1945年 5月19日 『首里に迫る米軍』

首里に迫る米軍

西部〜中央戦線

シュガーローフ: (52高地)・クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)・ホースショア(馬蹄ガ丘)

『…5月19日、第4海兵連隊は、疲れきった第29海兵連隊と交替した。シュガー・ローフの攻撃は、そして、その占領から確保まで至る10日間の戦闘で、第6海兵師団は、じつに2662人の戦死傷者を出し、1289人の戦闘疲労症者をだしていた。

海兵隊の第22連隊および第29連隊では、3大隊とも大隊長を失い、11個中隊がいずれも中隊長を死傷させた。』(351頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 351頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/124737.jpg

南西の傾斜地からシュガーローフヒルの頂上を眺める。爆撃による猛攻撃を受け、ほとんど木の根っこも残っていない

The crest of Sugar Loaf Hill as seen from the southwestern slope. Notice the extent to which the soil of the hill has been pounded by bombardment and the few remaining tree stumps.

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5月19日の攻撃は、第4海兵連隊第2大隊と第3大隊が担当し、第29海兵連隊と交代するとともに5月18日の掌握地域をより強固にすることになった。この間、シュガーローフ上の海兵隊員たちは、依然として攻撃をうけつづけていた。丘は米軍の手にあったものの、すぐ西側に位置するホースショアからの激しい砲撃がつづいていた。とくに海兵隊側の攻撃がきかないホースショアの遮蔽陣地からの迫撃砲射撃は深刻であった。

このため、1630時、ロブ中佐はF中隊にたいして、ホースショアの高台を掌握するよう命じた。結果論として、このロブの命令は見通しがあまいものだった。まだ相当数の日本兵がシュガーローフからホースショアにかけての一帯や、ホースショア自体にも残っていた。そのため攻撃を開始したF中隊はすぐに立ち往生してしまった。先導小隊がシュガーローフとホースショアの間の谷間にさしかかるやいなや、海兵隊員たちは背後からの機関銃射撃をうけはじめた。…メイビー大尉は爆破班と、火炎放射手に丘を降りて、この日本兵に対処するよう命じた。彼はさらに戦車隊にたいして、戻って地下陣地の入り口に砲弾を撃ち込むように要請した。』(329頁)

『F中隊の兵士たちは、手榴弾を使った接近戦を制しながら、ホースショアの窪地の淵にむけて進んでいた。』(330頁)

『日本軍の最初の組織的な攻撃は2300時ころにはじまった。暗闇のもとで、叫び声や矢つぎばやに指示を出す声が聞こえ、日本軍の迫撃砲弾が海兵隊の陣地に落下しはじめた。砲弾には黄燐弾もふくまれていたが、多くの海兵隊員は、日本軍がこの種の砲弾を装備していたのを初めて知った。』(332頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 329、330、332頁より》


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中央戦線

大名(おおな)

『第6海兵師団は、5月10日いらいの大名丘陵戦線で、1千人以上もの死傷、行方不明を出したが、のちに首里高地攻略戦参加という名目で、この戦闘で大統領から部隊勲章を授けられた。しかし、19日、ついに第1海兵師団と交替した。

…大名高地ー55高地方面では、戦況もいくぶん進展していたが、これが大名丘陵方面でも同じように感じられるようになった。

戦車隊とMI7型自動操縦砲、それに砲兵隊が丘陵の裏側にある高地を、徹底的に砲撃した。それにもかかわらず、首里の日本軍砲兵陣は、まだ完全に大名丘陵付近の支配権をにぎっていたし、さらにまた丘陵の上部のほうでは、60メートルにわたって頑強な日本軍陣地があって、ほとんど近づき難いものにしていた。』(361頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 361頁より》

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首里大名の丘陵

Wana Ridge.

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大砲迫撃砲による砲撃、艦砲射撃空爆・・・目の前の大名峡谷と左手の大名高地を標的にしたわれわれの猛攻は続いた。日本軍の抵抗もすさまじく、戦場のあらゆる人間、あらゆるものに攻撃を加えつづけた。攻勢に出る戦車・歩兵部隊は残らず砲火にさらされた。それでも火炎放射戦車を含む合計30輌の戦車から放たれた砲弾が谷間に炸裂し、大地を焦がした。それからふたたび敵陣めがけて地海空の総力を結集した砲撃・爆撃が仕掛けられ、その轟音と衝撃たるや、静寂という言葉の存在すら忘れてしまうほどだった。われわれはペリリュー島でも相当の修羅場をくぐり抜けてきたが、大名での激闘はその規模といい、継続日数といい、まったく別次元と言ってよかった。耳を聾するわが軍の攻撃は何時間も、何日間も、いつ果てるともなく続いた。日本軍の反撃もやむことはなかった。私はしつこい頭痛に悩まされた。延々と続く砲火の轟きに頭がしびれ、なかば朦朧となってしまう。こんな経験は生まれて初めてだった。

これほどの喧騒と混乱の真っ只中に昼も夜もなく投げ出されて、平気な人間がいるとは思えなかった。それでも、砲声の大部分はわが軍のものだったし、われわれは手ごろな壕にも恵まれていた。日本兵はこんな猛攻にいったいどうやって耐えていたのだろう。彼らはじっと洞窟の奥に立てこもり、こちらの攻撃が小休止するとうじゃうじゃ出てきて、すかさず反撃に転じる。ペリリューのときと同じだった。こちらの戦法としては、砲撃と空爆で洞窟をつぶすか、周到に固められた守備陣形を切り崩すしかなかった。』(366-367頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 366-367頁より》

 

石嶺(いしみね)丘陵

5月19日、日本軍は石嶺丘陵奪回のため、全総力を傾注してくるようにみえた。…日本軍は数回にわたって攻撃してきた。そしてそのたびに、撃退はだんだん難しくなっていた。…1小隊ほどの兵力の日本軍が攻撃してきたが、米軍の迫撃砲や機関銃、および4個砲兵大隊のタイムリーな集中砲撃によって退散させた。しかし、なおも、日本軍の砲弾は落下しつづけ、米軍の損害もしだいに多くなっていった。夜になったら交替をよこすという連絡が、その日の午前中にE中隊のもとにきた。ところが、正午ごろになって、無電はしだいに弱くなり、ついに連絡は不能となってしまった。日はしだいに暮れていった。

救援隊をさし向けるとの連絡はあったが、5月19日の夜、9時ごろになっても、それらしいものは見えなかった。まもなく後方で激しい銃声がした。なにかが起こった証拠だ。夜10時ころ、やっと第306連隊第3大隊のL中隊がきた。うるしを流したような暗闇のなかを、各兵はすばやく陣地を交替した。』(371-372頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 371-372頁より》

 

中央〜東部戦線

コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

『第381連隊第3大隊指揮官ダニエル・A・ノーラン中佐は、5月19日コニカル・ヒルの砲兵陣地を殲滅させるため、ワルシー少尉以下15人の爆破隊を送った。

隊は日が暮れてから、急斜面をよじ登り、 まず手前の機関銃陣地を殲滅したが、そこからはコニカル・ヒル背面の日本軍陣地がまる見えだったので、執拗な日本軍の反撃を巧みに撃退して、ついに陣地を確保した。』(392頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 392頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/14-12-2.jpg

コニカ(円錐型)・ヒル

南部東海岸の与那原を見下ろす円錐型の丘に、迫撃砲や機関銃、砲撃、爆撃による被害が見られる。小さな白い斑点は地上軍が降りしきる雨を避けるためにたこつぼ壕の上に立てた携帯テントである。

CONICAL HILL WAS THE KEY TO SHURI DEFENSES - Conical Hill, overlooking Yonabaru on the east coast of southern Okinawa showing damage caused by Mortar, machine gun and artillery fire and bombing. Small white patches are ground forces pup tents pitched over foxholes to keep out the almost incessant rain.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の動向

52高地: (シュガーローフ)

5月19日那覇北方地区の米軍の攻撃は比較的ゆるやかであったが、52高地が米軍に占領されたため、安里からその西方崇元寺町方面にわたって陣地占領中の独立混成第15聨隊第2大隊は右翼からの攻撃をうけ苦戦に陥り、損害も多くなった。しかし、独立混成第15聨隊の健闘は軍首脳の感嘆するところであった。(日本側の公式戦記: 戦史叢書沖縄方面陸軍作戦より)』(372-373頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 372-373頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail15_img.jpg

沖縄戦の絵】「墓の中に避難」

『昭和20年5月中旬ごろ、那覇市でも米軍の攻撃が激しくなり、糸満市摩文仁に向けて避難した。父、母、それに3歳の弟と、家族4人だった。壕という壕は避難者で溢れていたが、南風原町でようやく横幅5メートルほどの亀甲墓を見つけ、中に入れてもらった。沖縄に伝わる亀甲墓は中に人が入れるほど広い。中では、子どもやお年寄りなど10人ほどが身を寄せ合っていた。しかし半日ほど身を潜めたとき、隣の墓が空から攻撃された。攻撃を恐れて再び墓を出て南に逃げた。墓さえも狙われることに…絶望的な思いを抱いたという。』

墓の中に避難 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

第6海兵師団の元伍長の証言:

『「沖縄では何度も民間人を見ました。私たちが見た民間人は、皆おびえていました。アメリカ軍は残酷で女性は強姦して殺す、といった噂があったようです。ある時、2人の女性と遭遇したのですが、2人は目の前で手首と喉を自ら切って自殺しましたものすごく苦しんで死んでいきました。でもどうすることもできませんでした。私たちは、民間人を傷つけず保護する方針で上官からも厳しく言われていたのに、なぜあんなことをしたのか、全く理解できませんでした」』(100-101頁)

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 100-101頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/122593.jpg

怪我をした地元女性を前線から離れたところへ案内する海兵隊員。狙撃兵が攻撃を続ける中、ひどいぬかるみを通り抜けての案内。また、前景に見えるのは、前線へ向かう兵隊(1945年 5月19日)

Marine guiding a wounded native woman back to the rear of our lines, thru terrific mud and under continued sniper fire. Also shown in foreground are troops moving up to the front.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年5月19日