32軍の動向

作戦変更: 攻勢に転ずる

沖縄戦が始まったばかりの時点で、杖とも柱とも頼む北・中の主要飛行場が敵手に落ちたことで大本営や台湾駐留の第8飛行師団などはショックをかくせなかった。 米軍の誇るB29爆撃機の基地にでも使用されたら日本本土が猛爆を浴びることは目にみえているからだ。…しかし、沖縄守備軍にすれば、米軍の沖縄上陸直前に最精鋭の第9(武)師団を台湾に転出され、その穴埋めさえやってもらえず、折角の防衛作戦にアナがあいたにもひとしかったので、実際のところ玉砕覚悟でなければ積極的反撃に出るゆとりなどなかった。』(41頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 41頁より》

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めちゃくちゃに壊れた日本軍機がこのように山積みになって飛行場中に散乱した。このような残骸が200あるいはそれ以上にのぼった。(1945年4月3日撮影)

Jap plane wrecks strewn in piles such as this, scattered over airfield. Approximately 200 or more such wreckages.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

4月3日以降天皇が攻勢を望んでいるという大本営陸軍部からの電報をはじめ各方面から続々と同様の電報が届き、第32軍司令部は大いに動揺した。』(75頁)
《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 75頁より》 

『陣地に潜行し待ち構える第32軍に届いたのは現地情勢を知らない各方面からの「積極攻勢」の要望だった。かねてから水際撃滅作戦を主張していた上級司令部の第10方面軍司令官、安藤利吉大将は参謀長電で「水際撃滅の好機に乗じて攻勢を採る」ことを要望する。台湾の陸軍第8飛行師団(師団長 山本健児中将)も意見具申を打電した。』(157頁)

『鹿山の海軍第5航空艦隊司令部も3日、大本営海軍部と連合艦隊、第5航空艦隊などによる沖縄作戦の打ち合わせが行われ、敵に奪われた北、中の飛行場の封鎖する手段を講じてもらいたいとする電報を発信した。

陸海軍上層部からの積極攻勢を求める圧力に3日夜、長は軍参謀を「天の岩戸軍司令部」の参謀室に集め、今後の対応を協議する会議を開いた。牛島は臨席しなかったが、隣の部屋でもあり、会議の様子は把握していた。勇猛果敢、積極攻勢が信条である長は作戦主任である八原の「戦略持久」に不満を持っていた。』(158頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 157、158頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/ba/Cho_Isamu.jpg  

第32軍参謀長  長勇(ちょう・いさむ) 陸軍中将

Isamu Chō - Wikipedia

『そこへ上層部からの相次ぐ攻勢要請に意気込んで会議に臨んだ。米軍の態勢が固まらないうちに、得意の夜間を利用して敵の砲爆撃の威力を封じ白兵戦で敵を撃滅すべきであると提案する。これまで軍民一体となり懸命に壕を掘ったのも持久戦に持ち込むためでもあり、長の提案は作戦を根本から覆すものであった。

すぐさま、航空主任参謀の神直道少佐が、「軍の作戦指導は上級司令部の作戦構想に順応すべきで、兵力の多寡は論ずべきでない」と攻勢案を支持する。

これに対し、八原は至極当然のように、理路整然と真っ向から反論する。「攻勢成功の算は絶無であり、心血注いだ洞窟陣地を捨て出撃するのは自殺行為。戦略持久を堅持し、北、中飛行場も長距離砲で制圧すれば一兵の損害もなく、長期にわたる制圧が可能である」他の参謀からは何の意見も出なかったが、勢いがある「積極攻勢」に賛成多数で決定する。』(160頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 160頁より》

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第32軍高級参謀  八原 博通(やはら・ひろみち)陸軍大佐

Hiromichi Yahara - Wikipedia

この期に及んでの作戦変更に、八原は牛島に「全軍壊滅する」と攻勢反対の意見具申した。傍で長が鬼の形相で八原を睨み付ける。

「軍の死活に関する重大関頭に当たり、高級参謀の痛心苦悩はよくわかる。しかし、この度の決心は天の意志、神の声と思って、その実行に万全を期していただきたい」静かにそう諭した牛島は「攻勢に転ずる」と決め、関係各方面に協力を要請する電報を発信した。』(157-161頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 160-161頁より》

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第32軍司令官  牛島 満(うしじま・みつる)陸軍中将

Military Leaders - World War II: Pacific. Period 5

 

 

そのとき、住民は・・・

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沖縄の住民(1945年4月3日撮影)

Okinawa-Natives Okinawa.

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『…たくさんの人たちが、米軍の沖縄上陸に先立ち、だいぶ前に避難地を求めて、那覇首里方面から列をなして北部に移動していた。その他の人たちは、自分の村が戦場と化したため、家をなくしてしまっていた。』(442頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 442頁より》

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家を追われた沖縄の人々は米飯を食べ、サトウキビをかじった。(1945年4月3日撮影)

Okinawan who have been driven from their homes eat rice and chew sugar cane.

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米軍キャンプ地の収容所に集められた民間人。子供をおんぶするこの女性は恥ずかしがってカメラを避けている。(1945年4月3日撮影)

Okinawa civilians are rounded up for interment in a US camp. This mother with her child riding piggyback, shys away from the camera.

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【第32軍部隊一覧】

沖縄戦関係資料閲覧室 第32軍部隊一覧