村の破壊命令 / 日米の情報戦 (新聞) / 壕からの追い出し
米軍の動向
総攻撃3日目
Major General Roy S. Geiger watching 22nd Marines in line on outskirts of Naha.
那覇郊外の戦線で、第22海兵連隊を視察するガイガー少将(投稿者註: 写真左)(1945年5月13日撮影)
村全体を破壊する命令
天久(あめく)
1945年5月13日午前10時頃、第22海兵連隊第1大隊A中隊と共に警戒しながら那覇郊外に迫る戦車。(1945年5月13日撮影)
Tanks moving into outskirts of Naha on patrol with ”A” Company, 1st Battalion 22nd Marines, 13 May, 1945 approx. 1000.
第22連隊第3大隊は那覇市北部の郊外に向けて偵察活動を実施し、斥候隊は那覇市の北に位置する天久の集落に入った。…この日の朝、斥候隊は敵の機関銃攻撃に遭遇し2名が負傷したため、1400時にL中隊の歩兵小隊と戦車で強行突破することになった。…天久台の方向に向かって進撃していくと道端には日本兵の死体が、あちこちに散らばっていたが生きている日本兵の姿はまったく見られなかった。安里川の北、180メートルほどの位置まで到達したところ、遂に日本軍は迫撃砲と機関銃による攻撃の火蓋をきった。
《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 127頁より》
The Estuary of the Asato Kawa from the high ground above the suburb of Amike. This is a view looking southeast over the wreckage of Amike and across the Asato Kawa toward Naha itself.
日本軍の陣地は村の中に巧妙に隠匿されており、海兵隊の戦車は狭い通りで身動きがとれなくなった。1輌のシャーマン戦車は村に入ったとたん、爆雷攻撃をうけて擱座したため、残りの部隊は後退した。北方向からの歩兵と戦車による別の攻撃も、日本軍の重機関銃の銃撃をうけて頓挫した。このため、連隊司令部は村全体を破壊する命令を下した。戦車と兵士たちは、建物を完全に破壊しつくし推定75名の守備隊を殺害すると1830時に撤退した。
《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 128頁より》
22nd Marines in firefight on outskirts of Naha.
装甲車で家屋を潰しながら那覇に侵攻した。
米国海兵隊: NO ROAD... MAKE ONE. When these Sixth Division Marines entered Naha, capital of Okinawa, they did not stay on the main roads, which were heavily defended. They took short cuts between the houses. This stratagem also enabled them to pick off any stray snipers who attempted to stay their drive.
【和訳】 道なき所に道をつくる。第6海兵師団は沖縄の県都那覇に入城した時、堅固に防御された幹線道路を進まず、家々の間を抜けて近回りをした。この戦略で抗戦を続けようとする狙撃兵を撃つこともできた。1945年 5月13日
安里(あさと)・真嘉比(まかび): シュガーローフ(52高地)
5月13日の朝、第6海兵師団の攻撃は0730時開始予定であったが、悪路のために支援のロケット砲と補給物資を積んだトラックの到着が遅れたため、1115時に遅延した。昨日の第22連隊2大隊G中隊の攻撃失敗にもかかわらず、師団司令部は日本軍の配備状況を明らかに軽視していた。5月13日付けの師団報告書には「敵は、安謝川と那覇の間の戦術上重要な地域を放棄した。師団前面において敵の組織的な抵抗は見られない」と記述されていた。… F中隊に所属する小隊は、猛烈な迫撃砲攻撃をうけた。何事もない静寂から突然、18発から20発の迫撃砲弾が降りそそいだ。それはちょうど「両手一杯に小石をつかんで、空に投げ出したようだった」…1800時までに戦車は撤退し、攻撃も中止となった。… 戦闘も膠着状態となったため、F中隊は夜にそなえて塹壕を掘った。(124-126頁)
左翼の第29連隊第3大隊では、H中隊が先陣を切って270メートルほど前進し、真嘉比の集落の北西にある丘を掌握することができた。…二つの大隊によるこの日の攻撃は、日没までにさらに150メートルから250メートル程度前進するにとどまった。(127頁)
沢岻(たくし)
沢岻 (Dakeshi)、大名(Wana) 一帯の米軍進撃図
5月13日、第7連隊が苦闘の末に沢岻高地を確保した。…われわれK中隊は、破壊されて廃墟となった村へ入った。士官が沢岻村だと教えてくれた。頑丈な石垣に近づいたところで銃を構えるように命じられ、そのまま100メートルほど前方で展開する不思議な光景を見守ることになった。廃墟と瓦礫のなかを退却していく4、50人の日本兵を、われわれは手をこまねいて見ているしかなかった。敵は第7連隊に攻め込まれてどっと逃げだしたのだが、われわれが支援する第7連隊の小部隊が前方の右手や左手のどこかにひそんでいるのだ。味方に当たるかもしれない危険を冒して撃つことはできない。小銃を抱えた敵兵が小走りに逃げていくのを、ただ見守るしかなかった。敵は背囊も背負わず、ただ弾薬帯を支える肩紐を背中で交差させているだけだった。
ヘルメットをひょこひょこ躍らせながら瓦礫の中を遁走する敵を見て、私の隣にいた仲間がM1ライフルの安全装置に指をかけ、嫌悪感もあらわに言った。「やつら隠れる場所もないってのに、撃つこともできないとはな」「心配するな。この先にゃ第7連隊の十字砲火が待ってるって」。下士官が言った。「そのとおり」。士官も自信ありげに言った。
沢岻高地に向かう海兵隊
Marines of the 1st Division move carefully toward the crest of a hill on their way to Dakeshi. The forwardmost Marines stay low, off of the skyline.
… 味方の155ミリ砲がまた日本兵の頭上に向けてとんでいった。われわれは言葉もなく立ちつくし、砲火に打ちのめされる敵の姿を見ていた。…なんとか生き残った兵が漂う黒煙の向こうに見えなくなったとき、前方の左右から海兵隊の機関銃の発射音が聞こえてきた。
われわれは命令に従って、石垣に挟まれた細い道を進んでいった。通過していく廃墟の連なりも、もとは風情豊かな村だったのだ。藁葺き屋根や瓦屋根の、趣に富んだ小さな家々が、今は瓦礫となってくすぶっていた。
左から沢岻丘陵、大名高地、首里、57高地
つぎは大名高地。5月13日この予備作業として沢岻村落を攻撃した米軍は、ここで熾烈な戦闘にはいってしまった。沢岻にはいたるところトンネル、洞窟、縦坑だった。防衛するほうにとっては、まったく願ってもない陣地である。狙撃兵は廃墟にひそみ、石垣の裏にかくれ、貯水タンクや土壁のなかにひそんでいた。
先発小隊が広場に一歩足を踏み入れたとたん、前方や両翼からの、はげしい迫撃砲や機関銃の砲火の中に包囲されてしまった。無電は切れた。戦車隊や砲兵隊が煙幕弾を発砲して、小隊をかくそうとしたが、相手は煙幕の下を這いくぐって前進し、海兵小隊に手榴弾を投げつけてきた。…小隊は49人から32人もの死傷者を出して、ついに後退せざるをえなくなった。
石嶺(いしみね): チョコレート・ドロップ(130高地)周辺
…13日の作戦は、石嶺大石原の大石森とチョコ・ドロップの集中攻撃である。短時間ではあるが、はげしい予備砲撃を行なってから、306連隊は、チョコ・ドロップに新たな攻撃を試みた。先攻は第2大隊。まず北東部の高台を攻め落とした。先発中隊は進撃を開始してから13分で丘に着いたが、日本軍の野砲や迫撃砲弾の激しい弾雨の下を、丘陵北のふもとを攻撃したというだけにとどまった。…それでも一応は、チョコ・ドロップ山腹の一部を確保することはできた。だが、これもまもなくふもとに押しかえされてしまった。
チョコレート・ドロップの集中攻撃 (1945年5月13日)
CHOCOLATE DROP HILL under attack 13 May from the west by tanks and armored flame thrower.
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]
午後2時、日本軍は、チョコ・ドロップの南方から150ミリ砲を20発も撃ち込んできた。これに対して米軍は、野砲、戦車砲、自動操縦砲など、利用できるありとあらゆる火器を駆使して、高地に3回目の攻撃を挑んだ。しかし、それでも守り抜くに値するほどの土地は確保できず、ついにチョコ・ドロップ北方300メートルの地点へまたも退却せざるをえなかった。戦車が2輌ともその日の戦闘でやられた。しかも1輌は150ミリ砲を装備したままであった。(376頁)
13日の午前11時、バックナー中将は、メイ大佐の指揮所に姿を見せた。メイ大佐はコニカル・ヒル攻撃の機は熟したと見た。突然、米軍の猛烈な集中砲火がはじまり、10センチ臼砲弾が丘を越えて炸裂した。
5月13日、米軍はコニカルヒルへの攻撃を開始。攻撃前、米海軍は中城湾から大量の砲弾をコニカルヒルに撃ち込んだ。コニカルヒルは別名「100万ドルの山」とも呼ばれた。これは、米軍が撃ち込んだ砲弾の値段が100万ドルにも値すると称されたからである。この攻撃は日本軍の陣地や部隊の壊滅を狙ったものだったが、同時に与那原の市街地を破壊し尽くし、人命を奪ったと思われる。
日本軍の動向
海軍部隊の戦況
沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)
海軍部隊の戦況報告:
(1) 陸戦隊3コ大隊は13時30分、国場、与那原方面に進出を完了する。
(2) 真嘉比方面の敵に対しては、陸上挺進斬込隊20組、64名を出す。
(3) 泊方面の上陸用舟艇、および敵戦車に対して、第2砲台の12糎砲2門をもって射撃、制圧する。発射弾数127発。
(4) 味方陣地に対する敵機は延78機。戦艦、巡洋艦、駆逐艦等の艦砲射撃は昼夜連続である。被害は14糎砲2門だが、修理可能の程度である。戦死は8名で、重傷者が1名いる。
《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 82-83頁より》
安謝(あじゃ)・安里(あさと)
日本軍は残った砲兵陣をたくみに使って、安謝から安里までのあいだで海兵隊をおおいに悩ました。第44旅団の砲兵は、100ミリ曲射砲8門に野砲4門、それに、ときどき近くの部隊が迫撃砲や重砲で支援していた。日本軍は視界が利くことを利用して一発必中主義で、じつに的確に海兵や戦車を砲撃、あるときなどは、観測地点に立っていた数名の海兵のちょうどまん中に砲弾を命中させて、大隊長をはじめ通信兵3名、戦車隊将校2名を戦死させ、3名の中隊長を負傷させたのである。
丘の南側入り口。トンネル内の2つの分かれ道が入り口から見える。77ミリ砲弾。手前に日本兵が横たわっている。(1945年5月14日撮影)
South entrance to same hill, two way fork in tunnel can be seen from entrance. 77 ammunition. Jap laying in foreground.
沢岻(たくし)
八原高級参謀の回想:
13日夕方、第62師団参謀長から、私に電話がかかってきた。上野参謀長は、例の熱気のある早口で、「八原君、ご承知の如く、今、有川少将が馬乗り攻撃をうけている。師団長は、少将に対し、現陣地を固守して死ぬるよう、すでに親書を送られた。従来このような境地に追い込まれた指揮官は、後退を命ぜられるのが常であるのに、有川少将を、ここで見殺しにするのは情において忍びない。部下も、まだ相当数生存していることだから、なんとか救出し、今後の戦闘を続けて、指揮してもらいたい。しかし、師団長がすでに厳命を下しておられるので、自分としては手の下しようがない。軍の方で良い思案はないだろうか」という相談だ。
…私は軍参謀長に、「師団長藤岡将軍の真摯にして、厳然たる処置は、師団長の立場上命ぜられたことと存じます。軍としては、この際有川将軍に後退を命ぜられるのが、適当であります」と意見を具申した。参謀長、軍司令官ともに別に拘泥される様子もなく、すぐ同意して下さった。…この夜遅く、有川将軍以下同司令部の生存者は、巧みに敵の包囲を突破し、無事首里市内に後退した。
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 320-321頁より》
日米両軍の情報戦 - 「琉球週報」vs「沖縄新報」
米軍新聞「琉球週報」第四号
米軍が散布した5月13日「琉球週報」はドイツ降伏や鈴木貫太郎総理大臣就任について。手書きであるが、ルビをうち、巻末には漫画ものせ、読まれる頻度を高めようとしている。
日本の軍と新聞
一方、第32軍司令部付きの朝日新聞那覇支局長(宗貞利登)*1 の記事が東京版と西部版でトップ記事となる。
那覇着任後、3ヵ月余が経った10月10日、米軍機900機による沖縄の大空襲があり、那覇市内は焼け野原となり、支局も全焼した。通信状態は2日に一度、3日に一度、5日に一度と通信状態は日を追って悪化、20年4月1日の米軍の本島上陸後、5月25日以降は送信手段がなくなり、原稿を書いても送れなくなった。沖縄現地の新聞人が地下壕でかろうじて印刷、県民たち避難の各壕などに配布していた「沖縄新報」もこの日以降途絶えた。
朝日新聞 1945年5月13日
(註「敵最前線に黒人部隊」や空母5隻撃沈は軍が情報源のプロパガンダ)
弾雨下に敢闘の義勇隊/謀略破砕に「沖縄週報」(註・沖縄新報) を頒布
【沖縄戦線にて宗貞特派員11日発】沖縄戦線における戦闘の熾烈化と共に激しくなるのは敵の謀略戦である、敵はあの手この手を企てている、噴飯に堪えぬのは伝単 (中国語「宣伝ビラ」) を撒き散らして思想攪乱を企てていることで、標題を「沖縄週報」(琉球週報) と題した小型新聞を印刷、飛行機からやたらに撒き散らしている、これに対してわが新聞報道陣の活躍は物凄く、唯一の地元新聞「沖縄週報」(註・沖縄新報) は全員結束早くから地下工場 (註・留魂壕) に籠ってあらゆる困苦欠乏と戦いつつ半截紙の発行を継続、これが頒布には皇土防衛義勇隊の組織網により砲煙弾雨の下決死的活動によって遺漏なく敵の謀略を破砕している」
誤字の多さは地下壕からの無線通信の悪さに由来するものと思われる。米軍が飛行機でばら撒く各種のビラと新聞に対抗し、沖縄新報は砲弾の雨の中、沖縄師範学校で情報宣伝隊「千早隊」に配属された学徒が壕の各所に配達した。
新聞社壕と同じ「留魂壕」を拠点にしていた沖縄師範学校の生徒で、「鉄血勤皇隊」のなかの「千早隊」隊員(通信や伝令を担った)だった、池原秀光さん。住民の潜む壕に新聞を持って行き、読み上げて解説をしていたという。… 池原さんをはじめ「沖縄新報」を配るなどした鉄血勤皇隊の中の千早隊は、22人のうち9人が戦死している。
一中鉄血勤皇隊 - 壕追いだし
5月12日のことだ。鉄血勤皇隊の第2小隊壕に、沢岻方面から下って来た少尉が部下とともに入って来た。「お前ら出ろ!」と言う。近くにいた教師は「ここは鉄血勤皇隊の壕であります」と説明したが、「キンノー隊?。それは何だ。とにかく、この壕は我々が使う」と言う。“壕追い出し”だ。
5月12、3日ごろの夜、一中壕へ突然、前線からの撤退兵らしい大男の軍曹が5、6人の兵隊を連れて現れ、居丈高に怒鳴った。
「この壕は軍が使うから、お前たちは出て行けーッ」
入り口近くで寝ていた…柔道教師の…教諭…が対応、「ここは沖縄一中鉄血勤皇隊の壕です」と説明したが、軍曹は学徒隊のことを知らなかったらしく「キンノー隊?何だ、それは」と横柄にいい、「文句を言わず、さっさと壕から出ろ」というなり、…胸をどんと突いた。
奥で寝ていて騒ぎを聞きつけた篠原隊長は、出てくるなり大声で一喝した。
「貴様らこそ、文句を言わず外へ出ろーッ」
…軍曹たちは思いもかけず将校らしい人物が出てきたので驚いた様子だったが、こうこうと照る月明かりで篠原隊長の襦袢の階級章が見えたようだ。』
一中鉄血勤皇隊学徒の証言:
『軍曹たちは道路に土下座して許しを乞いましたが、隊長は許しません。「貴様らのような奴がのさばるから、地方人(民間人を指す軍隊用語)は迷惑するのだ」というなり、鞘に収まったままの軍刀で軍曹をしたたかに打ちすえました。相手が骨折するのでは、と心配になるほどの激しい制裁でした。敵と相対峙する前に、教え子がつぎつぎ犠牲になっていく厳しい現実に対する苛立ちが、教官をあの激しい行動に駆り立てた、と思います』(293-294頁)
外地戦闘経験のある一中配属将校篠原保司と藤野憲夫校長。
しかし、教官は、「戦争はもう負けです」とくり返した。それに対し校長も、「絶対に負けていない。何を根拠にそう言うのですか」と反論した。「われわれは壕にじっとしているだけで、外に出られるような状態ではない。これでは戦争に勝てるわけがありません。こういうのは負けいくさです」と声は低いが、はっきりした語調の篠原教官の声が、その場にたまたま居合わせたぼくの耳に聞こえた。だまって二人の話を聞いている先生方の前で、藤野校長は教官を叱咤していた。
《兼城一『沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上) 』高文研) p. 269》
そのとき、住民は・・・
壕からの追い出し
アメリカ軍が首里の司令部に迫る65年前のきょう、那覇市繁多川の防空壕を追い出され、なくなく南部へ移動する住民がいました。アメリカ軍が上陸する前から、那覇市繁多川にある石田の壕に避難していた松茂良美智子さん。65年前のきょう、ここを出ていくことになりました。
松茂良美智子さん「ここには、5月5日、6日までいたんです」首里決戦に備え銃砲兵隊がここの壕を使うことになり、代わりの壕を東風平に用意されました。ところが人数の関係で区長さんたちの身内が優先され、松茂良さんの家族は行き場を失ってしまったのです。あてもなく糸満へ向かった松茂良さんは、衝撃なものを目にします。松茂良さん「人が死んでいるとか、馬が死んでいるとか。周囲のお家がつぶれ、異臭がする」「光がばーっとしたときに、ガラガラと破片が落ちるから、すぐ耳を押さえて伏せてね」
あれから65年。一度も足を運んだことのない第二与座壕。松茂良さんは地域の人たちに訪ね、あの日の記憶を呼び覚ましながら、壕のあった場所を探し当てました。
収容所生活
シモバル収容所 (前原地区、現在の泡瀬周辺)
地元民。沖縄本島下原の集落にて。(1945年5月13日撮影)
Natives in village of Shimabaru [Shimobaru], Okinawa, Ryukyu Islands.
地元民。沖縄本島下原の集落にて。(1945年5月13日撮影)
Natives in village of Shimabaru [Shimobaru], Okinawa, Ryukyu Islands.
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