1945年 8月7日 『久志地区』

〝沖縄〟という米軍基地

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普天間B-29滑走路で第3誘導路の基盤用に石灰岩をどさっと降ろす第854工兵航空大隊のトゥアナプル。地ならしの後、ブルドーザーで地面は平坦にされる。(1945年 8月7日撮影)

Tournapull of the 854th EAB dumping coral sand for the base of the #3 taxiway for Futema B-29 strip. After the coral is dumped by this earthmover, a bulldozer grades it over the clay earth sub-base.

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港で停泊する艦船から物資を運んでくるダック(水行プロペラ付きで防水装甲のトラック)。これらの補給物資はクレーンで大型トラックに運ばれ、ダックはまた船の方へに戻る。この方法は荷揚げと物資の積み上げを迅速にする。沖縄。(1945年 8月7日撮影)

 ”Ducks” bringing supplies in from ships in the harbor. Those supplies were later transferred (from the Ducks) to a 6x6 by a crane and returned to the ship. This speeded up the unloading of the ships and stacking of supplies. Okinawa.

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太平洋管区の多くの補給地区に見られるような米陸軍楚辺部隊第4474兵站部隊の様子。全地区の工事に石灰岩が使われた。ここに届いた補給物資は写真のローラーで選り分けられ、各部隊に分配される。沖縄。(1945年 8月7日撮影)

Shown is a view of the USA SoBe Dept., 4474th QM Depot Co. (Sup), which was a pattern of many of the supply areas in the pacific. Construction of all areas was usually coral. On these surfaces supplies were received and separated on roller as seen, to be later distributed to various units. Okinawa.

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第32軍の敗残兵

「解散命令」後の学徒たち

沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊(略称・沖縄一中鉄血勤皇隊)

一中鉄血勤皇隊にいた学徒の1人は、家族と共に沖縄本島南部の壕に隠れていたが、7月下旬、第32軍の玉砕を知り、家族と共に国頭を目指すことにした。途中、米軍の駐屯地を突破せねばならなかったが、8月2日の悪天候を利用して通過に成功、津嘉山まで到達することができた。

『津嘉山では友軍の壕に2、3日かくれていたが、この一帯は敗残兵の吹き溜まりのようになっていた。津嘉山は球部隊の補給基地だったところで、相当の軍需物資があちこちの壕に残っていて食糧に困らなかったからだ。』(342頁)

『…球部隊の補給基地とは第32軍の貨物廠のことである。通称号を球118811部隊といい、津嘉山を中心に与儀、国場、南風原、長堂などの各支所に糧秣をはじめ衣服雑貨など、大量の軍需物資を分散し集積してあった。軍の退却に際して米と乾パンはある程度移送したが、物資のほとんどを残して行った。そうした物資は日本軍の壊滅後、洞窟にひそんでいた敗残兵や住民たちの利用するところとなった。

一家は津嘉山から集結地の恩納村をめざして北上することにした。コースは南風原村喜屋武ー南風原村島袋・与那覇西原村運玉森ー中城村南上原ー北上原の順に山岳地帯を通った。

…途中の状況が厳しかったので、もっぱら夜間に潜行行動した。移動する際は念入りに偵察をおこなったが、島袋と与那覇の間では、一度だけ偵察抜きで移動しようとしてピアノ線にひっかかった。照明弾があがり一行はばらばらに逃げ散った。

アメリカの歩哨は…民間人だとわかったのか、それ以上は攻撃してこなかった。静かになったところで再び落ち合い、その地点をそろそろと通過した。危険な目にあったのは後にも先にもこの時だけだった。』(342-343頁)

《「証言 ・沖縄戦 沖縄一中  鉄血勤皇隊の記録(下)」(兼城一・編著者/高文研) 342-343頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

民間人収容所

大浦崎周辺: 久志地区

『昭和20年7月のことだ。その年の2月ごろから山中に避難していた地元の住民が下山を始めた。食糧はつき、戦況は暗く、近くで英語の話し声さえも聞かれるなかで消沈の下山だった。下山するやいなや米兵に捕らわれ、各区に収容されたが、本島中・南部から収容されて来た住民も加わり、日増しに人口が膨れ上がっていった

やがて、瀬嵩と大浦崎に米軍が駐屯した。瀬嵩地区では、久志国民学校に米国旗が掲げられ米軍が駐屯。下山後、住民には軍命による統治が行われ、東喜、大川、大浦、二見、瀬嵩、汀間、三原、安部、嘉陽の各区に市制が敷かれ、市長が置かれた。人口は同年8月現在で約3万人を数えた。市長の下に警察、教育、衛生、産業、労務、配給の各部を設置、業務に充てた。久志地区も同様に市制が敷かれ、ここには今帰仁、本部、伊江の3村の住民が収容されていた。』 (共同墓地・1)

《 [22 名護・共同墓地(1)]マラリアがまん延 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース より》

http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05b/chap04/content/img/02991.gif

瀬嵩・久志地区の区域

読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所

大浦崎の収容所近くには、泉や湧水は一つもなかった食料飢饉は深刻で、海に出て海藻を食べ、山へ行って食えそうな木の葉や草の葉を手あたり次第につみ取って食べた。周辺で見つかるカニやカエルなども、全て食された。木の若葉を食べ、一家全滅になった痛々しい事故も起きた。

収容所で米軍による食料配給が本格的に始まると、米、コンミール、コンビーフ、ピーチ、アスパラガスなど、様々な食料が米軍のトラックで運ばれてきた。また、ミルクハウスと呼ばれる小屋が建てられ、1日3回、住民にミルクが配給された。しかし、当時は配給に順序と公平がない時代でもあった。1度の配給で2回受け取る者、米兵をまるめこみ、トラックの食料を横取りしたりする者もいた。

食料やミルクなどが徐々に配給されるようになったが、収容所では多くの住民が栄養失調や病気で亡くなった。その原因として、7月頃までは食料が乏しかったこと、また、食べ物が目の前にあっても病気で体が衰弱し、食べられなかった人びとや、体が食べ物を受け付けないという人びとがいたことなどが考えられる。(共同墓地・1、3)

《  [22 名護・共同墓地(1)]マラリアがまん延 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース および [24 名護・共同墓地(3)]1日で20人も死ぬ - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース より抜粋、一部要約》

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食料配給所の周囲に集まり登録を待つ地元民。沖縄本島の久志にて。(1945年8月6-7日撮影)

Native people gather around ration board waiting to register at Kushi, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

8月に入って、米軍の指示で学校が始まるということで、もと教師たちが集められました。瀬嵩の旧久志国民学校は焼け残っていましたが、米軍が使っていたので、学校は青空教室ということになりました。学級編成の結果、私は幼稚園と高等科の家庭科を担当することになりました。浜に子どもたちを集めて砂の上に字を書いたり、貝殻を拾ったり、そんな学校でした。教師も子どもたちも虚脱状態で、飢えて目はうつろでした。

私は家庭科の担当になって、ひとつの考えがひらめきました

瀬嵩の隣部落の大浦に米軍が駐屯していたので、英語のよくできる城間盛善さん(のちの越来村長)に同行してもらって、家庭科の材料を提供してくれるように交渉しました。ナベも何も道具もないのだが、ウソも方便です、油1缶、米1俵、麦1俵をもらってきて、みんなに配給しました。米軍は、ナベその他の調理用品もくれました。…こんな大胆な要求を、たびたび米軍にすることはできないので、交渉は1回きりにしました。』(72-73頁)

《「島マスのがんばり人生 基地の街の福祉に生きて」(島マス先生回想録編集委員会) 72-73頁より》

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食料配給所の周囲に集まり登録を待つ地元民。沖縄本島の久志にて。(1945年8月6-7日撮影)

Native people gather around ration board waiting to register at Kushi, Ryukyu Islands.

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