1945年 3月29日『慶良間列島、死の島と化し米軍の海軍基地となる』

空爆 / 艦砲射撃 /掃海

沖縄本島

3月29日艦載機は沖縄の飛行場を襲い日本機27機を撃破し、推定24機をさらに破損させた。この期間に地上で撃破された日本機は合計80機に達した。そのほか、小型船舶、木造船も襲撃され、少なくとも8隻の日本潜水艦を運天港で撃沈させた。
水中爆破隊は、飛行機や艦砲の掩護射撃のもと、慶伊瀬や沖縄南東海岸の沖合、渡具知海岸で偵察を行うかたわら、必要に応じて爆破作戦を敢行した。米軍機は、時に機銃掃射、爆撃、ロケット弾発射で、海岸一体を攻撃し、時に煙幕機を利用して掃海隊を隠蔽した。艦隊は三列になって、沖縄の沖から猛烈な火力をあびせて水中爆破隊の力となった。
LCT隊(上陸用舟艇、歩兵、掩護射撃隊の混成隊)は、40ミリ砲を構えて海岸から1キロ沖合に立ち、そこから2.5キロの海上には、駆逐艦が一列に並んで、40ミリ砲や12センチ砲で陸内270メートルの海岸地帯を砲撃した。そして、さらに駆逐艦の後方900メートルのところには、戦艦や駆逐艦が戦列をつくり、陸上270メートルから100メートルの地帯にあるすべての地上軍を制圧すると同時に日本軍陣地からの応戦に備えた。
水中爆破隊は、予定より1日遅れて3月29日も渡具知海岸を偵察した。おくれたのはその沖合にものすごい機雷群が敷設されてあったからだ。爆破隊の爆破作業の掩護には、戦艦3、巡洋艦3、駆逐艦6、それにLST隊があった。日本軍の機関銃や迫撃砲による反撃はこの艦隊によって鎮圧された。』(77-78頁)
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 77-78頁より》

 

米軍の慶良間列島侵攻: 4日目

上陸後に日本軍を制圧した米軍は、この頃から戦闘部隊を撤収させ、守備や兵站を担う部隊の駐留に切り替えた。ここから、慶良間が米軍の〝小型海軍基地〟となる

慶良間の確保は、日本軍の損失以上に米軍にとって大きな収穫であった。いまやアメリカの手中に帰したこの投錨地は、周囲を島で防備された小型海軍基地となった。ここから海軍機は飛び、艦船は燃料弾薬を補給し、傷ついた船は修繕された。(72頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 72頁より》

 

阿嘉島(あかじま)

3月29日: 日本軍による夜間(前夜)の活動は報告されなかった。午前8時、I及びK中隊は島の北部に移動するが、日本軍との接触はなかった。ただ、K中隊のパトロール隊が攻撃されたので、K中隊は日本軍陣地を襲撃し日本兵2人を射殺、朝鮮人1人を負傷させる。

午前9時15分、銃の再装塡(銃などに弾丸を詰めること)が開始され、各中隊は掃討作戦を全て終了し、ゴールドビーチー(阿嘉島集落正面の海岸)に集結するよう命令される。

これで、第3大隊の阿嘉島での上陸作戦は全て終了した。』(75-76頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 75-76頁より》

『米軍の慶良間侵攻後、「ウォーン」と大きな爆音が阿嘉海峡に響くようになった。…海軍の飛行艇2個中隊(1個中隊は15機で編成)が阿嘉海峡に到着したのは、米軍の阿嘉島上陸4日目の3月29日だった。また、飛行艇の活動を支援する水上機母艦13隻もその日から順次海峡に集結した。同海峡は飛行艇30機、母艦13隻ほどの収容は可能で、艇の離着水に必要な3,000メートルの滑水路も確保された。

諸準備が整うと、早速、同基地を活動拠点として、周辺海域での対潜哨戒や数百マイルも離れた洋上での偵察・捜索飛行を開始した。』(157-158頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 157-158頁より》

 

座間味島(ざまみじま)

米軍の慶良間諸島守備隊の中心であった第305連隊第2大隊は、第1大隊が上陸した翌日の27日に座間味島上陸し、その後、掃討作戦で日本軍を制圧していた。

29日、同守備隊以外の戦闘部隊(第1大隊)は座間味島を撤収し、第2大隊だけが慶良間諸島守備のために残留することになった。

一方、第2大隊の駐留を支援するために同島に上陸していた第242工兵大隊B中隊は、水陸両用戦車で要員、物資、武器を陸揚し、海岸の集積所に運んだ。28日までには、台船(浮き桟橋)が設営され、大型戦車揚陸艦(LST)、中型戦車揚陸艦(LSM)、小型戦車揚陸艦(LCT)が接岸可能となった。

高速輸送艦(APA)の980屯の貨物及び装備類、並びにLSTの150屯及びLSMの143屯の貨物3月29日正午までにそれぞれ陸揚げされた

荷役が終わると、同中隊は海岸の集積所やアクセス道路の建設に取り掛かり、29日の午後までに海岸から座間味集落西側の丘まで車両を通せるようになった。

3月29日、部隊内の施設の運用が一部開始され、若干の補強箇所を除いて、3月30日までには全ての施設が稼働した。』(85-86頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 85-86頁より》  

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第32軍の動向

航空機による特攻

日本軍は、1945年3月26日に「天一号作戦」を発動させた後、中飛行場(現・嘉手納飛行場)を使用した航空機による特攻を展開していた。

『しかし、この有効な攻撃も、29日までで、30、31日は使用せず、中飛行場の効果もそれで終わりを告げた。27日から31日までの間、五航艦(九州)、一航艦(台湾)、六航軍(九州)、八飛行師団(台湾)は、それぞれベストをつくして飛行機を繰り出したが、何れも出撃機が少なく、散発的であった。29日から慶良間水道に輸送船約70隻が入った。連合艦隊は、六航軍に全力攻撃を命じた。

六航軍は、29日未明、18機を出して沖縄周辺艦船攻撃を実施したが、30、31日は攻撃をしなかった。まだ準備ができていなかったのである。』(139-140頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 139-140頁より》

『日本軍は、本土上陸を企んでジリジリと押し寄せてくる連合国軍を日本の南門、沖縄で食いとめるため、海上での特攻作戦に加えて空からも神風特攻隊による特攻戦術を敢行させた。九州基地から飛来した特攻機は慶良間近海で虎視眈眈(こしたんたん)と沖縄本島への上陸をねらう米機動部隊に昼夜を分たず体当たり攻撃をかけた。あげく甚大な犠牲を払いながらも約100機が3月26日から同月31日までの間だけでも50回もの猛攻撃を繰り返した

膨大な数の艦載機に守られて制空制海権をにぎる米機動部隊に与えられた損害は必ずしも多大ではなかったが、米空母エセックス、フランクリン、ワスプ、エンタープライズ損傷を与えたほか戦艦ネバダ駆逐艦ピロクシ、インディアナポリスなどを大破させた。』(15頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 15頁より》

 

海上挺進第2戦隊(戦隊長: 野田義彦少佐/阿嘉島慶留間島)

阿嘉島の日本軍は、戦闘が一段落すると、山中に陣地を構え持久戦に入った。部隊本部は野田山の山頂近く、戦隊第2中隊はナカタキ、同第3中隊はクボー(後にウフタキに移動)、それに基地隊は部隊本部の背後にそれぞれ分散して陣地を構えた。現地召集の防衛隊は独自の陣地(壕)をナカタキに構え、義勇隊は各中隊に配置された。また、朝鮮人軍夫はナカタキ一帯の壕群に集団で収容された。』(138頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 138頁より》

 

死の島となった慶良間列島

『慶良間の戦闘について、八原博通作戦参謀は、つぎのように語っている。「群島に配置してある独立挺進3個戦隊計300隻は、海上で必死体当たりすれば、相当暴れる力を保持しているはずだが、陸上に攻撃されてしまっては全く無力である。願わくば出撃してくれと祈る心も束の間、座間味、阿嘉、渡嘉敷の三島よりの報告はことごとく非である。ついに陸上に急襲されたようである。無電は、各隊軌を一にして悲痛な言葉のみで綴られている。」』(22頁)

沖縄戦をめぐって、八原作戦参謀と意見を異にした神直道航空参謀は、慶良間の戦闘についてこう述べる。「海上特攻隊は、本来の任務を遂行する暇もなく、その不得手とする陸上戦闘で、もろくも潰えた。初頭の異様な興奮状態の中で、その異状な戦場心理から、軍民一体ということと、軍民相剋という二つの異り反する混乱が惹起され、戦闘力のない住民の斬込、自決あるいは味方伐ち等幾多悲惨な物語もある。その叫喚も29日には全く消え失せ全島は死の島となり終わったのである」。』(26頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 22、26頁より》

 

集団自決に関する米軍の記録

米軍が慶良間の島々に上陸した数日後、米兵らは集団で自決した住民を発見していた。重症を負った者に対しては治療を施した。

渡嘉敷島での集団自決(1945年3月28日)/ 「翌朝」とは 1945年3月29日

『翌朝、小さな谷間に150人以上の死体が散乱し、また死に瀕している者がいた。そのほとんどが住民であった。父親が家族の一人一人を殺し、さいごには、短刀や、もっている手榴弾でわれとわが命を断ったのだ。この人たちは、ほとんどそういう組織的な方法で自殺したのである。なかには一枚の毛布の下で、父親が幼い子供2人とおじいさん、おばあさん、そこに自分の身体をしっかり帯でくくりつけ、離れまいとして自殺しているのもあった

翌朝、現場に来た米軍は、兵隊も医療班もあらゆる手をつくした。住民は米人を〝鬼畜〟と教え込まれていたのだ。
この鬼畜が上陸してきたら、男は殺され、女は暴行されるものと考えていただからアメリカ人が食べ物をあたえ、医療を施したとき、彼らはびっくりして見つめていた。わが娘を殺したという一老父は自責の念にかられてワッと泣き伏せてしまった。』(70頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 70頁より》

『渡嘉敷での状況について、AP通信のニュースでは、次のように報じられている。

「質問に答えられるまでに回復した日本人達は、米国人は女は暴行、拷問し、男は殺してしまうと日本兵が言ったのだと通訳に話した。彼らは、米国人が医療手当をし、食料と避難所を与えてくれたことに驚いていた。自分の娘を絞め殺したある老人は、他の女性が危害を加えられず親切な扱いを受けているのをみて悔恨の情にさいなまれていた(「ロサンゼルス・タイムズ」1945年4月2日、沖縄県史 資料編3ー九頁)」』(42頁)

《「沖縄戦 強制された「集団自決」」(林 博史/吉川弘文館) 42頁より》 

http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/wp-includes/pdf/jiketsu03.pdf

「白玉之塔」渡嘉敷村  

http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/aisatsu/jiketsu

 

  

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沖縄戦と住民:軍政・集団自決・捕虜 鳥飼行博研究室