1945年 5月30日 『死の行進』

首里に迫る米軍

大移動の意味

『5月28日には、海兵偵察隊は首里の西側で、明らかに日本軍が陣地を脱出したばかりと思われる証拠を発見した。』(427頁)

『その前日、全トラックや車輌120台と、約1千の部隊が、西海岸の糸満付近と、また東風平にあって、沖縄南部の要塞になっている八重瀬岳全面の富盛村落方面めざして、南南西へ移動するのが発見されたのだ。』(427頁)

『5月29日は、飛行高度ゼロという気象状況のため、ほとんど空中観測は行われず、30日にも日本軍前線後方では、実際なんらの動きも見られなかった

日本軍の移動がなにを意味するのか。これについての米側の見解は、5月30日にまとまった。第3上陸軍団と陸軍第24軍団の情報将校たちが会議をひらいた結果、結論として、第10軍の情報将校は、この日の夜の幕僚会議で、つぎのように報告した。

「敵は大砲で首里を守る考えであるが、部隊はどこに行ったかわかりません。おそらく首里には約5千の兵が残っていると推察されますが、部隊の大部分の行き先は不明であります」』(427頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 427頁より》

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 15]

 

中央戦線

首里(しゅり)・首里城

『…首里城首里の南部にいた海兵隊は、進撃はせず、少数の偵察隊を出した。この偵察隊は、城の北方2、3百メートルの地点で、猛烈な重機関銃や47ミリ対戦車砲の反撃にあい、立往生してしまった。車輌は首里海兵隊がいるところまでは行けず、兵の補給物資は少なくなり、危機状態におかれた。

交替部隊を載せた車は、西海岸の物資集積所から首里まで、ほとんど一列に、ひっきりなしにつづいた。兵の多くは、消耗しきっていて、落伍するものも出てきた。だが、5月30日には、どうにか厚い雲の層をついて、空中から首里海兵隊に、5回も物資を投下し、やっと危機をきりぬけることができたのである。』(433頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 406頁より》

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食糧投下。海軍所属のTBF機が沖縄の要塞である首里城で戦う第1海兵師団に武器、食糧を投下。シェルブーン中佐率いる最前線の部隊は丸一日食糧がなかった。膝までの泥は水陸両用車やトラックをも足止めした。(1945年5月30日撮影)

FOOD DROP. Navy TBF drops ammunition and food to Marines of the First Division at Shuri Castle, fortress of Okinawa. The spearhead battalion, under the command of Lt. Col. Charles W. Shelburne, of Kerrville, Tex., has been without food for 24 hours. Knee-deep mud held back amtracs and trucks.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

首里城地下壕入口は、5月30日の午後1時30分になってもまだ、日本軍が頑強に保持していたし、首里では、米軍はそれ以上の土地をとることができなかった。海兵第3大隊と第1大隊は、塹壕を掘って日本軍本陣内でたてこもり、日本軍は、後方守備隊が首里周辺の戦線を維持するために、がんばっていた

首里城の占領は、それによって、日本軍が首里から退いた、ということでないばかりか、首里の占領でもなく、また日本軍の全計画に影響を与えたともみえなかった。

海兵隊は、ただ踏みとどまるだけのために、いまや食料や水、弾薬のかき集めに、一所懸命になっていたのだ。

第306歩兵連隊は、5月30日海兵隊の戦線を横切って首里城の西方にある〝100メートル高地〟に攻撃を加えたが、そこにいた日本軍に撃退された。だが、ここ以外は首里戦線の重要な陣地はすべて米軍が奪いとった。これは明らかに、日本軍後方守備陣地の破壊となった。ここまで来てはじめて、米軍は日本軍が首里から撤退したという証拠を、前線で確認できたのである。』(433-434頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 406頁より》

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首里(城)にひるがえる星条旗——狙撃される危険をものともせず、首里(城)の胸壁に米国旗を立てるR・P・ロス(海兵隊)中佐。この第1海兵師団の旗はグロスター岬(マサチュウセッツ州)とペリリュ—島に初めて掲げられた旗である。この金属の旗竿は日本軍が使用していたもので、米軍の弾痕がある。

OLD GLORY FLIES OVER SHURI--- Braving sniper fire, Marine Lt. Col. R. P. Ross, Jr., of Frederick, Md., Places the American Flag on a parapet of Shuri Castle on Okinawa. This 1st Marine Division flag was the 1st to be raised over Cape Gloucester and Pelel.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 『5月30日と31日、米軍は散発的な抵抗を抑えて、首里防衛線を制圧した。用心ぶかく首里城要塞に入った海兵隊員と米軍の兵士は、散乱する日本兵の死体を発見したが、主要な装備品はなくなっていた首里城には腐敗した死臭が充満していた。1万の労働者が8年もの歳月をかけて建設した城は、艦砲射撃で無残に破壊され、城石がまるで、大きなおもちゃのブロックのように転がり、砕け散っていたそこに牛島中将の姿はなかった。』(392頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 頁より》

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首里城の城壁--瓦礫と化した首里城の城壁。その下には堀がめぐらされていた。後方に見えるのは首里の町。焼け残った樹木は城を囲んでいた森の一部である。首里城は第5海兵連隊によって攻略された。

CASTLE WALLS--Rubble of the walls of Shuri castle below which lies the moat. In background is Shuri city. The battered trees are part of a grove which surrounded the castle. The castle was taken by units of the Fifth Marine Regiment.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

中央〜東部戦線

与那原(よなばる)・コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

『第32連隊の首里に向かっての進撃が最もはかどったのは、30日と31日であった。隊の全3個大隊が緊密な連携を保って、いっせいに攻撃を開始したときである。30日の日が暮れるまでには、与那原村落から福原ー当間村落を結ぶ一帯の丘陵を占領できたので、連隊は、喜屋武村落北東の山や防衛陣めがけて真っすぐ進撃することができた。』(415頁)

『…米軍は、30日知念半島にも偵察隊を出したが、日本軍の抵抗にもあわず、このあたりでは戦闘は行われないだろうということが明白になった。

5月30日、米第24軍団は、那覇ー与那原道路下方の左側に大規模な前線を確立できた。この前線は約3キロあり、横断戦線としては最も南進していた。』(415頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 415頁より》

 

南進する米軍

西部〜中央戦線

那覇東部

5月30日、第22連隊の第2、第3大隊は川を渡り、那覇東部にいる第1大隊の戦線を通り抜けて攻撃をはじめた。しかし、27高地にある墓地地帯の機関銃火にあって、しばらく足ぶみ状態におかれた。この日は、ほとんど陣地まで到着することができなかったが、午後になって、兵隊3人が高地北側の道路を迂回して攻撃路を発見し、直撃弾をあびせて、海兵隊は進撃し、日本陣地を攻略した。』(404-405頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 405頁より》

 

国場(こくば)・奥武山(おおのやま)

国場丘陵は、那覇の端から東のほうへ、国場川下流の北面と、那覇ー与那原の間にある低地に沿っている。一連の丘陵が、首里の背後を南と南西でまもっている。

第6海兵師団が西海岸に沿って南進しているので、この一帯をまもることは、日本軍にとっては米軍の首里包囲作戦に対して那覇方面からの進撃を阻止するという点でも決定的な重要性をもっているのだ。』(405頁)

海兵隊は第22連隊、第29連隊が、ともに、いまや東の方の丘陵地帯、とくに識名の西や国場川下流の北側にある46高地に集中攻撃を加えることができたのだ。27高地が5月30日に陥落したが、それいらいというものは、46高地に到着するまで米軍は破竹の勢いで数百メートルも進撃していた。そこで熾烈な戦闘にはいったが、これもまた雨と泥のなかの戦争であった。』(406頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 405、406頁より》 

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国場川に架かる橋への入口を固め、警戒態勢をとる37ミリ砲兵隊員。米海兵隊第29連隊特殊兵器部隊(1945年5月30日撮影)

37mm gun crew on alert, covering approach to bridge on Kukuba River. Special Weapons Co., 29th Marines.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の動向

最前線に戻った海軍部隊

第32軍司令部の首里撤退に伴い、南部へ退却していた海軍部隊だったが、それは退却計画とは違う行動だと指摘され、28日、陣地がある小禄半島に戻った。しかし、南部への退却前に小禄半島にすえていた重火器類は破壊しており、米軍と応戦するはずの兵のほとんどは、戦闘訓練のない〝槍部隊〟だった。

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

『…大田司令官は防衛力強化のため30日連合艦隊に対して迫撃砲の緊急空輸について次のように手配を依頼した。

「沖縄所在の海軍部隊は、すでに最精鋭4コ大隊、及び迫撃砲隊の全力を陸軍の指揮下に入れたので小禄地区死守の海軍部隊は槍部隊を主力とする部隊になっている。したがって、戦力は著しく低下しているが、ここにまだ陸軍に運んでいない迫撃砲が3,000発残っている

今、ここに迫撃砲10門を夜間空輸することができたならば、大なる戦力を発揮することができる。よって、迫撃砲空輸の件について至急御高配してくれるよう要望する。投下の位置は、糸満飛行場から北側の平地がよい」

この空輸作戦はただちに実行されたが、米軍の守りは固く成功しなかった。』(93頁)

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 93頁より》

 

沖縄本島北部の日本軍

恩納(おんな): 第4遊撃隊

30日、雨がつよく降っているなかを、避難民の群が包囲の盲点を発見したらしく、伊芸の方に下がってゆくジャングルの谷間に向かって、雪崩のように移動していった。住民たちにとって、投稿するか、餓死をまつか、自決するかの、その三つのうちのどれをとるか、それが住民たちにさし迫った問題だった。

この頃の兵隊は、だれもがその誇りであった階級章をとり外して、通用しなくなっていたから、鉄帽はかむっているものの、軍服の上には避難民から恵んで貰った黒い着物とか、芭蕉で織った着物とか、さまざまの着物を引っかけていて、ちょっと見ると、昔の百姓一揆のようなスタイルであった。平時であれば、ふきだしたくなるような服装であるが、これは兵隊が自分の生命を守るために考案した密林戦の知恵なのである。』(216-217頁)

『頂上をなにがなんでも奪取しようとしている敵は、5月30日、眼鏡山を再占領し、山頂に迫撃砲を据えつけて、恩納岳の東北面を牽制するとともに、西側のわが隊正面に対して、軽迫撃砲と機銃を猛射して完膚なきまで叩き、瀬良垣登山道からジリジリ頂上に迫りつつあり、恩納岳は西方から危険にさらされた。』(220頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 216-217、220頁より》

 

沖縄島からの脱出

(じん)航空参謀の沖縄脱出 ③

大本営に対し沖縄への「一大航空攻撃」を具申するために東京へと派遣されることになった神直道航空参謀だが、5月10日水上機による脱出を試みるも、タイミングを逃し失敗。そこで、刳舟で北上することにし、その後は若い漁夫の漕ぎ手を探していた。防衛隊員として召集されていた糸満の漁夫6人は、5月下旬、神参謀脱出のための舟の漕ぎ手となるよう命じられた。

『神参謀は一度は失敗したあげく、5月30日、航空班の藤田忠雄曹長を伴い、防衛召集された糸満の漁師、…6名の漕ぐ刳舟に乗り糸満の名城海岸から再度の決死の脱出を決行した。』(129頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 129頁より》

糸満の若い漁夫上りの防衛隊員達が櫂を取る一葉の刳舟は摩文仁をまわって、島の東海岸一路北上沖縄本島最北端の辺戸岬のあたりへ出て、与論、永良部、徳之島へと、黒潮の波濤を乗り切り、夜の海上を、或いは順風に帆をはり、或いは精根のつづくかぎり力漕したその冒険と努力は、想像に絶するものがあった。かくして神参謀は戦線を離脱し日本本土へ脱走した。』(83頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 83頁より》

 

首里撤退・南部への移動

軍司令部: 津嘉山(つかざん)壕から摩文仁(まぶに)への移動

『難攻不落を誇った首里を撤退して南下する途中、津嘉山に仮の新戦闘司令所を設けた守備軍首脳…は、…30日午前零時ごろ津嘉山を発ち、その日のうちに摩文仁へ到着した。そして89高地摩文仁岳)の八合目あたりにある自然洞窟に落ちついた。』(164頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 164頁より》

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沖縄戦跡国定公園の展望台から眺める摩文仁の丘

沖縄戦跡国定公園 - Wikipedia

八原高級参謀の回想:

5月30日零時を過ぎて、ようやく自動車は津嘉山の麓に到着した。…敵の砲弾は、緩徐に四周の山頂付近にうなりをあげて落下している。…じれったいことに、自動車が容易に始動しない。焼け落ちた石垣を楯にして出発を待つ。…ようやくにして動き出した1台のトラックに、まず首脳部のみ搭乗して出発する。』(361頁)

東風平街道に出ると、友軍が中隊もしくは小隊ごとに続々南方さして退却している。皆黙々としているがよく落ち着いており、到底退却中とは思えない堂々たる行進である。試みに部隊名を訊すと、捜索第24連隊と答える。歩兵第89連隊とともに、軍の最右翼で戦闘していた部隊だ。退却最困難な位置にあった部隊が、今ごろここを通過中とすれば、万事計画通り退却は順調に行われているのだ

山川橋付近は、敵の交通遮断射撃の一焦点である。付近一帯大小の砲爆のあとだらけだ。死体が散乱し、死臭が強烈に車上に流れてくる。…いちばん危険な橋の手前で…トラック数輛と行き交う。道が砲弾で半分削りとられているので、行き違いに時間がかかり、一同はらはらする。ようやくの思いで橋を通過して数十メートル、今度はエンジン・ストップだ。…再び行くこと100メートル、頭上すれすれに飛んだ敵砲弾が、左前の半壊の一軒屋に命中、土砂を飛散させる。

山川から東風平に出る鞍部の手前で、また自動車の意地悪だ。ここも敵の砲撃の一目標地点だ。皆車を飛び下りて、鞍部の向かい側に走る。鞍部を少し降った付近で、軍砲兵隊の十数名が砲弾を避けて休憩している。そのすぐ近くに、黒焦げになった死体が7、8つ転がっている。中に一つ腰掛けた姿勢で焦げているのが心を打つ。

東風平にさしかかるころ、7、80名の防衛隊の一団が、軍需品を担いで前線へ北進するのに出会う。そっと車上より敬意を表する。』(362-363頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 361、362-363頁より》 

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 【沖縄戦の絵】「全身にやけどをした日本兵

『…糸満市摩文仁で見た日本兵の姿。米軍機が焼夷弾を投下、摩文仁の山全体が炎に包まれた。…外に出てみると、壕の近くで座ったままの姿で全身に大やけどを負って動けなくなった日本兵が2人いた。じっと動かない2人だが、目だけは動いていたのでまだ生きているのがわかった。…どうすることもできずにただ通り過ぎるしかなかった』

全身にやけどをした日本兵 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

前線に弾薬運んだ義勇隊

義勇隊を管理する警察

『軍は戦況の悪化と南部への退却によって大量の弾薬、糧秣を搬送せねばならなくなると、その労役をまたも県民に押しつけた。義勇隊の動員について法的根拠はなく、参謀本部は本土決戦に備えて3月24日、義勇奉公隊構想を閣議決定しているが、法を整備する前に構想を先取りしたと思われる。しかも、実際に隊員の頭数をそろえ、指揮する役回りは警察官に押しつけられた。』(325頁)

『…壕の近くで、中年以上の男女の一群が、警察官の指揮を受けていた。屈強な若者は一人も居なかった前線への弾薬補給と輸送のため、かり出された義勇隊だったが、一人の中年の男が警察官に訴えている激しい口調に、皆はじっと耳を傾けていた。彼の訴えは前夜、近くの潮平集落(座波の西約2キロ)で起きた惨劇だった。

「抜刀した友軍の将校らが村の壕に現れ、『出ろ、すぐ出ろ、兵隊がいなけりゃ、この島が守れるか。出なけりゃ、これだぞ!』と、日本刀拳銃を突きつけたんだ。抵抗の出来ない女、子供や年寄りたちを、村の壕から追い出したんだ。追い出された人たちは焼け残った馬小屋や石垣の陰にしゃがんだり、集落内を右往左往しているうちに、糸満沖から射ちこまれた艦砲で、皆やられてしまった

男はこみあげる怒りを抑えることが出来ず、警察官に訴え続けた。

「我々は勝つために命がけで軍に協力しているのに、その軍が罪もない親、兄弟姉妹を死に追いやっている。そんな軍に、どうして協力できるんだ

警察官は声を落としてなだめていたが、彼の顔もこわばっていた。男はそれっきり一言もしゃべらず、やがて輸送隊は出発した。輸送隊は首里方面の前線に向かったが、彼らのうち果たして何人が再び家郷の地を踏むことが出来ただろうか。』(324-325頁)

那覇署署僚の証言:

『「義勇隊にかり出された人々は泣き叫ぶ妻子や家族と別れ、破裂する砲弾の中を突破して行きました。配色濃厚な中で、選ぶ方も血を吐く思いでした。重い弾薬米俵を背負って最後の土壇場まで歯をくいしばり、作業に従事した県民の姿は、誠に悲惨、かつ崇高でした。名もなきこれらの県民の死を忘れてはなりません。」』(325頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 324-325、325頁より》

   

 

そのとき、住民は・・・

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那覇の目抜き通りをあてもなくさまよう、年老いた沖縄人。(1945年5月30日撮影)

Aged okinawan wanders dazedly along main street in Naha.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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