〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年5月24日 『絶好の空襲日和』

義烈空挺隊 / 空回りの特攻戦略 / 首里脱出と青酸カリ

 

米軍の動向

雨と泥との闘い

米軍の進撃の行き詰まりは、多くは雨や泥によるもので、泥沼になると重量の大きい兵器は、二進も三進もいかなくなってしまった。(395頁)

…雨期になれば泥があらゆるものの支配者であった。米軍はこの期間には大規模な攻撃をすることができなかった。(396頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 395、396頁より》

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水害にあっている第33本部役務中隊の野営地。沖縄本島にて。(1945年5月24日撮影)

Headquarters and Service Squadron 33 area under flooded condition at Okinawa, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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水害にあっている第33本部役務中隊の野営地。沖縄本島にて。(1945年5月24日撮影)

Headquarters and Service Squadron 33 area under flooded condition at Okinawa, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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水害にあっている第33本部役務中隊の野営地。沖縄本島にて。(1945年5月24日撮影)

Headquarters and Service Squadron 33 area under flooded condition at Okinawa, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

首里に迫る米軍 - 那覇へ侵攻

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 14]

標的の那覇市街地。

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《註・AIによるカラー化のため遠方の火焔が全く再現されていません》

砲撃の効果を測定するため、砲隊鏡(左側手前)と測角装置を使用する第111水陸両用部隊。(1945年5月24日撮影)

111th Amphibious Corps Marines use a battery command scope (left foreground) and an aiming circle to determine the effects of artillery fire on Naha, Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

安里(あさと): (首里の南東、弁ガ岳方面から那覇を東西に横断するように流れる)

日本軍の安里川の橋梁破壊を半日でベイリー・ブリッジを構築し進軍。

未明になってベイリー・ブリッジ構築がはじまり、その日の午後2時30分には作業も完了、戦車1輌は日が暮れる前に渡河用意をした。その同じ日に、偵察中隊2個分隊安里川下流を渡り、なんら抵抗をうけることなく、那覇北西部の街にはいっていった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 403頁より》

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ENTERING NAHA, Marine patrols move through deserted streets in the western part of town. the walled compounds around the houses, typical of Oriental urban structures, gave good cover for snipers.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 14]

一方、安里川上流(那覇北東部)にいた米軍部隊は前日から日本軍の抵抗にあっていた。

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川向こうの那覇から狙ってくる狙撃兵の銃弾から身を隠す第22連隊第2大隊の海兵隊員2名。(1945年5月24日撮影)

Two Marines of the 22nd Marines, Second Battalion take cover during sniper fire from Naha across the river.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

馬天港 - 与那原から雨乞森へ

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米軍による爆撃で壊滅的な被害を受けた与那原の町。手前は前線に出向く前に休息する第32歩兵隊の兵士。(1945年5月24日撮影)

The town of Yonabaru, showing the devastating effect of our artillery. Men of the 32nd Infantry rest in the foreground, before proceeding on to the front lines.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

24日には、日本軍は連隊の散兵線に対して反撃を加え、第7師団の西進を阻止する動きに出た。前線は、コニカル・ヒルの南西側にある丘から南へのび、また与那原から西へ1キロ半のところで那覇ー与那原道路を横切り、南西に曲がって南風原村喜屋武村落の北にはいっていた。そこには2つの山があって、それぞれジューン、メイベルと呼んだ。このメイベルは日本陣地のカギで、首里から喜屋武にいたる重要な道路を守っていた。与那覇村落の南にオーク・ヒルがあるが、これは要塞となっていた。… 方々に散在していた日本軍は、たしかに首里防衛にふさわしい戦力もないし、精神力にも欠けているようであった。23日、雨宮中将の第24師団は、与那原を奪取させるため首里からさらに増援隊を派遣した。そして、雨乞森から4キロほど南にある山にやっと足場を築いたばかりの第184連隊に対して、24日の夜から25日にかけて、何回となく攻撃してきた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 412頁より》

 

日本軍の動向

義号作戦 - 義烈空挺隊 (奥山道郎大尉)

折からの豪雨で地上戦は行きづまっていたが、この時期を待っていたかのように日本軍航空部隊は、読谷と嘉手納飛行場や本島周辺の米艦船を狙って激しい空襲をかけた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 139頁より》

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奥山大尉以下136人は、熊本の健軍飛行場で最後の別れをします。長距離飛行が可能なこの精鋭部隊には、着陸後、ゲリラ戦に突入するための訓練を受けた陸軍中野学校生10人も含まれていました。日暮れ時の6時に出撃した12機。夜10時11分、「只今突入」の無線が最後でした。

65年前のきょうは1945年5月24日 – QAB NEWS Headline

5月24日沖縄戦をあきらめ、これからは本土作戦に集中しようと決意している大本営が、義号作戦を実施した。

沖縄戦が、すでに大本営によって「あきらめ」られていることなど、32軍はむろん知らない。そして海軍は、沖縄を失って何の本土決戦かと、沖縄に海軍の全力を消尽する決意である。果たして陸海軍の足並みは、揃わなくなった。それでなくも兵力の隔りの大きな沖縄戦が、これでますます救うべからざる様相を呈してくる。

…奥山道郎陸軍大尉(27歳)以下120名。軽装で、手榴弾と爆薬をもち、97式重爆12機に分乗、北・中飛行場に着陸しようという、猛烈な特攻で、着陸後は搭乗員32名を加えて、飛行場を一時使用不能にし、この機に乗じて、航空総攻撃をかけようというものであった。つまり、義烈特攻隊の突入を軸に、陸海航空部隊の大規模攻撃を加えようとした。

それまで、ほとんど毎日毎夜、沖縄周辺艦船を攻撃しつづけていた日本機は、5月24日、六航軍から22機、五航艦から26機を繰り出し、6回にわたり飛行場を爆撃、有効弾を叩きつけて地ならしをし、7回目に義号部隊が突入、北飛行場に6機、中飛行場に2機、胴体着陸に成功した(同行の重爆よりの報告)。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 頁より》

出撃直前に握手を交わす義烈空挺隊の奥山大尉(左)と諏訪部大尉(右)。

義烈空挺隊 - Wikipedia

内容物が不明の薬が支給されている。

「給養」では、基地において服用するものが「熱地戦力源一錠、撃滅錠一箇、防吐ドロップ五箇」の栄養剤等になっている。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦 義烈空挺隊の北、中飛行場攻撃 玉城裕美子

とりわけ5月24日の晩は、満月で空襲には絶好の条件下にあった。午後8時、米軍が空襲警報をかけてから午前零時にそれが解除されるまで、日本軍は7回にわたって空襲をかけた。7回目の攻撃は、義烈空挺隊による特攻奇襲作戦であった。

義烈空挺隊は、…落下傘部隊の第1空挺団のなかから選抜された将校と下士官によって前年の12月に編成された。この隊は熊本県の第6航空軍に所属し、同軍は海軍とはかって義号作戦をたてた。それによると、義烈空挺隊が北・中飛行場に奇襲をかけ滑走路が使用不能に陥れている間に陸海双方の航空軍が沖縄近海の米艦隊に総攻撃をかける手はずになっていた。(139頁)

義烈空挺隊は、もはや爆撃機として役立たなくなった97式重爆撃機12機に分乗、諏訪部忠一大尉指揮下の第3独立飛行隊員もこれに搭乗した。同隊は、北・中飛行場に胴体着陸をなし、特攻隊員を出撃させて可能なかぎり数多くの米軍機を撃破する作戦をたてた。… しかし義烈隊には当初から不運がつきまとった。12機のうち4機が故障で九州に引き返し、その他は、隊長の奥山機をふくめ出撃はしたものの北・中飛行場に到達する前に米軍のレーダーに探知されて一瞬のうちに2機が撃墜され、乗員は全滅した。そのほか3機が目的を果たさないまま対空砲火の餌食になった。だが1機だけは午後8時37分、読谷飛行場に胴体着陸を敢行、中から飛び出した12名の隊員と3名の搭乗員が手榴弾などで滑走路付近の7機の米軍機を破壊、20機に損害を与え、その晩と翌25日は飛行場の機能を麻痺させた。だが、生き残れた空挺隊員は一人もいなかった

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 139、143頁より》

米国海兵隊: Wreckage of a Japanese converted bomber transport that belly landed on Yontan airfield in an airborne attempt by the Japs moonlight night of May 24.
輸送機から改造された日本軍爆撃機の残骸。日本軍が5月24日に夜間空襲した際に読谷飛行場で胴体着陸したものである。1945年 5月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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読谷飛行場へ空からの攻撃を試みて墜落した輸送機残骸の中の日本兵の死体

Dead Japs amid wreckage of transport plane which crashed in attempted airborne invasion of Yontan Airfield.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

24日午後10時ころ伊江島の方向から双発爆撃機5機が、低空で飛んできた。4機は対空砲火のため北飛行場上空で火を噴き墜落。1機はアッという間に滑走路に胴体着陸。たちまち機内から8、9人の完全武装した軍人が飛び出し、八方に突進したとみると、滑走路沿いに並んでいた米軍機に、片ッぱしから手榴弾を投げつけた。襲撃機、輸送機など7機が燃え上がり、さらに重爆、戦闘機、襲撃機など26機が撃破され、7万ガロンのガソリンが入ったドラム缶600本が爆発炎上した。北飛行場は、このため、25日午前8時までは使用できなかった。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 270頁より》 

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END OF THE RIDE--Part of the wreckage of a Jap twin engine bomber which crashed on the edge of Yontan air field in an unsuccessful attempt to land troops on the Second Marine Air Wing base. The plane demolished a searchlight control center on the [brow of] the slope. In the foreground is the flame-blackened body of a Jap soldier, killed in the crash.

飛行の果て--日本軍双発エンジン爆撃機の残骸の一部。第2海兵航空団基地に着陸を試みて失敗し、読谷飛行場のはずれで墜落した。飛行機は斜面の端にあったサーチライト管制施設を破壊した。手前には、墜落で死んで黒こげになった日本兵の死体。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Dead Japs and wreckage of Jap plane that crashed on Yontan Field, Okinawa on 24 May 1945. There were 12 planes that made an attempt to land on the field and demolish aircraft with hand grenades, magnetic mines, knee mortars and vaious forms of explosive charges. Surviving Japs managed to destroy 2 C-46s, 1 C-47, 1 C-54, 1 PB4Y2 and several fighters.

1945年5月24日に読谷飛行場で墜落した日本軍機の残骸と日本兵の遺体。12機の飛行機が、着陸して手榴弾や磁気機雷、迫撃砲などあらゆる爆発物を用いて航空機を破壊するのを試みた。生き残った日本兵はC-46(輸送機)を2機、C-47を1機、C-54を1機、PB4Y2(爆撃機)を1機そして数機の戦闘機を破壊した。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

5月24日からの日本軍機の空襲は、攻撃のテンポを増し、主に海岸線にいる米軍や艦上の部隊めがけて攻撃してきた。この日の空は晴れ、満月が輝いて絶好の空襲日和だった。8時ころ、空襲警報がはじまったが、この警報が解除になったのは午前零時で、その間、じつに7回もものすごい空襲があった。

第1回目、日本軍の飛行機は、読谷、嘉手納まで侵入、爆弾を投下した。第3回目、第4回目、そして第6回目の空襲とも日本軍機は飛行場爆撃に成功していた。第7回目の空襲は、〝義烈空挺隊〟の双発爆撃機5機が、夜10時半ころ伊江島の方向から低空で飛んできた。対空砲がただちに火を吐き、読谷飛行場の上空で炎上墜落、だが、他の1機は砲火をくぐって読谷飛行場の滑走路に胴体着陸し、およそ8人の完全武装の軍人が機から八方につっ走り、滑走路沿いにならんでいる米軍機に榴弾を投げつけた。コルセア2機、C-54型輸送機4機、プライベティアー1機を撃破した。その他、リベレーター爆撃機1機、ヘルキャット3機、コルセア22機、合計26機が撃破された。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 397-398頁より》

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日本軍による破壊--この陸軍輸送部隊の4発エンジン戦闘機ダグラス・スカイマスターは、夜間空襲をかけて読谷飛行場に飛来した日本軍の特攻隊によって破壊された8機のうちの1機である。

WRECKED BY ENEMY--This four-engine Army Transport Command plane, a Douglas Skymaster, was one of eight ships wrecked by enemy demolitions men who glided into Yontan airfield in a bomber during a night aerial attack.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

この日本軍空挺隊の胴体着陸の騒ぎのなかで、米軍は2人が戦死し、18人が負傷した。その日の夜11時30分、飛行場の米軍部隊の増援として、また、もし日本軍の空挺部隊がひきつづいて着陸する場合にそなえて、新たな米軍部隊が読谷に送りこまれてきた。米軍は合計33機が撃破、破損をこうむったうえに7万ガロンのガソリンが入っているドラム罐600本が爆破炎上させられた。最終的に調査が行われたとき、日本軍は読谷で10人が戦死、13人が飛行機のなかで戦死したまま発見された。これは、明らかに飛行中、米軍の対空砲火にやられたものと思われる。

〝義烈空挺隊〟の他の4機には、各機とも14人ずつ乗り組んでおり、全員とも火を吹いて撃墜された機のなかでそのまま死んでいた。死体は69体をかぞえた。つぎの日に残波岬でやられた兵が日本軍空挺隊最後の1人となった。』(398頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 398頁より》

義烈空挺隊には陸軍中野学校生10人も搭乗。襲撃の後、第1・第2護郷隊と合流し遊撃戦で本土決戦を送らせる計画だった。

「X日Y時を期し主力8機をもって中飛行場に強行着陸し」「爾後、海岸方向に戦果を拡張し揚陸地点付近の物資集積所を攻撃」飛行場を破壊したあと、海岸の物資を攻撃するまでが「第一期攻撃計画」でした。

計画はそれだけではありません。「目的達成せば、一斉に戦場を離脱し北飛行場東方220.3地点に集結第二期攻撃・遊撃戦等を準ビス」

1945年5月24日 『義烈空挺隊』 ~ その背後にあった秘密作戦 - Battle of Okinawa

特攻、アルミ箔を撒く。が、回収される。

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米国海兵隊: EXAMINES WINDROW--Marine examining windrow dropped by Japanese bomber during air attack against Yontan airfield. The bunches of tinfoil paper are tossed out in flight in the hope they will confuse radar detection.
日本軍機が読谷飛行場を空爆中に投下した物を調べる米海兵隊員。そのアルミ箔の束は、[米軍の]レーダーによる方向探知の混乱を目論んで空中に投げ出された 1945年 5月24日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

 

空回りの特攻戦略と第32軍

大本営1944年11月に第32軍から主力部隊「第九師団」台湾に転出させ、兵力を補給することもしなかった。しかし4月1日に無血で読谷と嘉手納の飛行場を米軍に接収されると、延々と特攻作戦を続け、明らかに無謀で持続性がないと思われる逆上陸計画に執着し、おびただしい兵士を投入した。

雨のため地上戦は行き詰まりを生じていたが、空では沖縄の米軍機と、日本本土から飛んできた日本軍機との空中戦がたえまなく行われていた。日本航空機は、4月の米艦隊攻撃に失敗したにもかかわらず、5月に入ってからは、休むことなく空襲を続行した。彼らの攻撃目標は二つあった。沖合に浮かぶ米艦隊と、もう一つは伊江島、読谷、嘉手納のそれぞれの飛行場である。5月の後半にはいって日本軍の空襲は最高潮に達し、なかには、全沖縄戦中、もっとも熾烈をきわめた攻撃もあった。(396頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 396頁より》

現場抜きの大本営、理念だけで進められる特攻作戦。第32軍にとっては、ほとんど戦術的な意味がなかったと記す作戦参謀。

第32軍作戦参謀八原の回想

特攻部隊が、連夜敵艦船に突入しても、実のところ、地上戦闘には別に具体的な効果はない戦術的に考えて、軍の戦闘に直接的に貢献したとはいえぬ5月24日夜の義烈空挺隊の北、中飛行場への突入も、冷静に観察すれば、軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。むしろ奥山大尉以下120名の勇士は、北、中飛行場でなく、小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである。

《八原博通『沖縄決戦 - 高級参謀 の手記』読売新聞社、1972年》

従来の太平洋の戦いでは一生懸命に多数の飛行場を造ったが、わが方がこれを使用するに先立ってアメリカ軍に占領される場合が多い。まるで敵に献上するために、地上部隊は汗水垂らして飛行場造りをやった感が深い。しかも一度敵に占領されると、今度は敵に使用されぬために、わが地上軍は奪還攻撃を強行し、多大の犠牲を払い、玉砕する始末であった。

《八原博通『沖縄決戦 - 高級参謀 の手記』読売新聞社、1972年》

大本営への報告。

沖縄守備軍首脳は、沖縄戦に見切りをつけ、内心どこを「玉砕」場所にしたものかと思案しながらも、大本営にたいしては、敵に甚大な損害を与えその攻撃力を破砕しつつあり全軍の士気もいよいよ軒昂だから中央でも航空作戦を持続強化してほしいと電報で要請した。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 139頁より》

首里脱出がはじまったとき、連隊にはトラック150台のうち、わずか80台しか残っていなかった。車輌への積荷には、150人の防衛隊があたった。第32軍司令部からの、首里撤退の正式な命令が出されたのは、5月24日と思われる。… 独立速射砲第22大隊は、24日の夜から25日にかけて首里付近を出て、那覇ー与那原間の山あいの道路付近に退がり、月の終わりにはずっと南へ、島の南端のほうまで退がっていった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 428-429頁より》

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This is a view of our shells exploding (phosphorus) on Jap positions at Shuri.

首里の日本軍陣地にて爆発(発光)する米軍の砲弾(1945年 5月24日〜25日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南風原陸軍病院壕の撤退と青酸カリ

学徒の救護班として召集された知念高校四年生

5月24日頃です。 大里村の西原小に米軍が入ってきているという話が聞かれました、陸軍病院もすぐ南部へ下ることになりました。 その 日は大雨で道は泥んこになっていて、歩ける患者は松葉杖で歩けないのは四つ這いになって壌を出ました。 寝ている患者にはミルクに青酸加理 を入れて飲ませ患者はそのままにして雨の中に出て行きました。

「戦陣記」南城市『知念村史 第三巻 戦争体験記』(1994.07)

5月24日、自力で歩行可能な負傷兵が、病院壕を出発した。ここにきて、日本軍が置かれていた困難な状況が白日の下にさらされることになった。第32軍の陸軍兵士…は、300人から400人もの負傷兵が道路脇を移動している光景を思い起こした。中には這うように進んでいる両足を切断した兵士もおり、一緒につれて行ってくれと拝むように頼んでいた。「彼らは、シャベルを松葉杖がわりに使っていた」そして「彼らをつれて行くことはできなかったが、それでもしつこく付きまとってきた」と語った。傷が深い負傷兵は、殺されるか、そのまま放置された。その多くは、榴弾か青酸カリで自決を強要された。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 371頁より》

公文書館 - 日本兵捕虜調書 (第62師団の歩兵第22大隊の茨城県出身26歳の証言)

5月24日、独歩可能な患者は撤退する部隊ととともに壕を出て南部に下がっていった。患者90人中約20人は、重傷のため転送できず洞窟に取り残されてしまった。そこで衛生隊員は、モルフィネの致死量投与を始めた。その日の夜、(同) 捕虜は首里東の赤田町を通過して狭い路地にそってゆっくりと歩を進めた」。S上等兵の証言によれば、医務室とは名ばかりのもので、医療品はほとんどなく時たま軍医や衛生兵が「気分はどうか」と聞くぐらいなものであったという。壕内のあちこちで兵士が死んでおり、腐臭が充満していた。梅雨の時期も重なり、洞窟内には水が流れ込み、捕虜はずぶ濡れで、悪臭も手伝い息も絶え絶えだったという。… 南部撤退に際し、独歩不能な患者は、衛生兵の手によりモルフィネ投与で「措置」されたが、S上等兵はそれを拒否し、一人医務室壕を這い出した。首里周辺を一日数百メートル程度を行き来し正体不明のところを (ブログ註・米軍に) 救出されたわけである。

《保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(紫峰出版) pp. 204-205. 》

※ 捕虜はモルヒネと証言しているが、青酸カリではないかと思われる。

 

そのとき、住民は・・・

弾薬運びにかりだされる住民

五月の下旬、その壕に入ってから間もなくして、すでに敵は首里まできているという噂がある頃、友軍の命令がありました。そして、小城部落から11名の男の人たちが首里の方まで弾薬運びにかり出されたんです。出かけて、翌朝、生きて帰ってきたものは、3名でしたよ。一人は手足から全身傷だらけでした。その日から毎日、兵隊や防衛隊の怪我人がつぎつぎと、この部落にどんどん入ってきたんです。そして怪我人の話から、前線が、首里からだんだんこっちの方へ近づいてくるのが判ったんです。

「一番こわかったのは、友軍の兵隊」沖縄戦証言 東風平村 - Battle of Okinawa

 

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