〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年4月27日 『戦場の市町村長会議』

農林鉄血勤皇隊銃剣道県庁壕の会議

米軍の動向

特攻機対応と被害

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日本軍機による沖縄上空からの無駄な攻撃の後、米太平洋艦隊の戦艦から発射された曳光弾と砲弾の光跡。1945年4月27日。港湾内の軍艦からの砲撃。(1945年4月27日撮影)

Tracers and fiery shell trails from U.S. Pacific Fleet warships after a futile Jap plane attack over Okinawa on 27 April 1945. Fire from ships in the harbor.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南進する米軍

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Chapter 07 | Our World War II VeteransOur World War II Veterans

 

城間(ぐすくま):「アイテム・ポケット」

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

4月27日、ポケット陣地の南へ着いた戦車隊の最初の2輌は、47ミリ対戦車砲に撃たれて簡単にやられた。そこで戦車隊のほうでは、歩兵と緊密に連携を保って残った日本軍陣地の攻撃に出た。…(中略)… 4月27日の午後4時37分、ついにアイテム・ポケットは陥落した。だが、その後もたくさんの日本軍の残兵がおり、何週間かのちまで、まだ深い洞窟やトンネルの奥から出没してくるのだった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 234頁より》

 

前田高地

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

浦添丘陵の左のほうで、山なみが急に南西に曲がっているところがあり、ここで、第381歩兵連隊の第1大隊と、第383連隊の一部は、4月27日、第763戦車大隊と第713火炎砲装甲車隊の支援を得て、150高地と152高地のあいだのくぼ地を進撃していった。…装甲車や戦車の火炎砲が火を吐いて、前面から陣地を攻撃し、幾百の日本兵が、逃げようと壕から出るところを、歩兵や戦車が機関銃でやっつけた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 289-290頁より》

火炎放射装甲車と日本兵の斬り込みから装甲車を防御する米兵

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敵戦車を止めるため日本兵が爆弾を背負って斬り込みをかける。そのため、米軍の歩兵によって防御された第713戦車大隊の装甲火炎放射器が、断崖の頂上の岩影を焼く。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

嘉数をこえる装甲車の列

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嘉数高台付近へ進撃準備中の第193戦車大隊C中隊。歩兵隊による高台の占拠で、戦車はその向こうの広場に出ることができた(1945年4月27日撮影)

Company ”C, ” 193rd Tank Battalion prepares to advance near Kakazu Ridge. The capture of this ridge by the Infantry made possible the use of tanks in the open country beyond.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

戦車と歩兵軍は、さらに、前田南端に進入したが、ここでは猛烈な反撃にあって、進撃できなくなってしまった。丘のうえにトーチカがあったのだ。… このトーチカの乗っ奪りに、米軍は集中攻撃を加えた。だが、この試みも失敗におわった。もちろん日本軍は、多数の犠牲者を出したが、それでもこの日、米軍としては、150高地と152高地ちかくの前田で、わずかばかり進撃した以外は、一つの土地さえも長時間、占領しているというわけにはいかなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 290頁より》

 

幸地 (こうち)

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

4月26日の夜、第17歩兵連隊は、幸地一帯の日本軍にまともにぶつかっていることがはっきりした。つぎの日は。道はでぬかるみ、第1大隊と第2大隊の連絡をとることも失敗におわった。占領したところはなく、かえって犠牲だけが多かった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 282頁より》

 

第32軍の動向

北部戦線: 国頭支隊(支隊長・宇土大佐)

本部半島を米軍に占領され、布陣していた八重岳一帯から多野岳へと退却した国頭支隊。その多野岳でも米軍の攻撃をうけ、さらに北上するために移動を始めた。24日には久志村の三原に到着、その後、源河部落を経由して25日には有銘に入った。

27日、福治又山中に入った。その時の宇土大佐らの陣容は、恩納岳から敗走してきた県立農林学校生徒達で固めた約20人の鉄血勤皇隊を指揮する同校配属将校の、尚謙少尉や、海軍の残兵などを合わせて約800人ぐらいだった。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 315-316頁より》

 

農林鉄血勤皇隊の運命 - 「死んでもここを守れ」

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農林鉄血勤皇隊 状況1 飛行場の構築作業、戦車壕やタコ壺壕掘り作業 - YouTube

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4月7日、肉迫攻撃隊の生徒たちは、真部山に移動させられましたが、米軍の猛攻撃を受け、16日に多野岳への撤退を開始し、多野 岳に到着した翌24日、東村の山中に撤退することになりました。

27日、東村内福地に到着。28日、米軍との銃撃戦で少尉以下、9名の生徒が戦死しました。

平成28年3月沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課

真部山で置き去り … 「死んでもここを守れ」

様子を見に行った農林生の話では、味方かと思ったら敵の機関銃だった。「命からがら逃げてきた」という。

日本軍は行方知れずになっていたのである。大城さんは言う。「あとで知ったことですが、日本軍は既に真部山から八重岳方面に退却していたのです。結局、農林生たちのことは見捨てたというわけです。死んでもここを守れ、と言われた言葉を信じてその気になっていたのに…。手投げ弾を与えられ、米軍を目いっぱい引き付けてから投げるんだよと教えられたばかりで、裏切られた気持ちでした」

農林鉄血勤皇隊 見捨てられた学徒隊 - Battle of Okinawa

4月中旬に真部山から八重岳へ、4月16日にさらに多野岳へと敗走する。

農林鉄血勤皇隊 見捨てられた学徒隊 - Battle of Okinawa

県立農林学校学徒の証言:

 八重岳では、農林生たちが激しい空腹感に見舞われていた。しばらく食い物を口にしていない。大城堅輝さんはその時のつらい思いを振り返る。

八重岳には自分たちを見捨てていった日本軍の部隊がいましてね。食糧がたくさんありました。生徒たちはもう目を輝かせて缶詰などにありつこうとしたら、軍隊は分けてくれない。退却する日になって缶詰は捨て去られることになったんですが、それでも食べることは許されない。どうせ捨てるものなのに何でくれないのかなあ、とつくづく非情に思いましたよ」

野岳に退くことになった晩は軍馬も銃殺された。「足手まといというのが理由ですが、そのまま残していくと敵に利用される恐れがあるとも言っていました」。銃で撃たれ、倒れた馬は息絶えだえに顔だけプカプカさせていたという。

 八重岳では2人の農林生が重傷を負っており、退却に当たってこの2人を担架に乗せて担いでいくことになった。部隊のあとについて出発したものの、途中、今帰仁の呉我山に差し掛かったところで先を急ぐ部隊についていけなくなってしまった。

 「担いできた連中で、もうこの2人はここに捨てていこうという相談をしました。かわいそうだけど、しようがない。近くには避難民もいるからかえってここに残っていた方が安全かもしれないよ、などといい加減なことを2人に言ったんです」と、赤嶺さんは仲間を置き去りにした苦い思い出を話す。

4月27日に東村福地に到着

住民の案内で、農林生は再び軍隊に合流。呉我山から伊差川を抜けて多野岳へ。そして多野岳からさらに北部に退却する際、農林生は二つのグループに分かれた。以前に伊豆味国民学校で銃を支給されていた大城堅輝ら学徒は宇土部隊に、一方、銃を持たない赤嶺猛らは農林学校の配属将校である尚謙少尉が引率した。4月27日に福地に到着、4月28日米軍との銃撃戦で少尉と9名の生徒が戦死する。

 

 

中南部戦線 - 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

小波(こはつ): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

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《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝) 》

4月27日、陽が昇ると、いよいよ伊東大隊の陣前にも、敵が集中砲火を浴びせるようになった。狙っているのは大山隊のいる小波津西側の陣地である。砲火は熾烈を極め、大隊本部の位置からは、陣地は土煙に包まれて全く見えなかった。砲声が響き渡っていたのがパタリとやみ、今度は銃声が聞こえてきた。 敵の歩兵が前進してきたのに対し、大山隊が応戦しているのだ。

…一日中、激しい戦闘が続いた。夕刻には敵が小波津集落に侵入したが、大山隊はこれを撃退した。この日は陣地を確保したまま暮れた。(137頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 137頁より》

  

沖縄県庁: (沖縄県知事・島田叡)

島田知事は、米軍に占領されていない地域の市町村長を集めて緊急市町村長会を開くことにし、招集状を配らせていた。

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県庁壕の内部

那覇市首里城から南に1キロのところにある識名霊園の地下に、県庁・警察部壕があります。昭和20年4月下旬からおよそ1か月間、県庁と警察のほとんどの機能が、この壕のなかに移されました。当時、壕の中はおよそ100人の職員であふれかえっていたといいます。
戦前の県庁も、那覇市久茂地にありました。昭和20年3月、アメリカ軍の空襲が激しくなると、県庁機能そのものも避難することになりました。日本軍が首里を放棄したことから、当時の沖縄県知事、島田叡も壕を出て南部に向かいます。壕を転々としたのち、6月26日を最後に、消患を絶ちました。
那覇市 県庁壕【放送日 2008.5.7】|NHK 戦争証言アーカイブス

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アメリカ軍の攻撃が激しさを増し、日本軍は4月24日、那覇首里地区の住民全員に対して南部地区への避難命令を出しました。

その翌日、県庁の機能は真和志の壕から識名園近くの壕に移転。その壕で4月27日、島田叡県知事をはじめ、比較的被害の少ない南部地区の市町村長と警察署長が砲弾をかいくぐって集まり、合同会議を開きました。会議では、島田知事が避難している住民の対応、食料増産などを指示。玉砕を覚悟していた日本軍とは対照的に、戦況の好転を信じていた首長らは血気盛んに熱心に意見交換を行いました。

その後、県庁の組織は改められ、食糧確保や壕生活での保健衛生、秩序維持を任務とする「後方指導挺身隊」を5月1日に発足することを決めます。しかし戦況はさらに悪化して「後方指導挺身隊」はわずか1ヵ月で解散。6月7日、県庁は1879年の沖縄県設置以来、66年の歴史に幕を閉じることになります。 

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月27日

招集状に接した市町村長はおのおの、居村の壕から、弾の中を突破しつつ、続々繁多川の壕に集まって来た。4月27日午前1時、糸満署長上原敬和警部が、糸満、真壁、摩文仁の各村長一行7、8人と共に、繁多川の小さい流れを挟み、緩やかに上部へ拡がる谷間の低地をかけ上って、まっさきに到着した。谷間には、決死行の人々を犒うための、県庁女子職員の炊出用の水を汲む姿が群がっていた。あけがた、斜面を上ってくる人々の姿が点々と、上空の照明弾に照らし出された。…鉄兜と巻脚絆で身を固めた、真和志、小禄、真壁、摩文仁、喜屋武、玉城、知念、那覇首里、各市町村長らが顔を揃えた。前代未聞の戦場における市町村長会議は、壕の外を、荒れ狂う砲爆撃の喧噪と、狂気の中に、行われたのであった。島田知事、荒井警察部長、各課長、県庁員、市町村長、その従者、附近住民、無慮100人近い人間がぎっしり詰まる中に、会議は始められた。

軍司令部情報主任益永大尉が立ち上がって、「敵の出血は夥しい数字に上っている。日本軍は毎日挺身斬込みで、物量におごる米の心胆を寒からしめている。だが遺憾なことには、非戦闘員に中には、利敵行為を行うものがおり、軍用電話線の切断を図ったり、壕の入口から戦争は敗けたのだと、叫んだりして士気沮喪を狙うなど、反逆行為が無数にある。諸君においては、かかる非国民を出さぬよう戒心して貰いたい」と警告を与えた。

午後6時頃、会議は終わった。市町村長らは、壕の出口に固まって、艦砲の薄れるのを見計らって三々五々、各自居村の壕を指して、死の峡谷を降りていった。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 100、101頁より》

戦前の県庁

f:id:neverforget1945:20210425085037p:plain那覇市 県庁壕【放送日 2008.5.7】|NHK 戦争証言アーカイブス 

 

軍の統制下にあった日本メディア

沖縄新報

『国による「一県一紙」の言論統制方針によって、1940年12月20日、「琉球新報」「沖縄朝日新聞」「沖縄日報」の3紙が統合され「沖縄新報」が創刊された。』

『1941年12月に言論出版集会結社等臨時取締法が成立した。政府への批判的言動を取り締まるだけでなく、報道機関を利用して世論を誘導した。沖縄に配備された第32軍司令部は、参謀部内に報道宣伝協議会を設置して、報道機関を完全に軍の統制下に置いた(15) 。』

『真和志村(現那覇市)繁多川の県庁壕で1945年4月27日に開かれた南部地区市町村長、県、警察署長合同の会議の模様が、4月29日付「沖縄新報」に掲載された。記事は「勝つぞこの意気 弾雨を蹴って市町村長会議」の見出しとともに、「勝利の日まで辛抱を続けよう」という島田叡知事の訓示を紹介した。また「一万八千余を殺傷」という軍発表の沖縄戦の戦果を伝えた。』

http://gendainoriron.jp/vol.04/images/ph_miyagi02.jpg

沖縄新報』1945年4月29日付

「上書きにさらされる沖縄戦の教訓」琉球新報論説委員・宮城 修 | 特集・戦後70年が問うもの Ⅰ

 

そのとき、住民は・・・

子どもたちの軍事教育 - 銃剣道

本の学校銃剣道を子どもに教練していたことに驚く米兵。

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《AIによるカラー処理》米海兵隊 Bayonet fighting is taught in Japanese grade schools. If you don't think so, just look at these schoolboys who were found practicing with wooden rifles near their bomb-torn school house of Okinawa. Take it from the Marine (in foreground, back to camera), their form is pretty good.

銃剣術は日本の小学校で教えられている。もし信じられないというなら、これらの少年を見てほしい。爆撃で破壊された沖縄の校舎近くで、木製銃で練習をしている小学生たちが見られた。(カメラに背を向けている前景の)海兵隊員が見たところ、子供たちの技術はなかなかのものである(1945年4月27日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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《AIによるカラー処理》米海兵隊 Acting as Drill Instructor to a squad of Jap children would be an experience to any Marine. Sgt. Leo T. Batt, former Hammond (Ind.) Times reporter is shown ”giving the word” to more than willing young ”boots” in Okinawa Island. Sgt. Bat, a Combat Correspondent with the 1st Marine Div. Found the boys playing with their wooden rifles near a shell torn Japanese school house. Recalling his own boot camp training, he soon had the situation well in hand. The sergeant's wife, Mrs. Justine E. Batt ives at 4003 Deal St.,  East Chicago, Ind.

地元の子供たちを相手に訓練を実施する従軍記者のバット三等軍曹。子供たちが校庭で木製のライフルで遊んでいるのを見つけて、彼自身が新兵だった頃を思い出しながら指導(1945年4月27日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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