1945年 6月8日 『地域で異なる沖縄戦』

南進する米軍

西部戦線

小禄(おろく)半島

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小禄半島--全焼し廃墟となった那覇飛行場の格納庫。骨組みだけとなり、日本軍機の残骸が見える。

OROKU PENINSULA -- Ruined and gutted hangar at Naha Airfield. Only the frames remain and the wreckage of a Jap airplane is visible.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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小禄半島で戦車から降ろされる負傷兵

Removing wounded from tank on Oroku Peninsula Okinawa.

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 中央〜東部戦線

 『6月8日には、かなりの量の物資が港川についた。中型戦車2個中隊が前線近くにあり、他の戦車も進撃していた。』(471頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 471頁より》

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M4シャーマン戦車による進撃

[Photo] M4 Sherman tanks operating on Okinawa, Japan, circa Jun 1945; note tank in center had been disabled | World War II Database 

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断崖に掘られた壕に向けて発砲する2人の小銃手(撮影地: 与座

Two riflemen firing into cave dug into an escarpment.

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周辺離島の制圧

伊平屋(いへや)

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我喜屋の風景。赤瓦、藁葺き屋根、遠くに水田のある風景は絵のように美しい。(1945年6月8日撮影)

Gakiya looked like this; rainwashed and picturesque with its red tile roofs, grey thatch huts, and green rice fields in the distant valley.

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『戦時中にはどこでもいろいろなデマが流布したが、伊平屋では「米軍が上陸すれば真先に役人が殺される」と言いふらされていた。そのためもし米軍に聞かれたら、村長以下、村内の役人は学校の教職員も含めて那覇に出て一人も残っていない、と答えるよう申し合わせができていた。

だが、実際には米軍は、役人を殺害するどころか、村の幹部クラスのなかから村長、助役、巡査、配給係など軍政をしくうえで必要な役人を任命し、簡単な行政機構を復活した。そして3000余名の住民に自給自足の体制をとらしめた。60歳以上の男子老人には家畜の世話をさせ、それ以下の者は破壊された家屋の跡片付け道路の補修作業に使役したり、魚をとらせたりした。また婦女子は、食糧収集や野戦病院での看護活動、あるいは米軍の選択作業に従事せしめた。作業代金として携帯用の食糧やお米が配給された。

一方、住民が集めた食糧や漁獲物はすべて配給所に納入させたうえであらためて分配した。村長が1日に米3合、助役や巡査部長、配給班長には2合5勺、一般作業員は1日1合の割合だった。』(178-180頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 178-180頁より》

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網を点検する名嘉エイジョウ島尻区長(1945年6月8日撮影)

Naka Eijo, chief of Shimajurii Village, inspects one of the nets to be used on fishing junket.
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後方で進む基地建設

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嘉手納飛行場近くの第41爆撃群キャンプ区域。(1945年6月8日撮影)

The camp area of the 41st Bomb Group begins to take shape as men of the group set up their tents near the Kadena Airfield on Okinawa, Ryukyu Retto.

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地元民と海兵隊員。沖縄人は基地建設に携わっている海兵航空団の需品部将校とともに働いている。テントの床に使う瓦を運ぶのは2人の地元民。左からバーン2等軍曹、デロイン2等軍曹。(1945年6月8日撮影)

Marines with Natives. Okinawa civilians are now working with a quartermaster section of a Marine Air Wing, assisting in camp construction. Carrying tiles for the floor of a tent are two natives, and l to r, Technical Sergeant Irvin J. Beirne, 26,37th St., Kansas City, Mo., and formerly of Dennison, Iowa, and Master Sergeant John W. Derouin, 24, 934 water St., Eau Claire, Wisc.

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第32軍の動向

軍司令部: 摩文仁(まぶに)

八原高級参謀の回想:

8日夜、砲撃のしじまを見て、洞窟を抜け出した私は、高地中腹に立って通り雨に熱のある頬を気持ちよく冷やしていた。敵の照明弾が与座岳や港川の空で、花火のように揚がっている。照明弾が空中でぱっと炸裂する瞬間、付近一帯の物、人の顔まで弁別できるほど明るくなるが、すぐ鼻をつままれてもわからぬ漆黒の闇にかえる。この明暗相次ぐ高地の麓から、…登ってくる一列側面縦隊の一隊がある。よく看ると、大きな荷物を背負った娘たち総勢約30名だ。

…私は首里以来の方針を堅持して、参謀室への女性の出入りを厳禁した。こんなに多数の女性を副官部の洞窟のみに収容はできない。高級副官は百方工夫して付近一帯の洞窟を利用し、分散して落ち着かせた。両将軍が例の改造された室に移られると、…は牛島将軍の、…は参謀長の当番をそれぞれ仰せつかった。…副官部には、彼女らのほか、数名の女性が働いていた。辻町の妓女もいる。』(385-386頁)

『室の改造成って、住み心地の多少よくなった牛島将軍は、ロウソクの灯を頼りに、相変わらず感状の清書や読書に余念がない。そして、これに飽かれると、小刀で静かに鰹節削りを始められる。鰹節削りは、精神統一にもってこいの作業だ。

参謀室は、司令官のすぐ隣だ。将軍は必ず誰かを集めて酒宴を開き、気焔をあげておられる。そうでないときは例の通り、でっかいパイプに金鵄を詰めて吸いながら、そこはかとなく本を読んでおられる。そして、5月4日攻勢失敗後の口癖で、「高級参謀!戦略持久もそろそろ切りあげてくれ。この生活には耐え切れなくなった」と冗談とも、弱音ともつかぬことを申される。』(386頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 385-386、386頁より》

 

小禄半島の海軍

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

『7日午後、大田司令官は指揮下の全部隊に訓電を発した。…これに対して、沖根の上級司令部である佐鎮の杉山長官は8日、次の激励文を発信している。

「驕敵を邀へ撃つこと既に二ヶ月余、此の間に於ける貴隊の勇戦、感謝の他なし。而も重大なる戦況に当面の将兵欣然一体となり、愈々忠誠の念に徹して士気軒昴、血闘銘記しあるの報告に接し、真に感激に堪へず、本府の全力を挙げて急遽増援するの途なきに切歯しつつ、切に健闘を祈る」

…五航艦はこの夜、小禄戦線支援のため陸攻機3機に榴弾1080発空中投下させた。しかし、1機は投下前に撃墜され、2機分は友軍の位置が確認出来ず、沖根は入手出来なかった。』(433-434頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 433-434頁より》

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膝まで泥につかりながら防波堤沿いに海兵隊から逃れようとする日本兵。その横に米海兵隊員に殺された日本兵がぬかるみの中横たわる。沖縄。

ESCAPE--Knee deep in the water’s edge along the seawall on Okinawa, a Jap sodier makes an attempt to escape from the pursuing Marines. One enemy soldier lies in the mud, killed by the Leathernecks.

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(投稿者注: 下のリンクでは上の同一写真の撮影場所を「小禄半島近くの堤防沿い」とある)

Trying in vain to escape and knee deep in the water's edge along the sea wall near the Oroku Peninsula, a Japanese soldier passes the bodies of two other soldiers.

THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

 

沖縄島からの脱出

警察特別行動隊(警察別動隊)

沖縄県の荒井警察部長から「万難を排して沖縄を脱出し、沖縄戦の現況及び県民の奮闘ぶりを本土・内務省に報告せよ」との特命を受けた8名の警察官は、6月7日、4班に分かれて沖縄本島北部まで行き、そこから本土を目指すことにした。ところが、出発前に米軍と遭遇した一つの班から殉職者が出てしまった。そこで、3班に分かれて出発することになった。

『…8日夜、北部の集結地・久志村へ向け、それぞれ出発した。

しかし、米軍の占領地帯を潜行する任務は、困難をきわめた。山中の道なき道を行き、警戒線にかかって銃撃され、川を泳ぎ渡るなど苦闘の連続。』(366頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 366頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

乳飲み児は飢えのために真っ先に倒れた。母親の乳が出なくなると、つぶしたサツマイモを湯にといたが、赤ん坊はそれを吐き出してしまった。やがて、赤ん坊は「黄色い泥人形」になり、泣くのもやめ、冷たくなっていった。数人の母親は子供を胸に抱き続けたが、何の感情も示さなかった。母親たちも餓死の縁に立っていたが、通常、次に死ぬのは祖父母だった。』(272-273頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 272-273頁より》

小禄半島で保護された住民

『海軍根拠地司令部を中心とする、附近一帯の壕からは、400人近くの住民が救出され、それらの住民が米兵の先導で、畦道を縫い丘の尾根を廻って一箇所に集められた。幾十日ぶりに仰ぐ太陽に、眩しそうに目を細めながら、呆然として立ちすくんだ。カサカサに乾いた顔や手足の皮膚は、黄色に萎え、目だけが異様に光っていた。老人の殆どは、手足が蒼黒く膨れ上り女の頭髪は、ささらのように乱れ、永い間の不潔からくる、軀からは、あかと膏のむせるような体臭が勾った。ボロボロのモンペが、その軀を形だけ包んでいる。若い女の掌は、しらみを潰した時の血がそまり、片腕や足首を失った負傷者は軽傷者の部類に属し、薬の代わりに化膿止めのつもりで塗った生味噌や葉タバコの下から、紫色の膿が、傷口一杯に溢れ、蛆が群がり湧いていた。機銃弾をまともに喰った、虚ろな眼窩に、ボロぎれを押し込んだ中年の男や、破片で尻の肉を半分削がれた女などがケロリとした顔で、米兵の応急手当を受けた。』(175-176頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 175-176頁より》

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小禄半島の地元民を集める

Gathering up of civilians on Oroku Peninsula.

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 『持てるだけの荷物は全部持つようにという、米兵の指揮で、再び壕へ戻る住民もいた。歩けぬ重傷者の中には、「たとえ非戦闘員であろうと、絶対に、敵に醜虜の身を晒すな」と叫んでいた兵隊や、軍服を脱ぎ捨て住民の着物を纏うた兵隊もいた。住民は、初めて、米軍が空中から撒いたビラの文句が、真実を物語っていることを知った。住民に紛れ込んでいた敗残兵は、すぐに米兵に見破られ、住民の群から引き離された。そのビラには、

「洞穴壕に隠れている住民は、直ちに壕を出ること。出る時は皆一緒に出ること。持ち得るだけの所有物を持って出ること。出る時には道に沿うて近くの海岸通りを選んで出ていくこと。昼間歩くこと、決して日本軍人と一緒に歩かぬこと。夜間歩いたり、或いは、日本軍人の相手をすると兵隊と間違われて射たれる危険がある。米軍を見たら敵対行動を取らぬこと。また逃げないこと。恐れずに、彼等を呼んで待つこと。米兵は皆さんを安全な場所へ連れてゆき、充分に食糧を与え、飲料水や薬や家屋を与える」

と書かれ、裏には、ジープの走る大道を、延々長蛇の列をなして、安全地帯へ急ぐ、住民の避難状況を撮った写真が、刷り込まれてあった。』(176-177頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 176-177頁より》

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月8日