1945年 7月25日 『戦争と性犯罪』

米軍による占領統治

米兵の性犯罪

『…本部(もとぶ)では早い時期から米兵によるレイプなどの性犯罪がおこなわれていた。それらは海兵隊員によるものだった。後の時期になると補充要員としてやってきた兵士の質が悪かったというような言い訳もあるが、すでに沖縄戦の最初の段階から海兵隊員によって犯罪がなされている

米軍の憲兵隊では、島にたくさんの女性がいたので、軍政地域から部隊を引き離そうとする努力はおこなったようだ。比較的少数のケースであるがレイプをされたという訴えがあり、いくつかのケースが捜査されたというAction Report, 11-XXII-6)。しかし、6月30日までに検挙された人数はレイプが12件前後、レイプ(男色)が5件前後にすぎず、実際におきた事件のほんの一握りにすぎない(この数字はグラフから読み取った数字なので概数である、11-XXII-17)

米軍の慰安所が設けられたところもあった。本部(もとぶ)の仲宗根で日本軍用の慰安所を経営していた人が区長に相談し、米軍の許可を得て、「S屋」慰安所を開設した。女性は5、6人で、アメリカ兵が行列をつくっていたという。この慰安所は数週間後にはなくなったという(宮里真厚『少国民のたたかい 乙羽岳燃ゆ』105〜107頁)。これ以外にも、日本軍の慰安婦だった朝鮮人女性を住民から引き離して米兵の性的な相手をさせた例がいくつかあったようだ(『第二次世界大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団報告書』13、18頁)

辻の遊郭で働き、その後日本軍慰安婦になったジュリたち12人が、南部で米軍に捕まるが、そのとき3人が米兵に連れて行かれてレイプされた(川田文子『戦争と性』170頁)

 米兵の犯罪に関して、米海軍艦隊の第9軍事警察大隊が45年12月10日から沖縄での警察活動に従事した。この部隊は多いときには727人のスタッフがいた。46年5月25日に任務を終えて、責任を別の軍事警察部隊に代わるが、その間、検挙あるいは捜査した米軍人軍属の数は1754人、うち「沖縄女性に対するレイプならびにレイプ未遂」で逮捕した者30人(件)である。この数字は氷山の一角にすぎないだろうReport of Military Government Activities from 1 April 1945 to 1 July 1946, p72.)

軍政府の公安局長を務めたポール・スキューズ Paul Skuse のファイル資料には、こうした関係のものが含まれている(ポール・スキューズ文書、沖縄県公文書館所蔵)。45年11月29日に、少女を拉致した黒人を追跡した警官が射殺された事件がおきている。』(362-363頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 362-363頁より》

f:id:neverforget1945:20170725230527g:plain

日本軍の従軍慰安婦たち。1945年沖縄の収容所にて。

Comfort Women | Spring 2016 | Washington State University

 dai.ly

戦場のうた / 元“慰安婦”の胸痛む現実と歴史

 

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

野戦病院

7月の末ごろ、私たちの幕舎の衛生兵にところに絵から抜け出たような美しい女が現れた。沖縄の女らしい。アメリカ兵相手に英語をしゃべっているところからみるとハワイ帰りの2世かもしれない。美しい女の出現に、まわりの幕舎からもアメリカ兵が砂糖にたかる蟻のように集まってきた。私はどこかで見たことのある女のような気がしたが思い出せなかった沖縄の女には珍しいくらい色白で、目鼻立ちがととのった正真正銘の美人である。

私の幕舎受持ちの娘の話によると、病院にしげしげと訪ねてくるという。日本海軍の将校で、入院中の夫を見舞いに毎週一度通っているということらしい。PW入院患者には許されないことになっていた見舞いが、彼女ひとりにはゆるされていたのである。美女にはすべての男が関心を持つ。私の幕舎にいる日本兵が、彼女の主人は山里という那覇海軍基地に勤務した将校だという情報を流した。そう聞いて、やっと私は彼女のことを思い出した。

その美女は私の友人の妻だったのだ。私は彼女の結婚披露宴に招待を受けた。しかし、彼女の夫は山里という名ではなかった。彼も美青年で、この美男美女の披露宴によばれた招待客たちは、まるで映画スター同士の結婚祝宴みたいだとささやき合っていたこちを私は思い出した。それから数年たっている。東京の医学校を出た彼女の夫はこの美女との結婚後九州大学の研究室に入ったが間もなく離婚したといううわさを私は聞いていた。

その美女と山里が結婚したということは知らなかった。彼女は山里と結婚したのか、愛人であるのか。病院に大っぴらに面会を求めてくるところをみると、正式に結婚したのかも知れない。しかし、そんなことは、結局、どうでもよいことであった。

彼女は美しい顔をほころばせてアメリカ兵たちと英語でたのしげにおしゃべりをしていたそこには戦争の影は微塵もなかった。アメリカ兵たちはピンナップ・ガールのように美しい彼女を、1秒でも長く引きとめておこうと、会話を求めていた。美女を目の前にしていることは、すべての男性にとってたのしいことである。しかも、長い間戦場から戦場に渡りあるいてきたアメリカ兵たちにしてみれば、突如としてハリウッドの美女が目の前にあらわれたかのように胸をときめかせたのであろう。』(178-179頁)

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 178-179頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

国頭(くにがみ)山中の避難民 ②

『…山中で私たちの生命を支えてくれたのは、そてつであった。ソテツは昔から饑饉のたびに救荒食として郷土の人々の生命を救ってくれたが、私たちもまた、ソテツのおかげで餓死を免れることができたのである。

命の綱であるソテツもいよいよ底をつきはじめた7月下旬のある日、突然米兵が小屋の入口に現れ、銃口を向けて「出て来い」と手招きした。小屋の屋根より高い大男の米兵を初めてすぐ目の前で見た私は、恐怖のあまり全身ガタガタふるえて動くこともできなかった。米兵がほんものの赤鬼に見えた

この7、8人の米兵たちは、ハワイ帰りの2世…の案内で捕虜狩りにやって来たのである。私は、母や叔父に勇気づけられてようやく我に返り、近くの小川から一升びんに水を汲み、隣の家からにんじん3本をもらって父の最後の食物として枕元に置いた。父は歩けないので、ひとり残して下山するほかはなかった。寝たきりの父をひとり残して下山するのは、身を切られるようにつらかった。

近所の人たちを合わせて私たち20数人の捕虜は、7、8人の米兵に背後から銃を向けられながら川岸の山道を降りた。母は荷物を背負っているので、生後40数日の弟は私が背負った。1キロほど降りると、広い河原に180人ほどの捕虜たちが不安そうに坐っていた。陽気に談笑している50人ほどの米兵とやつれ果てた姿で押し黙っている捕虜たちとはまったく対照的だった

私は、河原で15分ほど休憩させられた。私は、小屋に残してきた父のことが心配でたまらなくなり、米兵が雑談しているすきに10メートルほど列を離れて密林の中に逃げようとした。すると、米兵が鋭い声を上げて私を狙い撃ちしようとした。「危ない!戻って来い」と大人たちが叫んだ。私は、逃走を断念して列の中に戻った。このことがあって以来、私は下山するまで米兵に終始監視された。一行は、下山の途中20分おきぐらいに休憩させられた。栄養失調で歩行困難な人が多かったからである。

米兵たちは、休憩中の若い女性を物色して見つけると、無理矢理に連れ去って行った。下山の中途まで来たとき、私の前に立っていた奥間の旧家東(屋号)の娘を米兵が連れて行こうとした。すると、胃病で弱り杖をついているその娘の父親が米兵の手を振り払って米兵の胸を強く押した。怒った米兵は、父親の胸元に銃口を突きつけて撃とうとした父親は、昂然と胸を張って米兵をにらみつけた。近くの人々の視線が米兵に集中した。息づまるような一瞬が過ぎた。米兵は、父親の気迫と眼光に圧倒されてすごすごと立ち去って行った。

今にも倒れそうなよぼよぼの老人のどこにあの激しい気迫が秘められていたのかと驚かずにはいられなかった。この勇敢な老人の抵抗は、私の脳裡に強く焼きついている。その日の夕暮れ、一行は宇良部落に降ろされ、そこで一泊して翌日は奥間部落へ帰された。

山に残して来た父は、下山して2日後に男まさりの祖母が背負って連れて来た。父は、下山後1ヵ月もたってからようやく歩けるようになった。

下山後、たちまちマラリアが流行し、栄養失調で弱った人々は次々と死んでいった。とくに、中南部から避難して来た住民が多く死んだ。部落では、毎日のように葬式が続いた。米軍上陸前、私の家には読谷村の避難民が3世帯で20人ほど住んでいたが、下山後再会した時、生き残っているのは、わずか5人に過ぎなかった。』(486-487頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 頁より》

  

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■