〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年3月31日『沖縄島上陸・前夜』

上陸計画 / チービシからの砲撃 / イギリス太平洋艦隊 / 沖縄師範学校と大田昌秀 

 

米軍、沖縄島上陸前夜

弾薬の積み込み作業

3月31日の午後までにブランディ提督は、那覇地区の一部危険と思われる陣地を除いて「準備は十分である」との報告をすることができた。日本軍の海岸砲は、米艦隊の艦砲射撃中はまったく鳴りをひそめていて砲口を開かなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 76頁》

上陸作戦の第一目標のひとつ北飛行場 (読谷飛行場) を指し示す参謀長。

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攻撃前日の艦上、第3水陸両用軍団司令官ガイガー少将とその幕僚たちに、地形図上で南西諸島沖縄島の海岸の日本軍陣地を指し示す、参謀長のシルバーソーン准将。(1945年3月31日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

(下図) 米軍は詳細な解析に基づき様々な上陸案をたてていた。下は1月22日時点の上陸案。

CINCPAC-CINCPOA 報告 第53-45 (1945年2月28日) - Basically Okinawa

こちらは日本軍資料、読谷飛行場と嘉手納飛行場周辺の兵力配置と軍施設。

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「北地区隊兵力配置陣地編成要図昭和十九年十二月十八日現迄」『沖縄戦資料56』所収「独立混成第十五連隊第二大隊陣中日誌」

読谷村史 「戦時記録」読谷山村への日本軍部隊配備

鉄の嵐 - 上陸前、熾烈を極める最後の艦砲射撃。

29日以降、上陸に備える艦砲射撃が本格化した。戦艦10隻と巡洋艦11隻、さらに重巡洋艦4隻に多くの駆逐艦も加わり、3月31日正午までに護岸や海岸線後方の日本軍防衛線に対する砲撃が間断なく続けられた。ブランディ海軍少将が率いる第52機動部隊だけでも12.5センチ以上の砲弾約2万8千発も撃ち込んだのである。また、沖合の空母から発進して艦砲射撃の届かない地域を爆撃した飛行機は延べ3095機に達した。

《別冊歴史読本 特別増刊「沖縄 日本軍最期の決戦」(戦記シリーズ/新人物往来社) 84頁》

日本軍のさしたる抵抗もなく占領した慶良間水道にて、続々と積み込まれる弾薬。

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《AIによるカラー処理》米艦船メリーランド号の弾薬の積み込み作業。K-20カメラで撮影(1945年3月31日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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中型揚陸艦(LSM(R)-196)の発射台にロケット弾を装填する兵士ら。阿嘉島にて。(1945年3月31日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

上陸地点、渡具知海岸への終結

…同日の午後、米海軍艦隊は、上陸前の最後の艦砲射撃を終え、北・中飛行場西方の渡具知海岸に向けてゆっくりと進んでいた。… 夕暮れが近ずくにつれ輸送船、貨物船、上陸用舟艇、戦艦などが上陸目標地点めざして続々と集結してきた

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 35頁》

3月31日の午後米海軍は最後の艦砲射撃を行なった。そして、やがて夜に入ったころ、沖縄上陸の一大船団が、長い航海に終止符を打つべく、最後の1600メートルの波を蹴って進んでいた。夜が明けるまでに、東支那海をのぞむ渡具知の海岸に相まみえることになっていたのだ。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 80頁より》

上陸計画。慶良間諸島から渡具知海岸へ。南部の具志頭からの攻撃は陽動。

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-6.jpg

註・慶良間列島(左)、慶伊瀬島(中央)、沖縄本島(右)、伊江島(右上) 米軍は渡具知を「ハグシ」と呼ぶ。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 1]

 

神山島の占領 - 慶良間諸島攻略作戦の完了

3月29日までに慶良間列島全域は米軍の手に陥ちたが、公式にそれが宣言されたのは、3月31日であった。米軍の攻撃は、15回にもおよんだが、その間に被った損害は、戦死31名、負傷81名。それにたいし、日本守備軍の損害は、戦死者530名のほか、121名の将兵と1195名以上の住民が捕虜にされた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 18頁》

慶伊瀬島 (けいせじま/チービシ/神山島) への上陸

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3月31日午前11時頃、第420野戦砲連隊は第306連隊第2大隊が前もって確保しておいた慶伊瀬島(通称チービシ=渡嘉敷村)に上陸した。… 3月31日の午前中までには、戦車揚陸艦から発進した小型機の支援を得て、第531及び第532野戦砲大隊は沖縄本島砲撃の諸準備を整えた。しかし、その日の夜から4月1日にかけて、同島はおよそ60回におよぶ日本軍の砲撃(口径150ミリ砲と推定される)にさらされた。幸い兵員や砲座には被害はなかった。

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇/元就出版社) 81頁より》

チービシに上陸し、その日のうちに設営された米軍のカノン砲

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… 31日朝、連合軍は那覇港の西北西13キロの慶伊干瀬(チービシ、日本軍は神山島と呼んだ)を含む四つの小さな珊瑚礁群・慶伊瀬島を占領、重砲陣地を築き、早くも夕刻には15及び20サンチ野砲10門で那覇首里小禄、嘉手納など、本島の中枢施設に対する猛砲撃を開始した。

《「特攻に殉す 地方気象台の沖縄戦」(田村洋三/中央公論新社) 134頁》

慶良間諸島攻略作戦の目的

慶良間諸島攻略作戦で、同師団は同諸島8島と、4つの小さな無人島からなる慶伊瀬島を制圧した。これにより沖縄本島上陸に備えた米中核部隊に対する同諸島方面からの攻撃の脅威が取り除かれるとともに、慶良間海峡に、艦船の燃料補給・修理基地、それに艦船の投錨地が確保された。すなわち、慶良間諸島の確保は米軍の沖縄本島進攻作戦に大いに寄与した

… 米軍にとって、特攻艇基地の破壊は、それだけとっても慶良間諸島確保の価値は十分あった。… さらに、慶良間諸島の占領は、日本軍から水上特攻の機会を奪っただけでなく、沖縄本島に上陸した米軍に対する逆上陸の可能性を潰す役目も果たしてくれた。

… 短期間で確保した慶良間諸島の島々に加えて、第420野戦砲兵連隊の慶伊瀬島の砲台基地は、沖縄本島上陸と米第10軍のその後の作戦で重要な役割を果たした。野戦砲連隊を構成する2個大隊は24基全ての「ノッポ・トム」*1 を同島に陸揚し、沖縄本島上陸前日の3月31日攻撃の準備を整えた。

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇/元就出版社) 82-83頁》

 

沖縄戦 - 日本兵朝鮮人軍夫の捕虜の収容

米艦船チェンデラー号横のAV-10船に乗った日本人捕虜。米海軍兵により阿嘉島付近で捕らえられた(1945年3月31日撮影) 

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

【和訳】 3月31日、沖縄近海での作戦中に撃墜した日本軍機の乗組員を救助しているところ。ずぶぬれになった捕虜が、米軍艦の掌帆長に支えられ乗艦する。  

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

先島群島 - イギリス太平洋艦隊による連日の空爆

3月27日に沖縄作戦に合流したイギリス太平洋艦隊は、主に先島群島の宮古島八重山にある日本軍施設を中心に激しい空爆を連日行っていた。

31日は延べ約700機が大挙来襲した。奄美大島地区約140機、宮古および石垣方面には各約50機の来襲があった。その日、九州方面にはB29約150機が来襲していた。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦 空襲と艦砲射撃

米海軍が当時制作した映像 (The Fleet That Came to Stay) は、スチール写真からはうかがい知れない激しい爆撃のようすを伝えている。

The Fleet That Came to Stay から先島群島の空爆などを切り出し。

宮古島の日本軍施設が連日の激しい攻撃を受けるなか、31日頃、鏡原の陸軍病院に配属されていた宮古高等女学校の学徒二人も爆撃で重傷となる。

… 美恵子さんは脊ずいをやられたんですね。… 下半身不ずいで、その後、数年、亡くなるまで病床におりました。

『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 3 - Battle of Okinawa

 

第32軍の動向

神山島からの砲撃になすすべ無く

小禄飛行場の対岸、慶伊瀬島 (チービシ) が占領され砲撃が首里まで及ぶ。

31日那覇西方10キロにある無人島、神山島に米軍が上って来、何をするかと見ていると、15センチ・カノン砲(長距離砲)16門を並べ、タマを撃ち出した。連日連夜豊富な弾量に物をいわせて撃ってくる。那覇はもちろん、首里も着弾距離に含まれ、主要道路の交叉点などに集中して交通遮断射撃を行い、日本軍を大いに悩ませた。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 140頁》 

ところが、これに対抗できる守備軍の砲台は、長堂西側高地の15サンチ加農砲2門と小禄飛行場付近の一部の海軍砲しかなかったが、それもいざ実際に砲撃してみたら神山島には届かず処置なしの状況。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 30頁》

北部への疎開を停止させる

第32軍司令部は敵の上陸近しと見て、島田叡・沖縄県知事を通じて老幼婦女子の北部への疎開を停止浦添村牧港以南にいる疎開者は付近の集落に避難するよう命じた。

《「特攻に殉す 地方気象台の沖縄戦」(田村洋三/中央公論新社) 135頁》

八原高級参謀の回想:

… 今や敵の巨大な戦力は、… 嘉手納海岸に集中しつつある。31日における同地帯に対するアメリカ軍の砲爆は、壮絶を極め、沿岸守備隊の報告では、落下した砲弾は3万発を下らずという。敵舟艇は、幾回となく海岸近く押し寄せ、正に逹着せんとしては、引き返しつつある。一両日来、首里の高地や、市街も敵砲爆の目標となっている。軍司令部の将兵も、もはや夜間宿舎に帰って休息を取る者はなく、全員洞窟生活にはいった。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 170頁》

 

鉄血勤皇師範隊の召集命令 - 大田昌秀 (元知事)

3月23日に女子学徒隊の動員命令、25日に男子学徒隊の動員命令が下され、生徒は続々と班に分かれて日本軍の各部隊に配置されていった。31日、師範学校教員25名、学徒386名が師範鉄血勤皇隊として編成される。また三中鉄血勤皇隊の約147名が今帰仁宇土部隊へ、約150名が名護岳の第一護郷隊へ、商工学校16名が首里の末永中隊に送られた。

鉄血勤皇師範隊の召集 

右側が復帰後第四代沖縄県知事を務めた大田昌秀元知事は、沖縄師範学校に在学当時、学徒兵として召集、鉄血勤皇隊の情報宣伝隊「千早隊」に配属される。多くの学友を

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鉄血勤皇隊は13~19の歳で法的根拠無く動員された。沖縄師範学校男子部では引率の教師24人に導かれ生徒386人が戦場に動員された。そのうち生徒226、引率教師9人、実に6割の学徒が戦死した。

2017年6月12日、元沖縄県知事 大田昌秀さん死去。 - ~その時、沖縄は~

平成19年6月、92歳で亡くなった元沖縄県知事大田昌秀さん。学徒動員で経験した沖縄戦が、平和を守る闘いの原点だった。鉄血勤皇隊の一員として経験した摩文仁の丘の激戦。同期125人のうち生き残ったのはわずか37人「なぜこういう事態に陥ったのか。もし生き延びることができたら、明らかにしたい」。戦後は研究者として沖縄戦と戦後史を研究。平成2年には沖縄県知事となり、米軍基地の整理・縮小に取り組んだ。「二度と沖縄を戦場にしてはならない」。政界引退後も平和活動に取り組み続けた元沖縄県知事大田昌秀さんの生涯を振り返る。

大田昌秀|人物|NHKアーカイブス

第32軍司令部が、沖縄師範学校の校長に生徒の召集を命ずる。

大田昌秀の体験談:

かくて3月31日、敵は首里城から一目で見渡せる那覇港外の神山島へ長距離砲を揚陸し、ドカンドカンとぶっ放し始めた。…この日、沖縄師範学校の全校職員生徒は、軍司令部の命により留魂前面の広場に集合した。…

やがて第32軍司令部駒場鎌少佐が、静かに歩を進めて皆の前に立った。少佐は低い力強い声で語り始めた。誰もが一語も聞きのがさないように、固唾をのんでその口元を見守った。

「沖縄師範学校職員生徒は第32軍司令官の命により、本日より全員鉄血勤皇隊として軍に徴された。今や敵の沖縄上陸は必至である。諸君は全力を挙げて軍に協力し、一日も早く醜敵を撃滅して陛下の宸襟を案んじ奉るよう固く決意しなければならぬ。なお諸君の郷土の防衛は諸君自らの手にかかっている。すべてを抛ってその任に殉ずる覚悟をきめるべきである。了り」

言葉が終わると同時に、あたりは興奮でざわめいたが、「頭中っ」の号令で一瞬全員の目が少佐に向けられた。何だか皆の態度が急に軍隊式に早変わりしたような気がした。このようにして、第32軍司令部の命を受けた一将校の簡単な言葉によって、沖縄師範学校は全校の職員生徒が一丸となって、鉄血勤皇師範隊といういかめしい名の下に、軍に編成されたのであった。

やがて、斬込隊、千早隊、野戦築城隊、自活隊、本部等の隊編成が済むと、半袖、半袴、戦闘帽といったような防衛隊用の軍服が各人に一着ずつ支給された。… こうして14、5歳から20歳までの青少年たちが、一律に命令によって軍服を着せられ軍に編成されるという世界にも例の少ないことが、いとも簡単に行われたのである

《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 24-27頁より》

鉄血勤皇師範隊が首里城北側に構築した「留魂壕」には、沖縄新報も同居した

玉城デニー知事は17日、沖縄戦中、沖縄師範学校鉄血勤皇隊首里城北側に構築した「留魂壕」を視察した。首里城地下にある旧日本軍第32軍司令部壕の一般公開を求める声が上がる中、関連する壕の現状を確認することが主な目的。

「留魂壕」の現状 玉城知事が視察/「史実継承大切さ実感」 | 沖縄タイムス

情報宣伝を任務とする千早隊は、1945年3月31日に22名の隊員によって編制された。(76頁) … 野戦築城の第2中隊は、3月31日に約80名の隊員で首里市の留魂壕で編制された。同隊に入隊後、隊員らは二交代制で守備軍司令部の壕掘りや糧秣の受領、そして伝令や立哨、その他の雑役に服すようになった。

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 81頁 》

 

そのとき、住民は・・・

海を覆いつくす米艦船

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沖縄戦の絵】海を埋め尽くす米艦船を見て

昭和20年3月ごろ、… 読谷村波平の海沿いの土手から、東シナ海を埋め尽くす米艦船を見た光景。土手には大きなガジュマルの木が生えていた。この時見た光景に…思わず息を飲んで立ち尽くした。海を覆い尽くすほどに集まった艦船。日本の連合艦隊かと思って目を凝らしたが、戦闘機や艦砲射撃の様子から米艦船だとわかった。米軍がついに沖縄まで攻めてきたと肌で感じた …。「日本軍は必ず来る。特攻隊が敵をやっつけてくれる」と信じていたが、「この戦争、負けるかもしれないよ」という父の言葉を思い出し、不安に駆られたという。

海を埋め尽くす米艦船を見て | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

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