1945年3月31日『沖縄島上陸・前夜』

沖縄本島上陸・前夜

空爆と艦砲射撃

3月31日の午後までにブランディ提督は、那覇地区の一部危険と思われる陣地を除いて「準備は十分である」との報告をすることができた。日本軍の海岸砲は、米艦隊の艦砲射撃中はまったく鳴りをひそめていて砲口を開かなかった

沖縄上陸前に、第58機動部隊や護衛空母から出撃した飛行機は、延べ3095機を数えた。その主な目標としたのは陸上にある日本機で、つぎが小型船舶や〝水陸両用戦車〟をねらった。この〝水陸両用戦車〟は、後でわかったことだが、爆雷を積んだ〝自殺戦車〟であったのだ。これらの主目標を攻撃した後は、自由に海岸線の砲兵陣地や高射砲陣地、浮遊機雷、通信施設、兵営などを機銃掃射してよいということになった。

第58機動部隊の艦載機は、艦砲射撃の射程外にある目標をねらって集中攻撃を加えた。護衛空母艦載機は、機雷掃海隊や水中爆破隊を掩護するほか、慶良間や慶伊瀬島の作戦に参加し、上陸を支援した。』(76頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 76頁より》

『29日以降、上陸に備える艦砲射撃が本格化した。戦艦10隻と巡洋艦11隻、さらに重巡洋艦4隻に多くの駆逐艦も加わり、3月31日正午までに護岸や海岸線後方の日本軍防衛線に対する砲撃が間断なく続けられた。ブランディ海軍少将が率いる第52機動部隊だけでも12.5センチ以上の砲弾を約2万8千発も撃ち込んだのである。また、沖合の空母から発進して艦砲射撃の届かない地域を爆撃した飛行機は延べ3095機に達した。』(84頁)

《別冊歴史読本 特別増刊「沖縄 日本軍最期の決戦」(戦記シリーズ/新人物往来社) 84頁より》

『…同日の午後、米海軍艦隊は、上陸前の最後の艦砲射撃を終え、北・中飛行場西方の渡具知海岸に向けてゆっくりと進んでいた。…夕暮れが近ずくにつれ輸送船、貨物船、上陸用舟艇、戦艦などが上陸目標地点めざして続々と集結してきた。』(35頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 35頁より》

3月31日の午後米海軍は最後の艦砲射撃を行なった。そして、やがて夜に入ったころ、沖縄上陸の一大船団が、長い航海に終止符を打つべく、最後の1600メートルの波を蹴って進んでいた。夜が明けるまでに、東支那海をのぞむ渡具知の海岸に相まみえることになっていたのだ。』(80頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 80頁より》

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 慶良間列島(左)、慶伊瀬島(中央)、沖縄本島(右)、伊江島(右上)

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 1]

 

慶伊瀬島(けいせじま/別名: 神山島)上陸

3月31日午前11時頃、第420野戦砲連隊は第306連隊第2大隊が前もって確保しておいた慶伊瀬島(通称チービシ=渡嘉敷村)に上陸した。重火器類はリーフの切れ目に設置された台船(浮き桟橋)に横付けした戦車揚陸艦(LST)から陸揚げし、弾薬や物資の陸揚げには水陸両用戦車を使用した。3月31日の午前中までには、戦車揚陸艦から発進した小型機の支援を得て、第531及び第532野戦砲大隊は沖縄本島砲撃の諸準備を整えた。しかし、その日の夜から4月1日にかけて、同島はおよそ60回におよぶ日本軍の砲撃(口径150ミリ砲と推定される)にさらされた。幸い兵員や砲座には被害はなかった。』(81頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇/元就出版社) 81頁より》

『…31日朝、連合軍は那覇港の西北西13キロの慶伊干瀬(チービシ、日本軍は神山島と呼んだ)を含む四つの小さな珊瑚礁群・慶伊瀬島を占領重砲陣地を築き、早くも夕刻には15及び20サンチ野砲10門で那覇首里小禄、嘉手納など、本島の中枢施設に対する猛砲撃を開始した。』(134頁)

《「特攻に殉す 地方気象台の沖縄戦」(田村洋三/中央公論新社) 134頁より》

『…31日の朝、米第420砲兵大隊は慶良間と那覇の間にある無人島、神山島に上陸、155ミリ砲24門を据えつけ、以来、昼夜の別なく(首里那覇を)撃ちまくった。これによって南部沖縄は射程距離内に入り、守備軍司令部のある首里は、脇腹に槍を突きつけられたも同然で、多大の脅威を受けた。』(30頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 30頁より》   

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 『第420野戦砲連隊の慶伊瀬島上陸は、米軍の沖縄本島上陸及び米第10軍の本島進攻作戦を遂行する上で重要な役割を果たした。155ミリ長距離砲(愛称は "Long Toms" =ノッポトム)の2個大隊は、那覇から米軍上陸拠点(読谷・嘉手納)以南の主要道路や沖縄本島残波岬以南の広範な地域を射程距離におさめ、米軍の沖縄本島進攻作戦を支援した。

なお、4つの珊瑚礁の小島からなる慶伊瀬島はその大きさや立地条件からして沖縄本島攻撃には格好の場所だった。』(81-82頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇/元就出版社) 81頁より》

 

米軍、慶良間列島を完全に制圧

『3月29日までに慶良間列島全域は米軍の手に陥ちたが、公式にそれが宣言されたのは、3月31日であった。

米軍の攻撃は、15回にもおよんだが、その間に被った損害は、戦死31名、負傷81名。それにたいし、日本守備軍の損害は、戦死者530名のほか、121名の将兵と1195名以上の住民が捕虜にされた。』(18頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 18頁より》

慶良間諸島の戦闘概括

この戦闘概括は米77歩兵師団の作戦報告を基にまとめたものである。慶良間諸島攻略作戦で、同師団は同諸島8島と、4つの小さな無人島からなる慶伊瀬島を制圧した。これにより沖縄本島上陸に備えた米中核部隊に対する同諸島方面からの攻撃の脅威が取り除かれるとともに、慶良間海峡に、艦船の燃料補給・修理基地、それに艦船の投錨地が確保された。すなわち、慶良間諸島の確保は米軍の沖縄本島進攻作戦に大いに寄与した

…米軍にとって、特攻艇基地の破壊は、それだけとっても慶良間諸島確保の価値は十分あった。

…さらに、慶良間諸島の占領は、日本軍から水上特攻の機会を奪っただけでなく、沖縄本島に上陸した米軍に対する逆上陸の可能性を潰す役目も果たしてくれた

…そこから飛行艇が離着水し、艦船に対し燃料、弾薬、物資などの補給や修理が行われた。同基地の中心部から沖縄本島へはわずか20マイル(約32キロ)、日本本土へは325マイル(約523キロ)しか離れていない。

短期間で確保した慶良間諸島の島々に加えて、第420野戦砲兵連隊の慶伊瀬島の砲台基地は、沖縄本島上陸と米第10軍のその後の作戦で重要な役割を果たした。野戦砲連隊を構成する2個大隊は24基全ての「ノッポ・トム」を同島に陸揚し、沖縄本島上陸前日の3月31日攻撃の準備を整えた。』(82-83頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇/元就出版社) 82-83頁より》

 

第32軍の動向

慶伊瀬島(けいせじま/別名:神山島)からの砲撃

31日那覇西方10キロにある無人島、神山島に米軍が上って来、何をするかと見ていると、15センチ・カノン砲(長距離砲)16門を並べ、タマを撃ち出した。連日連夜豊富な弾量に物をいわせて撃ってくる。那覇はもちろん、首里も着弾距離に含まれ、主要道路の交叉点などに集中して交通遮断射撃を行い、日本軍を大いに悩ませた。』(140頁)
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 140頁より》 

『ところが、これに対抗できる守備軍の砲台は、長堂西側高地の15サンチ加農砲2門と小禄飛行場付近の一部の海軍砲しかなかったが、それもいざ実際に砲撃してみたら神山島には届かず処置なしの状況。』(30頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 18頁より》

 

軍司令部

『第32軍司令部は敵の上陸近しと見て、島田叡・沖縄県知事を通じて老幼婦女子の北部への疎開を停止浦添村牧港以南にいる疎開者は付近の集落に避難するよう命じた。』(135頁)

《「特攻に殉す 地方気象台の沖縄戦」(田村洋三/中央公論新社) 135頁より》

 

師範鉄血勤皇隊 (沖縄師範学校男子部)

『かくて3月31日、敵は首里城から一目で見渡せる那覇港外の神山島へ長距離砲を揚陸し、ドカンドカンとぶっ放し始めた。…この日、沖縄師範学校の全校職員生徒は、軍司令部の命により留魂前面の広場に集合した。鉛色の空が樹木の間から覗いていた。蒼色がようやく近づいて、さしも執拗な砲爆撃も全く鳴りをひそめたようだった。静かすぎるほどの静けさの中にあって、私たちは痛いほどの緊張に身も心も引き締まっていくのを感じた。何か変わったことが起こりそうだ。故知らぬ情熱が身内をかけ回り、心臓のおののきが聞こえるようだった。これが上陸前夜の静けさだとは私たちは夢にも知る由はなかった。
やがて第32軍司令部の駒場鎌少佐が、静かに歩を進めて皆の前に立った。少佐は低い力強い声で語り始めた。誰もが一語も聞きのがさないように、固唾をのんでその口元を見守った。
沖縄師範学校職員生徒は第32軍司令官の命により、本日より全員鉄血勤皇隊として軍に徴された。今や敵の沖縄上陸は必至である。諸君は全力を挙げて軍に協力し、一日も早く醜敵を撃滅して陛下の宸襟を案んじ奉るよう固く決意しなければならぬ。なお諸君の郷土の防衛は諸君自らの手にかかっている。すべてを抛ってその任に殉ずる覚悟をきめるべきである。了り」
言葉が終わると同時に、あたりは興奮でざわめいたが、「頭中っ」の号令で一瞬全員の目が少佐に向けられた。何だか皆の態度が急に軍隊式に早変わりしたような気がした。このようにして、第32軍司令部の命を受けた一将校の簡単な言葉によって、沖縄師範学校は全校の職員生徒が一丸となって、鉄血勤皇師範隊といういかめしい名の下に、軍に編成されたのであった
やがて、斬込隊、千早隊、野戦築城隊、自活隊、本部等の隊編成が済むと、半袖、半袴、戦闘帽といったような防衛隊用の軍服が各人に一着ずつ支給された。
…私たちはただちに防衛服に着替えた。と、たちまち奇妙な恰好の二等兵が出来上がった。一年生から最上級生まで平等に二等兵、いや無等兵といった方がいい。なぜなら誰の服にも一つ星もついていなかった。
こうして14、5歳から20歳までの青少年たちが、一律に命令によって軍服を着せられ軍に編成されるという世界にも例の少ないことが、いとも簡単に行われたのである
その後で壕の配置も編隊別になり、私たちは夜ふけまで学生生活の最後の日を語り合った。家族のことを不安気に話している者もあった。その夜はほとんどが防衛服のまま横になった。が、中には学生服に未練があるのか、半袖の上から自分の服を着て寝ている者もあった。』(24-27頁)
《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 24-27頁より》

youtu.be

沖縄戦継承事業/沖縄県

 

そのとき、住民は・・・

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail08_img.jpg

沖縄戦の絵】海を埋め尽くす米艦船を見て

昭和20年3月ごろ、照屋さんが、住んでいた読谷村波平の海沿いの土手から、東シナ海を埋め尽くす米艦船を見た光景。土手には大きなガジュマルの木が生えていた。この時見た光景に照屋さんは思わず息を飲んで立ち尽くした。海を覆い尽くすほどに集まった艦船。日本の連合艦隊かと思って目を凝らしたが、戦闘機や艦砲射撃の様子から米艦船だとわかった。米軍がついに沖縄まで攻めてきたと肌で感じた照屋さん。「日本軍は必ず来る。特攻隊が敵をやっつけてくれる」と信じていたが、「この戦争、負けるかもしれないよ」という父の言葉を思い出し、不安に駆られたという。照屋さん『今の日本は平和だが、未だに戦争が絶えない。人を大事にするという思いやりの気持ちを皆で分け合い、世界中から戦争がなくなった時が真の平和だと思う』

海を埋め尽くす米艦船を見て | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

 

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【米軍上陸前の空襲と艦砲射撃】

読谷村史 「戦時記録」下巻 第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦 空襲と艦砲射撃

  

【戦世の証言】失われていった若い命 (嘉手納町)

www.nhk.or.jp