1945年 8月30日 『日本全土がアメリカ世(ゆ)』

降伏文書調印式までの動向

日本本土への進駐 ④

『…1945年8月30日連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥厚木飛行場に降り立った昭和天皇が日本の敗戦を告げた玉音放送から15日後のことだった。』

http://i.huffpost.com/gen/4644598/thumbs/o-DOUGLAS-MACARTHUR-JAPAN-570.jpg?2

マッカーサーが厚木に降り立った日から71年。その登場シーンは日本人に鮮烈な印象を与えた(画像)

『…マッカーサーと幕僚たちは8月29日にマニラからバターン号(C54輸送機)で沖縄の読谷飛行場に着き、翌30日、…厚木飛行場に向かって飛び発った。

この日は朝から快晴で、空は澄みきっていた。午後2時5分、2分間隔で着陸していた輸送機群に続いて、バターン号が舞い降りてきた。タラップが降ろされ、コーンパイプをくわえたマッカーサーが、一歩一歩踏みしめるかのように降りてきた。その姿は、役者が大見得を切るふるまいにも似て、自信に満ちたものだった。』(58-59頁)

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 58-59頁より》

 『…この時から、連合国軍最高司令官マッカーサー天皇の上に立ち日本の占領統治を開始した。』(618頁)

《「アジア・太平洋戦争史  同時代人はどう見ていたか」(山中恒/岩波書店) 618頁より》

http://www.3rdattackgroup.org/resources/Atsugi_Recollections/MacArthur%20-%20Atsugi.jpg

ATSUGI AIR BASE

30日に飛来したのはC54約150機、進駐兵力1200名であった。輸送機は3分ごとに規則正しく着陸したという。単純に考えて1時間に20機、全機が到着するのに7時間半から8時間近くかかる。途中マッカーサーの着陸で中断するから、9時間以上かかったことになる。1日中基地は爆音に襲われていた。

将兵とともに、「ニューヨーク・タイムズ」、INS、UPAPなどの記者・写真班・放送員たち80人のほか、イギリス、オーストラリア、支那(当時)、フィリピンの記者・写真班22人、合計120人の報道関係者も沖縄から到着した。』(219頁)

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 219頁より》

『日本に第一歩を印したマッカーサー一行は、日本側が用意したオンボロ自動車に乗った1200名の第8軍兵士を従えて、厚木から横浜に向かった。マッカーサー用には年代物のリンカーン・コンチネンタルが用意されていた。

ご一行は横浜までの24キロをのろのろと進んだ。沿道には武装した日本兵が、背中を向けて警備に当たっていた。故障車なども出たため、目的地のホテル・ニューグランドまでは2時間近くもかかった。』(60頁)

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 60頁より》

 

 

〝沖縄〟という米軍基地

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この米人捕虜は神戸の収容所から解放され、そこから450マイル離れた厚木飛行場までヒッチハイクで行き嘉手納飛行場へ飛ぶダグラスC-54スカイマスターに乗ってきた。日本軍造船所で作業中に片足を失いはしたが、一緒に来た他の7人の捕虜よりも彼の健康状態は良かった。(1945年8月30日撮影)

This American prisoner of war was released from Kobi prison camp and had to hitch hike 450 miles to Atsugi Airstrip to get the Douglas C-54 ”Skymaster” back to Kadena Strip. Despite the loss of his leg while working in a Jap shipyard, this prisoner's health was noted to be better than the health of the seven POW's who came back with him. Kadena Strip, Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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厚木基地から450マイル離れた神戸の収容所で3年間過ごし沖縄に護送された二人の捕虜。米国に移送される彼らは空輸部隊ダグラスC-54輸送機でここに連れてこられた。二人はひどい栄養失調だったが故郷へ帰ることを考えて微笑むこともできた。沖縄。(1945年8月30日撮影)

Shown here are two evacuated POW's who had spent three years in the Jap prison camp at Kobi, about 450 miles from Atsugi Airstrip, where Douglas C-54 ”Skymasters” from the ATC brought them to be evacuated to the States. These men were suffering from severe malnutrition, but were able to smile at the thought of going home to stay. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/16-35-3.jpg

空輸部隊ダグラスC-54輸送機にパイパーL-4連絡飛行機を積むという難解な仕事を進める第11空挺部隊隊員。嘉手納飛行場(1945年8月30日撮影)

11th Airborne personnel going through the extremely difficult job of loading a Piper L-4 Liaison Airplane on an Air Transport Command Douglas C-54 ”Skymaster”. Kadena Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

米軍の動向

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散り散りになった日本軍の部隊がまだ隠れている木が生い茂った北部の山中に、日本語のビラを貼るロス伍長(デラウェア州出身)。ビラは戦争が終わったことを知らせ、投降の方法を指示している。(1945年8月30日撮影)

Corporal Earl F. Roth, 19, whose mother, Mrs. Elsie P. Roth, lives at 111 W. 13th St., Wilmington, Del., posts Jap language leaflet in wooded mountains of northern Okinawa where scattered Jap units are still in hiding. Leaflets tell of war's end and give direction for surrender. (See Negative Jacket)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

屋嘉収容所: 阿嘉島の海上挺進第2戦に所属していた兵隊の回想

『私のいたテントに変わった男がいた。体駆は大きく年齢は30を越えているだろうと思われたが、鼻の下から顎にかけて長いひげを蓄え、周囲の者とはほとんど口もきかないで、日中も坐ったきり黙然としていた。

それが、ある時、私と渡辺の傍にきて低い声で話しかけた。

「俺は、ある事情でこの兵隊のテントにいるが、本当は曹長なのだ、俺達は軍隊生活と戦争に自分の運命のすべてをかけたようなものだが、お前達は事情が違う。すべてはこれからだ。何だったらアメリカの将校に頼んで、日本に帰らずにアメリカにでも行くことを考えてみたらどうか」と言った。こんなことは全く考えもしなかったことだったが、哲人めいたその顔や、圧倒するようなもののいい方に、改めてそういうことも・・と考えさせられるものがあった。

しかし、やはり自分の父母に生きていることを知らせ、そして一度は顔をみせて・・と思った。

だが、いわれるまでもなく、これから内地に帰れば、自分の生涯の方向そのための方法を考えねばならぬわれわれとしては、何もしないでただ日を送ることよりは、この間にも何かをやろうかと2人で話合った結果、まず英会話を勉強しようということで、キャンプの本部に行った。

そこでの説明は、収容所内では初級と上級の2つが行われていて、どちらも夜に希望者に実施しているとのことだったので、まず初級から出かけて行った。この方は砂場にボール紙を敷き、10数人が捕虜のうちの日本人講師を中に単語の発音などを繰返していた。〝これじゃあまったくの初歩でつまらんから上級に行こう〟と、翌日はハイクラスの方に出た。こちらは日系の二世がアメリカの新聞を読んで聞かせていた。少し程度が過ぎるように思った。』(221-223頁)

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 221-223頁》

  

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月30日(木)