普天間飛行場と野嵩収容所 / 供出と強奪の八重山駐屯 / 辺野古 - 大浦崎収容所に送られて
米軍の動向
〝沖縄〟という米軍基地の建設 - 普天間基地
Tournapull of the 854th EAB dumping coral sand for the base of the #3 taxiway for Futema B-29 strip. After the coral is dumped by this earthmover, a bulldozer grades it over the clay earth sub-base.
普天間のB-29滑走路で第3誘導路の基盤用に石灰岩をどさっと降ろす第854工兵航空大隊のトゥアナプル。地ならしの後、ブルドーザーで地面は平坦にされる。(1945年 8月7日撮影)
53. 39TH STATION HOSPITAL 第39病院
54. FUTEMA AIRFIELD 普天間飛行場
78. CUB FIELD NO. 6 第六小飛行場 = 瑞慶覧小飛行場
宜野湾は「水の里」とよばれるほど湧き水の豊かな里だったが、米軍占領下で住民は強制収容され普天間飛行場 (普天間基地) や瑞慶覧小飛行場 (現在のキャンプ瑞慶覧) など、全域が軍事基地化された。普天間飛行場の北に設置された野嵩収容所では絶望的なほどの水不足に悩まされた。
かつての普天間の暮らし。
ガマから出るよう求めるアメリカ兵に応じた住民たちは、収容所に移送され命をつなぎ留めた。故郷の地に戻ることを許されたのは、終戦から2年後のこと。面影はなくなっていた。松の木はなぎ倒され、家屋はブルドーザーで押しつぶされていった。本土決戦を見据えたアメリカ軍は、集落を接収し飛行場を建設。今の普天間基地となる。 当時の宜野湾集落は、そのほとんどが滑走路の下に消え、住民は自分の土地に帰ることができず、飛行場の周辺を取り囲むように暮らさざるを得なかった。全くのゼロからのスタート。土地の無い人もいるし、ほとんどの人は屋敷 (自宅) がありません。
玉那覇昇さん「戦争に勝った国が負けた国をぶんどって、住民も虐殺して、戦後の生活もままならない。ひしひしと惨めな思いをしました。」
戦争中に民間地を没収することを禁じている「ハーグ陸戦条約」。住民が収容所に入っている間に、勝手に土地を取り上げたアメリカ軍の行為は、この国際条約に“違反”していて、今に続く、普天間基地の返還・移設問題の“源流”となる。
1946年に大浦崎収容所などの収容所から解放された後でも、普天間基地やキャンプ瑞慶覧など一帯の米軍基地によって土地を奪われた人たちは帰る場所を奪われ、再び野嵩収容所はますます過密状態となった。
沖縄戦で、父親と住む土地と家財をすべて失った少年の証言
そう。だから戦車やトラックの間に生えてるのとりに行くわけよ。女の人が行ってね、そこで強姦なんかされて大変な目にあう人もいましたよ。… (中略) … 生まれる子がもう、いじめられて。もう本当にかわいそうだったなぁ。もちろん母親もかわいそうではあるけれども、生まれてくる子がかわいそうだ。戦争の罪だなあれは完全に。しばらくすると、半か年くらいしてから、この野嵩の部落(収容所)がね、野嵩3区というところくらいまで広がっていったわけ、地域を広げたわけ。
Q:収容所を広げた?
うん。その時点で “軍作業” というのができたわけ。で、軍作業に行って、軍のメスホール(基地内の食堂)、炊事。炊事をつとめてる人々が米軍の残飯を持って来るわけよね。で、残飯をただ残飯として売るんじゃなくて、残飯の中に入ってる肉類はいくらとかね、パンの耳はいくらと言って。残飯の水ね、油が浮いている水いくらと言ってね。これももう3段階か4段階のに分けて残飯を売るわけ。それを買うお金も僕たちはなかったね。かわいそうに。自分でそう言うのもおかしいが。そしてどうにかこうにかしているうちに自分自身で、例えばね、アフリカマイマイ*1 を養ってみたり。あれもあっという間に広がるから。今だったら、まぁフランス料理では高級品だけども、あれを養って増やしてあれなんかも食べましたよ。自分で養ってから。ウサギなんかも飼ったなぁ。
Q:違う人の土地に住んだということですか?
そうそうそうこれも強制的にね。地主の承諾なしに「お前たちはそこに住め」と言われてるもんだから我々はそこに住んでいたわけ。土地を割り当てられてね。
Q:そのとき集落を初めて自分たちの集落を見たときというのは戦後、どういうお気持ちで?
あの、これは自分たちの集落を見たときには全部建物なんか壊されてるからね、あぁもう「あきさみよー」という悲鳴だね。で、私の母親はね、そこでごうごう泣いてたよ。私は母の側に立っていたね。こう何か使えるものはないかといって探して歩いたけどもね。
第32軍の敗残兵
供出と強奪 - 八重山の日本軍
米軍が上陸しなかった八重山では、人口約3万人に対し約1万人の日本軍が駐屯、平喜名(海軍北飛行場)、大浜(海軍南飛行場)、白保 (陸軍航空隊飛行場) の飛行場を建設、また特攻艇秘匿壕も数多く構築していたため、米英の連合艦隊が毎日のように激しい空爆・機銃掃射を行っていた。日本軍は食糧や資材の供出を強要、6月頃には住民をマラリア有病地に移送し、住民から農地、食糧、家畜、資材を引き離し管理した。八重山高等学校など多くの学校が解体され、材木となった。
それから山に兵舎をつくるという口実で、学校の校舎もくずされてしまいました。一部は山まで運んだようですが、ほとんど薪にされてしまいました。御飯を炊いたり風呂をわかしたりするために立派なイヌマキなどをくべていましたし、机、腰掛などもほとんど薪にされました。それで戦後は勉強するにも支障をきたしたわけです。
軍隊は終戦後のことなど全く考えていませんでしたし、あと一か月も戦争が長びいておれば、町は日本軍の手で焼きはらわれ、住民は食糧確保のため殺されていただろうという噂もありました。… 軍は長期戦に備え、食糧をおもと山頂に運ばせ、ふもと(底原)において兵隊自ら稲作をするなど、どこまで戦うつもりだったのか今考えるとゾッとします。
野戦病院に動員された八重山高等女学校の学徒 (14歳) は9月まで軍の労働を強いられた。なにもかもを住民の供出と徴用と収奪に頼る状態になっていた。
(野戦病院に) 畳を敷いてくれるというのでついて行ったが、部落につくと兵隊が、「部落民は皆避難して誰も残っていない。どこの家からでも畳のよいものを選んで運んでこい。」と命令した。私たちが畳を集めてくるとトラックに積んでもち帰り全部将校の部屋に敷きつめた。結局部落民であり、部落の様子をよく知っている私たちに自分たちの部屋に敷く畳を盗ませたのである。
軍は、由布島で自治班をつくるために、学校をこわして、資材を運んだ。戦後も学校の床板をはがして、「水肥桶」を作って販売していた。
国頭突破を信じて
一中鉄血勤皇隊にいた学徒の1人は、家族と共に沖縄本島南部の壕に隠れていたが、7月下旬、第32軍の玉砕を知り、家族と共に国頭を目指すことにした。途中、米軍の駐屯地を突破せねばならなかったが、8月2日の悪天候を利用して通過に成功、津嘉山まで到達することができた。
津嘉山では友軍の壕に2、3日かくれていたが、この一帯は敗残兵の吹き溜まりのようになっていた。津嘉山は球部隊の補給基地だったところで、相当の軍需物資があちこちの壕に残っていて食糧に困らなかったからだ。(342頁)
… 球部隊の補給基地とは第32軍の貨物廠のことである。通称号を球118811部隊といい、津嘉山を中心に与儀、国場、南風原、長堂などの各支所に糧秣をはじめ衣服や雑貨など、大量の軍需物資を分散し集積してあった。軍の退却に際して米と乾パンはある程度移送したが、物資のほとんどを残して行った。そうした物資は日本軍の壊滅後、洞窟にひそんでいた敗残兵や住民たちの利用するところとなった。
…一家は津嘉山から集結地の恩納村をめざして北上することにした。コースは南風原村喜屋武ー南風原村島袋・与那覇ー西原村運玉森ー中城村南上原ー北上原の順に山岳地帯を通った。… 途中の状況が厳しかったので、もっぱら夜間に潜行行動した。移動する際は念入りに偵察をおこなったが、島袋と与那覇の間では、一度だけ偵察抜きで移動しようとしてピアノ線にひっかかった。照明弾があがり一行はばらばらに逃げ散った。アメリカの歩哨は … 民間人だとわかったのか、それ以上は攻撃してこなかった。静かになったところで再び落ち合い、その地点をそろそろと通過した。危険な目にあったのは後にも先にもこの時だけだった。
陸軍第24師団野砲兵第42連隊
自殺用の手榴弾を手渡され置きざりにされた兵士、10月に米軍に投降
必ず、それこそ日本軍が助けて来てくれるだろ、という、信じて、それこそ、毎日を、夜になると出て空を眺めたり食料を集めたりしてさ、一日一日を永らえてきたんだ。それ以外に、それこそ敵にやられるとか、そんなことは、全然、思わんでさ、一日でも長生きして、この壕で待ってれば、必ず日本は迎えに来てくれるという、そればかり信じとった。みんなとも話し、しとったしね。
最終的には米軍から送りだされた捕虜の説得で10月に投降し収容される。
そのとき、住民は・・・
米軍基地建設と辺野古の大浦崎収容所
米軍は6月から北本部飛行場 (本部飛行場・桃原飛行場) やその他の小飛行場の建設を始めたため、多くの住民が大浦崎収容所と田井等収容所に送られた。大浦崎収容所は最も劣悪な運営がなされている収容所の一つだった。
辺野古、今も放置されたまま調査も許されぬ犠牲者の遺骨の上にさらに軍事基地を作るという醜業 - Osprey Fuan Club
昭和20年7月のことだ。その年の2月ごろから山中に避難していた地元の住民が下山を始めた。食糧はつき、戦況は暗く、近くで英語の話し声さえも聞かれるなかで消沈の下山だった。下山するやいなや米兵に捕らわれ、各区に収容されたが、本島中・南部から収容されて来た住民も加わり、日増しに人口が膨れ上がっていった。
やがて、瀬嵩と大浦崎に米軍が駐屯した。瀬嵩地区では、久志国民学校に米国旗が掲げられ米軍が駐屯。下山後、住民には軍命による統治が行われ、東喜、大川、大浦、二見、瀬嵩、汀間、三原、安部、嘉陽の各区に市制が敷かれ、市長が置かれた。人口は同年8月現在で約3万人を数えた。市長の下に警察、教育、衛生、産業、労務、配給の各部を設置、業務に充てた。久志地区も同様に市制が敷かれ、ここには今帰仁、本部、伊江の3村の住民が収容されていた。
The American flag flying over the Military Government center at Kushi, Ryukyu Islands.
軍政府施設の上ではためく米国旗。沖縄本島の久志にて。
撮影地: 名護市久志 (1945年 8月 6-7日)
今帰仁から米軍のトラックにみんな乗ってね、大浦(沖縄本島北部)にね、第一回の収容に行きましてね。今問題になってる辺野古ね、あそこ。あそこの山の上に行って生活しましたがね。食い物が無くてね。生きてるものは何でも食べましたよ。トービーラーでも。トービーラー(ゴキブリ)。うん、何でも生きてるの食べた。草もね、青々と茂ってる草は何でも食べた。
Q:それだけほかに食べるものが無い?
食べるものが無い。それからね、そういえば、いちばんおいしいのはね、米軍が捨てた残飯。チリ捨て場の。これがいちばんおいしい食い物でしたよ。おかしな話だけども、今考えるとね。今の若い人々が、もう分からないけれども、米軍が残飯持って来るトラック持って来てこぼすわけよね。そこで人間がとって、そして朝なんか行くとね、そこにはネズミがいたりハブがいたり、すべての生き物がそこの残飯目当てに来るわけよ。人間も。だから人間も完全に動物と同じ生活してたわけよ、我々は。あの時分は。それから・・
撮影場所の記載が見つからないが、山の形状が 国道329号辺野古岬から辺野古岳を望んだ形状に似ているため、大浦湾収容所と考えられる。
Japanese people living under U.S. Military Government at Hinoko [Henoko], northern Okinawa, Ryukyu Islands.
米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。撮影地: 辺野古
収容者の生活を支える貨幣も土地も、飲む水や食料にも困窮した。
大浦崎の収容所近くには、泉や湧水は一つもなかった。食料飢饉は深刻で、海に出て海藻を食べ、山へ行って食えそうな木の葉や草の葉を手あたり次第につみ取って食べた。周辺で見つかるカニやカエルなども、全て食された。木の若葉を食べ、一家全滅になった痛々しい事故も起きた。
収容所で米軍による食料配給が本格的に始まると、米、コンミール、コンビーフ、ピーチ、アスパラガスなど、様々な食料が米軍のトラックで運ばれてきた。また、ミルクハウスと呼ばれる小屋が建てられ、1日3回、住民にミルクが配給された。しかし、当時は配給に順序と公平がない時代でもあった。1度の配給で2回受け取る者、米兵をまるめこみ、トラックの食料を横取りしたりする者もいた。
食料やミルクなどが徐々に配給されるようになったが、収容所では多くの住民が栄養失調や病気で亡くなった。その原因として、7月頃までは食料が乏しかったこと、また、食べ物が目の前にあっても病気で体が衰弱し、食べられなかった人びとや、体が食べ物を受け付けないという人びとがいたことなどが考えられる。
食料配給所の周囲に集まり登録を待つ地元民。沖縄本島の久志にて。(1945年8月6-7日撮影)Native people gather around ration board waiting to register at Kushi, Ryukyu Islands.
8月に入って、米軍の指示で学校が始まるということで、もと教師たちが集められました。瀬嵩の旧久志国民学校は焼け残っていましたが、米軍が使っていたので、学校は青空教室ということになりました。学級編成の結果、私は幼稚園と高等科の家庭科を担当することになりました。浜に子どもたちを集めて砂の上に字を書いたり、貝殻を拾ったり、そんな学校でした。教師も子どもたちも虚脱状態で、飢えて目はうつろでした。
私は家庭科の担当になって、ひとつの考えがひらめきました。瀬嵩の隣部落の大浦に米軍が駐屯していたので、英語のよくできる城間盛善さん(のちの越来村長)に同行してもらって、家庭科の材料を提供してくれるように交渉しました。ナベも何も道具もないのだが、ウソも方便です、油1缶、米1俵、麦1俵をもらってきて、みんなに配給しました。米軍は、ナベその他の調理用品もくれました。…こんな大胆な要求を、たびたび米軍にすることはできないので、交渉は1回きりにしました。
《「島マスのがんばり人生 基地の街の福祉に生きて」(島マス先生回想録編集委員会) 72-73頁より》
Native people gather around ration board waiting to register at Kushi, Ryukyu Islands.
食料配給所の周囲に集まり登録を待つ地元民。沖縄本島の久志にて。(1945年8月6-7日撮影)
基地建設のための軍作業
ニミッツ宣言ですべての経済活動が停止された無貨幣時代、圧倒的に不足する食糧をなんとか補うためには軍作業が不可避となった。
配給は、住民の生活を直接左右する制度であった。それだけに「配給停止」など、軍布告や指令を遵守させるための手段として用いられたり、田井等では食糧増を求める住民の要求に対して、食糧係のショウラウンド中尉がピストルをかざして占領者意識を丸出しに住民を威嚇した事件など、配給に関する様々なエピソードも生まれている。
広報おきなわ(№362)2004年(平成16年)8月号
米軍基地の建材需要
Native people of Kushi, Ryukyu Islands at their tasks. Brick factory.
労役に従事する地元民。沖縄本島の久志にて。煉瓦工場にて。
撮影地: 名護市久志 (1945年8月6-7日)
Native people of Kushi, Ryukyu Islands at their tasks.Blacksmith shop.
労役に従事する地元民。沖縄本島の久志にて。鍛冶屋にて。
撮影地: 久志 (1945年 8月 6-7日)
Native people of Kushi, Ryukyu Islands at their tasks. Blacksmith shop.
労役に従事する地元民。沖縄本島の久志にて。鍛冶屋にて。
撮影地: 久志 1945年 8月 6-7日
MG center, natives receive information from agriculture & labor clarks.
農業・労働担当職員から情報を受け取る住民。 久志 (1945年) 備考: 米軍政府施設
※ 軍作業の現場では、日本兵の捕虜は PW (prisoner-of-war)、民間人の捕虜は CIV (civilian) と呼ばれ、両者を識別するため、ペンキで上着の背中に記された。
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