〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年3月30日『激化する空と海からの攻撃』

鉄の暴風ターゲットマップ第32軍応射せず飛行場の自壊命令偵察隊上陸

米軍の動向

上陸地点 (読谷・北谷) への集中的な空爆と艦砲射撃

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本島上陸の2日前。アメリカ軍は読谷村から北谷町にかけての海岸を軍艦で埋め尽くします。船の上で武器を研ぐ者。ライフルの手入れをする者。アメリカ軍の大型の船からは戦車型の揚陸艦が次々と吐き出され、本島上陸に向けた準備は着々と進んでいました。一方、読谷村の海岸沿いにはアメリカ軍の上陸を迎え撃つ目的で、沖縄守備軍の陣地や爆薬を積んだ船も配置されましたが、アメリカ軍の上陸が迫ると日本軍は水際での作戦を放棄。敵を内陸部に引き込んで闘う持久作戦に変更しました。2日後に無血上陸するアメリカ軍はわずか4日間で現在のうるま市まで占領。本島を南北に分断します。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年3月30日

鉄の暴風 - 読谷・北谷をねらう艦砲射撃

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戦艦ネバダ(BB-36)の40ミリ砲。沖縄本島上陸拠点を砲撃する様子。(1945年3月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

読谷の軽便鉄道も駅舎から車両まで空爆で破壊された。

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 米空母機動部隊の艦載機による空爆後の様子。読谷の建物が破壊された。護衛空母マキン・アイランド (CVE-93)の艦載機から撮影。車両が停まっている駅が、写真後方の村の近くに見える。約200フィート上空から撮影。撮影地: 読谷 (1945年3月30日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

日本軍は竹かごの零戦や丸太の砲台を設置し、多くのダミーを置いたが、空からも偽物とわかるものだった。

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Jap aircraft destroyed by U.S. aerial bombing at Yontan Airfield, Okinawa in Ryukyus. F.L. 6 3/8”. Taken by plane from USS MAKIN ISLAND (CVE-93). Two ”Zekes” (may be dummy aircraft). Alt. about 200'.米軍の空爆により破壊された日本軍機。読谷飛行場にて。護衛空母マキン・アイランド (CVE-93)の艦載機から撮影。写真の2機は、零式艦上戦闘機ジーク」(おそらくダミー機)。約200フィート上空から撮影。(1945年3月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本軍施設への徹底した攻撃

上陸地点 (読谷・嘉手納) の作戦地図に見入る揚陸艇の乗組員。

米国海軍: Personnel aboard LC(FF) 370, enroute to Okinawa in Ryukyus. 沖縄へ向かう歩兵揚陸艇(隊旗艇)(LCFF-370)の乗組員。1945年3月30日

沖縄県公文書館

(下図) 上陸地点の詳細な解析の一例 (1945年2月28日付)。米軍は十・十空襲で撮影した膨大な空中写真などを解析し、例えば上陸目標となる読谷嘉手納の飛行場周辺だけではなく、艦砲射撃のなか県立農林学校の学徒が食糧を運ばされた倉敷御殿敷の地下壕 (読谷飛行場と池原の中間地点)*1の「地下貯蔵施設」(underground storage) まで記している。また日本が同化政策沖縄人に日本語読みを強要したのに対し、米軍は琉球語の読み方、例えば「登川」(のぼりかわ) を Nupunja (にぃぶんじゃー)、「波平」(なみひら) を Hanza と記載している事にも注目*2

CINCPAC-CINCPOA 報告 第53-45 (1945年2月28日) - Basically Okinawa

空中写真から解析される日本軍施設、Target Area 5 の小禄飛行場。

CINCPAC-CINCPOA 報告 第161-44 (1944年11月15日) - Basically Okinawa

沖縄島を網羅する詳細なターゲットマップをもとに徹底した攻撃が行われる。

3月30日、ついに那覇小禄半島地区の目標をめざして、一大集中艦砲射撃が行われた。巨砲が火を吐き、巨弾は海岸線の護岸に命中し、幾個所も破壊した。いまや戦艦10隻と巡洋艦11隻がこの砲撃に加わったのだ。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 75頁より》

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那覇の北にある橋とその周辺施設が、第58機動部隊から攻撃を受けている様子。上陸日前。空母ハンコック(CV-19)の艦載機から撮影。(1945年3月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

上陸前7日間で米海軍が撃ち込んだ艦砲は、大型砲弾(15センチから40センチ)が1万3千発をこえ、それに12センチ砲弾数万発を加えると、全部で5千162トンの砲弾が地上の目標ねらって撃ち込まれた。この地域にある日本軍の海岸防備陣でわかっているものはすべてが壊滅されるか、または大破された。日本軍は海岸線にそって数カ所に大がかりな防空壕塹壕を構築してあったが、そのほとんどが無意味な洞窟になってしまった。艦砲射撃は海岸に望む断崖絶壁を狙って激しく撃ち込まれた。これは、いままで日本軍が、たびたび岩かげに防衛陣地を隠蔽するのを知っていたからだが、この艦砲射撃で露呈した日本軍の陣地はあまりなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 75-76頁》

1945年3月28日から31日にいたるまで、米護衛空母艦隊は、第10軍から課された使命をよく遂行し、その艦載機は地上戦と相呼応して活躍した。南部沖縄では、各地に点在する日本軍の砲座陣を集中攻撃し、また中城湾北部海岸沿いのを十カ所にわたって爆撃した。比謝川近くの軍事施設ナパーム弾15発の直撃を浴びせるほか、飛行場や海軍基地に対する攻撃が続行された。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 77頁》

沖縄上陸前に、第58機動部隊や護衛空母から出撃した飛行機は、延べ3095機を数えた。その主な目標としたのは陸上にある日本機で、つぎが小型船舶や〝水陸両用戦車〟をねらった。この〝水陸両用戦車〟は、後でわかったことだが、爆雷を積んだ〝自殺戦車〟であったのだ。これらの主目標を攻撃した後は、自由に海岸線の砲兵陣地や高射砲陣地、浮遊機雷、通信施設、兵営などを機銃掃射してよいということになった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 76頁》

 

日本軍の特攻機と機雷による被害

日本軍による特攻「天一号作戦」の被害

米軍は、日本軍の飛行場や陣地を攻撃したが、日本軍の反撃もまた猛烈になった。3月26日から31日までのあいだに、日本軍の飛行機約100機が50回にわたって沖縄に襲ってきて、攻撃機の多くが米艦船に体当たりの自爆を試みたが、それはやがて来るべき恐るべき戦術 ー 特攻の不吉な前ぶれであったのだ。ほんのわずかな例外を除いて、特攻機はだいたい未明か、夜の月明かりを利用して襲いかかってきた。日本軍の特攻はすでに新型、旧型の飛行機をとりまぜた編隊だった。彼らは目標に近づくと、だいたい1機か2機ずつに分かれて爆撃してくるのが普通だった。やがて日本軍の飛行機は、夜陰に乗じて飛来し、沖縄の飛行場に着陸するらしいことがわかった。

特攻機が好んで目標にしたのは、哨戒艇から偵察艦、またはその他の小型船舶だったが、ときに十数機が、大型艦船にも襲いかかってきた。特攻機は、9機が目標に体当たりし、10機がすれすれに目標を外れた。この日本軍の特攻による米軍の損害は軽微なものだったが、中には撃沈されたものもあり、大破を蒙ったのもあった。3月26日から31日までの米軍の被害のうち、戦艦ネバダ駆逐艦ビロクシ、重巡インディアナポリスをふくむ10隻が大破したが、そのうち8隻までが特攻機にやられ、2隻が機雷に当たったのである。一方、米軍は軍艦からの対空射撃や空中戦で約42機の特攻機を撃墜した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 79-80頁》

米軍が記録する神風特攻隊。彼らは自爆飛行機 (suicide planes) と呼んだ。

 

第32軍、一発一弾も応射せず

第32軍は米軍を沖縄島にひきいれ、持久戦に持ち込むため、部隊に応射を禁じ、上陸地点は西部の読谷・嘉手納からか、南部の港川からか、米軍の動きを注視した。

八原高級参謀の回想:

海を圧し、空を掩い、天も地も海も震撼せしめる古今未曾有の大攻勢に対し、これはいかに、わが全軍は一兵、一馬に至るまで、地下に潜み、一発一弾も応射せず、薄気味悪く寂然として静まり返っている。厳たる軍の作戦方針に従い、確信に満ちた反撃力を深く蔵し、戦機の熱するのを、全軍十万の将兵は、息を殺して待っているのだ。(163-164頁)

3月30日諸事情を総合すれば、数百隻よりなる大輸送船団が、数梯団となり、沖縄南方約100キロの海上を続々慶良間群島方面に西北進中である。時に、直路港川正面に北進するとの報告もあり、我々を緊張させる。(170頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 163-164、170頁》

 

北飛行場 (読谷)、中飛行場 (嘉手納) の破壊命令

第32軍は主力部隊を撤退させ、面前に特設第1連隊を残して沖縄北(読谷飛行場)・中(嘉手納飛行場) 両飛行場の破壊を命じた。しかし状況は破壊命令どころではなかった。

この日、軍司令官は第十九航空地区司令官(字大湾在)から北及び中飛行場が使用不能との報告を受け、特攻機の配置も絶望となったため両飛行場の滑走路の破壊を命じた

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 131-133頁より》

倉敷・御殿敷特設第1連隊第2大隊

部隊本部付有線分隊長の回想:

30日、早朝のこと、水汲みにいった警備中隊の兵隊が陣地上を走る道路を越えようとしたときに、早や翔びはじめていたグラマンに発見されて銃撃をうけた。いままでこんな山地帯は、グラマンが頭上を通過するだけであったが、日が昇るにつれて情況は一変し、グラマンの編隊群がハゲ鷹のように、私たちの陣地上をくまなく飛びはじめ、山の樹木の梢を震わせながら急降下し、

ダダダダダダダー

山のいたるところを反復、機銃掃射していった。グラマンの激しい機銃掃射がおわると、こんどはダイバー(SBZカーチス艦爆)の編隊群がまるで猛獣が吠えるのにもにた格好でやってきた。そして視角内の山々を這うように飛翔して、洞窟内からもキラリと白い腹の星のマークをみせて乱舞し、爆弾を投下しはじめた。

… ダダーン

前方10メートルさきの…水田の中に轟然と爆発した。瞬間、大地は大波のように揺ぎ、強い爆風のために私たちは、飛び散った土砂が体の中に喰いこむほどの強い衝撃をうけて、洞窟の隅に叩きつけられた。しばらくして意識をとり戻したときには体中が痛くて、おまけに全員が泥だらけとなっていた。いま少し遅く投下されれば直撃で全滅であったところを、私たちは危くこの日も命びろいをした。… 夕方になると砲爆撃の音がピタリと止んだ。あれほど空を埋め尽した艦爆の群が、潮のひくように母艦にかえってゆく、それは敵ながらに心にくいばかり鮮やかな手並みである。

深い沈黙がおとずれた御殿敷の丘からみると、中南部の空は、立ち昇るどす黒い煙に覆われていて、海も陸も空もいつまでも赤くくすぶり、全島ことごとく打ちのめされた感が深かった。

… 終日、猛撃をうけたこの日の硝煙が漂う御殿敷の丘で、私たちにとって正に生死の運命を分ける一つの劇的なことが起った。それは特設第1連隊本部からあわただしく伝令が命令を持って駈けこんできたのである。

「敵上陸ノ算ナシ、第2大隊ハ速カニ所用ノ兵力ヲ旧屋良兵舎付近ニ進出シテ、嘉手納飛行場ノ機能再開ヲ準備スベシ」という、連隊長、青柳中佐からの正に青天の霹靂であった。… 30日になっても上陸してこない敵に対して青柳中佐がヒステリックになったのか。あるいは、確固たる戦局の判断からなされたものであるかは判らない。… 早速、野崎部隊長は本隊をここの御殿敷陣地に残して、本部付将校の幹部数名 … および通信は私以下15名がふたたび屋良の旧兵舎地区に進出することになった。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 131-133頁》

(三月三十日頃)護郷隊の中で読谷出身だった私たちは、伍長と共に親志からヤマタイモー(現在のアロハゴルフ場の南附近)に偵察に行きました。西の海は敵艦船がいっぱいで、空襲と艦砲射撃の砲弾が雨のように降っていました。現在の飛行場滑走路の東側には航空隊の本部が置かれていたんですが、そこは空襲と艦砲で滅多撃ちでした。座喜味から波平、そして飛行場周辺を見ると、あたりは黒煙と土けむりがたちこめ、赤い火花が飛び散っており、その一帯は全滅したに違いないと思いました。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦 空襲と艦砲射撃

 

虚構の報道

ラジオトウキョウは放送協会が海外向けに放送した短波のラジオ放送。こうした虚偽の放送は国内だけではなくハワイやブラジルなど海外の日系人社会にも深い分断をもたらしていくことになる。

慶良間での負け戦とは逆に、3月30日、ラジオ・トーキョーは、日本軍が早くも30隻の米艦船を撃沈し、敵の死傷者は3万3千名にも達すると報じた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 30頁より》

1941年(昭和16)6月に日本語新聞が廃刊されて以後は、日本人たちにとって、ポルトガル語を多少読むことはできても、ブラジルのポルトガル語紙の記事は連合国側のデマ宣伝で信用できないとして、人づてに聞く日本からの短波放送の情報のみが信用できる情報となっていった。日本の放送にも連合国側同様にプロパガンダが含まれているとは考えなかった。

第6章 日系社会の分裂対立(1) | ブラジル移民の100年

 

そのとき、住民は・・・

北谷から読谷まで海を埋め尽くす米軍の戦艦

沖縄戦の絵】 米軍上陸と空からの爆撃

… 昭和20年3月下旬、数え切れないほどの数の黒くて大きな船が海に現れた。空にもグラマン戦闘機の群れが姿を現し、小学校や住宅、軽便鉄道を次々と爆撃した。「沖縄はもうおしまいだ」。そう思いながら、母親が待つ壕に戻った。

米軍上陸と空からの爆撃 |戦争|NHKアーカイブス

大本営は南西諸島に多数の飛行場を建設、島を「不沈空母」にみたて、地上から航空作戦を展開する計画だったが、沖縄に建設された15の飛行場はどれもその本来の目的を果たすことなく自壊あるいは放棄され、米軍上陸後は米軍の拠点となった。

それにつけても毎日毎日繰り返される敵グラマン機の攻撃を、私たちは不思議な現象と考えた。というのは、私たちは、学業をなげうって、徹夜作業で完成した北、中、小禄等の飛行場に待機しているであろう友軍機を心から信頼していたからだ。ーー敵機が我が物顔に郷土の上空を跳梁しているーー およそ私たちには想像もつかなければ理解もできないことだった。

《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 24頁》

沖縄戦の絵】家族の盾になる祖父

米軍上陸直前の昭和20年3月、親せきを頼って疎開する途中の山中での出来事。祖父母と…妹たちとあわせて6人で歩いていたところ、突然米軍機が頭上に現れ、旋回したかと思うと機銃を浴びせてきた。とっさに祖父が全員を抱き寄せて覆いかぶさった。家族5人の盾となり、守り抜こうとしたのだ。攻撃のすきを見て6人がやぶの中に逃げ込んだ直後、もといた場所には焼夷弾が打ち込まれ炎の海となった。…「いつも家族のことを考えてくれていた祖父の行動を伝えたいと思って描いた」

家族の盾になる祖父 |戦争|NHKアーカイブス

 

上陸前の偵察隊に銃殺された女性

読谷村長浜に米軍の偵察隊が上陸し親志に野営していた証言

30日の明け方、山中から長浜川方面を見下ろすと、銃を持った複数の米兵があぜ道を歩いていた。「ついにアメリカーが迫ってきた」。恐怖に膝が震えた。長浜港を経由して本島北部を目指そうとしたが、既に大勢の米兵が上陸していたといい、山中に引き返した。30日夜、再び北部を目指す道中、村親志に張られたテントを見つけた。

 日本兵だと思い、声を掛けたところ軍用犬の鳴き声が響いた。「その瞬間、米兵が私たちに向け銃弾を1発打ち込んだ」。弾は一緒に避難していた女性の体を貫通し、その後ろにいた女性の15、16歳になる娘に命中した。その後、娘が亡くなったと祖父から聞いた。

「米兵が住民銃殺」 45年4月1日の本格上陸前 目撃情報を初証言 - 琉球新報

 

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*1:現在の嘉手納弾薬庫と倉敷ダムの周辺

*2:日本の沖縄強制併合 (琉球処分) 以前の読み方。また米軍は占領後に登川の基地を Nupunja Camp と、波平の基地を Hanza Camp と呼んだ