1945年 7月27日 『地獄から天国にきた気分』

〝沖縄〟という米軍基地

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九州トゴシマ[カゴシマであろう]鉄道操車場への空襲を終えてきたばかりコンソリデーテッドB-24リベレーター、バグズ・ボンビーJr.の乗組員。第7空軍第11爆撃群第42爆撃中隊。沖縄。(1945年7月27日撮影)

Crew of the Consolidated B-24 Liberator ”Bugs Bomby, Jr.”, just in from a raid over Togoshima Marshalling Yards, Kyushu, Japan. 42nd Bomb Squadron, 11th Bomb Group, 7th Air Force. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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管制塔から見る読谷飛行場の滑走路と舗装駐機場、そして警備員。もともとこの基地は作戦基地として日本軍によって建設されたものである。(1945年7月27日撮影)

A view from the control tower showing Yontan Airstrip itself with taxiways, hardstands and alert crews. This base was originally constructed by the Japanese as one of their operational fields. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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泡瀬飛行場を改築している様子。沖縄本島にて。(1945年7月27日撮影)

Reconstruction of Awase Airfield, Okinawa, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

ハワイに送られた捕虜 ④

1945年7月7日ごろ、屋嘉収容所にいた捕虜たちの一部は、米軍のトラックに乗るよう指示され、たどり着いたのは、嘉手納の海岸だった。その後、沖に浮かぶ米軍の艦船に乗せられた捕虜たちは、甲板で海水のシャワーを浴びるよう命じられた。ところが、乗船した船が異なると、扱われ方が極端に違った。貨物船に乗せられた捕虜は家畜にように扱われ(証言 ①)、客船に乗せられた捕虜は、人道的な扱いを受けた(証言 ②)。両者とも食事は1日2回であったと証言するも、貨物船に乗せられた捕虜はパンや水が入ったバケツを与えられ、客船に乗せられた捕虜は、米軍の野戦食が配られた。(1945年7月8日参照)

証言①

2週間目にはじめて島が見えた。それはグァム島だとのみんな話であった。グァム島だとはっきり分かったのは、その日の夕方、はじめて米軍(2世)の下士官が船艙に下りてきて「グァム島についた。諸君はこれからハワイに連れて行く、沖縄は未だ戦闘が続いて危ない、ハワイに行けば危険は全くなく安全だ」と発表したからである。

沖縄の収容所にいたころ、日本軍の特攻隊の爆弾が収容所内に落ちたりしていたのを思い出した。この話を聞き、みんなはホッとした表情になった。何処かの無人島に連れて行かれ、殺される、と憶測していただけに、その喜びは格別であった。』(73頁)

『それから1週間目にハワイの真珠湾に到着した。到着した日の前日の夕方に、全員シャワー(海水で)をさせられた。これでひげを剃れと、安全カミソリの刃を持ってきた。ひげだけでなく、両脇の毛、局部の毛まできれいに剃れとのことだった。交替で毛剃りした後、きれいに剃れたかと、ひとりびとり検査された。

翌朝は早く起され、食事を終えた後甲板に全員出された。そこには乗船のとき、われわれが脱いだ服が山積されていた。…その中からひとりずつ何か一つ取れ、とのことであった。米軍の大きな上衣とだぶだぶのズボン、それから日本軍の軍服などがあった。バンドは一切なかったので、私は大きなズボンを前に結ぶようにして、裾はぐるぐる巻いて着けた。…上陸のときには、列車のような大きなトレーラーが船に横着けされ、はしごがかけられた。われわれは裸足のまま、はしごから直接トレーラーに乗せられた。

トレーラーに乗せられたわれわれは、真珠湾近くにあったカマボコ型の体育館みたいな建物に運ばれた。その中で整列し、人員点呼を終えた後、水を飲まされた。ホースに、ひとりびとり口をつけ、腹一杯のんだ。水がこんなにおいしいと思ったことはなかった。上陸したその日は7月の27日か28日だったと思う。したがってハワイまで約3週間近くも要したことになる。

…米軍将校がきて、数人の名前を呼んだ。私も呼ばれて前に出された。名前を呼ばれた者は別の兵舎に連れて行かれた。そこで、米海軍用の作業衣、帽子、肌着、靴、靴下に至るまで全部新品を与えられた

そして、ひとりびとり職歴などを聞かれた。私は戦時中…に勤務していたということで、その確認をし、更に写真もとられた。調査が済んだ後、幕舎に連れて行かれた。幕舎といっても、ピラミッド型で、板張りの床もあって、入り口には階段もつけたちゃんとしたものだった。中には6つの野戦用寝台があって、マットも置かれ、シーツも敷かれてあった。しかも掃除が行き届いて清潔であった

そこでしばらく休んでいなさい。君たちは、戦時中特殊な勤務についていたから、そのことについて2、3日したら調査があるから正直に答えるように---、と将校は言った。

そのとき、他の連中のことを聞いたら、山の方にある陸軍の兵舎跡の幕舎に連れて行かれたとのことだった

夕食は5時に出た。米のめし、肉、それにスープもついていたのにはおどろいた。ミルクもコーヒーものみ放題。朝食の場合はパン、タマゴ、チーズ、ミルク、ミカンなどがでた。午後3時になるとお菓子と煙草をくれた。それは1人1日、必ず8本と決っていた。…衣、食、住とも充分過ぎるほど充分で、それに、もう殺されるような心配も全然なくなったので、正に地獄から天国にきた気分であった。』(73-74頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 73、73-74頁より》

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ハワイの日系人収容所

Prisoners of war and interned men and women of Asian and European ancestry lived in wooden buildings and tents at the 120-acre site.

An internment/POW camp in University of Hawaii-West Oahu's backyard | Malamalama, The Magazine of the University of Hawai'i System

証言: ②

『沖縄を出て何日たったであろうか船のスピーカーがサイパン到着を報じた。船の機関が停止した。間違いないサイパン。はやる心を押さえて私はそれを見たさに午後4時の食事の残り屑をすてる使役を希望した。デッキに出ると…サイパンテニアン島が指呼の間に横たわり、輸送船や艦船群が船体を休めていた。…その翌日午前10時頃、例によってデッキに出ると、見渡す限り大海原で島影は視界から消えていた。同じような日々が2、3日続いた後、突然、全員デッキに集合の命令が出た。急いで出てみると船は丁度湾の入り口に差しかかるところであった。すぐ真珠湾だと直感した。

間もなく桟橋に接岸した。アメリカの兵隊たちが物珍しそうにわれわれを眺めていた。すぐ目についたのは湾の中に島のようなものがあり、飛行場には飛行機がぎっしり詰まり、見覚えのあるポートシコルスキーやグラマン機が翼を休めていた。艦船群もひしめきあっていた。その物量の豊富なことは一驚するばかりであった。それを見て、日本は全く無茶な戦争を仕掛けたものだと思った

上陸して最初は海軍の収容所に連行された。みんな5、6列縦隊に並ばされた。その列の先頭には米将校が1人ずつ立ち、流暢な日本語で、ひとりびとりじん問した。例えば、名前、兵隊の兵科、職務の内容、部隊名、兵隊になる前はどこで何をしていたか、といった調子であった。軍需工場にいた者などはピックアップされて別に連れて行かれた。私は防衛隊で弾薬運びをしていたと答えたらスムーズにすんだ。一通りすむまでには夕方近くになっていた。

そこの収容所には前から残留しているものがおり、彼等は米食、パン、肉類を食器に盛って食べていた。食べたくてたまらなかった。あの白いごはんは今でも忘れることができない。彼等は、食器を洗ってテントに戻ろうとしていたとき、アメリカ兵がパン30枚くらいをわれわれの頭上めがけてなげるとわれ先にパンに殺到したパンは踏みつけられ土まみれになって千切れていた。それを見て米兵らは手を叩いて喜んだ。悲しい光景だった。

…われわれは、電車の形をしたトレーラーのようなものに乗せられて海軍収容所を後にした。ある所に到着したときは日もどっぷりと暮れていた。一列縦隊に並べられ、ひとりひとり四つん這いになってぢの検査があり、それを終わると衣服、洗面具、寝台(折りたたみ式)、食器が支給された。済んだ者から米兵が食堂に案内する。そこでも列ができて食べ終えるのを今や遅しと待っている。

いよいよ食堂に入って肉類の罐詰1個を渡されると食器にめしを自分で押し付けて入れた。めしはいくら食べてもよいとのことで、餓鬼になっていたわれわれは、貪るようにのどにつかえるほど詰めこんだ。食べ終わると気が一ぺんに抜けたようになってぼんやりしていると、後がつかえている早くのけのけと、せきたてられ幕舎に連れて行かれた。幕舎は6人と10人用があった。みんなが就寝したのは明方になっていたように思う。』(81-82頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 81-82頁より》

http://www.hawaii.edu/malamalama/wp-content/gallery/honouliuli-camp/historicclose.jpg

ハワイの日系人収容所

An internment/POW camp in University of Hawaii-West Oahu's backyard | Malamalama, The Magazine of the University of Hawai'i System

 

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