1945年 4月20日『後方で進む基地建設』

米軍の動向

周辺離島の制圧

伊江島(いえじま)

『…4月20日の攻撃では、主力を城山南部にいる第307歩兵連隊から、北部のほうにいる第306連隊のほうに移し、師団全体として城山の包囲陣を固めることになった。

4月20日午前8時5分、米軍砲兵隊は、目前にある日本軍陣地に猛烈な予備砲撃を浴びせた。午前9時、砲撃中止。日本軍を陣地からおびきよせるため、10分間、そのまま沈黙を守った。そして9時10分、こんどは前よりもはげしい砲撃を浴びせ、それが15分つづいた。第2回目の攻撃にきびすを接して、3個連隊は総攻撃をはじめた。』(168-170頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 168-170頁より》 

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伊江島攻略図(1945年4月19日〜20日

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

『第306連隊では、戦車隊や戦闘工兵隊が支援しながら、第1大隊がまず突進、第2大隊は城山の北部スロープの陣地に残留し、第3大隊は第1大隊につづいて進撃、その左翼に展開した。

伊江城の東方に陣取っていた第307連隊第3大隊は、攻撃部隊の活動範囲を広げるため南部へ退き、川平村落の西方にいた第2大隊は阿良の東方にいた第305連隊第1大隊と相呼応して、ふたたび、けわしいスロープをよじ登って、…峰やその奥の村落、そして村落の彼方にある城山めざして猛攻を開始した

西江前西方の第305連隊第3大隊は、東方に進出して町の南を、つづく4日間攻めたてた。城山を中心にたてこもった日本軍に対し、米軍が包囲陣をちぢめていくや、ただちに敵の猛攻撃をうけた。抵抗は前の日と同じように激しかった。川平南部の第307連隊も、西江前西方の第305連隊も、ここでふたたび、前日のような激しい戦闘をくりかえさねばならず、1メートルと前進できずに、またもとの迷路戦に入っていったのである。

城山のふもとから、北東の方向540メートルの地点に待機していた第306連隊先発隊は、前進を開始するやいなや、日本軍から猛烈な迫撃砲や小銃の反撃をうけた。城山がぬーっと目のまえにそびえた。木々はさけ、枝はへし曲げられ、荒涼たる光景を呈していた。』(170頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 170頁より》

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空から見た伊江島。城山(イージマタッチュー)頂上。(1945年4月20日撮影)

Aerial view of part of Ie Shima.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

4月20日朝の城山の状況を第77師団副団長は、つぎのように師団本部へ報告した。

「敵洞窟の陣地は3階建てのビルほどの高さもあり、各陣地がコンクリートで固められ、中央部と下部には機関銃を据えるという非常に高度のとりでである。村落の全地域、山の周辺などいたるところに敵機関銃や迫撃砲が構え、わが軍の砲撃にはビクともしない

…第306連隊は日本軍のおそるべき陣地を一つ、また一つと攻略していった。

…連隊は城山の斜面を、北部からまっすぐに日本軍の陣地へ向けて進んだ。城山のふもとから300メートルほど離れたところに、深い対戦車壕が横たわっていた。日本軍はこの壕からも、また山頂やトーチカ、洞窟からも野砲や対戦車砲で応戦してきた。米軍の前方には地雷が敷設され、火を吐く機関銃が待ちかまえていた。

第306歩兵連隊の攻撃は、…敵トーチカを攻撃するとともに曳光弾を使用して目標をねらい、協力なM18砲や戦車砲で砲撃した。』(171頁)

4月20日正午、ブルース少将はバックナー中将に、つぎのように報告した。

「わが軍は堅固きわまりない城山の敵陣地で未曾有の激戦のすえ完全にこれを包囲した」』(173頁)

『…20日の昼すぎまでに、第306連隊は城北の麓から約200メートルの全地域を完全に確保することができた。

…城山麓に陣取った第306連隊は、…午前2時30分、第2回目の攻撃に出た。…敵弾幕のなかを何回も進撃して、ついに城山の山腹に到達した。20分後には、部隊先頭は山の北東部中腹まできた。

米軍は下方の砲兵隊の掩護のもと、洞窟を一つ一つ壊滅していった。部隊は山岳戦の訓練をうけた歩兵であり、けわしい岩壁を巧みによじ登って火炎放射器や手榴弾で日本軍を殲滅していった。』(172頁)

 《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 171、172、173頁より》

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伊江村役所を目指し移動する米兵
ATTACK ON BLOODY RIDGE of 20 April was marked by severe fighting. Infantrymen of the 307th infantry, 77th Division move on the double toward Government House Hill, on the ridge.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

4月20日、第306連隊が城山を北側から襲っているあいだに、第305連隊と第307連隊は、西江前ー東江前の…南側斜面を攻めのぼっていった。激しい戦闘が4、5時間もつづいた。第307連隊第2大隊は、一度奪って奪い返された村役所のある丘の家を数件、ふたたび取りかえし、第305連隊第1大隊は東側から、村役所のある丘を見渡せる別のまるっこい丘を奪い返した。…米軍は反撃を予想して陣地構築をいそいだ。機関銃を村役所の二階に城山のほうに向けてすえ、部隊はその下のほうの道路一帯に、3中隊を東、西、中央というふうに配置した。…陣地構築後も、日本軍の小部隊の攻撃を2回うけ、その体当たり攻撃で戦車2輌がやられてしまった。』(173-174頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 173-174頁より》

 

南進する米軍

失敗した総攻撃

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司令部(1945年4月20日撮影)

Command Posts.

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4月20日の朝が来た。米軍将兵のムードは前日の朝とはまるで違ったものだった。疲れきっていたし、前進しても日本軍陣地はなかなか突破できないばかりか、損害は大きくなる一方ということを知っているだけに気持ちはますます重くなるばかりだった。』(214頁)

4月19日の中南部攻撃作戦は失敗した。日本軍の戦線は、どの陣地をも突破することができなかった。彼らはどこでも頑強に抵抗し、米軍を追い返したのである。西側の1号線道路近くでさえ、第27師団はかなり進撃したとはいうものの、そのほとんどの地域が日本軍のいない低地帯で、そこから、丘陵地帯への進撃は、猛烈な反撃にあって、のぞむべくもなかったのである。

その他の戦線も同じだった。朝出撃して、日本軍の抵抗線にぶつかると、もうその日の進撃は、それで終わりであった。

19日の戦闘の結果、米第24軍団の戦死傷者は、行方不明もふくめて720名に達していた。』(213頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 213、214頁より》

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負傷兵を後方に運ぶ様子

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 16]

『さし当たってやるべき緊急かつ重大な任務は、第96師団と第27師団のあいだのおよそ1キロ半のギャップを日が暮れるとともに前進して埋め、陣地を強化することであった。嘉数高地にある日本軍の堅陣は、ちょうどこの両師団のあいだにあり、日本軍堡塁の心臓はその後方、南にあった。』(214頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 214頁より》

 

牧港(まちなと)

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浦添村の西端(撮影日1945年7月10日)

投稿者註: 現・浦添市牧港付近。「HWY ONE」とあるのが「1号線」、現在の国道58号線

WEST END OF URASOE-MURA ESCARPMENT, area of 27th Division attack (photographed 10 July 1945).

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4月20日の夜が明けると同時に、丘の洞窟を陣地にしていた日本軍は、牧港入江の橋を重砲や迫撃砲砲撃しはじめた。この砲陣めざして米軍戦車隊は直撃弾をあびせ、これを沈黙させたが、日本軍の320ミリ砲弾もまたひっきりなしに米軍のほうに落ちてきた。

川向こうの日本軍砲兵陣地からの弾幕砲火は、午後3時30分に開始され、4時までには歩行橋だけを残し、ベイリー・ブリッジが1本、そしてゴム舟橋が破壊された。』(212-213頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 212-213頁より》

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 37mm銃(1945年4月20日撮影)

Okinawa-Guns & Weapons -Guns 37mm.

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城間(ぐすくま):「アイテム・ポケット」

『第165歩兵連隊…は、4月20日、2個大隊を先頭に、第27師団の右側に攻撃態勢をととのえた。…20日の朝、攻撃態勢をととのえるや、ただちに前面にある城間北部の高地めざして進撃したが、たちまちにして猛反撃にあった。第1大隊が1号線道路を南へ進撃すると、付近に塹壕を掘ってかくれていた日本軍がはげしく迫撃砲や機関銃で砲射撃を加えてきて、先発の部隊と後方とを断ち切ってしまった。

…大隊は夜までには、どうにか城間の東端に達することができたが、ここでふたたび第2大隊との連絡が断ち切れてしまった。彼らも同じように日本軍陣地の西方ではげしい抵抗にあっていたのだ。(215-216頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 215-216頁より》

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投稿者註: 米軍は城間の日本軍陣地一帯を「アイテム・ポケット」と呼んだ。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

『…このポケット(山あい)は日本軍陣地の中枢部をなし、ここから大車輪の輻のように低い峰が四方に走り、谷ができ、水田があった。』(216頁)

『アイテム・ポケットからは北と西の両方の海岸線や、1号線道路が南北に走ってその東側にある平地もすっかり見渡せた。日本軍は早くからこの地域が防衛陣地構築には北西海岸からの上陸に対しても、また陸上北部からの攻撃に対しても最適であると知って、米軍上陸の数ヵ月前から兵や沖縄の労務者駆使してトンネルを掘り、中で生活できるようにし、病室もこしらえていた

このあたり一帯の日本軍守備隊は、…戦車隊、機関銃隊のほかに高射砲隊、砲兵隊、迫撃砲隊で装備されていた。少なくとも600の日本軍と数百名の沖縄人がこの山あいを守っていた。』(217頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 216、217頁より》

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米軍が「アイテム・ポケット」と呼んだ城間の日本軍陣地一帯

ITEM POCKET, scene of a bloody, protracted battle in the 27th Division zone of action. (Army Photograph)

Chapter 07 | Our World War II Veterans

『第165歩兵連隊第2大隊の歩兵は、20日、第1大隊の右側で作戦を展開、…タコ壺や洞窟の陣地を、一つ一つ片付けたが、大した進撃はできなかった。大隊が偵察隊を試みて左方の第1大隊と合流しようと進撃するや、たちまちにして山あい後方の陣地からものすごい砲撃をうけた。…日本軍の迫撃砲は、米軍機関銃がこれに応酬しようと構えるヒマもなく打ちのめし、そのため機関銃隊は掩護射撃陣をつくることもできないまま、…退却せざるを得なかったのである。』(217-218頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 217-218頁より》

その後、米軍歩兵は西方へ進むも、丘陵の日本軍から銃砲撃をうけ、応戦するにあたり白兵戦も展開された後、この日は日本兵が退却した。

 

伊祖(いそ)

4月20日の朝、2つの丘陵の周辺で、早くも激しい戦闘が展開された。第105連隊長ウィン大佐は、第2大隊と第3大隊に命令を発し、第2大隊が先頭になって丘陵につくと同時に南進して攻撃を開始せよと連絡した。だが、このあたり一帯の峰から撃ち出される日本軍の砲火はすさまじく、第2大隊は頂上に近寄ることさえできなかった。』(262頁)

『丘の両側に据えられた日本軍の機関銃は、米兵があらわれたとみるや、たちまち火を吐いて、通路一帯を掃討した。迫撃砲や手榴弾が炸裂し、飛び交う破片は地域一帯を埋め、日本の狙撃兵は装填するまもないくらいたてつづけに撃ちまくった。

丘の上めがけて突進しながら、兵はばたばたと倒れ、ある者は戦死、あるものは負傷、さらに別の兵は、下方に転がりこんで岩かげや草むらにかくれて弾丸をさけた。

…丘陵地帯にあって地の利を得た日本軍は、崖の下のほうで総くずれをきたした米軍に対して容赦なく砲火を浴びせた。米軍の前線では兵は撃たれて地底に落下し、そのまま動かなくなった。それでもなお別の兵は全力をふりしぼって丘をかけ登り、すでに峰の上まできて…東に進撃しつつあった第1大隊の戦線まで、ようやく辿りつくことができた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 262、265-266頁より》

 

嘉数(かかず)

4月20日、米第24軍団のホッジ少将は配下の第27師団指揮官に、日暮れまでに嘉数高地を占領せよと命じた。だが、同夜から相当数の守備軍が嘉数部落付近に現れ、臼砲や機関銃で進撃中の米軍に猛烈な砲火を浴びせ、全部隊を釘づけにした。米軍は3時間もの間、腹ばいの前進を続けたが、わずかに450メートルしか進出できなかった。』(114頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 114頁より抜粋》

 

我如古(がねこ)浦添西原

4月20日の朝早く、第382連隊の第1大隊は、前日に占領したばかりの墓地地帯の奪還反撃をうけ、第3大隊がこれにかわって、午前7時30分、盆地の北側から南側陣地を攻撃した。…はげしい戦闘が一日中つづいた。日本兵は頑強に陣地を守ったばかりでなく、迫撃砲を撃ちながら銃剣をかざして反撃に出た。』(252頁)

『…第382連隊の第3大隊は、墓地地帯の南端まで進撃し、第381連隊の第1大隊は、右翼(西方)に位置を占め、午前11時、西原丘陵に一斉攻撃を行った

この攻撃は、砲兵隊の予備砲撃もなく、突然に行われたので、日本軍をすっかりあわてさせた。…午前11時25分、西原丘陵の頂上に達した。

…第381連隊の第1大隊が、西原丘陵到着に成功したので、連隊長ハロラン大佐は第2大隊に対し、午後1時、攻撃を開始して右翼に回るよう命令を下した。

米軍がこれから攻撃しようとする地域は、嘉数丘陵の頂上にいる日本軍の砲座からまる見えだった。そのため嘉数付近にいた米軍の1小隊は、西原丘陵220メートルに近づいた際、ものすごい砲撃をうけてその兵力の半分を失った。』(253-254頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 252、253-254頁より

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第96師団進撃図(1945年4月20日〜24日)

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/USA-P-Okinawa-9.html

『右翼にいた第381連隊の第2大隊には、攻撃に対して激しい仕返しがきた。嘉数高地からは自動機関銃が火を吐き、迫撃砲弾幕を張った。

…重砲弾のすごい炸裂音、雨あられのように降ってくる迫撃砲弾、そして、激しい日本軍の機関銃の音で、米兵のなかにはその日のうちに気が狂った者もかなり出てきた

…西原丘陵の戦闘で、米軍の作戦は困難をきわめた。師団左翼の方では、千原高地の日本軍が、第382連隊の第2大隊を制圧していて、偵察行動さえ限られていた。一方、右翼のほうはどうかというと、ここでも第27師団担当地区内の嘉数丘陵の頂上に、日本軍がでんと構えて、第381連隊の第3大隊を身動きさえさせなかった。』(254-255頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 254-255頁より》

 

千原(せんばる)

『米軍は4月20日の岩山攻撃では、一歩も進撃することができなかった。第7師団長アーノルド少将は、…主力を右に移動させて、このあたり一帯に兵力を集中し、第17歩兵連隊のB中隊は、20日の午後4時30分、第184連隊に回されて戦線に並んだ。米軍はわずかに進撃できたが、日本軍の手榴弾を恐れて退がり、その夜は塹壕を掘って待機した。』(249頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 249頁より》

 

和宇慶(わうけ)

4月20日、和宇慶高地に対して集中攻撃が開始された。

…和宇慶高地攻撃に当たった第184連隊の第2大隊と第32連隊のG中隊は、午前7時30分、進撃を開始するやいなや、ほとんど同時に迫撃砲や機関銃の攻撃をうけ、午前中はまったく行きづまってしまった。だが、火炎砲装甲車2輌が、迫撃砲歩兵の前方350メートルの地点まで侵入して、和宇慶高地西側のスロープの日本軍迫撃砲陣地を焼きはらったた。このため第184連隊のグリーン中佐は、第32連隊のフィン大佐と連絡をとり、彼の部隊が、和宇慶高地の日本軍と178高地東部に日本軍陣地を攻撃することになった。この攻撃では迫撃砲を使い、105ミリ煙幕砲弾を撃って…丘陵を煙幕で包み、これを合図に戦車隊を先頭に、歩兵がつづいて和宇慶高地を攻めることになった。』(243頁)

『…丘の側面にいた日本軍が反撃してきて、ここではげしい攻防戦が展開されたのである。

…日本軍は、一晩中、丘陵前面を砲撃し、そのため米軍はタコ壺のなかで5名が戦死、18名が負傷、このなかには中隊長2名、小隊長数名もふくまれていた。夜が明けるまえに、日本軍はふたたび反撃してきた。そのなかには、爆薬箱を投げ得る距離まで接近してきた兵もいたが、これも撃退された。』(244頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 243、244頁より》

 

進む航空基地建設

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ニミッツ海軍元帥。読谷飛行場にて。写真中央はニミッツ元帥がおり、その隣にはスプルーアンス海軍大将(後ろ姿)がいる。スプルーアンス大将の右隣にいるのはバックナー中将。(1945年4月20日撮影)

Adm. of the Fleet Chester W. Nimitz at Yontan Airfield, Okinawa, Ryukyus. Adm. Nimitz, Adm. Raymond A. Spruance (back to camera) and Gen. Simon B. Buckner.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

沖縄と伊江島に基地を建設しようというその狙いは、もちろん、将来の作戦にそなえて、艦隊や航空隊の前進基地と補給基地にすることであった。とはいえ、最初のうちは、全建設作業は、進攻作戦遂行のほうに向けられた。幹線道路と、物資集積所への主要道路が建設され、読谷と嘉手納の飛行場は使用を開始し、海岸沖合のタンカーと連結したガソリン貯蔵施設の建設がはじまった。』(444頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 444頁より》

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沖縄本島の建設大隊のキャンプ。慌ただしい看板屋へと変わった、地元民の藁葺き家屋の前に立つ、フラナガン塗装工兵(左)とオグボーン塗装工兵(右)。(1945年4月20日撮影)

CB camp at Okinawa, Ryukyus. Standing in front of thatched native hut which was turned into busy sign emporium are (L-R); Francis W. Flanagan, Ptr2c, and Earl G. Ogborn, Ptr3c.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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写真左下と右上には、日本の古い橋が見える。それらと並列して架かっているのは、建設大隊が新たに建設したベーリー橋。比謝近くにて。この橋は、南部戦線で苦戦している陸軍に二車線道路を提供するために、きわめて短い期間に建設された。(1945年4月20日撮影)

Old Jap bridges, lower left and upper right, paralleled by new CB-built Bailey bridge near Hiza [Hija], Okinawa thrown up overnight to provide two-way traffic for hard-pressed army on south front.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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沖縄縦断道路を建設する様子。1号線の建設作業のためブルドーザーに乗っているパルーク機関兵曹(左)とグレイ(右)。その様子を眺めている子ども。(1945年4月20日撮影)

Construction on a main trans-island highway at Okinawa, Ryukyus. L-R; E. C. Paluch, MM2c, and E. P. Gray on bulldozer working on Route #1, as unidentified children look on.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『沖縄上陸前の最初の案では、米軍基地、なかでも飛行場建設予定地として、他の島も占領することになっていた。すなわち、沖ノ大東島、久米島宮古島、喜界島、徳之島などが、アイスバーグ第3期作戦で占領を予定し、そこに戦闘機やB29やレーダー建設をすることになっていたが、時がたつにつれ、偵察して見て、これらの島のなかには、目的に適しないところもあることがわかり、占領は中止された。ただ、久米島だけが、6月26日に占領された。これは航空基地用としてではなく、沖縄群島の対空電探を強化するためであった。』(445頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 445頁より》

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迅速に整備された嘉手納基地(1945年4月20日撮影)

DEVELOPMENT OF AIRFIELD at Kadena (photographed 20 April 1945) was rapid.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 16]

『沖縄島や伊江島の基地工事が順調にいったのは、第3期作戦として計画されていた宮古作戦を放棄する決断を下したからにほかならない。4月9日に、第10軍はニミッツ提督に、沖縄の地形を詳細に調べたところ、長距離(VLR)爆撃機用基地に開発できる飛行場があることがわかった、と報告、…宮古作戦は4月26日に中止された。…沖縄島に18、伊江島に4つの滑走路をつくることになった。…沖縄での飛行場建設はB29用、伊江島は主に長距離飛行機戦闘護衛機用として、行われることになった。』(445頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 445頁より》

 

 

第32軍の動向

北部戦線

本部(もとぶ)半島周辺: (国頭支隊・宇土大佐)

八重岳が米軍に占領され、多野岳に後退することになった日本兵と学徒らは、山中を歩き続けていた。中には負傷者もおり、総勢千人の隊列であった。前日、名護出身の将校が道案内を申し出たが、その先は米軍が陣地を造って駐屯していたため、一行は米軍の銃弾をうけてしまい、後方へ逆戻りしていた。

20日、夜、死傷者を始末するいとまもなく、古我知山を出発した。すべて夜間に限られた山中の行軍は、隊列の間に、疑心暗鬼を生み勝ちであった。「ビーマタに部隊を誘導したのはスパイの仕業だ」「うっかり道案内を任せるな」といった声が、隊列から響いた。「まだか、羽地はそんなに遠いのか」という叫びもきこえた。その時羽地村出身の…兵長が「呉我を通って仲尾次に出るのが最も近くて安全です」と中島隊長に告げた。だが、役場には、その時既に米軍が入っていた。隊列は、米軍の陣地の見える川に沿って、急に道路に出た。…遙か後方で轟然たる爆裂音が起こり、一瞬炸裂の火が隊列を照らし、再び闇の中に呑まれた。「何んだ、今の音は」という声がおこり、やがて「海軍のひもつき爆弾を誰かが誤って発火させたのだ」という事が遙か後方から伝わってきた。先頭止まれの伝令が走り、「小休止」となった。…こんどは、思いがけなく、迫撃砲弾が注ぎ込まれた。呻き苦しむ重傷者や死体を残して、隊列は又、無言の行進を起した。不意打の砲撃に後方の隊が崩れ、またも中断してしまった。隊列は約500人に減っていた。(306-307頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 306-307頁より》

 

伊江島の「六日戦争」

伊江島(いえじま): (国頭支隊・井川少佐)

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伊江島飛行場へ続く道路に、地雷として埋設されていた航空爆弾。爆弾は道路から掘り出され、爆弾処理隊によって信管が取り外された。(1945年4月20日撮影)

Aerial bombs that had been used as road mines on road leading to airfield on IE SHIMA. Bombs had been dug out of road and fuses removed by bomb disposal units.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

伊江島で使用された地雷は何千とあった。そのほとんどを日本軍は飛行場や海岸、さらに海岸から上がる道路沿いや、村落の西側にある堅固な防衛陣地の前に埋めてあった。地雷の多くは、爆弾からつくりかえた即製のもので、敷設のしかたもじつに簡単なやり方をしていた。地面に穴を掘ってヒューズを上に出して埋め、2本の棒を立ててそのうえに大きな石を乗っける。1本の棒に針金をゆわえ、それを岩かげにかくれた兵が米軍の車輌が近づいたら引いて石を落とし爆発させるという仕組みである。この爆弾地雷は優に15トンの装甲車をひっくりかえすに十分だったのである。

こういう即製の地雷も多かったが、もちろんふつうの地雷もたくさん使用していた。』(167-168頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 167-168頁より》

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伊江島で地雷として使用された航空爆弾によって破壊されたと思われる戦車。(1945年4月20日撮影)

Tank possibly destroyed by aerial bomb used as a mine on IE Shima.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

伊江島の日本軍の装備は、それほど大きなものではなかった。だが、彼らのもっている迫撃砲、対戦車砲、重・軽機関銃はじつに効果的に使用され、さらに兵器の足りない者は爆薬箱、手榴弾で戦い、荒けずりの棒の先に短剣をつけた槍で斬り込んできた。

伊江島では慶良間の場合と違って、日本軍は多数の民間人を戦闘員として使った。なかには乳呑み児を背負った婦人もいて、こういう人たちが斬り込み隊に加わり、みずから死ぬと知りながら米軍陣地に突撃し、日本軍の塹壕や洞窟陣地の防衛に一役買って出たものもいた。』(167頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 167頁より》

八原高級参謀の回想:

『…伊川少佐、田村大尉らは、伊江城山の陣地に拠り、孤軍奮闘善戦したが、衆寡敵せず20日暁までに、ほとんど全員壮烈な戦死を遂げた模様である。その戦闘状況は、途絶えがちの無線通信のため、軍司令部にはほとんど判明しなかった。

敵は軍の希望に反し、まず八重岳の国頭支隊を撃破した後、伊江島に上陸した。本部半島に準備した長射程砲は、ついにその威力を振るうに由なく、無用の長物化してしまった。さすがに敵は至当な作戦行動をとったものと認めざるを得ない。

しかし敵に至当な行動をとらしめたことにより、伊江島の攻略はわが将士の貴重な犠牲と相俟って、4月20日まで遅延した。その上に東洋一を誇るどう飛行場は、3月10日以来徹底的に同島守備隊の手により破壊されていた。したがって軍としては希望以上長期に亘り、敵の同飛行場使用を阻止し、完全に同方面における作戦目的を達成し得たのである。』(226頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 226頁より》

村長・真栄里豊吉氏(63歳)は、井川部隊本部で常に将兵の士気を鼓舞していたが、4月20日白はち巻きに手榴弾を握って夜襲に参加、ついに米軍の布陣する学校付近で戦死した。』(257頁)

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 257頁より》

女子救護班にいた女性の証言:

『きょうは20日だけど、明日は伊江島玉砕の日で、21日はもう午前2時はみんな斬り込みに出ていなくなるから、…わたしも斬り込みに行きますと言ったわけ

『わたしはウメダ伍長に、わたしも斬り込み行きたいから連れて行ってくださいと言ったから、そうか、行くかと言われたから、「はい」と、モンペを上下着けて、鉄かぶとをかぶって、靴は渡されていたから、鉄かぶとと靴もはいて、短剣を渡されていたから短剣を差して一緒に行ったからね。行くつもりですよ、わたしは。こっちにいるよりは斬り込みに。』

 

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中南部戦線

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沖縄戦で米軍が日本軍の壕を封鎖した際、舞い上がった破片。敵から奪ったトリニトロトルエン爆弾が使われた(1945年4月20日撮影)

Debris fills the air as U.S. Army forces seal up a Japanese cave during operations on Okinawa. TNT captured from the enemy was employed for the task.

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4月20日、ついに西の牧港と東の和宇慶が突破された。第32軍司令部は、東西の両翼から米軍にまわりこまれることを恐れ、戦線を全面的に後退させることを決めた。』(81頁)

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 81頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

収容所生活

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家族で昼食の材料となる芋を掘る (1945年4月20日撮影)

Okinawan farmer and his family digging up sweet potatoes for noon chow.

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陸軍カメラマンにポーズをとる下原村の住民(1945年4月20日撮影)

A venerable resident of the village of Shimobaru poses for an Army photographer.

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収容所で、沖縄人男性を対象に薬剤師助手による検診が行われている(1945年4月20日撮影)

Sick call being held by a Pharmacist's Mate for male Okinawans in the compound.

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