〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月24日 『サルベージ、破壊と建設』

サルベージと集落の破壊 / 久米島の離島残置工作員 / 漢那民間人収容所 / 敗残兵の襲撃

 

米軍の動向

海軍建設大隊による基地建設

米軍は基地建設のため、沖縄島の住民を民間人収容所に囲い込んだ。組織的な戦闘が終了した7月から8月にかけては、建設の効率化はより加速した。

基地建設の一端を担った海軍建設大隊

【訳】海軍建設大隊 (シービーズ)8月中に最大戦力に達し、8万人将兵が建設部隊司令官に配属または作戦指揮下に置かれていた。この数字には、沖縄の島司令官の指揮の下で建設に関わった7,000人の工兵および海軍建設部隊は含まれていない。陸軍と海軍の同数の建設要員で構成される建設部隊の戦力には、36の海軍建設大隊、21の陸軍工兵航空大隊、14の陸軍戦闘工兵大隊、7の陸軍工兵建設大隊によって構成されていた。

Building the Navy's Bases in World War II [Chapter 30]

8月15日には陸海軍合同の司令部は解消されたが、基地建設を担う建設軍司令は、効率的な基地建設を促すため、9月1日まで陸海軍共同で指揮した。

 

サルベージと集落の破壊

米軍は基地建設に建設資材の全てを持ち込んだわけではなく、住民がいなくなった町から「サルベージ」して資材を補給することも多かった。こうして沖縄の多くの家屋や建造物は、戦争によって破壊されたばかりではなく、基地建設のためにサルベージされ、破壊されていった。

読谷・嘉手納の経済を支えた嘉手納製糖工場の場合

<戦前> 沖縄製糖株式会社嘉手納工場 黒糖の検査 甘蔗畑

<戦中> 嘉手納製糖工場 (米軍撮影)

那覇市歴史博物館

第130海軍建設大隊の記録では大湾製糖工場とあるが、煙突の破壊の形状から、嘉手納製糖工場であることがわかる。

Salvage: Tons of valuable material were salvaged from the Owan sugar mill for use on construction projects throught the island. Navy guns did an excellent job of making the mill good material for salvage. Many other useful ruins were salvaged on the island.

回収: 島内の建設プロジェクトに使用するため、何トンもの貴重な資材が大湾製糖工場からサルベージされた。海軍の大砲は、工場を手ごろなサルベージの素材にする素晴らしい仕事をした。他にも多くの有用な残骸が島でサルベージされた。

130th NCB

また、米軍は夏のさなかに住民を北東部に限定された民間人収容所に集約していくが、その多くは屋根となる住居もない状態で荒野に放置されるなどした。完成期日を間に合わせるため、基地建設には敏捷さを誇るシービーズだったが、民間人収容所の家屋を建設する動きはまったく俊敏ではなかった。

軍事政府の計画立案者らは、軍事政府職員自身に加えて約12万人の民間人を収容するために12の民間人キャンプを建設すべきだと試算した。建設資材の要件は必然的に大きくなり、… 建設に必要な量は合計30,000トンに達し、その約半分は軍政府の割り当ての一部として到着した。… しかし、これらの建築資材ですら十分とは言えず、輸送手段が不足していたため、その差を補うために地元でのサルベージが必要となった。計画立案者らは、そのような建設作業は海軍のシービー部隊によって行われるだろうと予想していた。ニミッツ提督は 1945年1月にはこれに同意していたが、しかし、第27海軍建設大隊*1が実際に軍事政府の専門家を支援するために沖縄に到着したのは6月4日のことであった。

Arnold G. Fisch, Military Government in the Ryukyu Islands, 1945- 1950 (1988) - Basically Okinawa

第27海軍建設大隊の記録には、住民が排除された金武町、本部半島、勝連半島から家屋を破壊して材木を調達した記録を記している。例えば金武町の住民の強制排除は6月20日、そして金武町の破壊とサルベージが行われた。

深刻な木材不足を解消するために、軍政府管轄区域 (註・収容所) のほかの既存の町や村からすべての使用可能な建設資材の回収 (サルベージ) が金武町で6月21日本部半島と勝連半島で7月1日に開始された。… 建築資材の供給を増強するために、7月22日に古知屋の北の地域で製材作業が開始。平均 1,350 人の現地人労働者が雇用された。直径が1インチを超えるすべての木材が伐採され、仮設住宅や恒久住宅の建設に使用される予定。

第27海軍建設大隊 (27th NCB) ~ 民間人収容所の家屋の建設 - Basically Okinawa

米軍は、住民を民間人収容所に強制収容し、そこに住居がないとして、戦争破壊からまぬがれた住民の住居を広範囲に取り壊し、住民を無給で「雇って」収容所に小屋を建設した。これらの矛盾に満ちた計画は、すべて沖縄という米軍基地の建設のためだった。

 

第32軍の敗残兵

慶良間諸島 - 阿嘉島渡嘉敷島

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阿嘉島から屋嘉収容所へ

阿嘉島海上挺進第2戦隊は、8月23日武装解除し投降、その夜には、屋嘉収容所に収容された。

阿嘉島から屋嘉収容所に配属された儀同保 (新潟出身18歳) の回想:

刃物の所持はいっさい禁じられたが、滑稽なのは、煙草を吸う連中が、島の海岸で拾った吸い殻や、海水でふやけたものを天日で乾かして空瓶に入れたものであった。米軍将校はそれが何であるかわからないらしく、通訳に説明を求めていた、わかると呆れとも軽蔑ともわからない笑いを浮かべた。

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 214-215頁》

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慶良間列島で投降した日本兵(撮影日不明)

Japs that surrendered at Kerama Retto, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

渡嘉敷島 (第3戦隊) の投降

渡嘉敷島の赤松隊は、食糧確保のために住民や朝鮮人軍夫への虐待虐殺を続け、8月16日にも米軍に投稿勧告文を持たされた住民を2人殺害したが、その翌日から投降交渉を始め、投降した。

午後、同じ慶良間の渡嘉敷島に残っていた第3戦隊が、隊長以下集団で投降してきた。彼らは、われわれに比べるとまだ服装も整い体力ある身体つきをして、一応軍隊らしい形を保っていた。

…長い1日も終わろうとしていたが、われわれの入るテントが決まらず、終日何もない砂地の上におかれて焼きつくような陽に照らされたので、弱い者はぐったりと倒れ込み、まだ元気のある者も気がイラ立つらしく、立ったり坐ったりを繰り返していた。

夜に入っても、ここを囲った有刺鉄線の外に数ヵ所の高い監視所があって、強い電光のサーチライトが点ぜられているため、収容所の中は明るかった。

その夜半、裏山の方角から機関銃の音が聞こえ、砂地の上に段ボール紙を敷いて寝ている上を、〝ピューン〟と流れ弾の音が走った。

古参の者の話によると、この裏山の奥にはまだ陸軍少佐に率いられた2、3百人の日本兵がいるということで、銃音のするたびに、「友軍は、中々やるなあ」とか、「脱走してもう一戦やってみるか」という声などが聞こえた。

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 214-215頁》

 

久米島の離島残置工作員上原敏夫」

住民虐殺を繰りかえす鹿山隊の久米島には、陸軍中野中学の離島残置工作員もいた。

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宮平さん「軍隊服は着ないで普通の住民の服を着ているから、だれが兵隊かわらない。だからそれが怖かった」

さらに、日本軍はスパイを養成する陸軍中野学校の卒業生を教師として住民の中に潜伏させ、諜報活動をしていました。上原敏夫(本名:竹川実)は1945年1月に久米島の具志川国民学校に赴任。村長の娘と結婚し、住民たちからも厚い信頼を得ていました。上原先生の任務は「アメリカ軍に情報を流出させないこと」。つまり、住民たちをスパイにさせないよう見守ることでした。

島袋由美子さん「鹿山隊長が山から降りてきて役所とか農業会でいろいろ用事をして、帰りはそこ(上原先生のところ)に寄ってずっと話をしたり、そういうことはやってましたって」上原先生の下宿には、当時、鹿山隊長が頻繁に訪れ情報交換をしていたと言います。

アメリカ軍が上陸すると住民から情報が漏れることを恐れた上原先生。譜久里さんにだけ、こんな計画を吐露しました。譜久里さん「久間地の部落に集結させて玉砕させると言いよった。自分の家族を犠牲にしたくないから、会わないようにした」

譜久里さんは66年間、胸にしまっていた思いを話してくれました。譜久里さん「あの時は、もう本当に軍国少女だから。ずいぶん尊敬していました」譜久里さんは軍国少女として、命を投げ出して戦おうとする上原先生に憧れ、鹿山隊長へ尊敬の念を抱き、日本軍にも率先して協力していました。

しかし、自宅近くにアメリカ軍の兵舎が設営され、小さな姪にアメリカ兵が缶詰や菓子を渡したとたん、その思いは裏切られます。譜久里さん「米軍と接触したということで(日本軍の虐殺)リストに載ったわけです。うんと山の兵隊に協力したのに(虐殺)リストにあがっているんですよ。あと2日後にやるということで」アメリカ軍の兵舎が近くにあった譜久里さん一家を含め、9件の家族が2日後に虐殺されることになっていたのです。

日本軍に協力して裏切られ、アメリカ軍と接触したといって虐殺される譜久里さんは戦争の不条理さを嘆きます。譜久里さん「もう二度と戦争は起こすな。もうこれ以外はないです。人間が人間でなくなる」

語り継ぐ沖縄戦2011 (2) 久米島住民虐殺ひも解く証言 – QAB NEWS Headline

久米島には2人の残置離島工作員がいた。鹿山隊が9月7日に投降し武装解除した以降も、彼らは島に残り続けた。

中野学校の教育で、残置諜報員は現地に溶け込むために地元の有力者の娘を妻にして信用を得るようにと指導されていた。「上原先生」は、具志川村の助役の娘で具志川校に勤めていたSさんと結婚 (偽名を使っているので正式な結婚ではない)、 仲里村青年学校の「深町指導員」は、久米島で初の金鵄勲章をもらった在郷軍人の娘と結婚した。 久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争』インパクト出版 (2021) 93頁》

1946年3月24日、上原敏夫、深町尚親2名は米軍の船艇に連行された。Sさんは上原の帰りを待ち続けたが、二度と「上原」が戻ってくることはなかった。

「上原敏雄」は、戦後具志川国民学校の具志川分校で妻のSさんと教鞭を執り、高校受験を目指す生徒を自宅に集め受験指導をしていた。… 久米島に永住するつもりでいたようだが、1946年の3月米軍舟艇が来て収監された。残されたSさんは、その年の5月に男児を出産した。

久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争』インパクト出版 (2021) 98頁》

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陸軍中野学校の“正史”。「離島残置工作員」の箇所では1人だけ実名を伏せてある

竹川さんは、沖縄本島の収容施設に送られ、二度と久米島に戻らなかった。同年(1946年) 11月に本土へ帰った後、神戸で教員を務め、小学校の校長として定年を迎えている。家族によると、1991年に68歳で亡くなるまで、工作員の経験を明かすことはなかったという。当時の心境をうかがわせるのは、師範学校卒業30年の記念冊子だ。多くの卒業生が、戦中・戦後を努めて前向きに振り返る手記を寄せるなか、竹川さんの書きぶりは異様とも映る。

沖縄での敗戦や収容生活の記憶が強烈すぎて、その後、一体何をしてきたのだろうかと影うすく、何かに奪われてしまったような30年とさえ思われます」「この30年は虚仮(こけ)の半生だったと悔やまれます」。

消えゆく「陸軍中野学校」の跡と記憶 「結局は駒」と卒業生は語った - Yahoo!ニュース

 

 

 

そのとき、住民は・・・

漢那民間人収容所 - 一間半に四間の小屋

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沖縄島に設置された12の民間人収容所

7月から8月にかけての野嵩収容所から北部の漢那収容所への移動。上記の海軍建設大隊の記録からわかるように、漢那の何百という「一間半に四間の掘っ立て小屋」は、金武の町の家屋を破壊し、サルベージによって住民に建設させたもの。

安谷屋収容所にいたころ、金武村中川収容所への移動が、米軍隊長より発表されたとき、大方の避難民は不安に動揺した。なんとかして中止させたい、と隊長に陳情する動きもあった。中川の収容所は、山の中の不便なところで、そのうえ敗残兵が出没して、住民をおびやかしているといううわさがあった。それで、あんな物騒なところに行くのはいやだと騒いだのだ。わたくしは家族を北部に疎開させていたので、北部に近づく喜びで、むしろ移動の実施を心ひそかに待ち望んだ。米軍による中川収容所への移動計画は、避難民の意思におかまいなく進められた。七月中旬から米軍のトラックで輸送が始まり、八月初旬までに三万人余りの移動が終わった。

わたくしたちの収容された中川は、金武岳のふもとにひろがる雑木の山とカヤの丘、そして細長い谷の多いところであった。その山の中やカヤ原に、先に収容された人々の手で、一間半に四間の掘っ立て小屋(屋根も壁もカヤ、内部は土間のまま)が何百も建てられていた。それがわたくしたちの住家であった。市長は、北谷村長の経歴を持つ新垣実氏、警察署長には、巡査の経験こそないががっちりした体格を買われた宮平某、小学校長は校長の経歴のある当山真志氏(戦後、立法院議員)であった。隊長はタムソンという少佐で、見るからに温厚そうな知識人であった。さて、こう書いてみると、中川収容所は山間の平和郷のように想像されるだろう。ほんとうにそうであってほしかった。わたくしたちは、どんなに平和を祈ったことか……。終戦のみことのりも下って、米軍も住民を保護してくれるし、敗戦の悲しみはあっても、恐怖にさらされることはなくなっていた。ところが、全く残念なことには、ここ中川収容所には、住民を恐怖のどん底に落とし入れる事件が、夜な夜な頻発した。しかもそれは、敵だった米兵ではなく、わが友軍の敗残兵によるものであった。

《山川泰邦『秘録沖縄戦記』読売新聞社 1969 年》

 

漢那民間人収容所 - 敗残兵の襲撃

玉音放送後」も続く敗残兵の襲撃にさらされる住民。

群盗にひとしいその略奪、暴力ざたをいちいちしるせば、枚挙にいとまないほどである。ここにはほんの身近な例をあげてみたい。 ある日の深夜―――。

「あけろ! あけろ! あけなきゃたたきこわすぞ!」

このあらあらしい声に、夢を破られた隣の婦人が、震える声で返事をしながら雨戸をあけると、二個の懐中電灯を照らした数人の黒い影が、どっと家の中へ押し入った。 友軍の敗残兵であった。わたくしたちは隣とは同じ屋根の下で、形だけの仕切りで隔てら れているに過ぎなかった。わたくしたちは息を殺しておびえていた。 わたくしの同居人は十数人であったが、そのうち、男はわたくしのほかに老爺一人でそのほかは女ばかりであった。襲われた隣室は、女と子供だけで男は一人もいなかった。敗残兵たちは「朝ごはんの米だけは残してください」と訴える婦人の悲痛な声を冷笑しながら、米軍配給の米やカン詰め、毛布まで奪い取っ た。隣からさらに、わたくしたちのところにどやどやと押しかけてきた。

わたくしが「隊長とお話ししたい」と申し出ると、「しゃらくせえ」と言うやいなや、一人は日本刀を、一人は拳銃を、わたくしの胸元につきつけた。 わたくしは背すじがひやっとした。おそらくわ たくしの顔からは血の気が消え失せていたことだろう。
「こんどはお前にだまされんぞ ! さあぶっ放すか、それともありったけの物を出すか」 と、すごんだ。
その時、同居の婦人たちが泣きながら「なんでもほしい物を持っていってください」と、カン詰めや毛布を放り投げたので、やっと拳銃と日本刀をひっ込めた。かつて、日本軍人の魂であった日本刀は、強盗用、略奪用にかわっていた。目ぼしい食糧や衣服を略奪して、傍若無人に引き揚げて行く夜盗の群れを見て、わたくしたちは戦争に敗れた日本軍の姿を見たような気がして、ただ深いため息をつくばかりだった。彼らは十日ほど 前にも、わたくしたちの小屋を襲った。そのときわたくしが、米軍の発表で知った終戦玉音放送や、米軍の捕虜に対する温かい処遇、 住民が栄養失調で健康をそこねている事情などを話したことがあっ た。そして、一日も早く山を降りてくるようにすすめたところ、さ すがにそのときだけは幾ばくかの米をもらい、おとなしく帰っていった。わたくしは、敗戦でやけくそになっているとはいえ、愛する同胞 だ、話せばわかると信じていた。しかし、今夜まのあたりに、狂犬のごとき敗残兵の姿を見せつけられ、憤りを感じるというより、言 いようのないみじめさを感じた。

その後、彼らの略奪、暴力はますます激しくなるばかりであった。 袋だたきにされた原田貞吉氏(戦後、博物館長)の話、拳銃で撃たれて重傷を負ったK氏の話など、暗い話ばかりがつづいた。こうして夜ごと荒し回る群盗になりさがった敗残兵のために、住 民は眠れぬ夜がつづいた。そのころ食糧が乏しく、海草のホンダワラやフキでおぎなっていた難民の打撃は深刻だった。

《山川泰邦『秘録沖縄戦記』読売新聞社 1969 年》

 

 

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  1. 宮平 盛彦さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス
  2. 沖縄慰霊の日:癒えない自責の念 87歳元少年兵 - 毎日新聞

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*1:第27海軍建設大隊が沖縄に駐屯した日程記録はあるが、クルーズブックには沖縄での写真記録を見つけることができない。