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米軍の動向
アイスバーグ作戦終了
7月2日、アメリカ軍は沖縄占領を目的としたアイスバーグ作戦の終了を宣言。次の攻撃の標的を日本本土に定めます。
1945年1月6日に作成された「第10軍作戦計画アイスバーグ(氷山)」は、米軍が沖縄戦に際して用いた総合作戦計画書です。この作戦は、米軍が日米開戦以降太平洋地域で展開した戦闘の経験や教訓を盛り込み、沖縄占領に引き続く日本本土上陸までを視野に入れたものでした。<中略>
掃討戦を続けた米軍は、7月2日にアイスバーグ作戦の終了を宣言しました。
アイスバーグ作戦計画書 1945年1月6日 (左)表紙 (右)第1章 概要
第1章 概要より
b.アイスバーグ作戦の目的は、
(1)(沖縄に)軍事基地を確立すること
(2)東シナ海から中国沿岸及び揚子江流域にわたる海路および空路の安全性を確保すること
(3)日本に対して間断ない圧力をかけること
7月2日、琉球作戦終了が宣言された。
沖縄に払った代償は大きかった。米軍側の最終的な死傷者数は、日本軍に対するあらゆる大戦の中で最大のものだった。米軍の戦闘死傷者数は合計49,151名で、そのうち12,520名が死亡または行方不明、36,631名が負傷した。陸軍の損失は4,582名が死亡、93名が行方不明、18名が負傷した。戦術空軍を含む海兵隊の損失は、死者・行方不明者2,938名、負傷者13,708名であった。海軍の死傷者は死者・行方不明者4,907名、負傷者4,824名となった。この作戦中の戦闘以外の死傷者は陸軍で15,613名、海兵隊で10,598名に達した。船舶の損害は沈没36隻、損傷368隻で、そのほとんどが航空攻撃によるものだった。4月1日から7月1日までの航空損失は763機だった。
米陸軍公刊戦史 Okinawa: The Last Battle, Chapter XVIII: The Battle Ends, p. 473
services for those who died in invasion.
侵攻作戦で亡くなった者の葬式(1945年撮影)
勝利の代償が甚大であったのは、この戦いが予想以上に強力で有能に指揮された日本軍と、実に巧みに要塞化された困難な地形、本国から数千マイルも離れた場所で行われたという事実によるものだ。この戦闘は予想よりかなり長引いた。しかし、アメリカ人は、最終的には彼らが望めばどんな足場でも日本から奪い取ることができるということを沖縄で再び実証したのである*1。
米陸軍公刊戦史 Okinawa: The Last Battle, Chapter XVIII: The Battle Ends, p. 473
沖縄にある司令部墓地の一つ。(1945年7月1日撮影)
One of the Island Command cemetaries on Okinawa, Ryukyu Retto.
〝沖縄〟という米軍基地の建設
米軍は次々と日本軍の基地を接収、更なる基地建設を進めた。1945年の沖縄戦で米軍は11の飛行場とおよそ20の小飛行場、その他おびただしい軍事施設を構築した。
沖縄の軍事的価値は期待をはるかに超えていた。それは多数の部隊を収容するに十分な広さがあり、また敵の本土に近い多数の飛行場用地を提供した。そしてそれは海軍が日本の玄関口で活動を続けるのを可能とする艦隊の停泊地を提供した。
米陸軍公刊戦史 Okinawa: The Last Battle, Chapter XVIII: The Battle Ends, p. 474.
小禄半島の米軍基地化
日本軍の小禄飛行場があった小禄半島は沖縄戦から1970年代にかけ、そのほぼ全域 (70.45%) を米軍が基地として占領することになる。
Frame work of these hangars is all that remains of the abandoned Naha Airfield, Okinawa, Ryukyu Retto. Roof and walls can be repaired in short order by our engineers.
これら格納庫の骨組みは、放棄された那覇飛行場に唯一残っているものである。屋根と壁は米工兵隊なら敏速に修理可能である。(1945年7月2日撮影)
牧港飛行場 - 日本軍が建設半ばで放棄した仲西飛行場は、重爆撃機用滑走路として拡張するため6月1日から7週間で再造成された。
米陸軍: Base development by the 1166th Engr. Constr. Group of the Machinato airstrip.
牧港飛行場の第1166工兵隊による基地建設工事 1945年 7月
米軍保養施設
また軍事施設にはいくつかの米軍保養施設も含まれていた。石川の民間人収容所がおかれた海岸はやがて米軍基地「石川ビーチ」となる。(1977年返還)
Soldiers relax by going swimming at the beach at Ishikawa.
石川のビーチで海水浴を楽しみながらリラックスする兵士達(1945年7月2日撮影)
米軍の戦史に「ありったけの地獄を集めた」と記録された沖縄戦の一方、米軍は島の美しさを「沖縄の逆説」「矛盾の島」と記録している。
米沿岸警備隊: Okinawa...A Paradox: A Touch of Home--and Japan
沖縄の逆説 − 故郷アメリカにも日本本土にも似た風景 1945年7月2日
米沿岸警備隊: Okinawa...A Land of Contradictions: Devastation...Industry...Beauty
矛盾の島・沖縄:破壊、勤勉、美 1945年 7月 2日
Curious Kids Caper amid Okinawa Ruins
廃墟の中を飛び跳ねる二頭の仔ヤギ (1945年7月2日)
嘉手納飛行場 - 斬りこみの兵士
米海軍: Dead Jap in vicinity of MAG-33 gasoline dump of Kadena Airfield, Okinawa, Ryukyu Islands.
日本兵の死体。嘉手納飛行場の第33米海兵隊航空群燃料集積所付近にて。 1945年 7月 2日
第32軍の日本兵
歩兵第32連隊の敗残兵
国吉: 歩兵第32連隊
沖縄戦の最前線で戦った陸軍歩兵第32連隊。山形県、北海道、沖縄県の出身者で編成され、およそ3000人が投入された。5か月にわたる過酷な戦いの中で、将兵の9割が戦死する。
敬愛する雨宮師団長が戦死したらしいと知ってから数日後の7月初め、伊東は樫木副官と共に国吉集落の東側を見回りしていた。そこで島の南端から逃げてきたという2名の兵に会った。彼らは、軍司令官閣下が6月22日に自決されたと告げた。実際は23日の黎明だったが、その頃の伊東は知る由もない。
連隊本部に聞いたらば、師団長は「最後の一兵になるまで、現在の陣地を守って戦え」と、こういう最後の命令を出したということが分かった。軍司令官からの命令は聞いていません。ただ、師団長からそういう命令が出てたから、連隊もまた、最後の一兵となるまで、頑張るしかしょうがないなと。
喜屋武岬の南端で生き残った兵士たちは、また国吉台地に向かった。
(住民は) 特に女の人が、女の人それから子どもの人が多いんですよ。やっぱり男の人なんかあんまりいなかったですね、子ども、女の人、年寄り。… 32連隊、連隊長もそっちのほうにまだ元気でしたから、山城からちょっと離れたところにいたんですけど、ここがもう最後で、国吉が最後で、「もうこっから下がらないから、とにかく、動ける者は、全部もう山城でなく、国吉に戻れ」って。それ、もう全部戻りました。
渡嘉敷島 赤松隊 - 伊江島住民の虐殺
海上挺進第3戦隊 (隊長: 赤松嘉次) - 渡嘉敷
「沖縄戦の縮図」ともいわれる、4月16日からの伊江島の戦争で住民の半数が犠牲となる。生き残った住民は米軍に収容され、5月20日頃、渡嘉敷島と慶留間島の収容所に移送されていた。しかし渡嘉敷島は未だ山に陣地をもつ赤松隊が住民を掌握し、虐殺を繰り返していた。
米軍は、捕虜となった伊江村民を日本軍が降伏したわけではない渡嘉敷島へと移動させ、米軍の上陸作戦から逃れるために自宅を放棄し山中へと避難した渡嘉敷村民の住宅に住まわせたのである。米軍のありあわせの捕虜収容対策は、捕虜の安全への配慮を著しく欠いた対応であり、犠牲死を生む第一の原因であった。
渡嘉敷島の「集団自決」赤松嘉次隊長の沖縄戦 ~ 「そんな話は、まったく身に覚えのないことですよ」 - Battle of Okinawa
7月2日頃*2、渡嘉敷の収容所にいる伊江島住民の若い男女6人が投稿勧告に行き赤松隊により殺害される。一人の女性は身重であった。
4月16日、伊江島に上陸した米軍は21日には占領を完遂、日本軍が建設した3本の滑走路のある飛行場を使用するため、住民を慶良間や今帰仁に移住させた。その数は、慶良間では渡嘉敷島が約1,700人、慶留間島は約400人に及んだ。
… 7月2日,米軍は伊江島住民6人に第3戦隊に投降勧告書を届けるよう指示した。その6人は前進陣地で捕えられた。赤松戦隊長は米軍の投降勧告を拒否、陣地の状態を見た以上、帰すわけにはいかないという理由で6人は「処刑」された。
《川田文子「70年余を経た複郭陣地跡と 「慰安婦」の写真」(2017年) p. 79. 》
安里ヤス(安子)は処刑時に逃亡した。再び捕らえた彼女を隊は沖縄県出身の将校に処刑させた。彼は赤松隊の副官は隊で唯一の沖縄県人であり九州で召集されていた。沖縄差別と軍隊教育はこの副官に完全な軍への同化をもたらしていた。
私は寮で毎日出てくる「おかず」の名さえ知らなかったのです。「疏球者」とさげすまれ、苦しいことばかりで、なじむまでに永い時間がかかったように思います。そういう私は、いつの間にか、他府県人には負けないぞ、という生き方にかわって行っていました。… 伊江島の女性を私が処刑しました。伊江島の男女四人が、投降勧告文書を持って、陣地に近づき、捕えられ処刑されました。ところが、その中の女性一人が生き還って逃げてしまったのです。基地隊の西村大尉は私を呼びつけ、お前が逃がしたのだろうというので、私は非常にしゃくでした。今度は捕えたので来てくれというので、行ってみると、女性は首を斬られて、頭がぐきりぐきりと小きざみにふるえていました。… この女性はすっかり観念し、刀じゃなく銃でやってくれといっていました。銃は敵に向けるべきものなのですが、私は自分の短銃で殺しました。… 私がやったことは軍隊でやったことで、命令に従ってやったまでのことです。私には何もやましいものはないと信じています。… 私は沖縄県人といっても赤松隊の一兵士です。
《知念朝睦「副官の証言」沖縄県史 10巻 773-774頁》
さらにこの副官は罪なき朝鮮人軍夫3人も処刑する。彼は後にこう証言する。
海岸にひそんでいる三人の朝鮮人を捕え、私は「おまえたちの名誉にかかわることは一切公表しない。靖国神社にも祀る」と説得して斬りました。よろこんで死にました。
(筆者) 村民が殺してくれと要請したのですか。
(知念) 殺してくれとは云いません。しかし報告のとおりだと、軍規にふれますから殺さなければなりません。… 私たちは、朝鮮人については、その名も知りません。ことばは通じなかったし、立場は違うし、あまり関心もありませんでした。
《知念朝睦「副官の証言」沖縄県史 10巻 774頁》
また同時期、渡嘉敷小学校訓導の大城徳安も処刑されている。
妻子の窮状を聞いた訓導は、逃げて妻子のもとへ帰りました。三回逃亡しては捕えられ、とうとう処刑されてしまいました。
《知念朝睦「副官の証言」沖縄県史 10巻 774頁》
伊江島住民の処刑は7月2日ではなく6月6日頃ではないかとする説もある。またこの頃、同じく米軍の収容所にいる若い女性のところに日本兵が2度も「呼び寄せ」に来ていること、女性たちの持ち物を等に関し、兵士たちが若い女性を求めていたと考えられると指摘する研究者もいる*3。赤松隊に処刑された伊江島住民については、未だ明らかにされていない部分が多い。半数の島民の命が奪われた後も、2年間にわたって転々と収容所を強制移送させられたことが、さらに検証を難しくしていると思われる。
1968年、元隊長の赤松嘉次は「新しい歴史を作る」ことを話し合っていた。後に「大江・岩波」裁判へと続く*4。
「死を選ばせた」と言い、処刑を命じたわけではないと主張する赤松。
私が命じて処刑したのは大城訓導だけだ。三回も陣地を抜けて家族の元へ帰った。そのたびに注意したが、また離脱したので処刑した。私の知らないものもあるが、伊江島の6人、2人の少年はいずれも死を選ばせた。気の毒だが、当時の状況からやむをえなかった。
―なぜ赤松隊長は悪評をかっているのか。
部隊の華々しい戦闘を期待したのだろうが、われわれは特攻を主任務にしており、地上戦をまるで考えていなかった。それが大町大佐の命令ですべて徒労に終わったからだろう。それに小さな共同体のこと、わたしを悪人に仕立てた方が都合がよかったのではないか。住民には決してうしろめたいことはない。
―戦記の発行を計画しているとか。
わたくし自身は、そっとしてほしいのだが、いろいろ中傷されると戦死者の名誉のためにも黙っておれなくなる。1月に初めて第3戦隊の同窓会をした。60人ほど集まったが、そのとき新しい戦史を作ろうと話し合った。いずれ沖縄、とくに渡嘉敷島にも行ってみたい。70年までには―と計画している。
そのとき、住民は・・・
先島諸島の沖縄戦 - 与那国島
日本軍の通信施設があった与那国島では、十・十空襲以降、頻繁に日本軍の拠点と集落が標的となる。山間地に避難して生活していた人々はハマダラ蚊に襲われ、多くの島民がマラリアに感染した。
《AIのカラー化処理では火焔の色が再現されていません》Destruction of enemy buildings and damage to luggers at Yonakuni Island, east of Formosa, by Lt. Ira West.
与那国島の敵建物の破壊と小型船に与えた損傷。ウェスト大尉による撮影。与那国島は、台湾の東にある島。(1945年7月2日撮影)
「島の部隊は、食糧はすべて供出でまかなっていたようです。いったい、この兵隊たちは何のために島に来たのか。徴用、供出で村民をまくしたてるだけで、何をしたというのだろう」
… 軍事基地ゆえに与那国は海域を含め、アメリカ軍の攻撃のターゲットになっていたのだ。こうした中、日本軍は住民に漁に出るよう命じた。
沖縄本島から約510キロ離れた与那国島でも44年秋以降、集落や日本軍の「見張り所」が攻撃され、避難中にマラリアにかかって命を落とす人も出た。
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*1:But Americans had demonstrated again on Okinawa that they could, ultimately, wrest from the Japanese whatever ground they wanted. (外間正四郎訳では、「だが、米軍は沖縄の戦闘において、ふたたび、いかなる環境下でも、日本軍と戦えることを如実に示したのである」「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫 516頁) と wrest from (もぎ取る) の意味を弱めて訳している。
*2:6月6日説もあり