1945年 6月6日 『沖縄県民の実情』

南進する米軍

西部戦線

小禄(おろく)半島

『第1海兵師団は、どうやら泥から解放され、6月6日には小禄半島のふもとを通って、道のりの半分ほどまできていた。これは、2つの軍団のあいだのギャップを埋めることにはなったが、同時にその西翼をさらけだすことにもなった。

第6海兵師団長のシェファード少将は、軍団予備軍の第22海兵連隊を前線につけ、半島のふもとを横切る線を確立するため南に送った。これは師団の一部が小禄の日本軍を背後から攻めることになる。シェファード少将は、日本軍のたてこもっている丘を攻めるのに最も理想的な進撃路は、南および南東から進むことだと考え、第22海兵連隊に北西部に偵察隊を出すと同時に、そこに進撃せよとの命令を下した。

第4海兵連隊は、第22海兵連隊戦線の左を攻撃せよという命令をうけた。こうして、3連隊がそれぞれの任務を与えられて戦闘に従事し、師団としてはひきつづいて豊見城の高台付近にいる日本軍を制圧すべく、じわりじわり包囲線をせばめていくことに専念することができたわけである。

日本軍の防衛線には、手薄なところというのはなかった。海兵隊が進めば進むほど、それは機関銃や20ミリ、40ミリの高角砲に向かって進むようなもので、遅々として渉らなかった。これは小禄ではどの戦線でも同じことで、第4海兵連隊も、第22海兵連隊も、同様に熾烈な砲火をあびていた。』(462-463頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 462-463頁より》

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/img/USMC-V-p317a.jpg

6TH DIVISION MARINES land on Oroku Peninsula. Note the medium tank with flotation gear.

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/USMC-V-II-9.html

 

中央〜東部戦線

八重瀬(やえじゅ・やえせ)

『米軍部隊は、各自に偵察隊を出したが、その一つが日本軍の戦線のかなり奥深く侵入して、日本軍の最後の防衛陣地の地形や火器兵力についての詳しい情報をもってきた。八重瀬岳のいちばん近くにいたのが第381歩兵連隊で、最初に攻撃を試みたが、まっさきに撃退された。八重瀬岳の西側に段々上りになっているところがあった。

連隊長ミッチェル・E・ハロラン大佐は、第1大隊に、この地区一帯に対して偵察攻撃を行い、もしできるなら、丘陵の下を確保せよと命令を下した。この平地を確保すれば、八重瀬岳を西から攻撃することができるし、また日本軍のもっとも強固な砦をも攻撃することができたのである。

6月6日の朝大隊長のU・H・トンプソン少佐は、与那城から逃げ腰の日本軍を破竹の勢いで退去させると、ジューン・E・バイヤーズ大尉指揮下のB中隊をして八重瀬岳一帯のかべに当たらせてみた。3個分隊からなる偵察隊が機関銃の弾幕のもとにしのびこんでいったが、機関銃陣地は撃滅しようにも、手榴弾も届かないほど洞窟の奥深くに据えられているので、撃滅することができない。それでもB中隊は、丘陵のあいだにある平地にやっとたどりつき、しばらくすると、残りの兵もようやく集まってきた。そこでトンプソン大隊長は、C中隊に対して、前進してB中隊の左につくように命令を下した。』(468頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 468頁より》

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YAEJU-DAKE was brought under American artillery fire shortly before the infantry attempted its first advance to the escarpment. Burst at upper left is white phosphorus.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

『時はすでに昼さがりだが、沖縄島最大の丘陵に対する第1回の侵入攻撃には、いささか成功の兆しがみえてきた。C中隊は、水田のあぜ道をとおって崖の下のほうにむかって進撃し、B中隊はけわしい坂を登って丘陵の中程にある平坦な場所をめざして進んで行った。この進撃は、日本軍が引き延ばし戦術に出るべく用意した前線を越え、牛島中将が〝全力を結集して〟米軍を撃滅し、米軍に最大の被害を与えるべく麾下に命令を下していたその地区まで入り込んでいたのである。

「この目的完遂のため、陣地は最後の一兵まで死守すべし、もちろん退却は許されない」これが、牛島中将がこの陣地の防衛にあたって将兵に与えた訓示であった。日本軍は、米軍の両中隊が予定された射程内に入ってくるまで、辛抱強く待った。そして射程内に入るやいなや、機関銃や20ミリ砲を轟然と発砲した。その銃弾の流れは米軍の両中隊に対して、ひもを通すように飛んできた。両中隊は日本軍の罠に落ちたかに見えた。しかし、トンプソン少佐は、ただちに退却を命じ、砲兵隊の10個大隊に対して煙幕弾を投下するよう連絡をとった。だが、それでもまだ不十分だったようで、多くの兵隊がその場に釘づけとなり、日が暮れてからしか帰ってこなかった。

この日、C中隊の戦死は5人、負傷者も5人出た。B中隊の損害は、43人が戦死、14人が行方不明となった。そして、この行方不明のうち4人が死亡、2人が翌朝帰隊し、残りの8人は日本軍前線の後方に取り残されてしまった。この取り残された兵のうち3人は、その後、友軍の弾丸や、日本軍の弾丸にあたって死亡し、残りの5人は、日本軍の前線にかくれて、ついに6月14日の朝になるまでそこにひそんでいた。』(468-470頁)

『トンプソン少将の率いる第1大隊では、6月6日、ただちにB中隊とC中隊を偵察攻撃隊として派遣し、部隊は…山あいのところに到着した。だが、そこにも日本軍は砲弾をこしらえて米軍のくるのを待っていた。米軍はここでたちまち猛烈な砲火にあい、せっかくこれまで奪った土地も、煙幕を張って退却さぜるをえなくなった。

第1大隊のこの進撃は不成功に終わった。』(478頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 468-470、478頁より》

 

 

第32軍の動向

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

6日は朝から、梅雨の晴れ間になった。それは米軍機の行動を容易にし、艦砲射撃の精度を高めた。北側の最前線は半島のほぼ中央部まで押し上げられ、わずか15平方キロの半島は彼我入り乱れての死闘となった。

沖根司令部が戦闘指揮所として使っていた宇栄原の「羽田山」(元・護部隊本部)も、米軍戦車の「馬乗り攻撃」を受ける切迫した戦況となり、司令官と幕僚は同夜、豊見城74高地の元の司令部に戻る。』(422頁)

6月6日、米軍は小禄飛行場と周辺の海岸線を完全に制覇、戦線は豊見城の沖根司令部を中心に直径約4キロの小さな円に圧縮された。』(426頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 426頁より》

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海軍司令部壕(大田司令官)のある小禄半島東部豊見城地域の高地眺望。この壕は、兵員室、司令官室、作戦室、厨房等、さらに、電気や水道を備えていた。

A view of the hill in the Tomigusuki area, eastern Oroku Peninsula, which housed Admiral Ota's elaborate cave. This cave contained barracks, quarters, operations rooms, galley, etc. It also had electric lights and running water.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

6日は早朝から天候が回復した。5日に引き続き米軍の攻撃はこの日も活発であった。米軍は次々と馬乗り攻撃をかけ、各壕を撃破した。事態は緊迫していた。6日の夕方、大田司令官は、小禄地区の陥落はもはや時間の問題と判断して、…訣別電を発した。

戦況は切迫せり。小官の報告は本電をもってひとまず終止符を打つべき時機に到達したものと判断する。御了承ありたし」

…大田司令官は6日夜豊見城の沖縄方面根拠地隊司令部に指揮所を移動した。また、同日の戦況を次のように報告した。

(1) 明治橋完成後、敵兵力の移動物資の輸送は盛んである。ただし、いまだに戦車の通過するのはみられない。

(2) 朝から赤嶺金城小禄部落に対する重圧は激しくなり、一部兵力は小禄西部高地に侵入したが、一応撃退した。しかし夕刻さらに兵力を増加して約100名が侵入した。この敵に対し午後10時から反撃を敢行して、7日の午前2時30分に奪回した。

(3) 赤嶺陣地には約300名の攻撃があったため、一時は馬乗り攻撃をうけて危機にひんしたが、友軍の迫撃砲、機銃の連繋がよかったためただちに撃退できた。

(4) 当間西方に約200名の敵兵が迫撃砲陣地を構築中で、一部には戦車の動きも見られるが戦況は活発でない。

(5) 根差部高安方面の戦線には著しい変化はない。

(6) 各部隊から報告してきた6日中の総合戦果は、戦車1擱坐、車輌1破壊、人員殺傷約120名である。報告未着もあるのでこの戦果はさらに増大する見込である。

さらに同日の夜海軍次官あて別記の「沖縄県民かく戦えり。・・・県民に対し後世特別の御高配を賜わらんことを」の電報を打った。』(106-108頁)

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 106-108頁より》

http://kaigungou.ocvb.or.jp/img/shiryokan/denbun04.gif

以下、原文を現代文に直したもの

『昭和20年6月6日 20時16分

次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、 私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。

沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、 県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人子供女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家財産を焼かれわずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。

しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ看護婦炊飯婦はもとより、防弾運び切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。

看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕物資の節約をしいられご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。

沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。

沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。』(旧海軍司令部壕資料館)

旧海軍司令部壕 [資料館]

 

 

そのとき、住民は・・・

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 【沖縄戦の絵】「艦砲射撃で死んだ家族たち」

『昭和20年5月、…家族・親せき10人あまりで南城市玉城の自宅近くの壕に避難していたが、日本軍の兵士に出て行くよう命じられた。その1か月後の6月6日糸満市真栄平あたりでのこと。家族たちは岩陰に隠れていた。父と叔父は今後の避難場所を話し合い、…自身は少し離れたところで、いとこと2人で壕を掘っていた。その30分後。耳をつんざくような大きな音と爆風があがった。…見た光景は、岩陰にいた家族・親せきの変わり果てた姿だった。大半が即死状態。芋を洗っていた姉も死んでいた。母に抱かれていた2歳の弟はまだ動いていたが、抱き上げるとしばらくけいれんした後、息を引き取った。重傷を負った父も数日後に死亡。…そして生き残ったいとこと叔父とともに、その場に穴を掘り家族を埋葬した。』

艦砲射撃で死んだ家族たち | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

宜野座(ぎのざ)初等学校 ④: 設立者の体験談

沖縄本島北部、宜野座の収容所で学校が設置されることになり、6月2日、教職の経験があった民間人捕虜が呼び出され、設置と運営を任されることになり、着々と開校の準備を進めていた。いよいよ、開校日を迎えた。

6月6日今日は宜野座初等学校開校の日である午前9時開校式挙行。米軍将校、ニコルセン少佐、ベンバアルド大尉、ワルチ中尉、サルベン中尉、その他天幕部長並に各天幕班長、父兄等約500人が出席、型通りの式がすむ。子供たちの顔は心なしか晴ればれしている。父兄は涙ぐんでいる。私は父兄に対して一応の挨拶をするのに危く涙を見せるのを心配した。米軍の保護を受け、学校に児童を収容することになったこと、本の上での勉強よりも、子供の健康に気をつけ、恐怖に戦く幼な心を元気で明るい童心にかえして上げたい念願であることを心に誓いつつ語った。

6月2日からここまでは学校日誌によるものであるが、日本軍は必ず勝つと信じていた私は、終戦前に学校を開設して米軍に協力したということになり、後日日本軍の軍法会議で証言することを予想していたので、自分の毎日の行動について、具体的に学校日誌に書き続けることにしたのであった。』(120頁)

《「忘られぬ体験 市民の戦時・戦後記録 第二集」(那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会/那覇市史編集室内) 120頁より》

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米軍政府管理下で再開した学校で授業をする沖縄人教師(撮影地:宜野座

Okinawan school teacher holds class as school resumes activity under AMG supervision.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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