1945年4月3日『日米両軍の作戦変更』

米軍の動向

1945年4月1日に沖縄島の西海岸から上陸した米軍は、東方へと進撃、上陸2日目には中城湾付近まで到達した。上陸地点から東へと横断し、中城湾までの戦線を敷くことで、島を南北に分割することができた。

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Chapter 05 | Our World War II Veterans

『米軍が実に簡単に上陸し、橋頭堡をあっけなく確保してしまったので、今度は、いったい日本の陸軍はどこにいるのだろうかということになって、噂は噂を呼んだ。そのなかで最も楽観的な見方は、日本軍は戦術で米軍に出し抜かれてしまったので、どこか他の島、たとえば台湾あたりにでもいて、そこで米軍に備えているのではないか、というものだった。いや、もしかすると、沖縄が第二のキスカ島にならなければよいがと考える者もいた。海兵隊が沖縄の南方海上で陽動作戦を展開したため、日本軍はそれに引きつけられて南部に移動したのかもしれない。陽動作戦は、ほんものの上陸部隊が朝霧や煙幕にかくれて迂回戦術で沖縄本島に近づいているとき、沖縄南方の海上において、海兵隊が、わざわざ日本軍に丸見えになるように近づいていたからだ。いや、そうではないかもしれない。日本軍は米軍が実際に海岸に上陸するやいなや、一大反撃を加えるために、勢力を貯えているのかもしれない。しかし、日本軍が、こういう反攻を試みる時期が到来し、それが去ってしまっても、なお日本軍は姿をみせなかった。敵はどこにいるのだろう。』(102-103頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 102-103頁より》

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沖縄の道を進軍する海兵隊員。(1945年4月3日撮影)

Marines move up along an Okinawa road.

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作戦変更: 北部侵攻を早める

日本軍からの反撃らしい反撃がなかったのが幸いし、当初の計画よりも早く事が進んだことから、沖縄攻略における全地上軍及び陸海空軍の統合部隊司令官であった第10軍のS・B・バックナー陸軍中将は、4月3日に作戦を変更、沖縄島北部の進撃を前倒しすることにした。

この段階では、主に戦線の北側を海兵隊が、南側を陸軍が担当した。

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バックナー陸軍中将 (左)、ガイガー海兵少将 (右)
In early April, Tenth Army commander LtGen Simon B. Buckner, Jr., USA, left, and Marine MajGen Roy S. Geiger, Commanding General, III Amphibious Corps, met to discuss the progress of the campaign. Upon Buckner's death near the end of the operation, Geiger was given command of the army and a third star. Department of Defense Photo (USMC) 128548

The Final Campaign: Marines in the Victory on Okinawa (Countdown to 'Love-Day')

『米軍の進撃ぶりは、米軍自体にとっても信じかねるほどの早さであった。…米軍の沖縄攻略作戦は、三段階に分かれ、第一段階では、南部沖縄の攻略と初期における諸整備作業をすませ、第二段階で伊江島と北部沖縄を制圧する。そして第三段階で、その他の南西諸島を占領し、本土侵攻作戦の準備をすることになっていた。しかし、予想外の早い進撃をみてバックナー司令官は、上陸3日目に作戦を変更、第3水陸両用軍団のガイガー司令官に対し北部への進撃を命じた。』(70頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 70頁より》

 

北進する米軍

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日本軍の敷設した道路を使って石川方面の前線へ進軍する第22連隊第2大隊の兵士と戦車。(1945年4月3日撮影)

Tanks with men of Second Battalion 22nd Marines advancing to front towards Ishikawa on Jap road.

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『「貴軍の北部侵攻にあたり、全責任を貴殿に委任す」この伝達が、バックナー将軍から米第3上陸司令官ガイガー将軍にもたらされたのは、4月3日、第6海兵師団が仲泊-石川ラインに進撃中のことであった。

この伝達は、沖縄作戦の重要な変更を意味した。もともと第二期作戦では、本部半島の確保や北部沖縄の孤立化は、沖縄南部を占領したあと、ということになっていた。バックナー中将はこれを変更して第一期作戦に入れ、第24軍団が首里防衛陣を攻める一方で、第3上陸軍は北部の日本軍を攻撃せよという命令を出したのである。

遅滞なく北部進撃をするには、それ相当の理由があった。早ければ早いほど日本軍の再編とか防衛計画は後へ後へとずれ込んでいくことになるからだ北部守備隊の宇土大佐は、沖縄県民からなるゲリラ隊を組織しつつあるといわれていた。また日本軍が九州やあるいは本州からでも移動して北部の小さな港に逆上陸するおそれもある。この逆上陸は港を確保すればそのおそれはなくなるのだ。』(126-127頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 126-127頁より》

 

南進する米軍

4月3日になると、それまで東進して、中頭で南北を切断しようと急いでいた米軍が、南に向かいはじめた湊川沖の米艦艇は、艦砲射撃をするだけで、1日、2日と繰り返した擬勢上陸の構えは見せず、そのかわり、沖縄の北西側(本部半島)、東側(与那原、大里付近)にも艦砲射撃を加え、艦載機約850機が、沖縄上空をわが物顔に乱舞した。』(154頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 154頁より》

4月3日、第24軍団は進撃路を南へとった。第17歩兵連隊を残留させて後方を固めさせ、第32歩兵連隊はその3大隊をもって、中城湾を海岸沿いに南下した。4.5キロ進撃して久場崎を占領、村落南西部の端から海岸までつづく丘陵地帯の海岸沿いにある第165高地の日本軍戦線と相対峙した。日本軍が高地から撃ちまくってきた。米軍もこれに応戦し、短時間の砲火戦で日本兵数名を殺した。米軍連隊の一部は、10回にわたる日本軍砲兵の攻撃を浴びた。これは反撃がますますひどくなることを示したものであった。

第96師団は左翼に第32歩兵連隊をおいてよく呼応しながら、第156高地と上門めざして進撃していった。この高地占領は、その後、何回となく試みられ、何回となく失敗に帰した。第96師団の別の部隊は、喜舎場や安谷屋付近と野嵩北東方に進撃し、普天間とその550メートル南方の高台を占領した。

西側の戦線では、同師団は伊佐浜から喜友名南東部にいたる線まで確保したのである。』(93-94頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 93-94頁より》

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町中を通り前線へと進軍中の第27師団(1945年4月、撮影地: 普天間

Troops of the 27th Division on their way to front lines pass through the town.

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『第96師団は、車輪の回るように急速に右翼へ旋回して移動を完了し、第7師団と共に南進態勢を整えた捕虜にした民間人や兵隊の話で、日本軍が南下したことを知ったからだ。第24軍団の進撃も速く、いまやその攻撃部隊の2個師団の担当地区は新たな境界線を必要とするほどになった。

翌4月4日、4個連隊をもって石川地峡を横断する線まで進撃することに決まった。すなわち東方から第7師団の第32連隊が、そして西方からは第96師団が第382連隊と第383連隊をもって攻めることになったのである。』(94頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 93-94頁より》

3日、米第10軍司令官のバックナーは第27師団に対し、沖縄本島の東の島々を占領、本島に上陸、第24軍を掩護せよと命令を発する。』(157頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 157頁より》

 

大補給作戦: ここでも計画変更

『米軍は、上陸第一波が海岸を横切って傾斜地を進撃すると同時に、これまで幾ヵ月もの間、策をこらして綿密に計画された大補給作戦を展開した。

問題は、海岸を越えて、10万の兵にいかにして食料を運び、弾薬や武器を補給するかにあった。これには、まず180メートルから306メートルの広さにおよぶ切り立った珊瑚礁岩を渡って砂浜に到着し、その後方にある物資集積所に物資を輸送しなければならない。そこから各部隊へ運ぶのだが、それだけではなく、道路をひろげ、飛行場を直し、さらに住民が戦争の邪魔にならないようにするかたわら、彼らを戦争の災禍から助けてやらねばならない。

海岸は広範囲にわたって、かなり地形も変わっていたので、物資補給の点でも一様ではなかったが、大体において陸揚げ作業には適していた。』(96頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 96頁より》

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揚陸艇と車両兵員上陸用舟艇が補給物資を岸に運ぶとただちにトラックに積み込まれる。左側に日本軍のガソリンドラム缶が見える。“イエロービーチ3”にて。(1945年4月3日撮影)

As fast as LCT's and LCVP's can carry supplies ashore they are unloaded into trucks immediately. Jap gas drums can be seen at left. Yellow Beach #3.

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『4月2日からは、フラッド・ライトを使用しての夜間の陸揚げ作業ががじまった。この夜間作業は、近海に日本の飛行機が飛来している時間以外は休みなくつづけられた。』(97頁)

『海軍の陸戦隊指揮官は、海岸で艦船と連絡をとって上陸用舟艇の時間や、照明灯舟艇の作業時間のわりふりを指示した。4月3日総陸揚げ作戦は開始されたのだ。』(97-98頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 97、97-98頁より》

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食糧臨時集積場で、2両の水陸両用車から食糧を降ろす作業を指揮するユージン・R・ビーン一等兵(鉛筆と帳簿を手にしている)(1945年4月3日撮影)

Pfc. Eugene R. Beane, 908 2/1 Mound(?) St., St. Paul, Minn., … Beane is directing the unloading of chow from two amtracs at a chow dump (he is the one with pencil and pad).

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『米軍は大補給作業をはじめたものの、まもなく、海岸から物資集積所にいたるまでの輸送能力には、限界のあることが明らかになった。場所は限られているが物資は送り込まれてくる。これが着くと同時に前線に輸送するには、兵員と設備が足りない。こういうことがすぐにわかってきたが、…海兵師団とともに上陸してきた陸兵5千を当てて緩和策とした。

進撃速度が早く、読谷や嘉手納の飛行場があっというまに占領できたので物資の補給方法の順序を再考しなければならない破目になってしまったのだ。

日本の本土近くで、こうもこみいった計画をやり直すことは、実に驚くべきことであった。』(98頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 98頁より》

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Okinawa Landings, April 1945. View of one of the beaches taken by CPhoM E.W. Peck off USS Tulagi (CVE 72), April 3, 1945. Several LSTs and LSMs are on the beach with other shipping offshore. Note LVTs in fields in the foreground. 80-G-339237.

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日本兵と民間人捕虜の収容

『沖縄作戦の遂行で、米軍が直面して最も頭を悩ました問題は、沖縄の民間人が米軍に対してどう出るかということだった。だが、これはまもなく、たいした問題にはならないということがわかった。というのは、まず日本軍は、15歳から45歳までのほとんどの男子を徴兵したから、残った者は、それほど戦闘的ではないだろう、ということだった。』(442頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 442頁より》

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那覇出身者にインタビューする通訳のハケット中尉。この男性は日本軍に労役を課せられた。(1945年4月3日撮影)

An Okinawan from the City of Naha being questioned by Marine interpreter 1st Lt. Roger F. Hackett,  22, (02442) whose Mother Anna Hackett lives at 120 Wayne Pl. S.E., Washington, D.C. His father Harold Hackett is a Navy Lt. The Okinawan had been conscripted as a laborer by the Japs.

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沖縄住民は、日本人とは人種的にいささか違うし、文化的に見ても同じではない。それにこれまでの統治者からは、どちらかというと他の日本人ほど民族主義軍国主義精神は強くないとみられてきている。そういうわけで沖縄の住民は日本人ほどには米軍に対して敵意はもっていないだろうし、また狂信的でもあるまいと考えられた』(45-46頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 45-46頁より》

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空襲のとき山へ逃げていた沖縄出身の鍛冶屋に質問する海兵隊通訳のハケット中尉 (1945年4月3日撮影)

A Blacksmith from Okinawa, who fled to the hills at the bombardment is questioned by Marine interpreter 1st Lt. Roger F. Hackett, 22, (02442), whose mother Anna lives at 120 Wayne Pl. S.E. , Washington, D.C. His father, Harold Hackett, is a Navy Lt.

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42歳くらいの教師と農業に従事する14歳の少年が尋問のために連れてこられた。教師は捕虜になるより銃殺を望み、少年はこれに反論しなかった。(1945年4月3日撮影)

An Okinawan teacher about 42, and a farm boy 14, are brought in for questioning. The old man wanted to be shot rather than be taken. The boy didn't object.

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約2時間にわたる説得ののち、子供二人を殺し、自らの命も絶とうとしていた民間人が壕から出てきた。負傷者を収容する救護室で彼らは自分の喉を切ろうとした。(1945年4月3日撮影)

After about two hours of coaxing the civilians come out of their cave with two dead children that they themselves had killed and then tried to take their own lives. They were taken of the Regiment Aid Station where their wounds were treated. They had tried to cut their throats.

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たこつぼ壕で眠っていたところを発見された沖縄人(1945年4月3日撮影)

An Okinawan native found asleep in a fox hole.

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日本軍の動向

航空機による特攻

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慶良間諸島で停泊中に、零式艦上戦闘機ジーク”と思われる日本軍用機が激突し、燃上する戦車揚陸艦 (LST-599)。消火活動を手助けする戦車揚陸艦 (LST-79)。(1945年4月3日撮影)

LST-599 burning after being hit by a Jap plane believed to be a ”Zeke”, while at anchor at Kerama Retto, Ryukyu. LST-79 helping to put out fire.

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独立高射砲第27大隊第1中隊、通信班・陸軍二等兵の回想:

『通信には九州基地から出撃する味方特攻機の情報が、毎日のように入った特攻機は決まったように、夜明けか日没を選んで嘉手納湾の上空に飛来する。そしてその直前、艦砲射撃がハタとやみ、いままで煌々と輝いていた敵艦船の灯りがいっせいに消えて、湾上はたちまち暗黒となる。洞窟内の私たちは艦砲の音に耳をすまし、やんだとたん、それとばかりに洞窟内から這い出し、砕石場の岩の上に立って成り行きを見守った。

暗黒の海上から、ドロドロという轟音とともに対空砲火の手が上がり、交錯するサーチライトの十字が特攻機をとらえて放さない。時折、海上一面に白い閃光が走るのは撃沈された敵艦か、それとも撃墜された特攻機であろうか。その凄まじさに私たちは文字どおり手に汗をにぎり、歯の根が合わないほどガタガタとからだの震えを覚えた。やがて、特攻機の終了を告げるかのように嘉手納湾に灯がともり、それを合図に私たちは急いで洞窟に舞い戻る。艦砲弾がまたもや身近に炸裂しはじめたからである。』(71-72頁)

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 71-72頁より》

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第52.1.2機動部隊所属の護衛空母ウェーク・アイランド(CVE-65)に対する日本軍機の特攻を写した4枚の連続写真(No.339243〜No.339246)。撮影機材:K-20カメラ。この戦闘は、沖縄作戦地域で行われた。シリーズ1枚目の写真。F-8カメラを使用。(1945年4月3日撮影)

Series of four pictures, numbers 339243 thru 339246, showing Jap suicide planes in attack upon the USS WAKE ISLAND (CVE-65) of Task Group 52.1.2. T-1730, Camera K-20, F.L. 6 3/8”. Action was in Okinawa operating area. 1st in series. Camera F-8, F.L. 15”.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の動向

作戦変更: 攻勢に転ずる

沖縄戦が始まったばかりの時点で、杖とも柱とも頼む北・中の主要飛行場が敵手に落ちたことで大本営や台湾駐留の第8飛行師団などはショックをかくせなかった。 米軍の誇るB29爆撃機の基地にでも使用されたら日本本土が猛爆を浴びることは目にみえているからだ。…しかし、沖縄守備軍にすれば、米軍の沖縄上陸直前に最精鋭の第9(武)師団を台湾に転出され、その穴埋めさえやってもらえず、折角の防衛作戦にアナがあいたにもひとしかったので、実際のところ玉砕覚悟でなければ積極的反撃に出るゆとりなどなかった。』(41頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 41頁より》

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めちゃくちゃに壊れた日本軍機がこのように山積みになって飛行場中に散乱した。このような残骸が200あるいはそれ以上にのぼった。(1945年4月3日撮影)

Jap plane wrecks strewn in piles such as this, scattered over airfield. Approximately 200 or more such wreckages.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

4月3日以降天皇が攻勢を望んでいるという大本営陸軍部からの電報をはじめ各方面から続々と同様の電報が届き、第32軍司令部は大いに動揺した。』(75頁)
《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 75頁より》 

『陣地に潜行し待ち構える第32軍に届いたのは現地情勢を知らない各方面からの「積極攻勢」の要望だった。かねてから水際撃滅作戦を主張していた上級司令部の第10方面軍司令官、安藤利吉大将は参謀長電で「水際撃滅の好機に乗じて攻勢を採る」ことを要望する。台湾の陸軍第8飛行師団(師団長 山本健児中将)も意見具申を打電した。』(157頁)

『鹿山の海軍第5航空艦隊司令部も3日、大本営海軍部と連合艦隊、第5航空艦隊などによる沖縄作戦の打ち合わせが行われ、敵に奪われた北、中の飛行場の封鎖する手段を講じてもらいたいとする電報を発信した。

陸海軍上層部からの積極攻勢を求める圧力に3日夜、長は軍参謀を「天の岩戸軍司令部」の参謀室に集め、今後の対応を協議する会議を開いた。牛島は臨席しなかったが、隣の部屋でもあり、会議の様子は把握していた。勇猛果敢、積極攻勢が信条である長は作戦主任である八原の「戦略持久」に不満を持っていた。』(158頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 157、158頁より》

投稿者註: 八原高級参謀の手記には、参謀長室での会議を『4月5日の夕刻』と記載されている。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/ba/Cho_Isamu.jpg  

第32軍参謀長  長勇(ちょう・いさむ) 陸軍中将

Isamu Chō - Wikipedia

『そこへ上層部からの相次ぐ攻勢要請に意気込んで会議に臨んだ。米軍の態勢が固まらないうちに、得意の夜間を利用して敵の砲爆撃の威力を封じ白兵戦で敵を撃滅すべきであると提案する。これまで軍民一体となり懸命に壕を掘ったのも持久戦に持ち込むためでもあり、長の提案は作戦を根本から覆すものであった。

すぐさま、航空主任参謀の神直道少佐が、「軍の作戦指導は上級司令部の作戦構想に順応すべきで、兵力の多寡は論ずべきでない」と攻勢案を支持する。

これに対し、八原は至極当然のように、理路整然と真っ向から反論する。「攻勢成功の算は絶無であり、心血注いだ洞窟陣地を捨て出撃するのは自殺行為。戦略持久を堅持し、北、中飛行場も長距離砲で制圧すれば一兵の損害もなく、長期にわたる制圧が可能である」他の参謀からは何の意見も出なかったが、勢いがある「積極攻勢」に賛成多数で決定する。』(160頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 160頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/54/Yahara_Hiromichi.jpg

第32軍高級参謀  八原 博通(やはら・ひろみち)陸軍大佐

Hiromichi Yahara - Wikipedia

この期に及んでの作戦変更に、八原は牛島に「全軍壊滅する」と攻勢反対の意見具申した。傍で長が鬼の形相で八原を睨み付ける。

「軍の死活に関する重大関頭に当たり、高級参謀の痛心苦悩はよくわかる。しかし、この度の決心は天の意志、神の声と思って、その実行に万全を期していただきたい」静かにそう諭した牛島は「攻勢に転ずる」と決め、関係各方面に協力を要請する電報を発信した。』(157-161頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 160-161頁より》

http://www.generals.dk/content/portraits/Ushijima_Mitsuru.jpg

第32軍司令官  牛島 満(うしじま・みつる)陸軍中将

Military Leaders - World War II: Pacific. Period 5

 

沖縄島

嘉手飛行場 (別称: 中飛行場)・倉敷(くらしき): 特設第1連隊第2大隊

部隊本部付有線分隊長の回想:

『…4月3日の夜は明けた。朝から頭上には高低さまざまなグラマンが飛び交って蟻の子も逃さじと網を張っている。

…わが大隊は陣地を秘匿するために対空射撃は禁止されて沈黙を守りつづけている。幸い陣地一帯は雑木や芽が適当に生えていて、上空には完全に遮蔽しているが、グラマンはここが怪しいと思うところへはキキキーンと金属音も鋭く急降下してダダダダダーッと機銃掃射して飛び去ってゆく。さながら飢えたコンドルのようである。既に前方でも北方の山のかしこにも焼夷弾攻撃をうけたらしい山火事が起こって不吉な戦機の到来を思わせた。

…いよいよ敵が迫って実感するのは、私たちの兵器の貧弱さである。…全員が自動小銃を持っている敵に対して、ガチャポンの38式歩兵銃と、遊底覆いもない素質の悪い99式短小銃では、なんとも頼りないものになってきた。一方的な恐怖と不安である。そして、午前10時ごろだった。われわれが稜線に布陣している眼下の道路の右前方の高地から米軍トラックが5台、10台、20台、30台ぐらいが兵隊を満載して砂塵を上げ、そのあとに戦車がキャタピラの轟音をとどろかせながら、怪物のように巨大な姿を現して、後につづき、轟々とわが陣地の方向に迫ってきた。』(152-153頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 152-153頁より》

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積荷の重量を軽減しようと、海兵隊は島で見つけた二輪車を装備の運搬に利用する(1945年4月3日撮影)
In order to lighten the load, Marines use a two wheeled cart found on island to haul their gear.

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部隊本部付有線分隊長の回想:

『…トラック上の敵兵がうす茶の服を着て、顔のりんかくもはっきりわかるほど近づいてきたときに、満を持して待機していた警備中隊の機関砲が、突然、アブ蜂のように群がっている上空の敵機群に向って、バリバリバリーッ、と先ず火を噴いた。びっくりした敵機群はたちまち雲の子を散らしたように飛散してしまった。上空を完全に制圧しておいて機関砲はこんど、トラック群の最後尾につづいてきた戦車と牽引車群に向って、ダダダダダーッと射撃した。射弾が面白いようにキャタピラや砲塔あたりにパッーパッと命中する。と、戦車群は一斉にグルリと反転し、全速力で遁走してしまった。

…全大隊員が敵機と敵戦車攻撃に気をとられているときに、トラック群は、わが陣地の眼下100メートルを全速力で東北方の山蔭に入ってしまい、一瞬の序戦の戦機は去ってしまった。

…数呼吸の間に走り去った敵の大部隊は、左方の谷間を一つ越えた補給中隊の前面の山塊に散開して逆襲に転じてきた。

…群がるほどの敵兵が、雑木林の中から現れて、稜線の畑がある前縁まで迫ってくるところは、こちらも肉眼でよく見える。自動小銃を撃ちながら、それはいかにも単発の38式歩兵銃を見下したふるまいのようである。

…機関銃、軽機や擲弾筒を総動員して、狂ったように応戦の火蓋を切った。

…数名の敵兵が前にのめったのが見えた。

その返礼のように敵側からも、数倍もの銃弾が撃ちこまれる。

…陽はもうだいぶ高い、空一杯にに飛び交っているグラマンは、あまりの接近戦になったために攻撃できず、ただ上空をウロウロ旋回しているのみ、これだけはわが軍に幸いした。』(154-155頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 154-155頁より》

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嘉手納飛行場端に置かれた日本軍の爆弾(1945年4月3日撮影)

Jap bombs along edge of Kadena airfield Hagushi, Okinawa. Looking southeast.

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部隊本部付有線分隊長の回想:

『はじめこそ同等のように撃ち合っていたが、援軍もなく補給もないわれわれは、長時間つづけるわけにはいかない

…敵の優れた兵器と物量の前には、…まったくすべはなく、わが陣地は死傷者が続出して次第に沈黙させられていった。戦闘にならない戦闘をさせた軍司令部の閣下たちや参謀たちに、…腹の底から噴き上げるような憎しみを覚えていた。』(157頁)

薄暮が倉敷の山地帯を包み始めるころ、敵は日本軍の斬り込みを警戒しての準備をはじめたのか、銃声がピタリと止んで山は静かさに返った。

血と硝煙の臭いが深くたちこめる陣地内では、生き残り全員が崩れるように、生きている自分をあらためて自覚した。そして「いま脱出しなければ、わが大隊は全滅させられてしまう」と、今日一日を生きぬいて、あらたな不安と焦燥が全軍をおおいはじめた。

そのとき、…野崎大隊長から、

北部転進

の命が下ったのである。』(158頁)

『敵は高感度のマイクを使って、わが陣地の動静を総てキャッチしている、ということで、敵に察知されないよう、静粛に慌しい撤退準備がはじまった

…40数名の尊い戦死体は、そのまま壕に仮埋葬されることになって大隊員の胸は痛んだ。

私は責任上ロウソクを灯して洞窟内を見廻った。洞窟内うず高く積み込まれてある軍需物資や食糧はみなそのまま置き去りだ。それではと乾パンと弾薬を私が雑囊に押し込んでいるとき、重傷を負った補給中隊の草野茂兵長…を拳銃で始末してきたという衛生兵に出会う。彼の真赤に充血した眼が語るところによると、草野兵長

「もう何も言い残すことはない。さあ早く」と急がせ、見事なくらいの最後だったという。』(159-160頁)

『敵の通過した道を島の北部へ脱出するために、日没を待って生存者は軽装で道路上に集結、山肌に身を寄せて皆が勢揃いした。

…行軍順序は尖兵が補給中隊、つづいて部隊本部、患者班、警備中隊の順であったと思う。二重、三重の敵中突破であるために完全な静粛行進である。

隊列が動きだすと、どこにいるか判らない敵は、早やわが大隊の行動を察知してか闇暗の中の隊列の頭上に突然、パーッと照明弾を打ち上げてきた。

…山間の中の静まり返った一本道を、北東に向って沈黙の行進をしてゆく。行くての先々には照明弾が絶えず、…消えるほんの束の間だけの行進のために、100メートルいっては停まり、50メートルいっては伏せるで、おまけに重傷者をかかえてのこんな悪条件下では隊列は遅々として進まない。』(161-162頁)

 『照明弾と砲弾に追いかけられながら、それでも隊列は…北東の進路をとっていることは間違いのない事実だ。

北部の恩納岳に辿り着かなければならない

この一縷の希望こそ、軍主力から切り離され激しい戦闘の末に潰滅した特設第1連隊3千名の中で、生き残ったわが大隊将兵の心の支えである。』(163頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 157、158、159-160、161-162、163頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

沖縄島

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沖縄の住民(1945年4月3日撮影)

Okinawa-Natives Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…たくさんの人たちが、米軍の沖縄上陸に先立ち、だいぶ前に避難地を求めて、那覇首里方面から列をなして北部に移動していた。その他の人たちは、自分の村が戦場と化したため、家をなくしてしまっていた。』(442頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 442頁より》

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家を追われた沖縄の人々は米飯を食べ、サトウキビをかじった。(1945年4月3日撮影)

Okinawan who have been driven from their homes eat rice and chew sugar cane.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/117514.jpg

米軍キャンプ地の収容所に集められた民間人。子供をおんぶするこの女性は恥ずかしがってカメラを避けている。(1945年4月3日撮影)

Okinawa civilians are rounded up for interment in a US camp. This mother with her child riding piggyback, shys away from the camera.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 
クニー山壕に避難した住民たち読谷村伊良皆 よみたんそん・いらみな)「集団自決の日」

日本軍が放棄したクニー山壕には、伊良皆、楚辺、大湾の住民と日本兵2名が潜んでいた。前日の4月2日、クニー壕は米兵に発見されてしまった。中の様子を調査するために入ってきた米兵1人を日本兵の1人が射殺。米軍はすぐに撤退したが、住民と日本兵はクニー山壕に潜み続け、朝を迎えた。

『住民はその壕の中でまる一日、じっと息を殺して潜んでいたという。米軍に気づかれることを恐れ、唯一の明かりの石油ランプも前日から消されたままだ。入り口からやっと届いた光も隣にいる人の顔をわずかに判別できる程度。薄暗い壕内の沈黙を破ったのは突然射ち込まれた米軍のガス弾だった。』(33頁)

『…壕内では苦しさを訴える声があちらこちらでする。』(35頁)

『幼児は泣き叫び、母親はわめきちらす。混乱した壕内にガスが充満していった。苦しさにたまらず何人かが「明るいところで死のう」と外に出た。さらに数人、また数人と続く。これらの人たちは米軍に収容され、命を失うことはなかった。

だが、壕内には〝鬼畜米英〟の教育をかたくなに信じ切り、外に出なかった人たちがいる。その数は30人とも言われている。』(33頁)

『2時間ほどたって、午前10時半ごろにはなっていただろうか。日本兵らが「死にたいのは集まれ」と大声で叫び、その声を待っていたかのように、幾重もの輪が兵隊を中心にできる。やがて爆発音が壕内に走った。手りゅう弾による自決だ

…そのとき死んでいったのは前例のグループだ。』(35頁)

生存者の証言:

『「手りゅう弾の爆発音は一発しか覚えていない。うめき声も記憶にないから死んだ人たちは全員即死ではなかったか。」』(35頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 33、35頁より》

 

 

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【第32軍部隊一覧】

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