1945年 5月2日 『私もウチナーンチューです』

米軍の動向

特攻機対応と被害

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日本機の爆弾、米油送挺に命中(1945年5月2日撮影)

Jap Bomb Touches off Gasoline Barge off Okinawa

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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M-51四連式50口径銃の砲座。第48高射砲部隊サーチライト大隊A中隊は泡瀬飛行場と停泊中の米艦船を護衛する。(1945年5月2日撮影)

M-51, quadruple 50 caliber gun position. Battery ”A” 485th A.A.A. Searchlight Battalion, protecting Awasi strip and U. S. Fleet anchorage.

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南進する米軍

部隊交替と海兵隊の南下: 第6海兵師団

『トラックに乗せられた海兵隊員たちが南に向かったのは5月2日である。まず工兵隊と、第6業務支援大隊が先導し、翌5月3日に第29海兵連隊(砲兵連隊)が、さらに第4、第22海兵連隊とそれ以外の部隊も続いた。彼らは陸軍の第27歩兵師団と交替する計画になっていた。

海兵隊員たちを苛立たせたのは、自分たちと交代して北に向かう部隊が陸軍第27歩兵師団と聞いたからだった。第27師団は、海兵隊員たちの間ではB級の部隊として知られており、前年夏のサイパンでの戦闘では、海兵隊との共同作戦に遅れをとった師団長が解任されていた。何人かの海兵隊員たちは、彼らなりのやり方で、北に向かうトラックに揺られている陸軍兵士にたいして、侮辱する行動をとっていた。

こうした、陸軍と海兵隊との対立は単なる組織の違いに根ざしただけのものではなかった。実際に、海兵隊員と陸軍の兵士とでは、作戦運営も大きく異なっていたのである。海兵隊員は突撃部隊として鍛えられている。太平洋戦線での彼らの使命は敵前の海岸に上陸し、そこを確保した後に陸軍に掃討作戦をまかせるのが役目である。また、突撃要員として、なるべく軽量な装備で身軽に動けるようにしていた。上陸作戦では貴重な艦船を危険にさらさないように、つねに動きつづけ、間断なく攻撃するように訓練されており、大きな損害もいとわなが、絶対に失敗もなかった。

一方、陸軍は何事もゆっくりと進める傾向があった。まず火力で道をきりひらいてから進むのである。』(53-54頁)

海兵隊員たちからは後方にもどってくる陸軍の兵士たちが、かなり手酷く痛めつけられているように見え、不吉な予感がよぎっていた。』(55頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 53-54、55頁より》

 

勢理客(じっちゃく): 第1海兵師団、第5海兵隊連隊

5月2日は雨も降り、肌寒かった。だが、海兵隊は2個攻撃連隊を先攻に、攻撃をつづけていった。左翼では、第5海兵連隊は頑強な抵抗にあった。』(278頁)

『5月2日までに、第1海兵師団がこうむった損害は54名戦死、233名の負傷、11名の行方不明、合計298名の損害であった。』(279頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 278、279頁より》

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陣地を移動している日本兵8人の集団をブローニング自動小銃で攻撃するホルブラック二等兵カンザス州出身)。(1945年5月2日撮影)

Pvt. Holbrack of Kansas City, Kans. firing a BAR at a group of eight Japs changing positions.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

幸地(こうち): 第17歩兵連隊

5月2日の未明、第17連隊第1大隊は、幸地丘陵の東側で第2大隊と入れ替わった。その日も天気が悪かった。暗く霧がかかり、雨さえ降っていた。火炎砲装甲車がふたたび丘にのぼり、日本軍陣地めがけて火炎をあびせ、その後、第1大隊が東側から攻めたてたが、激しい日本軍の迫撃砲弾にあたって失敗した。そこで夜のうちに、両大隊は、丘腹に日本軍陣地が見渡せるよう、穴をあけたのである。(286頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 286頁より》

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Demolitions played a large part in capture of the maze of caves, tunnels, and pillboxes some 200 feet from the east of the escarpment. Great sections of the hilltop were blasted away, blocking cave entrances in the escarpment's face.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

 

翁長(おなが): 第32歩兵連隊

『…5月1日の夜から2日にかけて第184連隊のL中隊は、〝円錐形山〟のちょうど前にある我謝高地への進入に成功した。だが、この奇襲攻撃でせっかく占領した高地も、たとえどんなことがあっても退いてはならぬという命令を、多くの将校が無視して兵を撤退させたため、この日の夕方までには、ふたたび日本軍の手中に帰してしまった。(285頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 285頁より》

 

米軍にいたウチナーンチュ

比嘉太郎さん

「郷土沖縄を救おう」と、ハワイに移住していた沖縄県出身者や二世らに呼びかけ、沖縄戦災民救済運動を発起した県系二世の比嘉太郎さん。4月21日、援助物質受け入れのため沖縄に向かった。4月25日、嘉手納基地に降り立った比嘉さんは、かつて祖父母と暮らした沖縄が焦土と化した、その変わり果てた姿にショックをうけた。戦場を右往左往する沖縄の住民が置かれた状況は、米軍の日系二世部隊兵として欧州の最前線に送られたときに、そこで見た悲惨な戦場よりも酷かった。

『そこで比嘉さんは5月2日自ら第10軍司令官のバックナー中将に会い、ハワイ在住の沖縄出身者たちは戦禍にあえぐ沖縄住民のために、救援する用意があるので力添えしてほしいと要望した。かたわら、彼は、米軍が洞穴に敗残兵や住民がいることを探知し、そこを爆破しようとすると、自らの危険をも顧みないで現場に出向き洞穴内の人たちの救出にあたった。比嘉さんは、同行の米兵たちに「沖縄人は、わたしを殺すことはしないから騒いでもけっして発砲しないでくれ」と頼みこむと、壕内に向けて「私もウチナーンチュー(沖縄人)です。私は喜舎場小学校を出た比嘉という者です。どうか私を信じてここを一緒に出て下さい」と方言で呼びかけた。』(111頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 111頁より》

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【沖縄】中江裕司監督が沖縄戦で地元住民を救った米軍日系通訳兵のドキュメンタリーを制作 | ニュース・トピックス | エンタ魂

沖縄に援助物質を送る「沖縄戦災民救済運動」に協力したのは、多くのハワイ沖縄県人会の人びとだった。

『…比嘉さんたちの努力で助かった住民の数は、5万名を下らないという。』(110頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 110頁より》

 

 

第32軍の動向

総攻撃の作戦会議

軍司令部

『…5月2日の夜、沖縄守備部隊第32軍の高級指揮官たちが集まって、重大決定を下すための作戦会議を開いていた。

牛島中将麾下の幕僚たちは、まだ作戦で攻守いずれにすべきか、意見がわかれていた。参謀長の長勇中将はただちに攻勢に出て、一大攻撃を加えることを主張してゆずらず、決定的打撃を加える時機は到来している、というのが彼の意見だった。一方、これに対する代表的な意見は、高級参謀八原大佐の消耗作戦論で、彼は、攻勢に出ることは時期尚早であり、防衛戦術こそ日本軍がとるべき戦術である、とするその信念を説いてやまなかった。

酒は流れるようにくみかわされ、会議はしだいに緊迫したものとなり、しばしば激しい口論までとび出した。「歩兵第62師団の第63旅団(旅団長中島徳太郎中将)は、攻撃にあたっては第24師団の指揮下にきたらどうか」という意見が出たときなど、中島旅団長は色をなして怒り、第62師団(師団長藤岡武雄中将)と第24師団(師団長雨宮巽中将)の兵力を比較して、「弱木の一枝となって戦わんよりか。むしろそのまま戦って討死したほうがましだ」と反対した。結局、中島中将の言がいれられ、作戦は急速に決定に傾いた。

藤岡中将も熱烈に長参謀長を支持し、これでほとんどの軍司令官が、守って戦うということにはがまんができず、消耗戦で米軍に勝てるとは、誰も思わなくなった。八原大佐の警告も、いまやまったく無意味なものとなってしまった。大佐の持論は、米軍を長期戦に引っぱり込んで、味方の兵の損失を少なくしながら、相手を消耗していくという戦術だったが、前にもこの意見はいれられず、こんどふたたび多数決によって彼の意見は否認されてしまったのである。』(297-298頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 297-298頁より》

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第32軍司令部壕の内部。

<調査同行ルポ>風化進む32軍壕 首里城地下 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

 

攻撃計画最終案

『…軍司令官たちが、首里の地下壕で作戦会議を開くその前から、すでに各部隊の作戦参謀たちは、攻撃命令のわくづくりをしていたし、電話で要旨を各指揮官に連絡をとっていた。できあがった攻撃計画最終案はじつに野心的なものであった。沖縄島で米第24軍団を殲滅するとともに、共同作戦を展開して、洋上の連合軍艦隊に、継続的な攻撃を加えることによって、これを使用不可能になるまで徹底的にやっつける。このためにはかなりの大きさの陸、海、空の兵力を動員する必要がある、というものであった。

まず、雨宮中将麾下の歩兵第24師団は、地上軍の攻撃主力となる。この師団は、およそ1万5千の兵員からなり、…同師団の使命は、強力な先鋒部隊でもって、米軍前線の中央と左翼(東)を突破する、ということにあった。ひとたび米軍の戦線が突破されれば、そのギャップは他の部隊が埋め、第24師団は、昼も夜も連続的に、米軍団を破壊する計画であった。』(298-299頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 298-299頁より》 

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日本軍の反攻計画

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/USA-P-Okinawa-12.html

海上からの攻撃では、舟艇で米軍前線後方の海岸に逆上陸する。このため、兵器や地雷を積んだ第26船舶連隊が、数百の兵を沖縄西海岸に上陸させ、米軍戦車や砲兵陣地を破壊せよ、との命令をうけた。第22設営隊も、東海岸に同様な上陸を行うべしとの使命を帯びた。この舟艇に乗り込む特攻隊は、すでに各部隊から選抜されて配属ずみで、「帰ってくるな」との命令をうけていた。

日本軍の総反攻は、神風特攻隊や海上挺身隊による、米軍洋上艦隊攻撃と時を同じくして行なわれることになった。彼らは、米軍の補給路を断てば、陸上の戦闘では決定的打撃を与え得るものと確信していた。』(299-300頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 299-300頁より》

  

第24師団の作戦

『日本軍防衛前線の東半分をしめていた雨宮中将の第24師団は、5月4日、未明を期して攻撃の火ぶたをきることになった。

師団長雨宮将軍は命令を下した。

「師団は果敢に敵前線を突破したるのち、敵陣内に突入、日夜攻撃をつづけて、全戦線において米軍を撃滅せんとす」

日本軍は第一日目には、日没までに棚原北東部の米軍散兵線を3キロ侵入することにし、最後の目標を普天間において、そこを中心に東西に戦線を張ることになった。普天間には米第96師団本部がある。…ここに、バックナー中将の本拠があるとばかり思っていたのだ。

攻撃は二又にわかれて行なわれることになった。一つは歩兵第89連隊が、未明にまず30分間の砲撃をおこなってのち翁長方面を突破する。そして、戦車隊はこの両先鋒を援護することになった。

爆薬隊と侵入軍は、斬り込み隊につづくよう命令が下された。ひとたび歩兵第24師団が、棚原北東の第一目標を確保したら、さらに北方へ向けて進撃がつづけられるよう、準備がととのえられた。』(300-301頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 300-301頁より》

 

首里平良(たいら)町: 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

幸地(こうち)の南西に位置する146高地を奪回した伊東大隊は、その後、146高地を死守していた。幸地の西方にあり146高地の北に位置する120高地は、別の部隊が奪回するはずであった。しかし、そこは米軍が占領したままであるにも関わらず、「奪回は成功し120高地は日本軍が占領した」との誤った内容が報告されていた。そんななか、軍司令部が決断した5月4日の総攻撃に関する命令が入ってきた。

『146高地を死守する伊東大隊に、攻勢に転ずる命令が届いたのは5月2日の夕刻だった。

(なに⁉︎ この戦況下で攻勢とは、一体何を考えているのか)

腐れ参謀どもが!

伊東は一瞬、叫び出したい衝動にかられた。軍司令部や師団司令部には、個人的に尊敬できる先輩も多かったが、果たして最前線の歩兵戦力の実状を知ってのことなのだろうか

聨隊命令を要約すれば次のようになる。

「彼我第一線は幸地南・前田東南の線である。砲兵は4日黎明に支援射撃を実施する。第1大隊は120高地・前田東北高地を経て、棚原西北側高地へ向かい前進すべし」

軍も師団も、120高地を米軍が占領しているのを知らないようだった。…120高地は、幸地と前田の中間地点にあって南に突出している。日本軍側から見れば、そこだけ凹んだように敵の進出を許していることになる。この一角が崩れれば、幸地ー前田の線の確保は危うい。だからこそ伊東大隊は、これ以上の敵の進出を許さないように120高地の南に位置する146高地を奪回し、兵力を消耗させながらも必死で守り抜いていたのだ。

しかし今度は120高地を抜けて、さらに北に位置する棚原へ向かえという。120高地の夜襲成功という誤った報告の結果が、このような命令となって表れてきたのである。』(166-167頁)

20時になって、ようやく大隊の方針をまとめた。…方針は決まったが、具体策はまとまらなかった。…大隊本部と各中隊の間には何らの通信手段もなく、すべて伝令に拠らなければならないのが現状だった。そんな中で、夜間攻撃の準備をたった1日でこなすには無理がある。…大隊長である伊東は方針だけを決め、…第一線を担当する中隊長の力量に期待することになる。21時、伊東は各隊に攻撃命令を下達した。

「大隊は120高地西側を突破し、爾後棚原西北高地へ突進する。攻撃開始は3日24時とし、まず第3中隊を第一線とする。攻撃の進展に伴い、各歩兵中隊を先頭・右後方・左後方に配置し、重火器を内に包み込んで三角隊形で突進する」』(168-169頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 166-167、168-169頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

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丸のこの錆を落としている地元の少年。この丸のこは軍政府の大工によって改造された日本製のこぎり工作機に使われるもの。家を作るための材木を切るのに使われることになっている(1945年5月2日撮影)

Two young native boys work scraping rust off a couple old Jap saw blades to be used on a captured Jap saw mill being remodeled by military government carpenters. This saw mill will be used to cut lumber for homes.

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【移民の世紀】 比嘉太郎

移民の世紀

 

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