1945年 5月24日 『絶好の空襲日和』

首里に迫る米軍

西部〜中央戦線

安里(あさと): (首里の南東、弁ガ岳方面から那覇を東西に横断するように流れる)

『未明になってベイリー・ブリッジ構築がはじまり、その日の午後2時30分には作業も完了、戦車1輌は日が暮れる前に渡河用意をした。その同じ日に、偵察中隊2個分隊は安里川下流を渡り、なんら抵抗をうけることなく、那覇北西部の街にはいっていった。』(403頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 403頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p374b.jpg

ENTERING NAHA, Marine patrols move through deserted streets in the western part of town. the walled compounds around the houses, typical of Oriental urban structures, gave good cover for snipers.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 14]

一方、安里川上流(那覇北東部)にいた米軍部隊は、前日から日本軍の抵抗にあっていた。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/87-39-1.jpg

川向こうの那覇から狙ってくる狙撃兵の銃弾から身を隠す第22連隊第2大隊の海兵隊員2名。(1945年5月24日撮影)

Two Marines of the 22nd Marines, Second Battalion take cover during sniper fire from Naha across the river.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

中央〜東部戦線

南風原(はえばる)・与那原(よなばる)・コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

24日には、日本軍は連隊の散兵線に対して反撃を加え、第7師団の西進を阻止する動きに出た。前線は、コニカル・ヒルの南西側にある丘から南へのび、また与那原から西へ1キロ半のところで那覇ー与那原道路を横切り、南西に曲がって南風原村喜屋武村落の北にはいっていた。そこには2つの山があって、それぞれジューン、メイベルと呼んだ。このメイベルは日本陣地のカギで、首里から喜屋武にいたる重要な道路を守っていた。与那覇村落の南にオーク・ヒルがあるが、これは要塞となっていた。

戦略的にいえば、この線が首里ー喜屋武ー平良ー神里の道路網と、首里から南へいく2つの退却路の東端をなしていた。日本軍は、米軍が最初、与那原の下のほうに侵入してきたときから、徐々に応酬してきたが、しだいに迫撃砲や砲兵隊からの砲火が激しくなってきた。

方々に散在していた日本軍は、たしかに首里防衛にふさわしい戦力もないし、精神力にも欠けているようであった。23日、雨宮中将の第24師団は、与那原を奪取させるため首里からさらに増援隊を派遣した。そして、雨乞森から4キロほど南にある山にやっと足場を築いたばかりの第184連隊に対して、24日の夜から25日にかけて、何回となく攻撃してきた。』(412頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 412頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/371160.jpg

米軍による爆撃で壊滅的な被害を受けた与那原の町。手前は前線に出向く前に休息する第32歩兵隊の兵士。(1945年5月24日撮影)

The town of Yonabaru, showing the devastating effect of our artillery. Men of the 32nd Infantry rest in the foreground, before proceeding on to the front lines.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本機の襲撃

 『日本航空機は、4月の米艦隊攻撃に失敗したにもかかわらず、5月に入ってからは、休むことなく空襲を続行した。彼らの攻撃目標は二つあった。沖合に浮かぶ米艦隊と、もう一つは伊江島、読谷、嘉手納のそれぞれの飛行場である。

5月の後半にはいって日本軍の空襲は最高潮に達し、なかには、全沖縄戦中、もっとも熾烈をきわめた攻撃もあった。』(396頁)

5月24日からの日本軍機の空襲は、攻撃のテンポを増し、主に海岸線にいる米軍や艦上の部隊めがけて攻撃してきた。この日の空は晴れ、満月が輝いて絶好の空襲日和だった。8時ころ、空襲警報がはじまったが、この警報が解除になったのは午前零時で、その間、じつに7回もものすごい空襲があった。

第1回目、日本軍の飛行機は、読谷、嘉手納まで侵入、爆弾を投下した。第3回目、第4回目、そして第6回目の空襲とも日本軍機は飛行場爆撃に成功していた。第7回目の空襲は、〝義烈空挺隊〟の双発爆撃機5機が、夜10時半ころ伊江島の方向から低空で飛んできた。対空砲がただちに火を吐き、読谷飛行場の上空で炎上墜落、だが、他の1機は砲火をくぐって読谷飛行場の滑走路に胴体着陸し、およそ8人の完全武装の軍人が機から八方につっ走り、滑走路沿いにならんでいる米軍機に榴弾を投げつけた。コルセア2機、C-54型輸送機4機、プライベティアー1機を撃破した。その他、リベレーター爆撃機1機、ヘルキャット3機、コルセア22機、合計26機が撃破された。』(397-398頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 396、397-398頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/94-25-3.jpg

読谷飛行場への空からの侵入を試みた際に墜落した日本軍輸送機の残骸。海兵隊員が調査している。

Wreckage of Jap transport which crashed in attempted airbone invasion of Yontan Airfield, being surveyed by Marine.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『この日本軍空挺隊の胴体着陸の騒ぎのなかで、米軍は2人が戦死し、18人が負傷した。その日の夜11時30分、飛行場の米軍部隊の増援として、また、もし日本軍の空挺部隊がひきつづいて着陸する場合にそなえて、新たな米軍部隊が読谷に送りこまれてきた

米軍は合計33機が撃破、破損をこうむったうえに7万ガロンのガソリンが入っているドラム罐600本が爆破炎上させられた。

最終的に調査が行われたとき、日本軍は読谷で10人が戦死、13人が飛行機のなかで戦死したまま発見された。これは、明らかに飛行中、米軍の対空砲火にやられたものと思われる。

〝義烈空挺隊〟の他の4機には、各機とも14人ずつ乗り組んでおり、全員とも火を吹いて撃墜された機のなかでそのまま死んでいた。死体は69体をかぞえた。つぎの日に残波岬でやられた兵が日本軍空挺隊最後の1人となった。』(398頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 398頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/16-47-2.jpg

1945年5月24日に読谷飛行場で墜落した日本軍機の残骸と日本兵の遺体。12機の飛行機が、着陸して手榴弾や磁気機雷、迫撃砲などあらゆる爆発物を用いて航空機を破壊するのを試みた。生き残った日本兵はC-46(輸送機)を2機、C-47を1機、C-54を1機、PB4Y2(爆撃機)を1機そして数機の戦闘機を破壊した。

Dead Japs and wreckage of Jap plane that crashed on Yontan Field, Okinawa on 24 May 1945. There were 12 planes that made an attempt to land on the field and demolish aircraft with hand grenades, magnetic mines, knee mortars and vaious forms of explosive charges. Surviving Japs managed to destroy 2 C-46s, 1 C-47, 1 C-54, 1 PB4Y2 and several fighters.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の動向

軍司令部

『沖縄守備軍首脳は、沖縄戦に見切りをつけ、内心どこを「玉砕」場所にしたものかと思案しながらも、大本営にたいしては敵に甚大な損害を与えその攻撃力を破砕しつつあり、全軍の士気もいよいよ軒昂だから中央でも航空作戦を持続強化してほしいと電報で要請した。折からの豪雨で地上戦は行きづまっていたが、この時期を待っていたかのように日本軍航空部隊は、読谷と嘉手納飛行場や本島周辺の米艦船を狙って激しい空襲をかけた。』(139頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 139頁より》

 

航空機の攻撃

「菊水作戦・7号、8号」発動

『五航艦の宇垣長官は、「菊水7号」作戦および「8号」作戦を発動した。24日の「7号」は、米機動部隊と沖縄飛行場攻撃のため発令され、115機出たが、結局、機動部隊は捕捉できず、25日は天候不良で、成果が挙がらなかった。』(279頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 279頁より》

 

義号作戦

(投稿者注: 特攻時間、機数などは文献で異なる)

5月24日沖縄戦をあきらめ、これからは本土作戦に集中しようと決意している大本営が、義号作戦を実施した。

沖縄戦が、すでに大本営によって「あきらめ」られていることなど、32軍はむろん知らない。そして海軍は、沖縄を失って何の本土決戦かと、沖縄に海軍の全力を消尽する決意である。果たして陸海軍の足並みは、揃わなくなった。それでなくも兵力の隔りの大きな沖縄戦が、これでますます救うべからざる様相を呈してくる。

…奥山道郎陸軍大尉(27歳)以下120名。軽装で、手榴弾と爆薬をもち、97式重爆12機に分乗北・中飛行場に着陸しようという、猛烈な特攻で、着陸後は搭乗員32名を加えて、飛行場を一時使用不能にし、この機に乗じて、航空総攻撃をかけようというものであった。つまり、義烈特攻隊の突入を軸に、陸海航空部隊の大規模攻撃を加えようとした

それまで、ほとんど毎日毎夜、沖縄周辺艦船を攻撃しつづけていた日本機は、5月24日、六航軍から22機、五航艦から26機を繰り出し、6回にわたり飛行場を爆撃、有効弾を叩きつけて地ならしをし、7回目に義号部隊が突入、北飛行場に6機、中飛行場に2機、胴体着陸に成功した(同行の重爆よりの報告)。』(269-270頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c4/Giretsu_-_Michiro_Okuyama_%26_Chuichi_Suwabe.jpg

出撃直前に握手を交わす義烈空挺隊の奥山大尉(左)と諏訪部大尉(右)。

義烈空挺隊 - Wikipedia

『とりわけ5月24日の晩は、満月で空襲には絶好の条件下にあった。午後8時、米軍が空襲警報をかけてから午前零時にそれが解除されるまで、日本軍は7回にわたって空襲をかけた。7回目の攻撃は、義烈空挺隊による特攻奇襲作戦であった。

義烈空挺隊は、…落下傘部隊の第1空挺団のなかから選抜された将校と下士官によって前年の12月に編成された。この隊は熊本県の第6航空軍に所属し、同軍は海軍とはかって義号作戦をたてた。それによると、義烈空挺隊が北・中飛行場に奇襲をかけ滑走路が使用不能に陥れている間に陸海双方の航空軍が沖縄近海の米艦隊に総攻撃をかける手はずになっていた。』(139頁)

『義烈空挺隊は、もはや爆撃機として役立たなくなった97式重爆撃機12機に分乗、諏訪部忠一大尉指揮下の第3独立飛行隊員もこれに搭乗した。同隊は、北・中飛行場に胴体着陸をなし、特攻隊員を出撃させて可能なかぎり数多くの米軍機を撃破する作戦をたてた。

…しかし義烈隊には当初から不運がつきまとった。12機のうち4機が故障で九州に引き返し、その他は、隊長の奥山機をふくめ出撃はしたものの北・中飛行場に到達する前に米軍のレーダーに探知されて一瞬のうちに2機が撃墜され、乗員は全滅した。そのほか3機が目的を果たさないまま対空砲火の餌食になった。だが1機だけは午後8時37分、読谷飛行場に胴体着陸を敢行、中から飛び出した12名の隊員と3名の搭乗員が手榴弾などで滑走路付近の7機の米軍機を破壊、20機に損害を与え、その晩と翌25日は飛行場の機能を麻痺させた。だが、生き残れた空挺隊員は一人もいなかった。』(143頁)
《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 139、143頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/123416.jpg

読谷飛行場へ空からの攻撃を試みて墜落した輸送機残骸の中の日本兵の死体

Dead Japs amid wreckage of transport plane which crashed in attempted airborne invasion of Yontan Airfield.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

24日午後10時ころ伊江島の方向から双発爆撃機5機が、低空で飛んできた。4機は対空砲火のため北飛行場上空で火を噴き墜落。1機はアッという間に滑走路に胴体着陸。たちまち機内から8、9人の完全武装した軍人が飛び出し、八方に突進したとみると、滑走路沿いに並んでいた米軍機に、片ッぱしから手榴弾を投げつけた。襲撃機、輸送機など7機が燃え上がり、さらに重爆、戦闘機、襲撃機など26機が撃破され、7万ガロンのガソリンが入ったドラム缶600本が爆発炎上した。北飛行場は、このため、25日午前8時までは使用できなかった』(270頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 270頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/94-12-2.jpg

日本軍による破壊--この陸軍輸送部隊の4発エンジン戦闘機ダグラス・スカイマスターは、夜間空襲をかけて読谷飛行場に飛来した日本軍の特攻隊によって破壊された8機のうちの1機である。

WRECKED BY ENEMY--This four-engine Army Transport Command plane, a Douglas Skymaster, was one of eight ships wrecked by enemy demolitions men who glided into Yontan airfield in a bomber during a night aerial attack.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/94-11-2.jpg

飛行の果て--日本軍双発エンジン爆撃機の残骸の一部。第2海兵航空団基地に着陸を試みて失敗し、読谷飛行場のはずれで墜落した。飛行機は斜面の端にあったサーチライト管制施設を破壊した。手前には、墜落で死んで黒こげになった日本兵の死体。

END OF THE RIDE--Part of the wreckage of a Jap twin engine bomber which crashed on the edge of Yontan air field in an unsuccessful attempt to land troops on the Second Marine Air Wing base. The plane demolished a searchlight control center on the [brow of] the slope. In the foreground is the flame-blackened body of a Jap soldier, killed in the crash.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

沖縄本島北部の日本軍

4月の中旬までに沖縄本島北部地域一帯を制圧した米軍は、山々に入り掃討作戦を展開していた。北部地域にいた日本軍部隊には、ゲリラ戦部隊の第3遊撃隊、および第4遊撃隊がいた。

恩納(おんな): 第4遊撃隊

特攻機は断雲を縫って、ひっきりなしに沖縄周辺の艦船を攻撃しつづけていたが、5月24日午後10時ごろ、私たちが山上陣地から珍しく晴れ上がった空の満月を迎いでいるときだった。周辺の米軍基地からの空襲警報がかすかに唸っているのが聞こえるようだった。間もなく東シナ海に浮かんで不夜城のように見える、伊江島の敵基地の灯りがポッと消えた。われわれが、まるで米軍基地内にいるような錯覚に落ち入ってしまうのであるが、これは、いつものように日本機の空襲の前ぶれであった。

やがて30分後に九州方面から飛んできたと思われる友軍機が、伊江島の北方上空から残波岬にかけて、幾波にも分かれて高々度を飛び侵入してきた。全艦隊の主副砲、および、陸上基地からのすべてを天に向けて射ち上げる対空砲火は実に壮絶であった。

「今晩はずい分飛んでくるな」私たちが感動をもって見守っている周辺には石川、恩納村金武村の米陣地から射ち上げる高射砲弾の破片が、シューッ、シューッ、と不気味な音を立てて落下し、危険この上もない。

噴水のように飛び交う幾万の曳光弾、火の雲を浮かべたような、広漠たる海上全面をかけめぐる幾千本のサーチライト、そして噴き上げる対空砲火の中にキラキラと星くずのように、小さく白く輝きながら蚊のように飛翔している友軍の姿は、凄愴というよりも可憐としかいいようがなかった。

この晩の空襲は、午後6時45分熊本の建軍飛行場を発進した、奥山道郎大尉の率いる決死隊165名が、12機の97重爆機に分乗して飛来し、うち6機が読谷と嘉手納の二大飛行場に胴体着陸に成功し、9機破壊、29機に損害、多数の死傷者を出さしめて、米軍の両飛行場を大混乱に落とし入れたのだった。

義烈空挺隊の降下は、沖縄将兵の士気を大いにふるい立たせたのである。』(212-213頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 212-213頁より》

 

首里撤退・南部への移動

首里脱出がはじまったとき、連隊にはトラック150台のうち、わずか80台しか残っていなかった。車輌への積荷には、150人の防衛隊があたった。

第32軍司令部からの、首里撤退の正式な命令が出されたのは、5月24日と思われる

…独立速射砲第22大隊は、24日の夜から25日にかけて首里付近を出て、那覇ー与那原間の山あいの道路付近に退がり、月の終わりにはずっと南へ、島の南端のほうまで退がっていった。』(428-429頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 428-429頁より》 

5月24日、自力で歩行可能な負傷兵が、病院壕を出発した。ここにきて、日本軍が置かれていた困難な状況が白日の下にさらされることになった。第32軍の陸軍兵士…は、300人から400人もの負傷兵が道路脇を移動している光景を思い起こした。中には這うように進んでいる両足を切断した兵士もおり一緒につれて行ってくれと拝むように頼んでいた。「彼らは、シャベルを松葉杖がわりに使っていた」そして「彼らをつれて行くことはできなかったが、それでもしつこく付きまとってきた」と語った。傷が深い負傷兵は、殺されるか、そのまま放置された。その多くは、榴弾青酸カリ自決を強要された。』(371頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 371頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

「デテコイ」役 ④

米軍が設けた田井等収容所にいた住民の中には、前線で住民に投降を呼びかけるという任務を与えられた男性たちがいた。その中の数人は、5月上旬から米海兵隊の第29連隊とともに南下、浦添の牧港、勢理客一帯の壕内に潜む住民や日本兵を捜索し、那覇に入った。

5月24日、西海岸の米第6陸戦隊は、那覇市崇元寺の東方、東部戦線では、米第96歩兵部隊が首里市石嶺町の東方高地に一帯に進出していた。
一行は墓地に陣取った。墓地の外に携帯寝台を置いて頑張った。ネルソン中尉以下数人の米兵達は、殆んど墓穴内に宿泊し、骨甕は外部に運び出され、雨を防ぐために、骨甕には懇ろに合羽が掛けられた。ネルソン中尉の話によれば、師団本部からそうせよとの命令が出されたとのことである。雨期をむかえて、彼ら一行の根城は、忽ち洪水攻めにあった。「米兵が墓の中を荒らすので、沖縄人である君にとってはさぞかし憤懣であろう」と、ネルソン中尉は慰めるように…話しかけたりした。
米軍はついに安里川を突破したので、彼ら一行は安里八幡宮附近に進出した。ネルソン中尉は壕から壕へと目まぐるしい捜査活動をつづけて行く中に、日本軍の機銃弾を1発足に受けた。』(174頁)
《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 174頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/125210.jpg

那覇郊外、天久の丘にある墓。沖縄の典型的な墓のひとつ

ASATO FRONT-- A view of the tomb on the hillside above the Naha suburb of Amike. Note the architecture of the tomb - one of the commonly encountered types on Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

www.qab.co.jp

 

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 語り継ぐ沖縄戦2011 (3) 義烈空挺隊 ある県出身隊員の思い