1945年 3月30日『激化する空と海からの攻撃』

米軍の動向

空爆 / 艦砲射撃

沖縄本島

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戦艦ネバダ(BB-36)の40ミリ砲。沖縄本島の上陸拠点を砲撃する様子。(1945年3月30日撮影)

40mm guns of USS NEVADA (BB-36) firing on beachhead of Okinawa in Ryukyus.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

3月30日、ついに那覇小禄半島地区の目標をめざして、一大集中艦砲射撃が行われた。巨砲が火を吐き、巨弾は海岸線の護岸に命中し、幾個所も破壊した。いまや戦艦10隻と巡洋艦11隻がこの砲撃に加わったのだ。』(75頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 75頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p62a.jpg

SOFTENING UP THE TARGET was the task of the allied fleet. It stood off Okinawa to place accurate fire on known Japanese installations and to support underwater demolitions teams clearing the beaches. At the same time the fleet's air arm conducted aerial bombardment. 

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 2]

上陸前7日間で米海軍が撃ち込んだ艦砲は、大型砲弾(15センチから40センチ)が1万3千発をこえ、それに12センチ砲弾数万発を加えると、全部で5千162トンの砲弾が地上の目標ねらって撃ち込まれた。この地域にある日本軍の海岸防備陣でわかっているものはすべてが壊滅されるか、または大破された。日本軍は海岸線にそって数カ所に大がかりな防空壕塹壕を構築してあったが、そのほとんどが無意味な洞窟になってしまった。艦砲射撃は海岸に望む断崖絶壁を狙って激しく撃ち込まれた。これは、いままで日本軍が、たびたび岩かげに防衛陣地を隠蔽するのを知っていたからだが、この艦砲射撃で露呈した日本軍の陣地はあまりなかった。』(75-76頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 75-76頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p62b.jpg

This low-level bombing attack on L minus hit enemy shipping in the mouth of the Bishi River.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 2]

『1945年3月28日から31日にいたるまで、米護衛空母艦隊は、第10軍から課された使命をよく遂行し、その艦載機は地上戦と相呼応して活躍した。南部沖縄では、各地に点在する日本軍の砲座陣を集中攻撃し、また中城湾北部海岸沿いのを十カ所にわたって爆撃した。比謝川近くの軍事施設ナパーム弾15発の直撃を浴びせるほか、飛行場海軍基地に対する攻撃が続行された。(77頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 77頁より》

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那覇の北にある橋とその周辺施設が、第58機動部隊から攻撃を受けている様子。上陸日前。空母ハンコック(CV-19)の艦載機から撮影。(1945年3月30日撮影)

The bridge north of Naha town on Okinawa in Ryukyus and surrounding installations are attacked by Task Force 58 prior to L-Day. Taken by plane from USS HANCOCK (CV-19).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『沖縄上陸前に、第58機動部隊や護衛空母から出撃した飛行機は、延べ3095機を数えた。その主な目標としたのは陸上にある日本機で、つぎが小型船舶や〝水陸両用戦車〟をねらった。この〝水陸両用戦車〟は、後でわかったことだが、爆雷を積んだ〝自殺戦車〟であったのだ。これらの主目標を攻撃した後は、自由に海岸線の砲兵陣地や高射砲陣地、浮遊機雷、通信施設、兵営などを機銃掃射してよいということになった。(76頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 76頁より》

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米軍の空爆により破壊された日本軍機。読谷飛行場にて。護衛空母マキン・アイランド (CVE-93)の艦載機から撮影。写真の2機は、零式艦上戦闘機ジーク」(おそらくダミー機)。約200フィート上空から撮影。(1945年3月30日撮影)

Jap aircraft destroyed by U.S. aerial bombing at Yontan Airfield, Okinawa in Ryukyus. F.L. 6 3/8”. Taken by plane from USS MAKIN ISLAND (CVE-93). Two ”Zekes” (may be dummy aircraft). Alt. about 200'.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本軍の特攻機と機雷による被害

『米軍は、日本軍の飛行場や陣地を攻撃したが、日本軍の反撃もまた猛烈になった。3月26日から31日までのあいだに、日本軍の飛行機約100機が50回にわたって沖縄に襲ってきて、攻撃機の多くが米艦船に体当たりの自爆を試みたが、それはやがて来るべき恐るべき戦術 ー 特攻の不吉な前ぶれであったのだ。ほんのわずかな例外を除いて、特攻機はだいたい未明か、夜の月明かりを利用して襲いかかってきた。日本軍の特攻はすでに新型、旧型の飛行機をとりまぜた編隊だった。彼らは目標に近づくと、だいたい1機か2機ずつに分かれて爆撃してくるのが普通だった。やがて日本軍の飛行機は、夜陰に乗じて飛来し、沖縄の飛行場に着陸するらしいことがわかった。

特攻機が好んで目標にしたのは、哨戒艇から偵察艦、またはその他の小型船舶だったが、ときに十数機が、大型艦船にも襲いかかってきた。特攻機は、9機が目標に体当たりし、10機がすれすれに目標を外れた。この日本軍の特攻による米軍の損害は軽微なものだったが、中には撃沈されたものもあり、大破を蒙ったのもあった。3月26日から31日までの米軍の被害のうち、戦艦ネバダ駆逐艦ビロクシ、重巡インディアナポリスをふくむ10隻が大破したが、そのうち8隻までが特攻機にやられ、2隻が機雷に当たったのである。一方、米軍は軍艦からの対空射撃や空中戦で約42機の特攻機を撃墜した。』(79-80頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 79-80頁より》

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機雷に衝突した後に炎上する米艦船。沖縄本島近海にて。軽巡洋艦セントルイス(CL-49)から撮影。(1945年3月30日撮影)

US vessel burning after striking mine off Okinawa, Ryukyus, as seen from USS ST. LOUIS (CL-49).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の動向

軍司令部

八原高級参謀の回想:

3月30日諸事情を総合すれば、数百隻よりなる大輸送船団が、数梯団となり、沖縄南方約100キロの海上を続々慶良間群島方面に西北進中である。時に、直路港川正面に北進するとの報告もあり、我々を緊張させる。』(170頁)

首里山より四望すれば、北方春煙模糊の彼方、本部半島より米粒大に見える粟国島、照国島を経て、今は敵手にはいれる慶良間群島に亘る沖縄島西方の広大な海面、さらに南方与座、八重瀬、糸数高地を越えて、漂緲と展ける大海原に、大小無数の敵艦は海を圧してその威容を示し、閃々たる火光、轟々たる砲声、真に壮絶を極め、その巨弾は空を掩う敵機の投下する爆弾とともに、幾千万となく全島に炸裂し、恰も噴火山上に立てる感がある。東方海面は、弁ヶ岳一帯の高地に遮られ、展望できないが、該方面にも、一部敵艦隊が行動しつつあるのはもちろんである。

海を圧し、空を掩い、天も地も海も震撼せしめる古今未曾有の大攻勢に対し、これはいかに、わが全軍は一兵、一馬に至るまで、地下に潜み、一発一弾も応射せず、薄気味悪く寂然として静まり返っている。厳たる軍の作戦方針に従い、確信に満ちた反撃力を深く蔵し、戦機の熱するのを、全軍十万の将兵は、息を殺して待っているのだ。』(163-164頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 163-164、170頁より》

 

沖縄島

嘉手納飛行場 (別称: 中飛行場)・御殿敷(うどんしき)高地: 特設第1連隊第2大隊

部隊本部付有線分隊長の回想:

30日、早朝のこと、水汲みにいった警備中隊の兵隊が陣地上を走る道路を越えようとしたときに、早や翔びはじめていたグラマンに発見されて銃撃をうけた
いままでこんな山地帯は、グラマンが頭上を通過するだけであったが、日が昇るにつれて情況は一変し、グラマンの編隊群がハゲ鷹のように、私たちの陣地上をくまなく飛びはじめ、山の樹木の梢を震わせながら急降下し、

ダダダダダダダー

山のいたるところを反復、機銃掃射していった

グラマンの激しい機銃掃射がおわると、こんどはダイバー(SBZカーチス艦爆)の編隊群がまるで猛獣が吠えるのにもにた格好でやってきた。そして視角内の山々を這うように飛翔して、洞窟内からもキラリと白い腹の星のマークをみせて乱舞し、爆弾を投下しはじめた。

…ダダーン

前方10メートルさきの…水田の中に轟然と爆発した。

瞬間、大地は大波のように揺ぎ、強い爆風のために私たちは、飛び散った土砂が体の中に喰いこむほどの強い衝撃をうけて、洞窟の隅に叩きつけられた。

しばらくして意識をとり戻したときには体中が痛くて、おまけに全員が泥だらけとなっていた。いま少し遅く投下されれば直撃で全滅であったところを、私たちは危くこの日も命びろいをした。

…夕方になると砲爆撃の音がピタリと止んだ。あれほど空を埋め尽した艦爆の群が、潮のひくように母艦にかえってゆく、それは敵ながらに心にくいばかり鮮やかな手並みである。

深い沈黙がおとずれた御殿敷の丘からみると、中南部の空は、立ち昇るどす黒い煙に覆われていて、海も陸も空もいつまでも赤くくすぶり、全島ことごとく打ちのめされた感が深かった。

…終日、猛撃をうけたこの日の硝煙が漂う御殿敷の丘で、私たちにとって正に生死の運命を分ける一つの劇的なことが起った。
それは特設第1連隊本部からあわただしく伝令が命令を持って駈けこんできたのである。

敵上陸ノ算ナシ、第2大隊ハ速カニ所用ノ兵力ヲ旧屋良兵舎付近ニ進出シテ、嘉手納飛行場ノ機能再開ヲ準備スベシ
という、連隊長、青柳中佐からの正に青天の霹靂であった。

…30日になっても上陸してこない敵に対して青柳中佐がヒステリックになったのか。あるいは、確固たる戦局の判断からなされたものであるかは判らない。

…早速、野崎部隊長は本隊をここの御殿敷陣地に残して、本部付将校の幹部数名…および通信は私以下15名がふたたび屋良の旧兵舎地区に進出することになった。』(131-133頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 131-133頁より》

 

男子学徒隊
鉄血勤皇二中隊: 沖縄県立第二中学校

『県立第二中学校は、1945年10月10日の那覇大空襲で全校舎が灰燼に帰したため、首里市真和志町の県立第一中学校の校舎で二部制の授業を行うようになった。しかし、…実際には焼跡整理の作業と軍事教練を続ける日々が多かった。』(118頁)

『…校舎の焼跡整理も一段落した45年2月下旬、…急遽本島北部の金武村の金武国民学校…へ移動することになった。
…金武に集結した生徒たちは、現地部隊の陣地構築作業や当時金武に駐留していた震洋特別攻撃隊の炊事などの雑務に就かされていた。

3月19日、県下の各中等学校生は鉄血勤皇隊ならびに通信隊員として入隊せよという動員命令が発せられ、県立二中でも高山代千八配属将校を隊長として、鉄血勤皇二中隊が金武国民学校で編制された。

…3月20日に勤皇隊への参加承諾書に親の承諾印を貰ってくるよう、一時家族の下へ帰宅させられた。しかし3月23日から米軍の空襲が激しくなって、…金武に戻ることが困難になったばかりでなく、金武国民学校も焼失してしまった。

そのため高山隊長は3月25日には、「金武の二中隊は解散する。海陸のどちらの部隊でもよい。各自自分の家から最寄りの部隊に申告して入隊しなさい」と解散を宣言した。

…高山隊長は金武に残留していた隊員15名と金武国民学校近くの壕に入っていたが、3月30日頃、一行は本島北部に向かって壕を出た。』(120頁)

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 118、120頁より》

www.youtube.com

沖縄戦継承事業/沖縄県

 

 

真実を伝えない日本メディア

『慶良間での負け戦とは逆に、3月30日、ラジオ・トーキョーは、日本軍が早くも30隻の米艦船を撃沈し、敵の死傷者は3万3千名にもたっすると報じた。』(30頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 30頁より》 

【戦争とラジオ】
「日米電波戦争 ~国際放送は何を伝えたのか~」/NHKETV特集

youtu.be

 

 

そのとき、住民は・・・

沖縄島

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail09_img.jpg

沖縄戦の絵】 米軍上陸と空からの爆撃

『…昭和20年3月下旬、数え切れないほどの数の黒くて大きな船が海に現れた。空にもグラマン戦闘機の群れが姿を現し、小学校や住宅、軽便鉄道を次々と爆撃した。「沖縄はもうおしまいだ」。そう思いながら、母親が待つ壕に戻った。』

米軍上陸と空からの爆撃 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局 

『それにつけても毎日毎日繰り返される敵グラマン機の攻撃を、私たちは不思議な現象と考えた。というのは、私たちは、学業をなげうって、徹夜作業で完成した北、中、小禄等の飛行場に待機しているであろう友軍機を心から信頼していたからだ。ーー敵機が我が物顔に郷土の上空を跳梁しているーー およそ私たちには想像もつかなければ理解もできないことだった。』(24頁)

《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 24頁より》

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail33_img.jpg

沖縄戦の絵】家族の盾になる祖父

『米軍上陸直前の昭和20年3月、親せきを頼って疎開する途中の山中での出来事。祖父母と…妹たちとあわせて6人で歩いていたところ、突然米軍機が頭上に現れ、旋回したかと思うと機銃を浴びせてきた。とっさに祖父が全員を抱き寄せて覆いかぶさった家族5人の盾となり、守り抜こうとしたのだ。攻撃のすきを見て6人がやぶの中に逃げ込んだ直後、もといた場所には焼夷弾が打ち込まれ炎の海となった。…「いつも家族のことを考えてくれていた祖父の行動を伝えたいと思って描いた」』

家族の盾になる祖父 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

  

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年3月30日

 

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