1945年 4月13日 『生まれた疑心暗鬼』

北進する米軍
本部
(もとぶ)半島: 八重岳

『〝残存敵軍を掃討せよ〟との命令にもとに海兵第6師団は、4月13日八重岳の日本軍陣地攻撃準備を開始した。作戦では海兵第4連隊の第1、第2大隊と海兵第29連隊の第3大隊が、アラン・シャプレイ大佐の指揮のもと、西側から八重岳を攻めることになった。一方、東側からは海兵第29連隊の第1、第2大隊が伊豆味から進撃して、伊豆味ー満名道路線北方の高地を占領することになった。

各部隊とも、相互の連絡は地形の関係上つきかねるものとして、各指揮官は各自で山岳や谷間を渡って八重岳に接近する方法を決めねばならず、必要によっては各自の状況判断で作戦を変えてゆくことになった。海兵は各自がもっている武器に頼り、砲撃や空爆は、頂上を占領してから敢行したほうがより効果が上がるという推断を下した。戦車の使用など思いもよらなかった。』(132-133頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 132-133頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p142.jpg

米軍の北進を援護する事前空爆

FIRE BOMBING aided the advance in northern Okinawa. A Marine fighter plane (F4U) has flown low and dropped its fire bomb on an enemy-held slope in the rugged north.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 6]  

辺戸(へど)

4月13日、西海岸をすばやく徒歩や水陸両用トラックで迂回して、海兵第22連隊の第2大隊は、途中、抵抗らしい抵抗もなく沖縄北端の辺戸岬に着いた。海兵第22連隊の他の海兵部隊は沖縄東部海岸をどうにか通過して進撃した。海岸の野営地から出発した斥候中隊は山岳地帯の奥深くまで侵入し、その後は数日間にわたる偵察を行なったあと、海岸にもどり、水陸両用車に拾われて無事帰隊した。』(133頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 133頁より》

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第6海兵師団による北進の進捗状況

(注: Lとあるのは上陸日で、その後に続く数字を足すと上陸から何日目であるかがわかるという表記。例えば辺戸岬到達を示すものは L+12であることから、上陸13日目となり、1945年4月13日となる)

http://www.ourwwiiveterans.com/okinawa/img/USMC-M-Okinawa-p109.jpg 

沖縄島最北端へと向かう海兵第22連隊

MORTARMEN of the 22d Marines proceed in route column toward the northern tip of Okinawa.

Chapter 06 | Our World War II Veterans

  

周辺離島の制圧

伊江島(いえじま)・上陸3日前

伊江島上陸準備にあたって第5艦隊の艦船は、3月25日から4月16日にかけて断続的に島を砲撃した。本格的な艦砲射撃は、4月13日、戦艦テキサスをはじめ巡洋艦2隻、駆逐艦4隻からなる戦隊が、伊江島の東部陣地を主に、島中の目標物という目標物を砲撃したときからはじまる。その夜、揚陸艦LSM6隻が、伊江島にロケット弾や40ミリ砲弾、また照明弾を撃ち込んで島を偵察した。』(146頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 146頁より》

水納島(みんなじま)

4月12日から13日の夜にかけて、太平洋艦隊所属の海兵隊の水陸作戦偵察大隊は水納島に上陸し、なんらの抵抗もうけることなくそれを確保した。』(147頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 147頁より》

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本部半島、伊江島水納島の位置 (オリジナル画像の一部)

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

 

  

日本軍の航空攻撃

『4月13日、前日の「菊水2号」作戦に引きつづいて、米機動部隊攻撃を狙って、捜索に向かったが、米空母群を発見したにもかかわらず、偵察機彩雲が米戦闘機の追跡を受け、1機は「万歳」を打電して自爆、1機は故障不時着。午前10時45分になっても敵の全貌を確認することができず、ついに13日の米機動部隊総攻撃はとりやめられた。』(215頁)
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 頁より》

 

第32軍の動向

軍司令部

4月13日、軍司令部は、攻撃を中止して持久戦に移ることを決意し、各部隊に戦線の整理と防備の強化を命じた。各部隊は、軍司令部の命にしたがい、第一線大隊の戦力が3分の1ないし2分の1に低下した62師団は、22連隊の増援を得て、戦線を整理、強化し、一方、24師団、混成44旅団も陣地の強化、敵空挺部隊にたいする戦備増強などを行なった。』(211頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 211頁より》

夜襲失敗の原因

『八原参謀は、長参謀長の命令で夜間斬り込み作戦を策定したが、この作戦は、「必ず失敗する」と判断していた。古来、夜襲が成功したのは、一高地とか村落など限られた目標にたいしてで、十余キロにおよぶ全戦線で特定の目標もなくされる夜襲は、「全くむちゃ」だと考えたのである。案の定、夜襲は惨たる結果に終わったがこの点について攻勢案に賛成した神参謀は出撃の軍命が下された後、作戦参謀が攻撃師団の主任参謀に「攻勢は失敗するから若干の斬込隊を出す程度でよい」と私的指導をなしていたことが敗因につながったという趣旨の記録をしている。』(93頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 93頁より》

『失敗してみると、…攻撃開始前に作戦部隊が軍高級参謀からアドバイスを受けて兵力を絞ったことが、問題となる。このイキサツは、13日、はなしくも長参謀長の知るところとなり、参謀長の激怒を招いたといわれる。』(210頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 210頁より》

八原高級参謀の回想:

軍参謀長の一途に思いつめた12日の夜襲も、ついにその目的を達するに能わず、惨たる戦績に終わった。4月8日の全力攻撃を中止した経緯もあり、中央に対する面目もあっての夜襲と思われ、参謀長の心中察するにあまりある。

薬丸参謀が「軍の作戦指導は、先見洞察が足りず、急に思い出したように、後手後手にことを実行するから失敗する。いやしくも大軍の作戦は、遠く状況の推移を洞察達観し、事前に打つべき手を打ち、周到な準備の下に実施すべきである」と皆に高言した。

私は呵々大笑し、「貴官は、陸大時代、教官から教えられた文句をよく記憶している。だが、先見洞察とは、いかなることか知らんようである。軍は、数か月前から貴官のいう先見洞察をもって、戦略持久の方針を定め、ちゃんと作戦を進めてきている。しかるに、戦闘始まるや、上下軽挙妄動し、平素の作戦方針も準備も打ち忘れ、思いつきばったりのことをやるから将兵を徒死せしめ、弾薬を浪費する結果となる。やれ全力攻勢だとか、夜襲だとか、騒ぐ者が大軍の統帥を弁えざる者である。軍の統帥どころか、こんな夜襲が成功するなぞと主張した者は、初歩の戦闘指揮さえも知らぬ者である」と訓戒した。

全軍でわずか23個大隊の正規歩兵部隊中、1個大隊はほとんど全滅し、2個大隊は相当の損害を出し、歩兵第22連隊の2個大隊は緒戦において混乱した。

軍砲兵隊もまた貴重な弾薬を浪費した。加うるに、軍首脳部は奔命に疲れた。この夜襲は戦略持久の軍の根本方針を錯乱し、軍の爾後の作戦指導上幾多の禍根を遺したのである。(217-218頁)

 《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 217-218頁より》

余波

『戦闘作戦を策定、指揮する肝心要の守備軍首脳のあいだに基本的戦術をめぐって終始、意見の対立がみらてただけでなく、戦況判断の面で上級司令部と現地軍とが極端な食いちがいをみせたことは、たんに〝困りもの〟という以上に「不幸」そのものであった。何よりもそれがもたらした余波は、深刻であった。守備軍将兵のあいだに疑心暗鬼を生みだし、目前の不利な戦況を自らに納得せしめるため「敵に内通する者がいるにちがいない」と、スケープ・ゴート探しが始まったからである。』(94頁)
《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 94頁より》

二転三転した軍司令部の決定は、防衛庁(現・ 防衛省)戦史室の公刊資料に以下のように記載されているとのこと。

『4月3日以来、第32軍は攻勢を決意し(3日夜)、攻勢延期(5日)、攻勢再決意(5日夜)、総攻撃を一部の夜襲に変更(7日)、一部の夜襲実施(8日)、次期攻勢の研究、決意(8日〜10日)、有力部隊をもってする殺傷攻撃の実施(12日)と、情勢に応じて攻撃要領も変化した』(210頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 210頁より》

 

北部戦線

本部(もとぶ)半島・八重岳: 国頭支隊(通称: 宇土部隊)

『八重岳では、宇土大佐が率いる約3,000名の守備軍が布陣していた。宇土部隊は、独立混成第44旅団の残存者約500名のほか、現地で徴集された防衛兵が約800名と青年義勇隊員約200名、鉄血勤皇隊約400名からなっていた。』(102頁)
《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 102頁より》

『…海兵部隊は、所在のわが青柳中佐の特設第1連隊、村上大尉の第3遊撃隊、岩波大尉の第4遊撃隊らの抵抗を排除しつつ、一路名護方面に北上した。該方面の戦況は、本部半島八重岳付近に布陣する宇土大佐の国頭支隊から、ときたま通じる無電報告により、承知するのみで詳細は判然としない

宇土支隊長からは、本部半島や伊江島周辺における空中特攻の戦果が続々軍に寄せられていた。』(224頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 224頁より》 

伊江島(いえじま)

伊江島では、井川正少佐の指揮する総勢約2700名の軍隊と、居残った約3000名の住民ちが、米77師団の砲火にさらされていた。』(224頁)

4月13日ころから、伊江島に対する砲爆撃がひどくなり、城山は草木をすっかりちばされ、裸の岩山だけになった。底の直径が500メートルばかりの円錐形の山に、ロケット830発、爆弾35トンを撃ちこんだという』(225頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 210頁より》

 

 

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