〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年5月19日 『首里に迫る米軍』

戦闘疲労症 / 「皇軍」の戦争神経症 / 晩発性PTSD

 

米軍の動向

シュガーローフの占領

5月18日に左右から入りシュガーローフを確保した米軍。

日本軍には、海兵隊のただなかを通って自殺行為に近い退却で陣地を放棄するか、万歳突撃でアメリカ軍を急襲するかのどちらかしか選択肢がなかった。ある一団は急造爆弾を背中に縛りつけて壕から飛び出したが、海兵隊の機関銃の弾が背中に縛りつけられた弾薬に点火、激しい爆発とともにすぐに視界から消えた。この状態の中、海兵隊は逃走する日本兵を容赦なく銃撃した。ドナルド・R・ピノー中尉は「日本軍が (シュガーローフの) 頂上から駆け下り始める」のを見た。「150人はいたはずです。私たちは発砲し、彼らをあたり一面に吹き飛ばした。」

戦闘後、疲れ果てた海兵隊員は厳重な警戒を続けたが、狂気の7日間を経て、傷だらけで荒廃した高地は彼らのものとなった。一見無害にみえる土と岩のかたまりに見えた土地を求め戦った第6師団海兵隊は、2,662名の死傷者を出した。これらの行動によりシュガーローフの戦いは終結し、何日にもわたる混乱の末、シュガーローフはついに沈黙した。

Sugar Loaf Hill Survival: U.S. Marines in the Okinawa Campaign

シュガーローフを突破した米軍は首里に向かった。

米軍参謀たちは、日本軍は首里で最後まで戦うだろう、と信じていた。…誰しもが、首里で最後の日本兵が殺されるまで、戦いはずっとつづいていくだろうと考えていたのである。5月19日に開かれた第10軍の幕僚会議で、情報将校のルイス・B・エリィ大佐は、日本軍は、首里で死ぬまで戦うだろうといった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 421頁より》

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Gun crew members of a III Phib Corps Artillery 155 M.M. Howitzer Battalion stand by as Sergeant D.J. Hannes, of 6 Emerson Place, Buffalo, New York, brightens up the insignia on the shield.

ハンネス軍曹が榴弾砲の記章を磨いている間待機している第3水陸両用軍団155ミリ榴弾砲大隊砲兵中隊の兵士たち(1945年5月19日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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THE ”FLIT GUN SQUAD” - Never mentioned in battle dispatches but always close behind the front line troops are the Marine ”flit gun squads”. They wage a war against insects with a repellant spray (DDT). In this group are (from L to R) Pfc. Marvin M. Klein; Pvt Jimmie W. Chapman; Pfc. Jerome Quinlan and Cpl. William J. Puffman.

戦場からの報道で紹介されることは決してないが、最前線の部隊のすぐ後方にはいつも海兵隊の「フリット・ガン・スカッド」(殺虫スプレー隊)がいる。彼らはDDTで害虫と戦う。左からクライン一等兵、チャプマン二等兵、クィンラン一等兵、パフマン伍長(1945年5月19日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

シュガーローフと戦闘疲労症者

安里・真嘉比: シュガーローフ (52高地)・クレセント (ハーフムーンヒル)・ホースショア(馬蹄ガ丘)

海兵隊員の野戦病院への転送が決まると、今度は病院が患者で溢れかえる現場が出てきた。すなわち、「シュガーローフの攻撃、そしてそのから確保に至る10日間の戦闘で、第6海兵師団は、実に2662人の戦死傷者をだし、1289人の戦闘疲労を出した。(中略) 非戦闘病者はおびただしい数になった。その多くが神経精神病、つまり『戦闘疲労』であった。この種の患者は、海兵2個師団 ( 第1、第6)で、6315人、陸軍4個師団(第7、第27、第77、第96)で7762人を数えた」という。

《『沖縄戦のトラウマ ~ 心に突き刺す棘』保坂廣志、紫峰出版 (2014) 沖縄戦と米兵の戦闘神経症 (pp. 242-243) 》

第82野戦病院の設立

沖縄戦での大量の精神病患者の発生により、精神的患者だけを収容する単独の野戦病院の設置が勧告された。第24師団の軍医であるLawrence A Potter 大佐がそれを提案し、第82野戦病院の設立が決まった。
《保坂廣志「沖縄戦参戦米兵と戦争神経症 - Moses R. Kaufman Report及び Oscar B. Markey Report の抄訳を通して」 (2005年)》

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Patients of 82nd Field Hospital play games with nurses, relax in reading room, etc.
看護婦とゲームをしたり読書室でくつろいだりしている第82野戦病院の患者

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Patients of 82nd Field Hospital play games with nurses, relax in reading room, etc.
看護婦とゲームをする第82野戦病院の患者

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

1945年5月陸軍省は戦時プロパガンダ映画の一つとして戦闘疲労症に関する映画を制作したが、それは長らく非公開とされ、1981年にカンヌ国際映画祭で初めて上映された。

1945年5月、米陸軍省ジョン・ヒューストン映画監督に依頼し、戦時プロパガンダ映画の一つとして「ノイローゼの回復」という映画を制作することにした。ヒューストン監督は、同年5月からニューヨーク州ロングアイランドにあるマッソン総合病院に米通信隊映画班とともに3ケ月に及ぶ長期ロケを敢行し、戦争神経症の治療とその回復過程を記録映画としてフィルムに納めた。ヒューストン監督の手になる記録映画は、後に Let there be light *1題し、1時間映画に完成した。記録映画に出てくる兵士たちは、ほとんどが沖縄戦で傷ついた将兵ばかりで、彼らは精神病棟で個人的・集団的治療を受け、徐々に精神が回復していっている。ヒューストン監督は、映画の中で治療室や治療スタッフ、患者に対するインタビュー等も行っている。

《保坂廣志「沖縄戦の心の傷(トラウマ)とその回復」2002年》

フィルムの冒頭、米軍の負傷者20%が精神神経症に由来すると記す。またアフリカ系アメリカ人兵士も含み撮影している点も当時として画期的なものであった。

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南西の傾斜地からシュガーローフヒルの頂上を眺める。爆撃による猛攻撃を受け、ほとんど木の根っこも残っていない

The crest of Sugar Loaf Hill as seen from the southwestern slope. Notice the extent to which the soil of the hill has been pounded by bombardment and the few remaining tree stumps.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

大名(おおな)

第6海兵師団は、5月10日いらいの大名丘陵戦線で、1千人以上もの死傷、行方不明を出したが、のちに首里高地攻略戦参加という名目で、この戦闘で大統領から部隊勲章を授けられた。しかし、19日、ついに第1海兵師団と交替した。

戦車隊とMI7型自動操縦砲、それに砲兵隊が丘陵の裏側にある高地を、徹底的に砲撃した。それにもかかわらず、首里の日本軍砲兵陣は、まだ完全に大名丘陵付近の支配権をにぎっていたし、さらにまた丘陵の上部のほうでは、60メートルにわたって頑強な日本軍陣地があって、ほとんど近づき難いものにしていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 361頁より》

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首里大名の丘陵

Wana Ridge.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

大砲迫撃砲による砲撃、艦砲射撃空爆・・・目の前の大名峡谷と左手の大名高地を標的にしたわれわれの猛攻は続いた。日本軍の抵抗もすさまじく、戦場のあらゆる人間、あらゆるものに攻撃を加えつづけた。攻勢に出る戦車・歩兵部隊は残らず砲火にさらされた。それでも火炎放射戦車を含む合計30輌の戦車から放たれた砲弾が谷間に炸裂し、大地を焦がした。それからふたたび敵陣めがけて地海空の総力を結集した砲撃・爆撃が仕掛けられ、その轟音と衝撃たるや、静寂という言葉の存在すら忘れてしまうほどだった。われわれはペリリュー島でも相当の修羅場をくぐり抜けてきたが、大名での激闘はその規模といい、継続日数といい、まったく別次元と言ってよかった。耳を聾するわが軍の攻撃は何時間も、何日間も、いつ果てるともなく続いた。日本軍の反撃もやむことはなかった。私はしつこい頭痛に悩まされた。延々と続く砲火の轟きに頭がしびれ、なかば朦朧となってしまう。こんな経験は生まれて初めてだった。

これほどの喧騒と混乱の真っ只中に昼も夜もなく投げ出されて、平気な人間がいるとは思えなかった。それでも、砲声の大部分はわが軍のものだったし、われわれは手ごろな壕にも恵まれていた。日本兵はこんな猛攻にいったいどうやって耐えていたのだろう。彼らはじっと洞窟の奥に立てこもり、こちらの攻撃が小休止するとうじゃうじゃ出てきて、すかさず反撃に転じる。ペリリューのときと同じだった。こちらの戦法としては、砲撃と空爆で洞窟をつぶすか、周到に固められた守備陣形を切り崩すしかなかった。

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 366-367頁より》

石嶺丘陵

5月19日、日本軍は石嶺丘陵奪回のため、全総力を傾注してくるようにみえた。…日本軍は数回にわたって攻撃してきた。そしてそのたびに、撃退はだんだん難しくなっていた。…1小隊ほどの兵力の日本軍が攻撃してきたが、米軍の迫撃砲や機関銃、および4個砲兵大隊のタイムリーな集中砲撃によって退散させた。しかし、なおも、日本軍の砲弾は落下しつづけ、米軍の損害もしだいに多くなっていった。… 10時ころ、やっと第306連隊第3大隊のL中隊がきた。うるしを流したような暗闇のなかを、各兵はすばやく陣地を交替した

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 371-372頁より》

 運玉森: コニカル・ヒル

第381連隊第3大隊指揮官ダニエル・A・ノーラン中佐は、5月19日コニカル・ヒルの砲兵陣地を殲滅させるため、ワルシー少尉以下15人の爆破隊を送った。

隊は日が暮れてから、急斜面をよじ登り、 まず手前の機関銃陣地を殲滅したが、そこからはコニカル・ヒル背面の日本軍陣地がまる見えだったので、執拗な日本軍の反撃を巧みに撃退して、ついに陣地を確保した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 392頁より》 

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CONICAL HILL WAS THE KEY TO SHURI DEFENSES - Conical Hill, overlooking Yonabaru on the east coast of southern Okinawa showing damage caused by Mortar, machine gun and artillery fire and bombing. Small white patches are ground forces pup tents pitched over foxholes to keep out the almost incessant rain.

コニカル(円錐型)ヒル。南部東海岸の与那原を見下ろす円錐型の丘に、迫撃砲や機関銃、砲撃、爆撃による被害が見られる。小さな白い斑点は地上軍が降りしきる雨を避けるためにたこつぼ壕の上に立てた携帯テントである。

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第32軍の動向

皇軍に皆無」の戦争神経症

皇軍」には存在しないことにされる「砲弾病」。

あの「西部戦線異状なし」に描写されているような戦争を恐怖した結果からおこる精神病、いわゆる砲弾病は、わが皇軍には全然なく、「戦争恐怖」という言葉は皇軍に帰する限り…

《1939年4月5日 読売新聞》

先の大戦中、戦場でのストレスなどが原因で精神疾患を発症した兵士たちがいました。しかし、その存在は皇軍の恥」とされ、ひた隠しにされてきました。 

精神疾患に苦しんだ兵士たちの心の傷「50年間、口外してはならない」極秘調査|千葉県の戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK

沖縄戦でも、精神的に錯乱し戦場を彷徨う兵士や住民は多く記録されている。負傷兵として毛布をかぶせられ銃殺された者、またスパイとして銃殺された記録も残る。

精神的に不安定になった「護郷隊」の少年兵を銃殺した軍医

また小隊まで帰るために下の方の谷間を通ったわけ。そしたら、谷間の崖に誰かをこうして座らせて、毛布をかぶらせてるので何かなと行ってみたら、パンと音するわけよ。この人は毛布かぶってたのを取って、あはははと笑うわけよ。この人ちょっと頭おかしいと思って。また上等兵が行ってかぶせて二回目にやったから、もう何もなかった。そのままシーンとした。それをやるのは軍医さんね。軍医は中尉だったですよ。

三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史集英社、2020年 電子版》

戦争神経症 - 首里「留魂壕」の師範学校の学徒兵

血気にはやる若者たちから成る師範隊も、毎日のように犠牲者が続出するようになると、さすがに異変が目立ってきた。意気消沈して壕の片隅に黙ってうずくまる者の数がふえてきた。… おまけに日夜、心身を苛むストレスの過剰さによって精神に異常を来した者が数人も出た。斬込隊のU君もその一人であった。… 戦争も初期の段階では、彼は陣地橘築においても、弾薬運び、食糧探しにおいても常に他の隊員たちをリードして目ざましい働きぶりをみせていた。しかし、四月も半ばを過ぎる頃から、40度近くの高熱を出し、ここ何日間も壕の奥で寝たきり、ウンウンうなっていた。時に彼は、突然、『敵だ、ホラ敵の将校が行くぞ、みんな追え!』などと叫びながら、壕口の方へよろめき出て行くので、うっかりできなかった。そんなとき学友たちが2-3人がかりで連れ戻し、何とかなだめすかして寝かしつけた。だが、じっと横たわっているのもわずかの間だけである。眼をキョロキョロさせて周囲を見まわしながら腰を起こすと、『こわい、こわい、殺される、イヤだ!』と絶叫し、両手で頭をはさむと、壕の隅角に向かってかがみこむのであった。高熱でほてった額には脂汗が流れ、大きく見開かれた眼の焦点は、まるで定まらなかった

大田昌秀『沖縄のこころ』岩波書店、1972年 123-124頁 》

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ウィルソン丘陵で行き止まった日本軍戦車。那覇戦線にある“安波茶ポケット”で海兵隊が日本軍を掃討した後、ウィルソン丘陵の日本軍陣地側の高台で発見された日本軍戦車。ほとんど到達不可能なこの場所までいかにして戦車が到達できたかは日本軍兵士のみが知っているが、彼らは皆戦死した。戦車の傍らに日本兵の死体がある。(1945年5月19日撮影)

JAP TANK PERCHES ON WILSON'S RIDGE--This Jap tank was found high in the enemy-held side of ”Wilson's Ridge” after Marines wiped out the Japs in ”Awacha Pocket” on the Naha front. How the tank got into the almost impossible position only the Japs know and

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糸数分室 (アブチラガマ)

大城知善先生に引率されて 生徒十五名が 南風原から糸数分室に配置替えになったのは五月一日です。今のアブチラガマです。大城軍医、西平軍医、看護婦一人と衛生兵、それに屋富祖医師と私達のたった二十名位で七百名前後の患者の看護をしていたのですよ。ガマの中はいつも悪臭が漂っていてそれこそたいへんだったんですよ。治療や看護の出来ない状態でした。手術の時の兵士達の断末魔の叫び声は今でも耳にこびりついているんですよ。地獄そのものでしたよ。麻酔薬も充分にありませんから 本当に気休め程度しかうってくれないんです。

患者は「もういい殺してくれ軍医殿殺してくれ!」と叫ぶんです。軍医は「貴様日本軍人だろう!これぐらいのことが我慢出来なくてどうするんだ!」といって叱るんですよ。

五月中旬になると患者達の傷の悪化は非常に目立ってきました。すべての患者達は 身体中がウミとウジだらけになっていましたね。脳症患者破傷風患者も次第に増えていきました。

脳症患者は頭がいかれていますから 大変なんですよ。重傷で寝ている人の上を平気で歩き回って暴れるのです。「こいつを何処かへ連れて行って!」と騒ぐんです。看護兵が来て壕の奥へ奥へと連れて行くんです。「何処へ連れて行くんですか。」ときいても返事はしないんですよ。

破傷風患者は手足が痙攣し終いには 口が開かなくなるんです。そうなるとおも湯も喉に通らないんです。そんな患者は隔離室に移されるわけです。戸板で囲われた狭い所に入れられて 助けてくれと訴えるように目だけを キョロキョロ させていましたよ。

また ひもじさのあまり兵隊達はわめくんのです。「曹長の手があっただろう。足があっただろう。それを煮てくれよ。焼いてくれよ!」切断した手足のことです。本当に恐ろしい光景です。これが戦争なんですね。

ひめゆり平和祈念資料館

  

そのとき、住民は・・・

逃げまどう住民

第6海兵師団の元伍長の証言:

「沖縄では何度も民間人を見ました。私たちが見た民間人は、皆おびえていましたアメリカ軍は残酷で女性は強姦して殺す、といった噂があったようです。ある時、2人の女性と遭遇したのですが、2人は目の前で手首と喉を自ら切って自殺しました。ものすごく苦しんで死んでいきました。でもどうすることもできませんでした。私たちは、民間人を傷つけず保護する方針で上官からも厳しく言われていたのに、なぜあんなことをしたのか、全く理解できませんでした

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 100-101頁より》

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怪我をした地元女性を前線から離れたところへ案内する海兵隊員。狙撃兵が攻撃を続ける中、ひどいぬかるみを通り抜けての案内。また、前景に見えるのは、前線へ向かう兵隊(1945年 5月19日)

Marine guiding a wounded native woman back to the rear of our lines, thru terrific mud and under continued sniper fire. Also shown in foreground are troops moving up to the front.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

沖縄戦と心の傷 -  晩発性PTSD

戦後になっても続く戦争の苦しみ。記憶は時限爆弾のように。

沖縄県民の4人に1人が犠牲となった地上戦から67年。いま沖縄県内各地で、戦争で生き残った高齢者に対し、「精神状態の聞き取り調査」が行われています。
調査のきっかけは、高齢者の間で、原因不明の「身体の痛み」や「不眠」を訴える人が増えてきたこと。みな地上戦の体験者であることから、「遅発性のPTSD(戦争トラウマによるストレス障害)ではないか」と考える医師や研究者もいます。
なぜ、67年前の戦争で受けた心の傷が、今になってよみがえるのか――その背景には、沖縄で、一般住民を巻き込んだ大規模な「地上戦」が行われたこと。そして、その地上戦から端を発する「基地との隣り合わせの戦後の生活」が影響していたことが、調査を進めるうちに見えてきました。

NHK【ETV特集】沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査

戦後40年して原因不明の痛みにさいなまれる。記憶をたどると、日本兵に追われ、戦場で死者を踏みながら歩いた記憶に行きつく。

84才の内原つる子さん。一歩ずつ踏みしめるように、力強く歩くその姿からは、つい数年前まで歩けなかったことなど想像もできません。

… 「(トラウマ記憶は)実は時限爆弾のように、一応静まっているだけなんです。自分の老いだとか、自分の身近な方々が亡くなるとか、喪失の体験が出てくる。そうすると、それがひとつの引き金になって、寝ていたものが起きてくる

戦後70年 遠ざかる記憶近づく足音「戦争トラウマ」心の傷 今なお深く – QAB

14歳で沖縄戦を体験した内原つる子さん(84)は両親と本島南部の戦場を逃げ回った。内原さんを苦しめたのは、逃げる途中で死体を踏んだこと。「夜中で何も見えずに本当にごめんなさい」とひざまずきわびたが、その夜は、死体を踏んだときの感じが忘れられず眠れなかった。戦後は教員となったが、戦後40年以上たったころ、足の裏の灼熱感が体の上に上がってくるという原因不明の痛みに悩まされ始めた。手術をしてもはり治療をしても良くならず、55歳で退職。約30年間ほとんど寝たきりの状態で過ごしてきたという。転機が訪れたのは、2021年に蟻塚亮二医師の診察を受けてから。「原因が戦争と知りほっとした。同じような体験をした人と話し合うことで痛みが和らいだ」と振り返った。

沖縄戦PTSD 痛みの共有で回復 西原・公開講座 - 琉球新報

沖縄戦で受けた心の傷、沖縄戦PTSDについて考える公開講座が13日に西原町で開かれ、南風原町出身の女性が、家族で壕にいて日本兵に追い出された体験を語りました。内原つる子さん(83)「父は、すぐ土下座をして、『今日1日でようございますから、壕の片隅に置いてください、お願いします』と頭を土に下げた」「(日本兵曹長は)『天皇陛下の命令に背くつもりか、この非国民め、叩き切ってやろうか』と脅した。姉が『お父さん、すぐ出よう』と言った」

「父は土下座して…」沖縄戦PTSDを考える – QAB NEWS Headline

1960年代の県の調査では、沖縄の精神障害者の有病率は本土の2倍。しかし医者の数が戦前の1/3の60人になってしまった沖縄で、精神医学は後回しにされてきた … 。

Qリポート 沖縄戦の心の傷抱える高齢者 – QAB NEWS Headline

戦争が終わっても、終わらない戦争を生き続けた16歳少年兵の心。

戦争終わって2~3年ぐらいだったですかね。戦(イクサ)のことみんな思い起こしてしまってですね。戦争恐怖症みたいな精神異常者になって、独房にぶち込まれました、あんまり暴れすぎるちゅうことで。戦争ですから暴れるわけですよ。アメリカ兵に追われたとか、どうやるとか、みんな戦争のしぐさしますからね。そうすると、みんな相当悪い精神病になっているから。

かつて「護郷隊」とよばれた少年兵がいた - 帰ってきた少年に日本兵は「なぜ死ななかったのか」と - Battle of Okinawa

 

 

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米国海軍: Natives on Okinawa, Ryukyu Islands.
地元民。 沖縄本島にて。1945年 5月 19日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

  

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*1:「光あれ」=筬言24: 罪人を迷いの道から引き戻す人は、その魂を死から救い出し、多くの罪を背負う者である。転じて死地に引かれゆく者を助け出すこと