1945年 6月10日 『戦いは米軍の独り舞台となる』

南進する米軍

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/80-33-2.jpg

前線部隊の進軍準備に伴い設置された海兵隊機関銃班(1945年6月10日撮影)

Marine Machine Gun team set up as first lines prepare to advance.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/83-22-3.jpg

ジープやトラックが、[深さ] 2フィート(約60cm)に及ぶ泥道を通り抜けることが出来ない中、水陸両用トラックが必要物資を運ぶ(1945年6月10日撮影)

When jeeps and trucks were not able to go through two feet of mud, amph tracs bring in needed supplies.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/126145.jpg

隊列を整えて基地に戻るTBMアベンジャー機(1945年6月10日撮影)

A perfect formation of Marine TBM Avengers returning to base over the scene of its vengeance on Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

西部戦線

小禄(おろく)半島

『米軍は10日から翌日にかけて根拠地隊司令部のある豊見城西側の74高地帯に猛攻撃を浴びせたうえ、第6海兵師団シェファード少将は、配下将兵に対し6月11日午前7時30分を期して総攻撃をかけよ、と命じた。』(172頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 172頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/84-14-3.jpg

焦土と化した那覇市内の陣地から高角射撃を行っているのは、ラッキー大佐率いる米海兵隊第15連隊の105ミリ榴弾砲。この種の砲撃は、日本軍が陣地を構築した小禄半島高地の背面部攻撃に用いられている(1945年6月10日撮影)

Marine 105mm. howitzers of the 15th Marines, commanded by Col. R. B. Luckey, fire extreme high angle fire from their positions in the ruined city of Naha. This type of fire is being used to drop on the back side of the hills on the Oroku Peninsula where the Nips have dug in positions.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

中央戦線〜東部戦線 

八重瀬(やえじゅ・やえせ): (米軍呼称: ビッグアップル)

『戦車隊は6月10日の朝6時、ほそい道路上を砂塵をたてて前線に邁進した。第7師団の支援部隊として完全な1個大隊が掌中にあり、またその朝、八重瀬岳攻撃に向かった第96師団には、2個中隊が別に配属されていた。

沖縄戦の様相は一変した。そして、戦闘の終了まで、戦車は自由奔放に十分に活躍した。天候にも恵まれ、地形も良かったので米軍火炎砲戦車は、日本軍の壕陣地をつぎつぎと壊滅し、そのたびに砲火の量は、しだいに減っていった。

この戦闘でもっとも重要なことは、戦闘を通じて歩兵も戦車隊も経験を積み、ほとんど完璧に近い戦車--歩兵のチームプレーができたことである。

沖縄南端の戦闘は、オレンジ色の火の玉と、銃砲弾、爆弾、ロケットなどの入り乱れた百雷のような大音響の連続であった。』(474頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 474頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/337968.jpg

後方に見える“ビッグアップル・リッジ”を進む第96師団第381歩兵部隊の偵察隊。(1945年6月10日撮影)

A patrol of the 381st Infantry, 96th Division, advance against ”Big Apple” Hill, which is visible in the background.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の動向

小禄半島の海軍

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

6月10日、米軍は四方から攻勢をかけてきた。この日、沖縄方面根拠地隊の司令部のある74高地も焦点になった。海軍部隊の戦線は逐次縮小されつつあった。10日の戦況は次のとおりである。

(1) 平良、宇栄田、伊良波方面、および高安、宜保、地覇方面の敵兵は次第に増加して74高地に近接、午後より銃砲撃戦を展開する。

(2) 野波川東岸の敵陣には、著しい変化は認められない。?長堂、?道路往復のトラックを銃撃、相当の損害を与える。

(3) 小禄部落から午後2時、戦車2、適約50名豊見城道を南下してきたが、戦車1擱座、1破壊してこれを撃退した。

(4) 金城、宇栄原の線においては、われ敢闘したが逐次圧縮され、全兵力の一部陣地の収縮を実施せざるを得なくなっている。

(5) 確認された戦果は、人員殺傷250、戦車擱座、炎上4である。

(6) 被害は死傷者110名である。

同10日、牛島司令官は大田司令官に対し、真情を述べた電報(原文不明)を送った。これに対し、大田司令官は次のような返電を送った。

小禄地区に敵をむかえて一週目になる時、御懇電に接して感激にたえない。海軍部隊が陸軍部隊と合流できなかったのは、真にやむを得ない状況に基くもので、もとより小官の本意ではない。したがって、南北に相分れるといえども陸海軍協力一体の実情においては、いささかも微動するものではない。

今後は貴電にしたがって、ますます柔軟な持久戦を行い敵に大出血を強要する。なお、戦果については、つとめて正確をきし確認したもののみを御報告する」』(111-114頁)

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 111-114頁より》

(投稿者注: 引用文にある「?」は、原文ママ。戦況報告に読み取り不可能だった文字があったことを示すものと考える。)

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/maps/USMC-V-19.jpg

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/USMC-V-II-9.html

 『6月10日、米軍の攻勢はいよいよ激しくなり、沖根司令部のある豊見城の74高地も戦闘に巻き込まれた。…この日、司令部は北西及び西方面に展開していた部隊の一部を司令部壕に撤退させた。』(435頁)

『…色々な部隊の生き残り約50人を寄せ集め、工作科の大尉を長にした新しい中隊が再編制された。夜、南東500メートル…にタコツボ陣地を掘り、夜明けとともに擲弾筒攻撃を開始した』(436-437頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 435、436-437頁より》

6月10日、根拠地隊は一晩中全戦線において斬込攻撃をかけた。』(172頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 172頁より》 

小禄村のある少年の証言:

6月10日ごろ、海軍下士官の双眼鏡をのぞかせてもらうと、国場川の向こう、那覇市壺川あたりを上半身はだかの米兵が銃をさげて動いているのが見えました。友軍がいっせいに射撃をすると米兵がバタバタ倒れる。大型戦車が走る。その砲身が動く。砲身の下から火焔放射器が火を噴くアゴがガクガク鳴る。あわてて海軍の壕にかけ込みました

「敵の砲撃で壕は地震のようにゆれました。その壕の中で従軍看護婦の姉…と1ヵ月ぶりに会いました。彼女は10キロの急造爆雷を背負い、肩から導火線をたらし、腰に榴弾を3発ぶらさげ、手にヤリを持っていました。かっこいいんだなあ。『ぼくも斬込隊になりたい』とさわいで兵隊にたしなめられました。姉は攻撃のために壕を出て行きました。出て間もなく、胸部貫通銃創で即死しました。私は様子を見に行くとがんばりましたが、おじが『お前は見るな。おじさんがちゃんと見ておく』といって私には姉の最期を見せてくれませんでした」』(170-171頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 170-171頁より》

 

南部の戦況

八原高級参謀の回想:

10日ごろになると、混成旅団の正面は急速に悪化し始めた。まず具志頭が、敵の手に入り、ついで安里付近の守備部隊が孤立に陥り、連絡不通となった。』(392頁)

『第24師団正面においては、アメリカ海兵軍団は小禄の海軍部隊に阻止され、直路南下することができず、東風平付近から西方に側面展開しつつある。師団は依然有力な砲兵を有し、かつ軍砲兵隊もこれに協力しているので、6月10日ごろにおいては、敵はいたずらに損害を受けるのみで、あえてわが陣前に近迫しようとしない。

軍主力陣地の中央および左翼がかくの如く厳然としている際に、右翼混成旅団の正面が過早に突破されては、軍統帥上の大失敗である。参謀長も私も心配した。いかなる手段に訴えても軍の右翼の過早な崩壊は防止しなければならぬ。そこで軍は相次いで左の兵力を増加した。

第11船舶団  大木中佐を長とし、沖縄防衛隊を主とした総員約1500名の竹槍部隊

電信36連隊で編成した約2個中隊

軍砲兵隊で編成した2個中隊(1大隊は数百名より成る)

野戦築城主力  1中隊は摩文仁に残置した。

以上のほか、軍は第24師団正面に指向していた軍砲兵の全火力、ならびに野砲兵第42連隊の一部をも、一時混成旅団に協力させた。

増加した徒歩部隊の多くは、歩兵的訓練に乏しいものばかりで、そのうえ戦車に対抗する兵器を持っていなかった。せっかく戦線に加入しても、ほとんど1日で全滅するありさである。今では戦闘の様相が、既住のそれとは一変し、戦いは敵の一方的独り舞台になってしまったのだ。徒手空挙、敵の鉄量に圧倒され、空しく折り重なって殪れてゆく戦友を想えば、実に切歯扼腕の極みだ。』(393-394頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 392、393-394頁より》

 

負傷兵の処置

八原高級参謀の回想:

『後方整理にあたって最も苦慮したのは、傷者の処置であった。首里戦線2か月のわが死傷は約3万5000である。古来戦場における死傷の比は1対3が普通であるが、わが沖縄戦においては、これが反対になった。その原因としては、戦況上、傷者の収容治療が至難で、当然助かるべき者が死んだこと、包囲馬乗り攻撃を受けても、さらに敢闘を続けて全滅するか、あるいは重囲を脱し退却する際、歩行に耐えぬ重傷者はその場で自決したこと、軽傷者は負傷者として数えなかったことを挙げることができる。

かくして5月末、首里、津嘉山付近はもちろん全戦線にあった負傷者の総数は1万に達したであろう。多少でも歩行し得るものはよい。そうでない重傷者を、いかにして新陣地に後送するかは重大問題である。輸送力が極めて少ない。時日にも制限がある。そして新陣地に後送しても、これを収容するに足る洞窟がない。

もちろん軍としては、全力を尽くして傷つける戦友を後送し、1名といえども敵手に委しては相成らぬ。だが実情は遺憾ながら相当数の重傷者は収容不能である。』(374-375頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 374-375頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/97-12-1.jpg

救護所で治療を受ける日本兵捕虜。彼の傷にはうじがわき、肌を這い回っている。(1945年6月10日撮影)

Captured Jap soldier getting medical aid at our station. His wounds even had maggots crawling around the flesh.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『この不幸な人々をいかに処置すべきであろうか? 現代日本陸軍の理想精神よりすれば、答解はすこぶる簡単明瞭で、自決!の一語あるのみだ。しかし私情において我々は自決を強要するに忍びない。列強文明国の軍隊においては、負傷して戦闘能力を失い、敵手にはいることは、別に恥辱とも考えられないし、またしかるべき治療待遇を受けることになっている。

本問題に関する軍参謀長の指示は、「各々日本軍人として辱しからざる如く善処すべし」であったように記憶する。事実、大多数の傷者は、平素教えられた如く---軍参謀長の指示を俟つまでもなく、「天皇陛下万歳」を三唱し、榴弾急造爆雷、あるいは青酸加里の如き薬品をもって自決した。また軍医が、そっと薬品注射を行い、自決を補助した部隊も少なくはなかったろう。軍司令部においても、片岡獣医大尉の如きは、病衰の極、戦友の手足纏になるのを喜ばず、独り津嘉山洞窟に残り最期を遂げた。

しかし、皆があっさり自決したわけではなく、精神力旺盛な者は、驚嘆すべき力を発揮し、自力で新陣地に後退した者も少なくはなかった。ある傷者の如きは、両脚の重傷に屈せず、十余キロの泥濘の道を座行しながら所属部隊に合し、生存戦友を感動させた者もある。

傷者の収容施設は首里戦線においては曲がりなりにもあったが、新陣地にはもはやそれらしきものは存在しなかった。私は思いつくまま、これら傷者は、喜屋武岬の先端部、彼我作戦上価値のない一地域を画して収容し、砲弾を免れて治療させてはと提案したが、後方主任参謀始め皆一笑に付し、相手にする者はなかった。』(375-376頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 375-376頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

壕からの追い出し

『もっとも よく聞かれた日本兵の弁明は、住民が食糧を探して出たり入ったりすると、隠れている場所を暴露することになるというものであった。しかし、彼らを爆撃下に追い出して非常な苦難に陥れた兵隊は、洞窟の入口はいずれにせよ発見されることを知っていた。まわりのすべての草木が跡形もなく焼かれた影響も少なくなかった。また、死にかかっている子供のための食べ物を取り上げた兵隊の弁解も、卑劣な偽善だった。「誰がより大切なんだ。おまえの家族か天皇陛下」。ごく少数の非人間的な兵が支配しはじめていた。彼らは村人に、どの地域が安全かという「情報」に対して食べ物を強要したが、中には飢え死にしかかっている者もいた。村に入って銃を発射し、アメリカ兵の銃撃だと思って住人が逃げ出した隙に略奪を行う兵もいた。アメリカ兵が洞窟の入口の前にあらわれた時は、兵の多くは武器を中にいる民間人に向けて人質とし、逃げたら殺すと脅しながら、民間人がいれば、敵は洞窟を爆破することを避けるだろうと考えていた。殺したり、強姦したりすることもあった。

「〔沖縄の住民が〕一貫して示した善意、献身や親切に対する恩返しが、この冷たく残酷な仕打ちなのか」と、ある兵士は苦悩した。

いうまでもなく、すべての日本兵が残酷であったわけではない。親切な兵士も、将校や仲間に黙らせられて助けることができなかった。』(274頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 274頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/81-27-3.jpg

救護所で治療と食糧の配給を受ける民間人。ほとんど全員が負傷している。これは、日本軍狙撃兵が彼等に向けて発砲したためで、寄り集まって(行動を共にして)いる(1945年6月10日撮影)

Civilians getting aid and food at aid station. Almost each one was wounded in some place. At this time, a Jap sniper was firing down at them so they were together, huddled in a group.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

沖縄戦当時3歳だった女性の人生:

『…「私は当時3歳ですから記憶はありません。しかし、私の毎日は戦争体験であり、戦後体験なのです。聞くところでは1945年(昭和20年)6月10日沖縄本島南部の玉城村ミーガーガマ(自然洞窟の名前)から日本兵に追い出されたとき、銃弾が頭に3発、左足に1発当たった。右の目玉はぬけたんだそうです。『大変だ!』と恐怖のあまり走り出した祖父もタマに当たって即死したんだそうです。父も長兄も、長姉も沖縄戦で死にました。戦後にも私は米軍のジープに足をひかれたのです」

義眼をはずして「この顔を見て下さい。子どものころ、片目だの、丹下左膳だの、カンパチだのと呼ばれつづけたのです。生きていることが辛かった自殺を考えない日はありませんでした。ひっこみ思案で、友だちもできない。高校二年のころ、ハワイからおばが帰ってきました。『この子は重荷にたえかねて死にかかっている。聖書を読みなさい。教会にも行きなさい』とすすめてくれました」

「いま私はいい夫と3人の子にめぐまれて、しあわせです。しかし、何といってもキリストの『私は世の光である。私に従う人はやみの中を歩かず、命の光をもつであろう』ということばが導きの糸です」

戦争当時、満6歳未満の人は戦争に協力する意思も能力もなかっただから補償できないというのが役所の説明でした。戦争さえなければ、…こんな苦しみもなかったはずです。…』(165-166頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 165-166頁より》

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

 

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月10日(日)