〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年5月30日 『死の行進』

恩納岳の包囲 / 南下の司令部 / 北上の「義勇隊」

 

米軍の動向

雨と泥との闘い

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Three New York State Marines slosh thru the knee deep mud on Okinawa carrying clover leafs of ammo. for their 105mm. Howitzer.

ひざまである泥の中、三葉型に束ねた105ミリ榴弾砲の弾薬を運ぶニューヨーク出身の海兵隊員3名。(1945年5月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Shown above are Marine 105mm. Howitzers firing at the Nips entrenched in distant hills, note the mud and water in the gun pits which got so deep it had to be bailed out so the guns could continue firing.

遠方にある日本軍の堅固な陣地を爆撃している米海兵隊105ミリ榴弾砲。大砲を据えつけた穴が、砲撃を継続できるよう[泥水を]掻き出さねばならなかった程、泥水に深くはまり込んでいる様子に注目(1945年5月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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《AIによるカラー処理》Their battle over, these tired, wet, miserable Marines, walking casualties, are shown being evacuated through the slime and mud of Okinawa. Note the mud as deep as the hub caps on the truck they are traveling in.

戦闘を終え、疲労困憊、ずぶ濡れで惨めな思いの海兵隊員(歩行可能な負傷兵)が、ぬるぬるとした泥道を撤退していく。彼らを乗せたトラックの車軸中心まである泥の深さに注目。(1945年5月30日撮影)(投稿者註: 和訳は投稿者が加筆)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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《AIによるカラー処理》Chaplain C. R. Stinnette, Hartford, Conn., and aides, T/4 Christopher Vance, Bismail, N. D., Pfc. Thomas W. Kinneon, Seattle, Wash., and Sgt. John Mills, Los Angeles, Calif., praying on Memorial Day Church Services at the 7th Infantry Division Cemetery on Okinawa.

第7歩兵師団の墓地で戦没将兵追悼記念日に礼拝をするスチネット牧師と助手のヴァンスT/4、キネオン上等兵、ミルズ軍曹(1945年5月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

首里に迫る米軍 - 「大移動」の意味

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 15]

5月28日には、海兵偵察隊は首里の西側で、明らかに日本軍が陣地を脱出したばかりと思われる証拠を発見した。(427頁)

その前日、全トラックや車輌120台と、約1千の部隊が、西海岸の糸満付近と、また東風平にあって、沖縄南部の要塞になっている八重瀬岳全面の富盛村落方面めざして、南南西へ移動するのが発見されたのだ。(427頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 427頁より》

 5月29日は、飛行高度ゼロという気象状況のため、ほとんど空中観測は行われず、30日にも日本軍前線後方では、実際なんらの動きも見られなかった。

日本軍の移動がなにを意味するのか。これについての米側の見解は、5月30日にまとまった。第3上陸軍団と陸軍第24軍団の情報将校たちが会議をひらいた結果、結論として、第10軍の情報将校は、この日の夜の幕僚会議で、つぎのように報告した。

「敵は大砲で首里を守る考えであるが、部隊はどこに行ったかわかりません。おそらく首里には約5千の兵が残っていると推察されますが、部隊の大部分の行き先は不明であります」

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 427頁より》

 

首里城の制圧

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《AIによるカラー処理》Marines of the 1st Division rest under the battered walls of Shuri castle, after a spearhead battalion under the command of Lt. Col. Charles W. Shelburne, of Kerrville, Tex., took the fortress in a push through knee-deep mud.

シェルバーン中佐率いる先鋒の一箇大隊が膝までの泥をついて要塞化した首里城を陥れたあと、破壊された城壁の下で休む第1海兵師団(1945年5月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

首里城首里の南部にいた海兵隊は、進撃はせず、少数の偵察隊を出した。この偵察隊は、城の北方2、3百メートルの地点で、猛烈な重機関銃や47ミリ対戦車砲の反撃にあい、立往生してしまった。車輌は首里海兵隊がいるところまでは行けず、兵の補給物資は少なくなり、危機状態におかれた。

交替部隊を載せた車は、西海岸の物資集積所から首里まで、ほとんど一列に、ひっきりなしにつづいた。兵の多くは、消耗しきっていて、落伍するものも出てきた。だが、5月30日には、どうにか厚い雲の層をついて、空中から首里海兵隊に、5回も物資を投下し、やっと危機をきりぬけることができたのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 406頁より》

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FOOD DROP. Navy TBF drops ammunition and food to Marines of the First Division at Shuri Castle, fortress of Okinawa. The spearhead battalion, under the command of Lt. Col. Charles W. Shelburne, of Kerrville, Tex., has been without food for 24 hours. Knee-deep mud held back amtracs and trucks.

食糧投下。海軍所属のTBF機が沖縄の要塞である首里城で戦う第1海兵師団に武器、食糧を投下。シェルブーン中佐率いる最前線の部隊は丸一日食糧がなかった。膝までの泥は水陸両用車やトラックをも足止めした。(1945年5月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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COMMAND CAR: PhM3/C Jack R. Swank, San Diego, Calif., looks over Jap command car found amid the ruins of Shuri Castle. The castle was taken by 1stDiv Marines of the 5thReg. LtCol Charles W. Shelburne, Kerrville, Texas.

日本軍司令車。廃墟と化した首里城の真ん中で発見された日本軍司令車を調べるスワンク衛生兵。首里城は、テキサス州出身のシェルバーン中佐率いる第1海兵師団第5連隊によって攻略された。(1945年5月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

首里城地下壕入口は、5月30日の午後1時30分になってもまだ、日本軍が頑強に保持していたし、首里では、米軍はそれ以上の土地をとることができなかった。海兵第3大隊と第1大隊は、塹壕を掘って日本軍本陣内でたてこもり、日本軍は、後方守備隊が首里周辺の戦線を維持するために、がんばっていた

首里城の占領は、それによって、日本軍が首里から退いた、ということでないばかりか、首里の占領でもなく、また日本軍の全計画に影響を与えたともみえなかった。海兵隊は、ただ踏みとどまるだけのために、いまや食料や水、弾薬のかき集めに、一所懸命になっていたのだ。

第306歩兵連隊は、5月30日海兵隊の戦線を横切って首里城の西方にある〝100メートル高地〟に攻撃を加えたが、そこにいた日本軍に撃退された。だが、ここ以外は首里戦線の重要な陣地はすべて米軍が奪いとった。これは明らかに、日本軍後方守備陣地の破壊となった。ここまで来てはじめて、米軍は日本軍が首里から撤退したという証拠を、前線で確認できたのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 406頁より》

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OLD GLORY FLIES OVER SHURI--- Braving sniper fire, Marine Lt. Col. R. P. Ross, Jr., of Frederick, Md., Places the American Flag on a parapet of Shuri Castle on Okinawa. This 1st Marine Division flag was the 1st to be raised over Cape Gloucester and Pelel.

首里(城)にひるがえる星条旗——狙撃される危険をものともせず、首里(城)の胸壁に米国旗を立てるR・P・ロス(海兵隊)中佐。この第1海兵師団の旗はグロスター岬(マサチュウセッツ州)とペリリュ—島に初めて掲げられた旗である。この金属の旗竿は日本軍が使用していたもので、米軍の弾痕がある。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

5月30日と31日、米軍は散発的な抵抗を抑えて、首里防衛線を制圧した。用心ぶかく首里城要塞に入った海兵隊員と米軍の兵士は、散乱する日本兵の死体を発見したが、主要な装備品はなくなっていた。首里城には腐敗した死臭が充満していた。1万の労働者が8年もの歳月をかけて建設した城は、艦砲射撃で無残に破壊され、城石がまるで、大きなおもちゃのブロックのように転がり、砕け散っていた。そこに牛島中将の姿はなかった

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 頁より》

 

那覇から国場川

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Chapter 09 | Our World War II Veterans

5月30日、第22連隊の第2、第3大隊は川を渡り、那覇東部にいる第1大隊の戦線を通り抜けて攻撃をはじめた。しかし、27高地にある墓地地帯の機関銃火にあって、しばらく足ぶみ状態におかれた。この日は、ほとんど陣地まで到着することができなかったが、午後になって、兵隊3人が高地北側の道路を迂回して攻撃路を発見し、直撃弾をあびせて、海兵隊は進撃し、日本陣地を攻略した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 404-405頁より》

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《AIによるカラー処理》Marine stands in the wreckage of a theatre buildings in Naha.

那覇の劇場跡に立つ海兵隊(1945年5月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Second Battalion, 22nd Marines move up to Bald Nose Hill past large Jap building. Bald Nose Hill is just around the bend in the road. Snipers all the way kept troops in constant danger. Building is used as advance Command Post by Marines in attack on Bald Nose Hill.

大きな建物を越えたあたりの「ボールド・ノーズ・ヒル」まで移動する第22海兵隊第2大隊。狙撃兵は常に部隊を危険にさらす。建物は「ボールド・ノーズ・ヒル」攻略の際、前進指揮所として使用(1945年5月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

国場(こくば)・奥武山(おおのやま)

国場丘陵は、那覇の端から東のほうへ、国場川下流の北面と、那覇-与那原の間にある低地に沿っている。一連の丘陵が、首里の背後を南と南西でまもっている。第6海兵師団が西海岸に沿って南進しているので、この一帯をまもることは、日本軍にとっては米軍の首里包囲作戦に対して那覇方面からの進撃を阻止するという点でも決定的な重要性をもっているのだ。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 405頁より》 

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37mm gun crew on alert, covering approach to bridge on Kukuba River. Special Weapons Co., 29th Marines.

国場川に架かる橋への入口を固め、警戒態勢をとる37ミリ砲兵隊員。米海兵隊第29連隊特殊兵器部隊(1945年5月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Wreckage in the harbor on the outskirts of Naha at the mouth of the Kokuba River.

那覇郊外の国場川河口にある壊れた船(1945年5月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

海兵隊は第22連隊、第29連隊が、ともに、いまや東の方の丘陵地帯、とくに識名の西や国場川下流の北側にある46高地に集中攻撃を加えることができたのだ。27高地が5月30日に陥落したが、それいらいというものは、46高地に到着するまで米軍は破竹の勢いで数百メートルも進撃していた。そこで熾烈な戦闘にはいったが、これもまた雨と泥のなかの戦争であった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 406頁より》

 

与那原から大里へ

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 14]

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Men of Company ”D”, 184th Infantry Regiment, unloading supplies from a weasel on the front, south of Younabaru.

与那原の南側でウィーゼル車から物資を降ろす第184歩兵連隊D中隊の兵士(1945年5月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

第32連隊の首里に向かっての進撃が最もはかどったのは、30日と31日であった。隊の全3個大隊が緊密な連携を保って、いっせいに攻撃を開始したときである。30日の日が暮れるまでには、与那原村落から福原-当間村落を結ぶ一帯の丘陵を占領できたので、連隊は、喜屋武村落北東の山や防衛陣めがけて真っすぐ進撃することができた。… 米軍は、30日に知念半島にも偵察隊を出したが、日本軍の抵抗にもあわず、このあたりでは戦闘は行われないだろうということが明白になった。5月30日、米第24軍団は、那覇-与那原道路下方の左側に大規模な前線を確立できた。この前線は約3キロあり、横断戦線としては最も南進していた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 415頁より》

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Men of Company B, 184th Infantry Regiment, 7th Inf. Division, U.S. Army, look over a captured Jap gun emplacement.

捕獲した日本軍砲座を調べる米国陸軍第7歩兵師団第184歩兵連隊B中隊の兵士(1945年5月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の動向

最前線に戻った海軍部隊

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

第32軍司令部の首里撤退に伴い、5月26日には南部へ退却していた海軍部隊だったが、それは退却計画とは違うと陸軍第32軍司令部に指摘され、5月28日、陣地がある小禄半島に差し戻された。しかしこれまで主力部隊を陸軍に抽出してきたうえに、南部退却前に小禄半島にすえていた重火器類はすべて破壊済みの状態で、部隊には本来は非戦闘員である地元住民も多く含まれていた。

… 大田司令官は防衛力強化のため30日連合艦隊に対して迫撃砲の緊急空輸について次のように手配を依頼した。

「沖縄所在の海軍部隊は、すでに最精鋭4コ大隊、及び迫撃砲隊の全力を陸軍の指揮下に入れたので小禄地区死守の海軍部隊は槍部隊を主力とする部隊になっている。したがって、戦力は著しく低下しているが、ここにまだ陸軍に運んでいない迫撃砲が3,000発残っている。今、ここに迫撃砲10門を夜間空輸することができたならば、大なる戦力を発揮することができる。よって、迫撃砲空輸の件について至急御高配してくれるよう要望する。投下の位置は、糸満飛行場から北側の平地がよい」

この空輸作戦はただちに実行されたが、米軍の守りは固く成功しなかった

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 93頁より》

 

恩納岳の第二護郷隊

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(やんばるの森をたどって:3)15歳、負傷兵を引きずって - 沖縄:朝日新聞デジタル

恩納岳: 第2護郷隊 (第4遊撃隊)

4月1日の米軍上陸に際し読谷・嘉手納飛行場にあえて取り残された特設第1連隊で生き残った兵士たちは、第二護郷隊が陣地を構える恩納岳に混ざり合った。

米軍は5月24日から再び恩納岳を包囲するが、恩納岳に避難していた住民の多くが、南北から包囲する米軍と陣地を構える日本軍とのあいだにはさまれ逃げまどい、犠牲となった。敗走する日本軍は民間人を装っていたため、民間人も米軍の標的でありえた。

恩納岳 (第二護郷隊): 第44飛行場大隊の生き残り兵士

30日、雨がつよく降っているなかを、避難民の群が包囲の盲点を発見したらしく、伊芸の方に下がってゆくジャングルの谷間に向かって、雪崩のように移動していった。住民たちにとって、投稿するか、餓死をまつか、自決するかの、その三つのうちのどれをとるか、それが住民たちにさし迫った問題だった。

この頃の兵隊は、だれもがその誇りであった階級章をとり外して、通用しなくなっていたから、鉄帽はかむっているものの、軍服の上には避難民から恵んで貰った黒い着物とか、芭蕉で織った着物とか、さまざまの着物を引っかけていて、ちょっと見ると、昔の百姓一揆のようなスタイルであった。平時であれば、ふきだしたくなるような服装であるが、これは兵隊が自分の生命を守るために考案した密林戦の知恵なのである。(216-217頁)

… 頂上をなにがなんでも奪取しようとしている敵は、5月30日、眼鏡山を再占領し、山頂に迫撃砲を据えつけて、恩納岳の東北面を牽制するとともに、西側のわが隊正面に対して、軽迫撃砲と機銃を猛射して完膚なきまで叩き、瀬良垣登山道からジリジリ頂上に迫りつつあり、恩納岳は西方から危険にさらされた。(220頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦光/三一書房) 216-217、220頁より》

 

 

第32軍司令部 - 摩文仁

首里の司令部壕を出発した軍司令部は津嘉山壕を経て摩文仁の司令部壕へ移動する。

難攻不落を誇った首里を撤退して南下する途中、津嘉山に仮の新戦闘司令所を設けた守備軍首脳…は、…30日午前零時ごろ津嘉山を発ち、その日のうちに摩文仁へ到着した。そして89高地摩文仁岳)の八合目あたりにある自然洞窟に落ちついた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 164頁より》

司令部壕の隊をいくつかに分け、米軍の攻撃が緩む夜間に後退を進めた。

沖縄本土復帰50周年 知る32軍壕 | 沖縄タイムス

八原高級参謀の回想:

5月30日零時を過ぎて、ようやく自動車は津嘉山の麓に到着した。…敵の砲弾は、緩徐に四周の山頂付近にうなりをあげて落下している。…じれったいことに、自動車が容易に始動しない。焼け落ちた石垣を楯にして出発を待つ。…ようやくにして動き出した1台のトラックに、まず首脳部のみ搭乗して出発する。(361頁)

東風平街道に出ると、友軍が中隊もしくは小隊ごとに続々南方さして退却している。皆黙々としているがよく落ち着いており、到底退却中とは思えない堂々たる行進である。試みに部隊名を訊すと、捜索第24連隊と答える。歩兵第89連隊とともに、軍の最右翼で戦闘していた部隊だ。退却最困難な位置にあった部隊が、今ごろここを通過中とすれば、万事計画通り退却は順調に行われているのだ。

山川橋付近は、敵の交通遮断射撃の一焦点である。付近一帯大小の砲爆のあとだらけだ。死体が散乱し、死臭が強烈に車上に流れてくる。…いちばん危険な橋の手前で…トラック数輛と行き交う。道が砲弾で半分削りとられているので、行き違いに時間がかかり、一同はらはらする。ようやくの思いで橋を通過して数十メートル、今度はエンジン・ストップだ。…再び行くこと100メートル、頭上すれすれに飛んだ敵砲弾が、左前の半壊の一軒屋に命中、土砂を飛散させる。

山川から東風平に出る鞍部の手前で、また自動車の意地悪だ。ここも敵の砲撃の一目標地点だ。皆車を飛び下りて、鞍部の向かい側に走る。鞍部を少し降った付近で、軍砲兵隊の十数名が砲弾を避けて休憩している。そのすぐ近くに、黒焦げになった死体が7、8つ転がっている。中に一つ腰掛けた姿勢で焦げているのが心を打つ。

東風平にさしかかるころ、7、80名の防衛隊 (ブログ註「義勇隊」項目を参照) の一団が、軍需品を担いで前線へ北進するのに出会う。そっと車上より敬意を表する。(362-363頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 361、362-363頁より》 

摩文仁の司令部壕: 摩文仁ヶ丘の黎明の塔近くから海岸に降り左側に所在する。現在は入り口部分が施錠され、中に入ることはできない。

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沖縄県のガマと地下壕:第三十二軍司令部 摩文仁壕

 第89連隊第2中隊の陣地壕として使用されていたが、のちに第32軍指令部壕として使用された。

沖縄県埋蔵文化財センター『戦争遺跡詳細分布調査/沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅰ南部編』(2001年) p. 42 》

神(じん)航空参謀の沖縄脱出 ➂

大本営に対し沖縄への「一大航空攻撃」を具申するために東京へと派遣されることになった神直道航空参謀だが、5月10日水上機による脱出を試みるも、タイミングを逃し失敗。そこで、刳舟で北上することにし、その後は若い漁夫の漕ぎ手を探していた。防衛隊員として召集されていた糸満の漁夫6人は、5月下旬、神参謀脱出のための舟の漕ぎ手となるよう命じられた。

神参謀は一度は失敗したあげく、5月30日、航空班の藤田忠雄曹長を伴い、防衛召集された糸満の漁師、…6名の漕ぐ刳舟に乗り、糸満の名城海岸から再度の決死の脱出を決行した。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 129頁より》

糸満の若い漁夫上りの防衛隊員達が櫂を取る一葉の刳舟は摩文仁岬をまわって、島の東海岸を一路北上、沖縄本島最北端の辺戸岬のあたりへ出て、与論、永良部、徳之島へと、黒潮の波濤を乗り切り、夜の海上を、或いは順風に帆をはり、或いは精根のつづくかぎり力漕した。その冒険と努力は、想像に絶するものがあった。かくして神参謀は戦線を離脱し日本本土へ脱走した。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 83頁より》

 

そのとき、住民は・・・

前線に弾薬を運ばされた「義勇隊」

義勇隊を管理する警察

第32軍の南下を立案した八原博通参謀の手記によると、同日、第32軍司令部が摩文仁「堂々たる行進」で南下する途中、東風平で軍需品を担いで北の前線へ逆行する大勢の「防衛隊員」とすれちがう。また参謀は自らの作戦がまねいたはずの避難民の遺体の多さが「気になる」と記す。

東風平にさしかかるころ、七、八十名の防衛隊の一団が、軍需品を担いで前線へ北進するのに出会う。そっと車上より敬意を表する。津嘉山を先発したと思われる数十名の娘たちの一群を追い越し、東風平部落の焼け跡にはいる。部落中央のなつかしい三叉路を右折し、志多伯に出る。軍砲兵隊の陣地があった関係か、敵砲爆の集中を呼び、随分荒れ果てている。再び死臭が鼻をつくふろしき包みを持ったままの避難民の死体が多いのが気になる

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 363頁より》

実際には八原が見た北上する「防衛隊」は、警察によって徴用された民間人で、弾薬や食料を首里方面に運ぶ「義勇隊」であった。

軍は戦況の悪化と南部への退却によって大量の弾薬、糧秣を搬送せねばならなくなると、その労役をまたも県民に押しつけた。義勇隊の動員について法的根拠はなく、参謀本部は本土決戦に備えて3月24日、義勇奉公隊構想を閣議決定しているが、法を整備する前に構想を先取りしたと思われる。しかも、実際に隊員の頭数をそろえ、指揮する役回りは警察官に押しつけられた。(325頁)

… 壕の近くで、中年以上の男女の一群が、警察官の指揮を受けていた。屈強な若者は一人も居なかった。前線への弾薬補給と輸送のため、かり出された義勇隊だったが、一人の中年の男が警察官に訴えている激しい口調に、皆はじっと耳を傾けていた。彼の訴えは前夜、近くの潮平集落(座波の西約2キロ)で起きた惨劇だった。

「抜刀した友軍の将校らが村の壕に現れ、『出ろ、すぐ出ろ、兵隊がいなけりゃ、この島が守れるか。出なけりゃ、これだぞ!』と、日本刀拳銃を突きつけたんだ。抵抗の出来ない女、子供や年寄りたちを、村の壕から追い出したんだ。追い出された人たちは焼け残った馬小屋や石垣の陰にしゃがんだり、集落内を右往左往しているうちに、糸満沖から射ちこまれた艦砲で、皆やられてしまった

男はこみあげる怒りを抑えることが出来ず、警察官に訴え続けた

「我々は勝つために命がけで軍に協力しているのに、その軍が罪もない親、兄弟姉妹を死に追いやっている。そんな軍に、どうして協力できるんだ

警察官は声を落としてなだめていたが、彼の顔もこわばっていた。男はそれっきり一言もしゃべらず、やがて輸送隊は出発した。輸送隊は首里方面の前線に向かったが、彼らのうち果たして何人が再び家郷の地を踏むことが出来ただろうか。(324-325頁)

那覇署署僚の証言:

「義勇隊にかり出された人々は泣き叫ぶ妻子や家族と別れ、破裂する砲弾の中を突破して行きました。配色濃厚な中で、選ぶ方も血を吐く思いでした。重い弾薬米俵を背負って最後の土壇場まで歯をくいしばり、作業に従事した県民の姿は、誠に悲惨、かつ崇高でした。名もなきこれらの県民の死を忘れてはなりません。」

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 324-325、325頁より》

国家神道には、不条理な犠牲や遺恨を強いた側が、犠牲者を宗教的なレトリックで称え祀り(まつり)、時に神化して慰撫することによってその遺恨を解消しようとするシステム (御霊信仰) がある。特攻などの強制死を語る時に使われる「崇高な」等の形容、また「玉砕」「散華」といった宗教的レトリックを読む際には、そこに責任の所在を曖昧にする様式が潜在してることに注意する必要がある。

「義勇隊」とは

日本軍は、数回にわたる防衛召集で集めた「防衛隊」の他に、「義勇隊」「救護班」「炊事班」などの名目で、沖縄人を「根こそぎ動員」していった。

法や防衛召集の対象ではない男子、及び女子が、義勇隊・救護班・炊事班など様々な名称のもとに戦時動員されたが、彼らはいずれも軍人ではなかった。編成時期や任務、動員された経緯等も異なるが、「防衛隊」などのように防衛召集の手続きを経ておらず、動員の法的根拠もなかった。(357頁)

玉城村では45年3月下旬頃より、住民は部隊に協力するために現住所を離れないよう区長を通じて通達され、区長や部隊から派遣された兵隊によって引き渡された。その後「大体、区長を通じての徴用は4月下旬部隊出動までの間で、 それ以後、敗退し始めた頃からは、行き当りバッタリで目につくものは、誰でも引き出されて使用」され、食糧と弾薬を運搬するために「馬車代りに「徴用され」」たという。(361頁)

 『沖縄県史 各論編7 現代』(令和4年7月)

 

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