1945年 7月24日 『それぞれの食糧事情』

米軍による占領統治

配給と自給

『沖縄の「戦後」は、沖縄戦と米軍による占領統治が同時に進行する中に始まる。米軍は沖縄上陸後、住民を収容するとともに、米国太平洋艦隊及太平洋区域司令長官兼南西諸島及其近海軍政府総長である米国海軍元帥C・W・ニミッツによって発せられた、いわゆる「ニミッツ布告」の米国海軍軍政府布告第4号「紙幣、両替、外国貿易及金銭取引」ならびに同第5号「金融機関の閉鎖及支払停止令」により貨幣取引に関する一切の行為の禁止、金融機関の閉鎖、を指令する。米軍政府が沖縄を占領下において以降のおよそ1年間は、賃金の支払い、税金、商品の売買、金融など通貨に関するすべての経済事象は沖縄から姿を消してしまう。沖縄は、1946年3月25日公布の米国海軍軍政府特別布告第7号「紙幣両替、外国貿易及金銭取引」にもとづく第1次通貨交換まで、米軍政府による食糧品・衣類など無償配給の時代が続くのである。

沖縄の人たちは、無償配給の中にあったものの、それだけでは足りず、山のものであるソテツ・パパイヤ・ノビルなど、海のものである貝・海草を食糧にし、また農地を分け合っての耕作、米軍の上陸用舟艇を借りての漁撈に従事するなど、食糧の自給に努めるのであった。

無償配給と並んで、沖縄県内では物々交換がどのようにおこなわれていたのか。…収容所での配給物資では足りず、戦場を彷徨・避難しながらでも「命を賭して持ち続けて来た訪問着を手放して米2升」との交換、雷管、火薬を離島へ運び込み子豚や山羊などの家畜と交換して沖縄本島内への持ち込み、米と衣料品、肉類の交換、軍作業に出る時に自分で作った帽子と食糧やタバコの交換、などがあった。』(53-54頁)

《「沖縄  空白の一年  1945-1946」(川平成雄/吉川弘文館) 53-54頁より》

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貝を漁る地元住民 / Okinawan natives on beach digging clams.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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干潮時、貝やその他海産物、そして魚を捕ろうと浜に出る女性と子供

Women and children cover the beaches at low tide getting clams and other sea food and fish.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

高級参謀のその後 ⑤

第32軍の高級参謀の八原大佐は、組織的な戦闘が終わった後、民間人を装って投降した。しかし、目的は機会を見て沖縄島を脱出し、大本営に戦況を報告することであったため、米軍の動向を探る必要があった。米軍の管理下にある民家に置かれていた八原大佐は、7月17、8日ごろ、一緒にいた避難民から軍作業に出るよう誘われ、情報収集も兼ねて作業に出ることを決心した。軍作業当日、現場までの移動中に見た光景は、星条旗が翻り米軍の幕舎が建ち並ぶ様変わりした沖縄島だった。八原大佐は、その後も数回、軍作業に出た。7月23日夜、八原大佐は、米軍の事務所に出頭するよう命じられたが、これに従わなかった。

『…24日の朝を迎えた。…人々は、ぽつぽつ移転準備を始め出した。私は努めて平然としていたが、それでも、出頭命令を受けたことは、家人に告げた。皆は多少気の毒な顔をしたが、いままでに数名の人が、この家から次々連行されたのを見ているので、心を動かす者はない。CICに行くのをそんなに重大とは思っていないのだ。私は残ったかん詰めや菓子などを、とにかく給養の悪い縁側下組に分配した。…きのうの労務掛りの青年が、早く出頭して早く放免になった方がよいと督促に来たが、まごまごしているうちに、武装したMPが2人、サイドカーで迎えに来た。私は再びこの家に帰ることを念じていたので、「すぐ帰って来ますから、またよろしくお願いします」と挨拶した。女や子供たちは全部門に出て、手を振って別れを惜しんでくれた。

CICには、2、300名の男が収容されていた。年齢はまちまちだった。早く検問をと頼んだが相手にされず焦心のうちに2、3日は過ぎた。』(477-478頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 477-478頁より》

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田井等の地元避難民収容所で軍政府の手助けをしている米海軍所属スミス中尉。民間人は面談後、認識票をつけられた。

Lt (jg) A. N. Smith, USN from Dallas Texas, assisting the Military Government at the civilian reception center, Taira. After the civilian is interviewed he is tagged for identification.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

「解散命令」後の学徒たち

6月18日、第32軍は最後の命令を出した。それは、鉄血勤皇隊をひきいた遊撃戦を展開せよ、というものであった。しかし、学徒の中には解散命令を受けた者もおり、遊撃戦は、学徒各々に託された。

鉄血勤皇師範隊: 沖縄師範学校男子部

大田昌秀の体験談:

『…仲地と山城と私に2人の兵隊の一行5名は、一緒に国頭突破を実行するため住みついた岩山を後にした。月の明るい晩だった。港川方面は危険だというので、八重瀬岳を目標に進んだ。目立つ行動は危険なので、1人ひとりが相当の距離を保って進んだが、少しでもまごついたりすると、すぐに前方の人を見失う怖れがあった。

…夜が明けそめると、身を隠すのに腐心しなければならなかった。一行はちりぢりに分かれて草原やきび畠にかくれ、終日じっとしていた。そして夜になると再び一緒になって進んだ。そのうちに米兵は、片っ端からきび畠や草原にガソリンを撒いて焼き払うようになったので、うっかりきび畠にも入れなくなった。

行く手には、到る所に敵の野営地があり、電灯が煌々ときらめいていて、その傍を通る度ごとに命の縮む思いがした。二日二晩も敵中を突破すると、もう気力が続かない。明け方の薄明かりで見て草木が密生していると思って、身をひそめても、陽が高く昇るにつれてすっかり見通しが利く明るい所でしかない。その傍を米兵たちが何も知らぬげに笑いさざめきながら通る時は、思わず衝動的に飛び出したくなる。息を殺してじっとしていると、真夏の太陽がジリジリと地肌を焼き、顔から全身にかけて汗が流れた。いつまでも太陽の位置が移らない一日の長さ。しかも敵は畠の近くに銃を構えて坐りこんでいるので、少しでも動けばさとられてしまう。そのため用便もできぬしまつだった。

国頭突破へ出発して以来、3日間の食糧はわずかに甘蔗が2本あるだけだった。八重瀬岳に辿り着いたのは7月も中旬をすぎていた。途中、防衛隊の者が、野生の山羊を料理しているのにぶつかった。人のよさそうなその人は、痩せ細った私たちを見て、親切にも毛のついたままの足を一本こっそりつかませてくれた。山城と私は、歩きながらアメをしゃぶるように生の足に喰らいついた。交替でしゃぶった後、それを雑嚢に入れ、しばらく進んではまた取り出してしゃぶった。味も何もあったものではない。骨に付着して固まった血を、目をつぶって口にほうりこむだけだ。だが、生肉の摂取は、てきめんに胃腸を刺激した。私はしぼられるような腹痛と猛烈な下痢で身動きできぬようになった。

…入れるような壕は、すでに他の敗残兵が占領していて、絶対に入れてはくれない。昼になると、敵はあきもせず火器を動員して執拗に掃蕩戦にやってきた。やむをえず私は、岩間で焼き殺された死体を隅っこに寄せ、それらの間に交じって、ウンウンうなっていた。

敵の攻撃が激しくなるにつれて身をかくすすべもなく、従弟に引きずられて、東風平の方へと途をとった。つい、うっかり灯を消している敵の歩哨線に紛れ込み、それと知って度胆をぬかれ、畠の斜面を丸太のように転がり落ちたこともあった。…それでも時には、敵さんが遺棄した野戦食糧にありつけることもあって、腐りかけたクラッカーなどを呑みこんで何とか飢えをしのぐことができた。』(198-200頁)

《「血であがなったもの 鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦」(大田昌秀/那覇出発社) 198-200頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

国頭(くにがみ)山中の避難民 ①

『総面積の95パーセントが山で耕地の狭い国頭村には、中南部から続々と避難民や敗残兵が押し寄せ、村の農作物は一月もたたないうちに取り尽くされてしまった。山中の食糧難は、深刻をきわめていた。避難民たちは、野草、そてつ、椎の実、ヘゴ、川魚、青大将、やもり、みみずなど食べられるものは何でも食べた。5月になると、栄養失調で死ぬ者が続出した。私たちは、餓死か投降かという極限状況に追い込まれていた。

こういう極限状況の中で、真っ先に犠牲になったのは、老人と幼児であった。山奥の小川沿いに何十軒と続く空き家となった避難小屋の中には飢え死んだ老人や幼児の死体がいくつも見られた。なかには、道端に飢え死んだ人の腐乱死体が横たわり、その側を通ると、無数の銀バエがたかり、息もつけないほど悪臭を放っていた。自分たちもまた、やがてこういうみじめな死に方をするのかと思うと、餓死の不安が重苦しく胸をしめつけた。

7月中旬頃、部落内に陣地を構えていた米軍が海岸へ後退したので、私たちはようやく昼間の食糧捜しに行けるようになった。初めて真昼に恐る恐る山を降りてわが家に駆けつけてみると、住宅も納屋も畜舎もすべて焼き払われてしまい、屋敷には身の丈ほどの雑草が生い茂っていた。自分の田畑農作物は、すべて取り尽くされてしまい見渡す限り雑草におおわれていた。戦争のみじめさがひしひしと胸をしめつけ、しばらくは呆然として焼跡にたたずんでいた。

30分ほどたつと、三方の山から降りて来た親戚の人たちが7、8人本家の焼け跡に集まり、お互いの無事を喜び合った。昼間は、ときどき米兵がジープで回って来るというので、私たちは急いで野草を摘んだり、米軍陣地跡から罐詰を掘り出したりした。

1時間ほどたってから、山の畑にいた次郎じいさんが、「アメリカーどーい」と大声をあげて報らせた。みんなは、くもの子を散らすように山へ逃げた。5分ほどたってから銃声が4、5発聞こえて来た。この時、みんなを逃してやった次郎じいさんは、山の中腹を登る途中頭を撃たれて即死した。このように、米軍の捕虜狩りの方法は、生け捕りと銃殺の2つしかなかった。投降する者は生け捕り、逃げる者は老若男女を問わず銃殺した。

国頭山中の避難民は、6月23日の沖縄戦終了をまったく知らなかった。たとえ知らされてもデマだといって信じなかったにちがいない。私たちは、日本兵にさんざんひどい目に会わされ、餓死に直面しながらも米軍に投降しようとはしなかった。私たちは、沖縄戦終了後1ヵ月以上たってもなお、人州不滅という神がかり的な信念を堅持し、天皇の赤子としての誇りを死守しようとしていた。』(484-486)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 頁より》

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森林セラピーロード 国頭村観光情報コーナー 〜森と水とやすらぎの里”くにがみ〜

 

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