1945年 6月5日 『海軍の抵抗』

南進する米軍

西部戦線

小禄(おろく)半島奥武山(おおのやま)

『米軍上陸2日目作戦は遅々として進まなかった。そしてついに、小禄半島中央近くの筆架山まできたとき、第29連隊は、そこで突然、行き詰まってしまった。一方、米軍は右翼(南)のほうでは、たいした苦労もなく進撃し、シェファード海兵隊少将は、第4海兵連隊をして日本軍陣地を一気に壊滅させようとこれを差し向けた。

海兵隊の前線は、いまや4キロものび、その南端は、小禄具志村落にまで達していた。』(461-462頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 461-462頁より》

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BASE OF OROKU PENINSULA, where Okinawa Base Forcemade its last stand.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

 

中央〜東部戦線

『沖縄の雨期も6月5日にはあがった。陸軍第24軍団は、雨を吸った粘土質の土地に約6キロの戦線を確立した。補給はあいかわらずうまくいかず、場合によっては、ほとんど危険な状態にまで追い込まれ、物資を空中投下に頼らなければならない部隊も出てきた。

戦車は使えなかった。しかも1キロから1キロ半彼方には八重瀬岳与座岳が屹立している。このごつごつした岩山は、具志頭村玻名城の山とともに、陸軍第24軍団の全戦線の進撃をはばむ大きな壁をなしていた。

6キロもあるこの山脈の壁で、いちばん高いところは八重瀬岳、そばの低地帯からはかると約90メートルもあった。その格好から兵隊たちはこの山を〝大きなリンゴ〟と呼んだ。

与座岳は前線の西端にあって、国吉のほうで崖になっていた。国吉丘陵は第3上陸軍団の作戦地域にまでおよんでいた。

玻名城の山、95高地の稜線は米軍の進撃方向を横断するというより、それに並行に走り東側の要地になっていた。95高地の海寄りのほうは、高さ約90メートルもあり、玻名城の村側では、これまた平地からの高さ55メートルほどもあった。この自然の防備のかべ〟に1ヵ所だけ第7師団の地区にあいているところがあって、仲座村落をとおって南へのびていた。この通路をとおって断崖の向こうの高台地に接近するには両翼から完全に観測され、日本軍の砲火をあびなければならない。』(465-466頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 465-467頁より》

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八重瀬岳の急斜面 / Yaeju Dake Escarpment.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『このおそるべき地形と、陸軍第24軍団が6月5日に確立した前線のあいだには、少しばかり草の生えた小さな丘陵があり、また、おおむね平坦になっている地帯のところどころに小さい丘が散在していた。2週間も降りつづいた雨で平野は青々と草が生え、砲弾や戦闘の傷跡も今までのところたいして感じられなかった。

牛島中将のひきいる日本軍は、米軍より数日先に、この新しい防衛地区に到着し、6月の3日と4日には、丘陵の前といわず後といわず、地下壕を掘り、塹壕をつくって戦闘態勢をととのえていた。第32軍の歩兵の全兵力は今や約1万1千だが、全軍の戦力としては、この3倍の兵員をもっていた。

しかし、それは、大砲や迫撃砲などのなくなった砲兵をはじめとして、兵器や道具をうばわれて、もはや本来の職分を果たす必要もなくなった通信、整備、設営隊、その他、各兵種の兵隊をふくみ、現地徴兵の防衛隊員からなっていたが、防衛隊には、もちろん、その戦闘力や戦意の点では正規の日本軍と同等ではなかった

日本軍の第24師団(雨宮中将)は約8千の将兵をもち、牛島中将は麾下の最強師団としてこれを中央と、西翼ー八重瀬岳から糸満町にいたる線に配置してあった。藤岡中将の第62師団は、もともと第32軍中の最優秀な師団だったが、いまではわずか2、3千の兵力になり、真壁ちかくで予備軍としての配置についていた。こうして、独立混成第44旅団だけが東側で米第7師団と相対峙することになった。

この3個師団を主なる戦闘部隊として、牛島中将は、これに労役部隊の残存兵、海軍の生き残りや現地召集の沖縄の隊員をあてた。

こうして種々雑多な兵種によって守備軍が編成されたが、兵は訓練も不十分、砲兵の支援砲撃もなく、通信、武器、弾薬にも欠けながら、牛島中将は最後の戦闘を待っていたのだ。が、軍本部自体、首里を撤退して島の南端へ移動したときは、携帯した食糧はわずか20日分。おそらく、牛島中将自身、部隊の戦闘能力を悟っていたのであろう。

武器もなく、食糧もなく、力つきたように牛島中将は、それでも米軍のつぎの攻撃目標はどこであろうかと案じつつ戦闘準備をすすめていた。』(466-467頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 466-467頁より》

 

周辺離島の制圧

伊平屋(いへや)

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家畜を1ヶ所に集める海兵隊偵察部隊。ヤギを乗せた荷積車を引くために牛を使った。(1945年6月3日〜5日撮影)

Recon Co., was selected to gather all live stock and put it in one section of the island. This group of Marines has enlisted the aid of a cow to help them pull a cart full of goats.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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水陸両用車が車両揚陸艦からドラム缶を降ろし、起重トラクターがドラム缶を2列に積上げている(1945年6月3日〜5日撮影)

Amphtrac unloading barrels from LST and then hoist tractor picks up barrels to pile them in two rows.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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燃料缶をクレーントラクターに吊している。これは使用直前まで積み置かれる。(1945年6月3日〜5日撮影)

Hooking gas barrels to the hoist tractor to be piled up until ready to be used.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の動向

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

戦闘概報:

6月5日   陣前250メートルにおいて、機銃によって30名を殺傷する。戦果は迫撃砲による人員殺傷約60名、その他陣前殺傷100名を下らない。斬込隊による判明した戦果は、機銃6挺、迫撃砲2門、幕舎2破壊、人員殺傷約110名である。

東部の真玉橋から侵入の敵は逐次勢力を増加して、味方の防戦にもかかわらず、戦線は嘉数根差部高入端の東南端の線に及んだため、糸満街道への進出防止のため平良方面に増援部隊を出してこれに備えている。

根差部、高安方面の敵は陣地構築中のため戦線の動きは活発ではない。小禄地区では、朝から戦車70輌以上を伴う1,000名以上の敵が、飛行場の爆撃支援の下に攻勢にでて彼我激戦中であり、逐次敵は味方陣地に滲透しつつあるが、南西航空隊が陣前によく防戦中である。

午後5時の戦線は垣花、赤嶺西端から朝島(場所不明)、西宮古(場所不明)北端をつなぐ線である。』(103-104頁)

『午後1時、大嶺海岸から戦車15輌、歩兵50が新たに上陸したが、そのうち戦車2を炎上させた。』(104頁)

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 103-104、104頁より》

『…米軍は半島の西海岸・大嶺からも上陸を試み、包囲殲滅態勢を取り始めていたのだ。巌部隊の小隊本部があった当間は、大嶺のすぐ東にある集落で、しかも最前線と報告されている赤嶺の方が約1キロ内陸部だから、同本部は完全に孤立していた。

整備兵長の証言:

『「猛攻の度にたまらず鏡水の塹壕を1つ、また1つ後退して、夕方には生き残った数名が当間の本部壕へ逃げ込みました。すると、日頃から口うるさい一曹から『死守せいと命令されたのに、逃げ帰るとは何事だーッ』と怒鳴られました。そして、『掩護射撃してやるから、元の陣地へ戻れッ』と命令しました。

戻れと言われても、既に占領されていて戻れる訳がない。それでも命令とあらば、戻らねばならないのが軍隊です。仕方なく私たちが壕を飛び出した時、入口で掩護射撃を始めたその一曹が、米軍の射撃を受けて倒れました。銃弾が額を貫通して、即死です。命令者が倒れたので、私たちはそのまま本部壕へ戻りました」』(420-421頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 420-421頁より》

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那覇飛行場の南西の丘にある壕から海を望む。写真は大嶺集落の一部。

A view looking seaward from a cave in the hill southwest of the Naha Airfield. Part of the town of Omine is visible in the photo.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『一方、摩文仁に後退した牛島軍司令官は、32軍主力の撤退が完了したので、ここでやっと海軍部隊の島尻南部への撤退を命令した。これに対し、大田司令官は5日、忙しい戦況報告の合間をぬって、…次のように返電している。』(421頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 421頁より》

『「海軍部隊は最精鋭の陸戦隊4個大隊を陸軍の指揮に入れ、首里戦線において遺憾なく敢闘したことはご承知の通りである。また今次軍主力の喜屋武半島への退却作戦も、長堂以西国場川南岸高地帯に拠るわが海軍の奮闘によりすでに成功したものと認める。予は、課せられた主任務を完遂した今日、思い残すことなく、残存部隊を率いて、小禄地区を頑守し、武人の最後を全うせんとする考えである。ここに懇篤なる指導恩顧を受けた軍司令閣下に、厚くお礼を申し上げるとともに、ご武運の長久を祈る。

   身はたとえ沖縄野辺に果つるとも

   護り続けむ   大和島根を」』(396-397頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 396-397頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/61/Minoru_Ota.jpg

大田実海軍少将

大田実 - Wikipedia

海軍側の戦況を伝える文献には、陸軍からの撤退命令を受けて、大田少将が上記内容を返電したと記述されているものが多い。しかし、第32軍司令部の八原作戦参謀の言い分では、「軍司令部は海軍用の壕を準備しいていたところに、大田少将から上記の電報が届き、それを受けて、退却するよう命令するも、小禄を死守する決心は堅かった」とある。

 

軍司令部: 摩文仁(まぶに) 

海軍部隊が孤立、まさに被包囲の態勢に落ちんとする6月5日大田海軍少将より、…電報が到達した。…海軍部隊を、喜屋武半島陣地に収容する準備を進めていた軍首脳部は、深く覚悟を決めた大田将軍の決意を知って驚愕した小禄地区の死守は作戦上十分に価値あることであり、かつ従来の行きがかりからしても、海軍側の心事は諒としなければならぬ。だが武運尽きて殪れるときは、陸海軍もろともの我々の心が承知しない。陸軍としては、孤立無援の海軍部隊を、指呼の間に眺めながら、その全滅を黙視するに忍びない。軍司令官は、直ちに次の電報を発せられた。大田少将の電報が、大本営その他関係各方面文取り扱いになっていたので、陸軍側も同一形式をとった。

「海軍部隊が、人格高潔な大田将軍統率の下、陸軍部隊と渾然一体となり勇戦敢闘せられ、沖縄作戦に偉大なる貢献を為されたことは、予の感激に堪えざるところである。海軍部隊が、その任務を完遂した今日、なお孤立無援、小禄陣地を死守せんとする壮烈な決意には、満腔の敬意を表するが、陸軍に先だち、海軍の全滅するは到底予の忍び得ないところである。海軍部隊の後退は、状況上なお可能である。貴部隊が速やかに、陸軍部隊に合一され、最期を同じくされんこと切望に堪えず」

…電報に引き続き、統師の形式を整えるために、海軍部隊に、退却の軍命令が発せられた。しかし大田将軍の決意は堅く、なかなか後退し来る模様は見えない。そこで軍司令官から大田将軍宛てに後退を勧める親書を送達するなど、百方努力したがその牢固たる決心はついに翻すことができなかった。』(396-398頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 396-397頁より》

 

  

そのとき、住民は・・・

宜野座(ぎのざ)初等学校 ③: 設立者の体験談

沖縄本島北部、宜野座の収容所で学校が設置されることになり、6月2日、教職の経験があった民間人捕虜が呼び出され、設置と運営を任されることになり、着々と開校の準備を進めていた。

『…6月4日、宜野座地区(G7地区)の天幕部長の了解を得て、各班長に学齢児童の引卒出頭を命じ、児童学籍簿の作製に取りかかる。3人の教師は息つく暇もなく次々と集まる児童の受け付けに大童である。

6月5日開校を明日に控えて集まった児童数は男児210人、女児240人の合計450人、午後から教師の物色と任命(女教師4人)都合6人の陣容となる。』(120頁)

《「忘られぬ体験 市民の戦時・戦後記録 第二集」(那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会/那覇市史編集室内) 120頁より》

 

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