1945年 6月7日 『日本軍の住民対策』

米軍の動向

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利用可能な日本軍の機材調査のため前線へ飛び立つ第6海兵師団の偵察機。わずか100ヤード(約91m)先の日本軍陣地を米軍機が爆破する様子に注目(1945年6月7日撮影)

Recon of 6th Marine Division Engineers move up to front lines to estimate usable captured Jap equipment. Note our planes blasting Jap positions only a hundred yards away.

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日本軍から攻略したばかりの那覇飛行場にある砲弾跡で水浴びを楽しむ第6海兵師団第4大隊の兵士。後ろにあるのは最後の飛行を終えた日本軍機。(1945年6月7日撮影)

Members of the 4th Marine Regiment, 6th Marine Division are shown enjoying themselves by bathing in a bomb crater on Naha airfield shortly after taking it from the Nips. In the background a Jap plane rests after its last flight.

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小禄半島上陸: 4日目

那覇(なは)

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かつては市街地であった那覇の瓦礫や混沌としたなかに砲座を据えたラッキー大佐率いる米海兵隊第15砲兵連隊。この連隊の第2大隊が、那覇市中心部の廃墟となった住宅や商店の中から105ミリ榴弾砲を撃ちこんでいるのが見える(1945年6月7日撮影)

The 15th Marine artillery Reg't, commanded by Col. R.B. Luckey, is shown set up in the rubble and chaos that once was the city of Naha on Okinawa. The 2nd Bn of this Reg't which fire 105mm Howitzers, are shown firing among the ruins of houses and stores in the heart of Naha.

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小禄(おろく)半島

この頃、海兵隊の前線は4キロものび、小禄の具志村落まで達していた。

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那覇飛行場にある破壊された日本軍の格納庫で地雷や偽装地雷などを探す第6海兵師団工兵爆弾処理B中隊(1945年6月7日撮影)

”B” Company Engineers Mine Disposal Team, 6th Marine Division, looking over wrecked Jap hangar, Naha airport, for mine and booby traps.

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前線へ向かう途中、那覇飛行場の大破した大格納庫のそばを進む第6海兵師団B中隊の大型戦車。(1945年6月7日撮影)

Heavy tanks of ”B” Company, Sixth Marine Division, pass wrecked large hangar at Naha Airfield on the way to the front lines.

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『…頑強な日本軍の防衛線にあって、海兵隊は、6月7日、8日と2日間にわたって戦闘でわずかしか進撃できなかったのである。

戦車は使用できなかった。泥の層が厚く、広い地域にわたって地雷が埋めてあり、さらにその周囲の丘には機関砲座がいっぱいあったからだ。6月7日は筆架山占領に3個小隊の戦車隊が出動したが、たいていの場合、戦車は泥のなかにはまって動けなくなり、また地雷地帯のかなたから飛んでくる機関砲の弾丸にあたって前進をはばまれてしまった。第4海兵連隊の第2大隊では、丘陵の頂上を攻めるのに、丘をのり越えて行くかわりに3ヵ所に大がかりなトンネルを掘って目的地に到達するという方法までとったのである。』(462頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 462頁より》

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那覇飛行場にある第29連隊第3大隊の救護所。負傷した3人の海兵隊員に血漿輸血を施す衛生兵。(1945年6月7日撮影)

3rd Battalion, 29th Marines, Battalion Aid Station at Naha Airport. Corpsmen treating three wounded Marines, giving blood plasma.

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南進する米軍

八重瀬(やえじゅ・やえせ)

つぎの3日間、第96師団は、砲兵隊の砲撃や爆撃で…攻撃する一方、たんねんに日本軍砲座や機関銃陣地を観測していた。熾烈きわまる戦闘が第7師団の東翼端で起こった。そこでは第184連隊のB中隊が、玻名城の95高地から北側に向かって走る峰に沿って陣地を構えている降服を知らぬ日本軍の抵抗に直面していた。この稜線は長さ約800メートルで、沖縄島では最も地形の荒いところ、スポンジのような珊瑚礁岩の塊があるかと思えば、ガラスのようにきり立った岩面をなしていた。

丘陵にはいくつかの堡塁とともに、歩兵一人一人が入れる無数の壕が掘ってあった。それにこの丘は95高地の陣地からまる見えであり、掩護射撃がきく。進撃は遅々としてはかどらず、中隊もわずかしか進撃できなかった。』(470頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 470頁より》

 

日本兵と民間人捕虜の収容

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安全な場所へ移動するまで地元民を留置し、応急処置を施す軍政府先発隊、第6海兵師団(1945年6月7日撮影)

Advance Military Government team, 6th Marine Division, holding civilians and giving first aid until picked up to go back to safety.

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海兵隊が我喜屋を占領したため、所有物を持って営倉へ移動しようと村を去る地元民(1945年6月7日撮影)

Natives leaving their village, Gakiya, with all their belongings to live in the stockade, as the Marines take over Gakiya.

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第32軍の動向

南部の戦況

『与那原方面を突破迫撃してきた敵第7師団は、第62師団の喜屋武陣地へ後退するに伴い、意外に早く混成旅団の陣地に肉迫してきた。時間の余裕を得んがため配置された前進部隊の抵抗も空しく、さして効果なかった。

6月7、8日ごろから、具志頭波名城安里付近は漸次激戦が展開する。敵は面憎くも、港川に輸送船を入れて、軍需品の揚陸を開始した。独立重砲第100隊の破壊を免れた15サンチ加農砲2門をもって、これを撃沈しようとしたが、遺憾ながらこの虎の子砲兵も、陣地進入の折り、転覆したままで最後まで活動するに至らなかった首里戦線で、あれほど活躍した砲兵だったのに、と思うが残念である。

陸海空三位一体で猛攻する敵に対し、旅団は頑強によく戦っている。陣地の右翼方面は珊瑚岸地帯なのでほとんど工事はできず、タコ壺も意の如く掘れず、しかも空海に暴露した地形であり、損害は刻々増加する

敵の攻撃方法は、首里戦におけるそれと大差はないが、比較的大きな戦車集団で、歩兵を随伴することなく、自由奔放にわが陣地内に挺進して攻撃するようになった。わが防御密度が疎かになり、抵抗線が弱化したので、敵が大胆に行動できるようになったものと思われる。』(390-391頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 390-391頁より》

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M4火炎放射戦車で八重瀬岳(ビッグ・アップル)を攻撃する米第96師団

96th Infantry Division M4 Flame Thrower Tank Attack On Big Apple Ridge Okinawa

96th Infantry Division M4 Flame Thrower Tank Attack On Big Apple Ridge Okinawa | World War Photos

『旅団の威力にある兵器は、108高地付近に布陣する10サンチ榴弾砲数門に過ぎない。軍砲兵隊も、この方面の戦闘に参加しているが、1日1門わずかに10発、しかも敵艦敵機の活動しない朝夕の一時、活動するだけだからあまり敵の脅威にはならない。旅団からは、「5、60輛のM4戦車の攻撃に対しては、我として対抗処置の施しようがない。さらに強力な砲兵掩護と、急造爆雷の大量補充が必要である。わが砲兵の射撃も、戦機を逸した地域射撃は効果がない。敵戦車を目視しつつ行う狙撃式射撃を実施して欲しい」との要求が喧しい。

砂野にこの旨連絡すると、「俺もその件はよく承知している。しかし軍砲兵も昔の通りと思われては困る。素質ががた落ちだ。通信も通じなくなった。観測所と砲兵陣地との連絡に2時間もかかることがある。機械的通信が頼りにならぬので、決死伝令で用を果たしているありさまだ。野戦重砲兵第1連隊長山根大佐は、自ら八重瀬岳の観測所で敵機の焼夷攻撃を物とせず、孤軍奮闘している。軍や旅団の希望には添うよう極力努力はしているが、這般の事情はご諒察を願いたい」との返事である。

急造爆雷は、10余トンの爆薬がまだ残っているから、どんどんいくらでも製造できると、軍兵器部長平岡大佐が請け合った。敵戦車群は、我々のあらゆる努力にかかわらず、わが陣内を暴れ回るのを止めない。幸い、日没ごろになると、その攻撃基地まで後退するのを例としたので、我々は夜間、陣容をなにがし程度建て直して戦闘を続けることができた。』(391-392頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 391-392頁より》

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日本軍の急造爆雷Satchel Charge

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 4]

 

住民対策

『島の南端に撤退して何日もたたないうちに、…戦闘は民間人の殺戮となった。…火力から必死で逃れる島民は、行先のあてもまったくなく、びっこを引いたり這ったりして南へ向かって歩いた。自分の村をめったに離れたこともない年老いた住民は見知らぬ土地で道に迷ってしまった。あるものはとぼとぼと歩きながら眠ってしまい、砲弾が落ちたり頭上に飛行機が近づいたりすると目を覚まし、また知らぬ間に眠りに落ちた。多くの者が飢えと渇きに苦しみ、身体が弱って、小さな包みを抱えてよろよろと歩くばかりだった。爆撃が始まると恐怖で逃げまどい、ある者は丘の上までよじ登り、やぶに引っかかって止まるまで反対側の斜面を転げ落ちた。何千もの住民が、開けた地域に横たわり、疲れきって動くことも立つこともできなかった

泥濘の細長い道は、第二次世界大戦で民間人がこうむった犠牲の証拠でいっぱいだった。避難民の集団は、戦力がひどく低下した第32軍よりもよほど大きかった。』(267-268頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 267-268頁より》

八原高級参謀の回想:

『津嘉山から摩文仁に至る途中のいたましい避難民の印象は、今なお脳裡に鮮明である。各方面の情報を統合するに首里戦線の後方地域には土着した住民のほか、軍の指示に従い、首里地域から避難してきた者多数あることは確実である。これら難民を、再びここで地獄の苦しみに陥れ、戦いの犠牲とするのは真に忍び得ない。軍が退却方針を決めたさい、戦場外になると予想される知念方面への避難は、一応指示してあるはずだった。しかし、同方面に行けば敵手にはいること明瞭だ、今やそのようなことに拘泥すべきときではない。彼らは避難民なのだ。敵の占領地域内にいる島の北半分住民と同様、目をつむって敵に委するほかはない。そして彼らへの餞けとして知念地区に残置してある混成旅団の糧秣被服の自由使用を許可すべきである。

軍司令官は、この案を直ちに決裁された。司令は隷下各部隊、警察機関---荒井県警察部長は、首里戦線末期においても、なお400名の警官を掌握していた。住民の保護指導のために、特に軍への召集を免除されていた。--- 鉄血勤皇隊の宣伝班、さらに壕内隣組の手を経て一般住民に伝達された。戦場忽忙の間、この指令は各機関の努力にかかわらず、十分に徹底しなかった憾みがある。指令に従い、知念向かった人々も、潮の如く殺到する敵の追撃部隊を見ては、怖気を出し、具志頭付近から再び踵を返す始末である。かくて琉球島南端の断崖絶壁上において、多くの老幼婦女子をいたましい犠牲としたのは実に千秋の恨事である。』(369-370頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 369-370頁より》

 

小禄半島の海軍

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

7日午後大田司令官は、指揮下の各部隊に4日以来の奮闘をたたえ、今後の健闘のため、次のような訓示をした。

小禄地区に敵来襲以来、各隊が連日肉弾特攻精神をもって勇戦敢闘しているのは、本職の最も心強さを覚えるところであり、また戦果に大なる期待をもつものである。

今や当地区は決戦段階に入っており、諸子はますます強靭作戦に徹し、短兵で功をあせることなく極力敵に出血を強要し、かねてより覚悟している小禄死守に海軍伝統精神の発揚と、戦果獲得に全力をつくしてもらうことを望む。予は74高地(司令部壕のある高地)にあり」』(109頁)

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 109頁より》

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司令官室

旧海軍司令部壕 [旧海軍司令部壕について] 

『玉砕を目前に控えた沖根司令部は同じく6月7日篤志看護婦として豊見城海軍外科壕へ手伝いに来ていた県庁女子職員十余人の身柄を、県庁へ返す配慮も忘れなかった。沖根からの連絡を受けた轟の壕から、警察官2人がl迎えに来た。』(372頁)

県庁女子職員の回想:

『「身柄を県庁に返す、という話があった時、私たちは『お国のために死ぬ覚悟で来たのですから、ここで最後まで働かせて下さい』と懸命にお願いしました。しかし、根拠地隊司令部は大田司令官の意向だったのでしょう、『知事から預かった職員は、知事の元へお返しするのが海軍のやり方だ』と言って聞き入れてくれませんでした。」』(373頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 372、373頁より》

 

県庁と警察警備隊の解散

沖縄県: (沖縄県知事・島田叡)・沖縄県警察: (警察部長・荒井退造)

沖縄県の島田知事と荒井警察部長の一行は、6月3日以降、最後の県庁・警察壕となった真壁村伊敷集落にある自然壕、「轟の壕」に辿り着いた。

『…この洞窟は事実上、県庁の最後の所在地となり、コウモリどころか最大時は千数百人の避難民や敗残兵がひしめいた。』(359頁)

『荒井は轟の壕に入ったころから、アメーバ赤痢に悩まされていた。』(363頁)

『荒井は下痢が続き、ほとんど横に伏せている状態だったが、住民を知念方面に誘導しようと病床で指揮を執った。警察官が何組も艦砲の合間を縫って避難民誘導のために次々と壕を出て行ったが、途中でやられて帰って来ない人が多くなった。それでもひるむ警察官は、1人もいなかった。

島田は荒井のそばで座禅を組み、無念無想の姿で鎮座していた。そんな6月7日深夜、荒井が突然、皆に提案した。

「明日は大詔奉戴日昭和17年1月2日の閣議は、前年12月8日の開戦にちなんで、毎月8日を大詔奉戴日と決めていた)だ。周辺まで来ている敵に馬乗り(米軍が洞窟陣地の頭頂部を占領、上部に穴を開け、ガソリンや火炎放射器で全滅を図る皆殺し作戦)されて朽ち果てるより、壕を出て相手と戦おうではないか。夜のうちに、あるいは明朝を期して、朝討ちしよう」

島田がこれに答えた。

「荒井君、我々は人事を尽くしたのだから、後は天命を待とうじゃないか。私は今日を期して、警察部を含む沖縄県庁を解散する」 』(367頁)

(投稿者註: 沖縄県庁の解散は6月9日という説、6月15日という説もある)

後方挺身隊にいた職員の記述:

『〈私たちは知事との交渉もなく、他の県庁部隊との連絡もないまま、約10日間というものは何らなすこともなく、戦場を彷徨しつづけていた。任務を放棄した今では、戦火を避けて逃げのびている難民のひとりだった。3月25日首里に県庁を移動してから2か月半がすぎていた。住民とともに沖縄戦を戦い、勝利の栄光を夢みた挺身隊の活動も、ついに難民の群れに消えていったのだ。〉』(369頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 359、363、367、369頁より》

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轟の壕(糸満市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

『荒井は首里撤退後の第32軍の士気にかなりの不満を持っていたようで、…軍の士気低下に反比例して、県民被害が増大することにいらだっての勇気ある直言だったと思われるが、そんな思いが死への苦悩と混じり合って言わせた〝過激な提案〟ではなかったか。

県庁・警察警備隊の解散は、伝令によって那覇署や糸満署員が居る壕にも伝えられた明治12年の置県以来、67年にわたった沖縄県と警察部の歴史は遂に幕を閉じることになったのである。』(368頁)

『…荒井は別動隊の敵中突破・本土到達がうまく行かない場合を考えたのか、彼らの出発後も「東京へ行こう」を繰り返した。

警防課長の…警視が「部長、その体では、とても無理です。私が代わりに行きましょう」と、その任務を買って出た。』(368-369頁)

知事警護官の証言:

『「挺身隊や分遣隊の時は編制替えであり、犠牲分散の態勢を取れ、ということでしたが、今回ははっきりと『解散』でした。事ここに及んでは非戦闘員である部下たちに行動の自由を与え、生き延びる機会を与えてやりたいと思われたのでしょう。そのかたわら荒井部長は沖縄戦での官民の苦悩と奮闘ぶりを、何としても内務省に知らせたかったようで、悲痛な声で『よし、東京へ行こう』と言われました」』(368頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 368、368-369頁より》

 

沖縄島からの脱出

警察特別行動隊(警察別動隊)

沖縄県の荒井警察部長は5月11日、8人の部下を選抜し、警察特別行動隊(警察別動隊)を編成した。彼らの任務は、内務省沖縄県民の現状を直接報告するというものであり、そのためには、米軍に気付かれないよう沖縄から脱出し、東京へ向かう必要があった。舟や食糧は、海軍が協力する手はずになっていた。翌5月12日、県庁・警察壕を出発した別動隊は、豊見城の海軍司令部へ行くが、沖縄島脱出に関し、海軍の協力を得ることができなかったため、自力で脱出を決行すりことにした。

『「万難を排して沖縄を脱出し、沖縄戦の現況及び県民の奮闘ぶりを本土・内務省に報告せよ」との特命を受けた彼らは、6月7日朝知念村知念城跡丘陵の壕に集結、陸路北上に備えて4つの班を編制した。…その時、約300メートル下の集落へ米軍部隊が近づいたので、4班は一旦、分散して退避、夕方、再びこの壕に集まって、北上を始めることにしたのだが・・。

雨になった夕方、隊員が壕へ戻ると、…隊長の姿がなかった。負傷して帰った…は「隊長は殉職されました」と涙ながらに報告した。それによると、2人は知念城跡の断崖絶壁で米兵7、8人のはさみ撃ちにあい、手榴弾戦の揚げ句、…警部はピストルで頭部を撃って自決した。

その夜から隊を指揮した…副隊長は、…3班に編制替え。翌8日夜、北部の集結地・久志村へ向け、それぞれ出発した。』(365-366頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 365-366頁より》 

 

 

そのとき、住民は・・・

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住民(1945年6月7日撮影)

Natives.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

伊平屋島(いへやじま)

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伊平屋島東海岸沖へ漁に行くため、船を運ぶ地元の漁師(1945年6月7日撮影)

Native fishermen carry boats to sea preparatory to beginning fishing trip off Eastern Coast of Iheya Shima.

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戦禍の中の尚一族

八原高級参謀の回想:

琉球王 尚家の一族数十名もまた…犠牲者であった。戦場の戦いもようやく激化せんとする6月7日の夜半、齢70余歳の老男爵を中心とする一族は、知念脱出の念願を果たさず、山城に引き返さんと敵砲弾頻りなる摩文仁部落を通過しつつあった。このとき哀れにも令嬢の一人が迫撃砲弾で重傷を受けた。この令嬢と付き添いの母堂、令姉の3人は、かねて懇意だった軍参謀長を我々の洞窟に訪れ、治療を乞うた。賀数軍医中尉の執刀で左腕を切断された令嬢は、付き添いの母、姉とともに顔色蒼白のうちにも毅然とした態度で、長将軍心尽くしの贈り物---かん詰め、食糧など---を携え、再び山を降りて麓に待つ一族のもとに帰って行った。』(370頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 370頁より》

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月7日

 

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