1945年 5月22日 『死ぬまで戦う運命』

首里に迫る米軍

『5月末、雨が降りつづいているころ、米軍両翼の前線は中央部の部隊を出し抜いて進撃した。』(401頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 402頁より》 

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-49.jpg

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 14]

 

西部〜中央戦線

クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)

『この5日間にわたるハーフムーン一帯の不毛な戦闘で、シェファード将軍は首里高地からの砲撃がつづくかぎり、ハーフムーンの占領はむずかしいとの結論にたっしていた。そのため、第1海兵師団が首里の攻略に成功するまで、ハーフムーンの攻略は見合わせることにした。』(368頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 368頁より》

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次の谷へ——岩の多い高台の観測点から、米軍が那覇へと進撃する様子を見守る、沖縄戦(の米軍)を統轄する三人。左は双眼鏡を手にする第10軍総司令官バックナー中将、中央は第6海兵師団シェパード少将、右はその副官クレメント准将(1945年5月22日撮影)

INTO ANOTHER VALLEY-- From a rocky ledge, observation post, three men who run the show on Okinawa, watch their troops move up on Naha. Left with the field glasses is Commanding General of the Tenth Army, Lieutenant General Simon Boliver Buckner Jr. 

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…日本軍は米軍にこの丘を渡すまいとして頑強に抵抗し、裏側の斜面を完全に支配していた。クレセント高地が日本軍の手の中に確固としてあるかぎり、第6海兵師団は首里包囲作戦を遂行することはできない。東方進撃が不可能だったからである。

いろいろな状況を考慮したあげく、師団はむりにクレセントをおとすことはやめ、そのかわり針路を那覇国場川の方向にとったのだが、左翼後方を守備するためにも、また東側にいる第1海兵師団との連絡維持のためにもクレセント高地北側には、そうとう強力な守備隊を残しておく必要があった。

米陸軍右翼(西側)の主力は那覇の方に向けられ、首里はしばらく攻撃を見合すことになった。』(401-402頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 401-402頁より》

 

安里(あさと): (首里の南東、弁ガ岳方面から那覇を東西に横断するように流れる)

5月22日海兵隊員たちは安里川の護岸にむけて散発的で軽微な抵抗の中を前進した。第3水陸両用軍団の情報部は「日本軍の重火器拠点を攻略すると、死体は遺棄されていたが、わずかなライフル以外の武器は発見できなかった。自動火器や、多用されている擲弾筒などの重火器は、これらの重要拠点が維持できなくなると、後方に向けて運び出されている模様である」と報告した。

偵察隊は、日本軍の散発的な銃撃がはじまる前に川を渡ると、180メートルほど前進して、那覇市の郊外に達した。…1100時までに対岸までの強固な渡河ラインを構築した

ガイガー将軍は、第1海兵師団との境界線を右に移動させて第4海兵連隊第2大隊と接近させ、第6海兵師団の左翼側と、第4海兵連隊の橋頭堡の防御をより強固にさせた。この間、激しい降雨により、安里川は胸の高さまで水深があがり、濁流と化していた。工兵隊は、第4海兵連隊の突破口を押しひろげるために、渡河器材の搬送を急いだ。』(369頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 369頁より》

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南(那覇側の土手)から安里川にかけられた橋。浅瀬、流れの様子、そして古い橋と防波堤の構造形態が見られる。日本軍の破壊部隊によって壊された橋に注目。

The bridge over the Asato Kawa from the south (Naha Bank) again showing the shallowness and nature of the stream and the construction of the old bridge and seawall. Note the results of the enemy's demolition efforts on the bridge.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

5月22日の夜から23日にかけて、米軍は安里川の南岸に偵察隊を出した。豪雨のため川は水かさが増していた。この偵察隊からの最初の報告では、米軍は戦車の掩護射撃なしでも川を渡れるだろうということであった。』(402頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 402頁より》

 

中央〜東部戦線

与那原(よなばる)・コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

『第10軍はコニカル・ヒルの東部斜面を占領して希望を見出した。これで第7師団は中城湾に面した街道を通って日本軍を包囲できる可能性を開いたわけである。

だが、この包囲作戦も失敗の運命にあった。5月22日から29日にかけて、場所によってはいくらか進出できたが、だいたいにおいて日本軍陣内では、これといった進出はみられなかった。日本軍の防衛線には、いささかのゆるぎもなかったのだ。』(395頁)

『進撃開始時刻は、5月22日の午前2時、それまで兵は防水外套に身をくるんで、砲兵隊の予備砲撃の音に耳を傾けていたが、重苦しい砲弾の音は、雨の中ではかえって大きく、また近く聞こえてくるのだった。

しばらくして中隊は縦隊になって、鬼気迫るような闇夜を、しのつく雨や泥土の中を南に進撃していった。与那原にくると廃墟の中を2人の日本兵がひらりと身をかわして物陰にかくれた。だが、米軍は発砲しない。ただ黙って進んでいくのみである。

午前4時15分、中隊はやがて廃墟と化した村落の十字路まできた。前方には、すぐ目の前にスプルース高地(上与那原の俗称、上の森)がある。この丘に進撃すべく1小隊を先頭に隊伍をととのえたが、ここでの進撃で事故ひとつなかった。こうしてG中隊はスプルース高地の峰の上につくと、今度はE中隊に、チェスナット高地(雨乞森)に進撃を試みるよう信号弾を打ち上げて合図した。

E中隊が、与那原の南東1千メートルの地点にある高さ約130メートルほどの雨乞森についたのは陽も上がってからであった。空はあいかわらず重苦しく、暗灰色に曇っていた。』(408頁)

『第3大隊は与那原を通過して第2大隊につづき、雨乞森や、その南西につづく連丘ジュニバー(大里村役所跡後方)やバンブー・ヒル(高嶺)の方に進んでいった。雨乞森を、第184連隊としては、第32連隊がぶじ与那原街道を通過して首里の背後に迫るようにするためには、前もって占領しておく必要があった。』(409頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 395、408、409頁より》

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廃墟となった与那原

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『第184連隊が、与那原の雨乞森からその西方の高嶺森に至る線を確保し、左翼と後方を守っているあいだに、第32連隊のほうでは、那覇ー与那原線道路をまっすぐ西に向かって進んでいくことになった。首里を南部と切断するためである。

米軍の首里包囲作戦の全計画の成否は、じつにこの第32連隊の計画を遂行できるか否かにかかっていた。5月22日、第184連隊が南進しているとき、第32連隊のF中隊はコニカル・ヒルの南端、与那原のちょうど西にいて、そのあたり一帯を守っていた。』(410頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 410頁より》

 

 

第32軍の動向

進退を決める作戦会議

5月22日の夜、雨が首里城の廃墟を激しくたたきつけるなか、牛島中将は作戦会議を招集した。首里防衛線には亀裂が生じており、西翼では、シュガーローフの三角防御網が第6海兵師団に遂に突破されてしまい、海兵隊はいつでも首里を側面から攻撃できる位置にいた。東翼では、陸軍の第96歩兵師団がコニカルヒル(運玉森)で突破口をひらき、米第24軍団は、この裂け目に第7歩兵師団を投入した。いまや日本軍の第32軍は、首里要塞が包囲される危機に瀕していた。』(369-370頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 369-370頁より》

 

軍司令部

5月22日…夜、第32軍参謀全員と各師団の参謀らが軍司令部に集まり撤退案をめぐって討議した。第62師団の上野参謀長は、首里での玉砕を主張、第24師団の木谷参謀長は撤退案に賛成、混成旅団の京僧参謀は知念案を支持、軍砲兵隊の砂野高級部員が撤退案に賛同、海軍はとくに意見はなかった。』(138-139頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 138-139頁より》 

玉砕を主張したのは第62師団だけだった。もう戦おうにも武器弾薬がない。首里周辺の洞窟には「後送するにも余力はなく、また集積した軍需品を輸送する手段もない。重傷者を見捨てて後退するのは、情として忍びない。師団は戦友将兵の大部分が戦死した現戦線で玉砕したい」と訴えた。後退と決定したら、動けない重傷患者は自らの手で殺してしまわなければならないのだ。それが日本軍であり、「虜囚の辱め」を受けさせないためである。』(78頁)

『八原高級参謀はこうした意見を聞いたあと、長参謀長に対して、首里を放棄して喜屋武半島へ後退すべきことを進言した。すぐにでも玉砕したがっていた参謀長だったが、本土決戦を少しでも有利にするために、できるだけ長く抵抗すべきである、という意見には賛成しないわけにはいかなかった。それが沖縄守備軍・第32軍に課せられた最大の任務だったからである。』(80頁)

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編・森山康平=著/河出書房新社) 78、80頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/ba/Cho_Isamu.jpg

第32軍参謀長 長勇(ちょう・いさむ) 陸軍中将

Isamu Chō - Wikipedia

牛島中将は決断をせまられていた首里で玉砕するか、知念半島へ撤退するか、あるいは20キロメートル南に位置する、多くの洞窟点在する八重瀬岳・与座岳まで撤退するかである。この場所には第24師団が北の首里に移動したさいに、武器や弾薬の補給物資をそのまま残していた。

すでに6万人以上の将兵が戦死していた。歩兵第62師団、歩兵第24師団、独立混成第44旅団ともに、ボロボロになっており、首里防衛線は崩壊の危機に瀕していた。

首里の防衛拠点が縮小していくなか、最後の決戦にために大規模な撤退作戦が計画された。生存している5万名もの将兵が、直径数キロ円内に押しこめられた場合、自滅は必至である。いったん包囲されてしまえば、圧倒的な火力をほこる米軍に前に日本軍の将兵は、格好の餌食にされてしまう。

最善の解決策、かつ、もっとも戦闘をひきのばす策を、牛島中将は選んだ。生き残った将兵を南部の八重瀬岳・与座岳方面へ撤退させることである。背後は海であり、彼らはここで死ぬまで戦う運命となった。』(370-371頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 370-371頁より》

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第32軍司令官 牛島 満(うしじま・みつる)陸軍中将

Military Leaders - World War II: Pacific. Period 5

 

52高地: (シュガーローフ)

『日本軍の撤退作業が進んでいた。満州での夜間移動訓練をつんだ輜重第24連隊は、残されていた車輌で5月22日に物資と負傷兵の搬送をはじめた。』(390頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 390頁より》

 

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