〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年4月19日『米軍の総攻撃「耕す戦法」』

強力なロジスティクス / ナパーム弾と火炎放射装甲車の導入 / 焼け落ちる首里と与那原 / 米軍の総攻撃 / 置き去りの学徒 / 急造爆雷

 

米軍の動向

 

強力なロジスティクス

14日から19日にかけ嘉数の防衛線は大きく動くことはなかったが、米軍後方では絶え間なく補給 (ロジスティクス) が動いていた。海を埋める膨大な艦船。

「この戦争は90%がロジスティクスで、あとの10%が戦闘だ」

US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 8]

f:id:neverforget1945:20210418023810p:plain

Okinawa Beachhead. 沖縄橋頭 (1945年 4月19日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20200317140539p:plain

The Power and the Glory. 権力と栄光/上陸2日目、沖縄の海に沈む夕日 1945年 4月19日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

伊江島の戦い

4月16日伊江島に上陸した米軍は4月18日に城山を包囲する。

米軍は伊江島の高台を奪るため、白兵戦につぐ白兵戦で血みどろの戦闘をくり返し、日本軍の陣地を一つ一つ攻撃し、日本軍は高台から迫撃砲や機関銃で応戦した。これまでにない激しい戦闘となった。… 4月19日の朝、 米軍は、半時間の予備砲撃で硝煙まだ消えやらぬ午前9時零分、3個大隊がいっせいに攻撃を開始した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 160-164頁より》

伊江島攻略図(1945年4月19日)

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

ブルース少将は戦局の行き詰まりを打開しようと決意した。4月19日、将軍は海軍の管制ボートに乗って、伊江島東海岸の沖に出た。そこを行きつもどりつ、島の城山を東側から接近する方法を探した。… その結果、彼は城山攻撃に最も適した地点は城山の北部と東部であるとの結論を下した。そこで4月20日の攻撃では、主力を城山南部にいる第307歩兵連隊から、北部のほうにいる第306連隊のほうに移し、師団全体として城山の包囲陣を固めることになった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 168頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p168.jpg

日本軍の防衛陣地を表した図
IE SHIMA -- Typical Defense Position On Face of Iegusugu Pinnacle

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

16日からの上陸で伊江島の日本軍は東西に分断。島の西側に取り残された部隊は、本部半島などから召集された防衛隊員約800人 (第502特設警備工兵隊) で、夜襲を続け19日夜に実質的に解散した際には200人ほどしかいなかった。

主な任務は飛行場の整備、保守だったから装備も十分でなく、各中隊に小銃約10丁、てき弾筒各1、それに大隊全部で軽機関銃が2丁だけ。あとは手投げ弾と竹ヤリが武器のすべてだった。

琉球新報『戦禍を掘る』 伊江島の防衛隊 ~ 第502特設警備工兵隊 - Battle of Okinawa

 

「耕す戦法」- 6時40分、米軍の総攻撃開始

沖縄の地形が変わるほどの熾烈な砲撃「耕す戦法」

f:id:neverforget1945:20200316055705p:plain

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 8]

八原高級参謀の回想:

昼間敵が鉄量にもの言わせ、戦車を先頭に強引にわが陣地に侵入すれば、我は夜間手榴弾をもって逆襲し、これを撃退する。敵が昼間二歩前進すれば、我は夜間一歩前進する。結局我はわずかではあるが、歩一歩後退の余儀ない戦闘の継続である。

我々はアメリカ軍の攻撃法を「耕す戦法」と称した。それは、敵がその前進地域を無尽蔵に近い鉄量をもって田畑を耕す如く掘り返し、地上一切の物の存在を許さぬ如く清掃した後、前進するからだ。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 222頁より》

強固な塹壕で防御をかためる日本軍に対し、米軍は新たにナパーム弾や火炎放射装甲車を導入し、総攻撃を再開した。

ホッジ将軍は、洞窟内の日本軍を駆り出すためには「一寸刻みに爆破するしかない」と4月19日午前6時40分を期して全部隊に空、海、陸からの「耕し戦法」による総攻撃を命じた。陸続と増援部隊も派遣され、沖縄作戦で最大規模の650機にも及ぶ米機が与那原から稲嶺首里にかけて、ナパーム弾やロケット弾を浴びせて一帯を焼野が原にした。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 115頁より》

第24軍団と師団砲兵27個大隊の150ミリ砲から200ミリ曲射砲にいたる全320門の砲が、午前6時零分、いっせいに第一回の砲口を開いた。轟音は千個の雷が一時に落ちたかのようにとどろき、島中を震わせた。この集中砲撃で平均1.5キロ四方に75発の砲弾が落ち、しかも、前線が東から西へ移動するにつれて、ますます激しくなっていった。… 午前6時30分、砲兵隊は日本軍の前線を乱すために10分間攻撃を加え、合計1万9千発の砲弾を日本軍の前線に撃ち込んだ。こうして午前6時40分、砲兵は前線攻撃をやめ、目標を後方地域に向けた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 195頁》

この日、激しい砲撃音は遠く大東島まで届いたという。

四月十九日 西海岸沖方面 (沖縄本島方面)で艦砲の音が終日雷鳴の如く漸く

沖縄戦証言 大東島 - Battle of Okinawa

 

ナパーム弾と火炎放射装甲車の導入

日本軍の堅固な陣地に対処するため、この日はじめて、米軍は火炎放射装甲車31車輛沖縄戦に導入し、3,500ガロンのナパームを Rocky Crags (千原: 142高地)  などで使用した。またナパーム弾も導入した。

千原 (Rocky Crags) に現れた米軍の火炎放射装甲車。沖縄公文書館所蔵の記録動画でご覧ください。

米軍は1945年4月19日、日本軍第1防衛線への総攻撃に転じた。最大規模の航空機650機で爆弾やナパーム弾、ロケット弾による空爆を徹底のうえ、海上の戦艦、重巡洋艦駆逐艦各6隻から猛烈な艦砲射撃を浴びせた。… 地上では324門の火砲および戦車30輌に加えこの日、沖縄戦に初めて火炎放射装甲車を投入した。ガソリンとナパームを混合の炎は、70メートルないし110メートル先まで届く。

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 111頁より》

米国海兵隊: Marines moving up behind flame throwing tank on Okinawa. 火炎放射戦車の後方につきながら、前線へ移動する海兵隊員。1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

瓦礫となった首里

午前9時までに与那原を襲った米軍機は67機で、まき散らすようにナパーム弾を投下し、地上のありとあらゆるものを焼きつくした。… 首里は139機の大空襲をうけ、500年の歴史が石垣のくずれるごとくくずれ去った。… このほか、米軍は、第5艦隊の戦艦6隻、巡洋艦6隻、駆逐艦6隻が、空陸からの攻撃に加えて、艦砲射撃を行なった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 194頁》

大きな柱が何本もくすぶっていたのが印象に残っている。

1945年4月20日、首里城焼失 ~ 琉球新報「首里城地下の沖縄戦」(1992年6月24日) - Battle of Okinawa

焼きつくされた与那原

米軍は陣地攻撃の前に必ず大規模な砲撃・爆撃をおこなった。空母や北・中飛行場から飛びたった米機は通常爆弾だけでなく、ナパーム弾を投下し、ロケット弾をうちこみ、銃撃した。4月19日、ナパーム弾攻撃をうけた与那原は一瞬にして焼きつくされ、長い歴史をもつ首里も爆撃で一日にしてガレキと化した。

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 82頁より》

 

中部戦線 - 米軍の総攻撃

第1線: 宇地泊ー牧港ー嘉数ー我如古ー南上原ー和宇慶

装甲車やナパーム弾を十分補給した米軍は、南部戦線の総攻撃を開始する。

伊江島で同島守備隊が城山に立てこもって必死の抵抗をしていたとき、中部戦線の守備軍主力は、怒濤のように押しかけてきた米軍にたいし、嘉数や西原の丘陵地帯首里の攻防をかけて死闘を展開していた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 114頁より》

f:id:neverforget1945:20190417144742p:plain

4月1日に本島へ上陸し、南下したアメリカ軍ですが、首里の司令部に近づくにつれ、沖縄守備軍の抵抗が激しくなり、大謝名、我如古、和宇慶ラインで停滞。そのため、アメリカ軍は、兵力・兵器を補給し、陸・海・空からの総攻撃を計画します

・・・4月19日午前6時。324門の大砲が一斉に攻撃を開始。空からはのべ650機にも及ぶ飛行機から空爆、海からは艦砲射撃で攻撃します。中でも、首里防衛線の要となっていた嘉数高地一帯では、最も激しい戦闘が繰り広げられました。

アメリカ軍はこの日、沖縄戦で初めて火炎放射器 (註・正確には火炎放射装甲車) を投入。一気に嘉数高地を占領するつもりでいましたが、手前には深い渓谷があり、そこに守備隊は狙いを定めて攻撃し、アメリカ軍の進攻を阻みます。特にアメリカ軍が恐れたのは、歩兵が爆薬の箱を持って戦車に体当たりするという特攻攻撃で、沖縄戦で最多となる戦車を破壊しました。

地獄のような攻防を繰り広げたこの日、結局、アメリカ軍はわずかに戦線を進めただけで、守備隊はほとんどの陣地を死守。しかし、嘉数高地ではこのあと5日間、激しい戦いが続けられるのでした。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月19日

… 米軍は1個師団(第27師団)を増加、十分に準備を整えたうえで4月19日、牧港ー嘉数ー和宇慶の線に総攻撃を開始した。増援された第27師団が新たに西海岸道(牧港)と中街道西側(嘉数)を戦力を消耗した第96師団が中街道東側(西原ー棚原)を、第7師団はひきつづき東海岸道(和宇慶)を突破しようとした。

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 81頁より》 

f:id:neverforget1945:20200316181408p:plain

先を行く前線部隊を目指して進む米陸軍戦車(1945年4月19日撮影)

U.S. Army tanks rumble toward the fast moving front lines on Okinawa in Ryukyus.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

牧港のベイリーブリッジ

第27師団は4月18日の夜から19日にかけて、攻撃部隊が夜のうちに渡河できる歩道橋、ベイリーブリッジとポンツーン浮橋の建設を行なっていた。

第106歩兵連隊の進撃は真夜中にはじまった。兵が夜通し河の流れのようにぞくぞくこの橋を渡って行った。日本軍の方からは何の反撃もなかった。…1号線道路が浦添丘陵と交差している地点まで静かに進出した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 193頁より》

f:id:neverforget1945:20200316182210p:plain

米陸軍工兵隊が牧港の入江に架けた歩行橋

OPENING ACTION, 19 APRIL, was the crossing of Machinato Inlet on footbridge in the early morning.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 8]

もう夜は明け、日はさんさんと輝いていた。

丘陵と1号線道路交差点付近で、日本兵が焚き火をかこんで朝食の準備をしていた。米軍はただちに砲火を開いた。日本兵は数名が倒れ、他の兵隊は銃をすてて岩かげにかくれた。いまや彼らは、米軍が来たのを知ったのだ。まもなく砲弾がハイウェーを進軍中のF中隊の方に落ちはじめた。米軍は日本軍陣地に深く接近し、30分にわたって激しい応戦がくりひろげられたが、ついに日本軍は、南の方へ後退した。第106連隊は、浦添村北西端に陣地を構え、それを強化していった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 193-194頁》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/329081.jpg

Blitz, Army patrol dog with E Company, 106th Infantry, 27th Division, was an aid in taking Machinato town in Southern Okinawa. He is with his trainer, left, Cpl. George Stuber, Euclid, Ohio, and his handler, Cpl. J. Herinck, Banks, Oregon. 牧港攻略を補助した第27師団第106歩兵部隊E中隊の陸軍パトロール犬。一緒にいるのは訓練士のスタバー伍長(左)と調教師のヘリンク伍長。(1945年4月19日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

嘉数の戦い - 日本軍の反斜面陣地

嘉数高地の反斜面陣地が米軍の戦車を襲撃する。

嘉数では、表に出ること自体、死か負傷を意味した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 203、204頁》

f:id:neverforget1945:20210418030055p:plain

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/USA-P-Okinawa-8.html

反斜面陣地 (reverse slope defense) とは

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/neverforget1945/20240407/20240407201120.png

米軍を苦しめ激戦地となった反斜面陣地は、簡単に言うと、丘陵の反対側に陣地を築く。低地を通過、あるいは丘陵を登って前進してくる敵は、常にこちらの陣地が見えない。こちらからは常に敵の動きが見え、攻撃できる。攻撃されても、後退し壕に隠れることができる。

第32軍 (沖縄守備隊) 首里の攻防ライン ~ 「反斜面陣地」とは - Battle of Okinawa

… 午前7時30分…に峡谷をめざして進撃を開始した。8時23分、部隊先頭は、嘉数高地からおよそ200メートル離れた峡谷付近にある小高い丘のうえに陣取った。ここから前面の広場へ進撃しようとしたとき、日本軍の機関銃や野砲が近くの陣地から砲撃を開始した。この一時の砲撃で米軍は多数の犠牲者を出し、その後も犠牲者の数はふえる一方だった。広場にいた米軍はそのまま釘づけにされ、後方の部隊との連絡もたたれた。嘉数の山頂や西部スロープの日本軍陣地では機関銃が真っ赤に火を吐いていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 203、204-205頁より》

午前8時30分、… 火炎放射器を装備した自動操縦戦車も加え、全戦車30輌が、日本軍陣地の主力に強力な攻撃を加えようとこの台地に集結したのである。

戦車隊が列をつくって進撃しているとき、西原丘陵の陣地から、日本軍の47ミリ対戦車砲が猛攻撃を加えてきた。敵弾は16発が発射されたが、米軍は一発も撃ち返せずに戦車4輌を撃破されてしまった。

米軍戦車隊は、空中写真でかすかに写っていた嘉数への道を求めて南へ急いだ。だが、この道はみつからず、ここでもまた戦車1輌が、日本軍の対戦車砲にやられた。そこでまた進路をかえて…さらに南進したが、ここでも道をまちがえ、…戦車は引きかえし、主要道路まで出て、そこで正しい道を発見し、午前10時すぎ、どうにか嘉数まで到着することができた。村落を取り巻き、ときには中に進撃して火炎放射器で火を放ち、日本軍陣地を破壊した。こうして嘉数は、3時間で完全に撃滅され、燃えつくされた。だが、米軍の被害も大きかった。とくに村落に入るときが激戦で、… 戦車14輌がやられた。その多くは敷設地雷や47ミリ対戦車砲にやられたものだが、なかには、重砲や野砲で擱座させられたのもあり、また日本軍が爆薬箱を持って接近攻撃法をこころみ、爆薬もろとも戦車に体当たりし、自爆をとげるという特攻にやられて撃破された戦車も多かった。… 嘉数-西原戦線でも10キロ爆弾をかかえた〝自爆攻撃兵〟によって、日中に6輌が撃破された。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 204-206頁より》

戦車は無限軌道をやられ、動けなくなっても、中の搭乗員はなんでもないのがふつうだった。だが、日本軍は戦車を擱座させてからなだれこみ、天蓋をあけて手榴弾投げこんだ。こうして多くの戦車が破壊され、また搭乗員も殺されたのである。(206-207頁) … 午後1時30分、いまや米軍歩兵が来るのぞみはすっかり断たれ、戦車隊は、もとの線まで後退するよう命令をうけた。朝、嘉数高地に出撃した30輌の米軍戦車のうち、午後もとの位置に帰ってきたのはわずか8輌であった。(207頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 》

我如古・浦添村西原

 宜野湾村我如古村落の前面にいた第382連隊第2大隊は、午前6時40分、進撃を開始した。間もなく前方にあるひくい連丘を占領したが、… 小銃や迫撃砲で日本軍が激しく撃ちまくってきたので米軍の被害も大きかった。… あるところでは小さな道のそばにあった壕の中から、一人の日本人が飛び出し、奇声を発しながら米軍1分隊の先頭にあった戦車めがけて爆薬箱を抱えて飛びこんできた。轟音もろともひっくり返った戦車は、… 倒れざま日本軍の防空壕入口をふさいでしまった。… うまいぐあいに壕が塞がれ、他の戦車が攻撃をうける心配もなくなった。… 師団左翼はおよそ800メートルほど進撃することができた。… 第381歩兵連隊第1大隊は、我如古北方の位置から村落の西部を通過して進撃して行ったが、村落にさしかかったとき、我如古南東部の日本軍から機関銃掃射をうけた。…ちょうど墓地のある丘の近くにいたため、頭上からまともに機関銃に狙い撃ちされ、夕暮れまで進みも退きもできなくなってしまった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 199-201頁より》

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p199b.jpg

men of the 1st Battalion, 381st Infantry, bend low as they run through burning ruins of western Kaniku, 19 April.

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/USA-P-Okinawa-8.html

この日、西原丘陵前にいた第381連隊に落ちた81ミリ砲弾は、およそ2200発といわれ、午後5時までに第3大隊の損害は16名の戦死もふくめて85名の戦死傷という大損害をこうむった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 204頁》

千原 (せんばる)

米軍第7師団は、4月19日西原村千原のロッキークラグ(岩山)に攻撃を試みたが、ここには日本軍の堅固な陣地が控えていた。… 陣地は、200メートルほど東方の高台に機関銃をすえ、南東は178高地(上原)、南は棚原丘陵、西は高台に長距離機関銃と迫撃砲で防衛戦を張っていたが、千原高地それ自体は、洞窟やトンネルで蜂の巣のように縦横に壕を通してあった。(249頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 249頁より》

和宇慶 (わうけ)

中城方面から南下してきた米第7師団は、東海岸からすぐ後方の高地にまたがる線に陣取っていた日本軍の独立歩兵第11大隊と直面した。米第7師団は、第32歩兵連隊を左翼につけて和宇慶から丘陵地帯の南上原付近に、さらに第184連隊を右翼にして、千原-長田付近に展開させていた。

…中型戦車2輌と火炎放射器を装備した装甲車3輌が第7師団の戦列を離れ、東海岸の平地をころがるように南のほうへ走り、やがて和宇慶を通過、稜線地帯の先端に止まって、すばやく陣取った。そこからは、丘のふもとにある墓地にたてこもった日本軍やその陣地が見える。この陣地めがけて戦車砲装甲車の火炎放射器がいっせいに火を吹いた。

長いオレンジ色の炎がおをひいて、陣地前面にあたったかと思うと、真っ黒い煙が渦をなして空高く舞いあがった。一面めらめらと燃え、渇ききったきび畑や墓のなかでこの火炎放射をまともにうけた日本兵は、まったくあっと驚きの声をあげるまもなく死んでいった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 196-197頁》

f:id:neverforget1945:20170421213908p:plain

米軍戦車や装甲車の火炎放射器で、丘陵の表に出ていた日本兵はほとんどやられたが、裏側にいた兵は米軍の進撃を阻止すべく反撃し、頂上を征服するのはなかなか困難だった。ここで日米の熾烈な歩兵戦がくりかえされ、… 彼我の猛烈な攻防戦が展開された。米軍は、日本軍の反撃にあい、前面の山腹にしがみつき、死物狂いに戦ったが、相手もまた死物狂いで、砲撃と突撃を同時に行なったため、爆薬箱を抱え、手榴弾を手にして、米軍めがけて突っ込んできた日本兵が、後方から撃ち出した友軍の砲弾に当たって、戦死する光景も見られた。

和宇慶高地につづくスロープを登っていた米軍は、500メートル進撃する間に一発の敵弾も受けなかったが、その後、突然、日本軍が待機していた地点にさしかかると、米軍に対して、迫撃砲や機関銃で、いっせいにダダダッと掃射してきた。米軍部隊はここで進撃をストップし、ただちにこれに応戦した。

この日は一日中、米軍は進撃できなかった。そして、午後4時20分、米軍はついにもとの位置に退却せざるを得なくなった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 197頁》 

米軍は、歩兵隊の進撃前に大量の砲弾を撃ち込んで日本軍の陣地を破壊したが、実際は、どの進撃部隊においても苦戦を強いられ立往生する部隊もあり、この日、米軍としてはほとんど前進できず、もとの位置に退却せざるを得なくなった。

  

第32軍の動向

北部戦線 - 置きざりの学徒兵

本部半島: 国頭支隊 (宇土大佐) の敗走

布陣していた八重岳が米軍に占領され、4月16日に撤退を初めて以降、日本兵や学徒らは多野岳を目指して山中を歩き続けていた。慰安婦を連れ退却する宇土部隊の姿が多く住民に目撃されている。記録は「学徒や防衛隊員が勝手に行動し、隊列を抜けた」という。

19日、朝、呉我山の山中に昼を過ごした隊列は、再び行動を起こしたが、途中鉄血勤皇隊や護郷隊の木下隊は、勝手に行動を開始し、隊列から抜けた。古我知の山中にはいると、ー「薬草園」を突破しようー と称して、なかなかゆずらぬ将校達の群れの中にあって、当惑した中島大尉が、マントで  袖びょうぶをして、マッチを摺り、しきりと地図を案じた。その時、名護出身の将校が「地形は俺の方が詳しいから、コースを決めるのは、俺に任せろ」と言い、それで道をビーマタにとった。隊列が闇の中をビーマタと覚しい地点に差しかかると、突然、前方の暗闇から、激しい機関銃音が湧き起こり、不意を衝かれた隊列は、敵弾に晒されて右往左往した。隊列はそのためまた後方へ逆戻りしなければならなかった。ビーマタには、米軍が陣地を造って駐屯していた

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 305-306頁より》

しかし、農林の学徒たちは読谷(4月2日)に続き、真部山や八重岳でも日本軍に置き去りにされていた。

日本軍は行方知れずになっていたのである。大城さんは言う。「あとで知ったことですが、日本軍は既に真部山から八重岳方面に退却していたのです。結局、農林生たちのことは見捨てたというわけです。死んでもここを守れ、と言われた言葉を信じてその気になっていたのに…。手投げ弾を与えられ、米軍を目いっぱい引き付けてから投げるんだよと教えられたばかりで、裏切られた気持ちでした」… この真部山で数人の農林生が戦死した。…

… 「八重岳には自分たちを見捨てていった日本軍の部隊がいましてね。食糧がたくさんありました。生徒たちはもう目を輝かせて缶詰などにありつこうとしたら、軍隊は分けてくれない。退却する日になって缶詰は捨て去られることになったんですが、それでも食べることは許されない。どうせ捨てるものなのに何でくれないのかなあ、とつくづく非情に思いましたよ」

農林鉄血勤皇隊 見捨てられた学徒隊 - Battle of Okinawa

また三中の学徒たちの証言は以下のようである。

本部前への集合命令があり、行ってみると数百人の兵隊の前で宇土支隊長は期待に反することを言う。「幾多の兵を失い、座して待つより、多野岳に撤退して再起を図る」。次の言葉はさらにショックを与えた。「歩ける者は歩き、重傷者は置いとけ。主計と学生も残れ。命令に従わない者は斬る

すでに指揮官を失い、兵はバラバラ、少年たちだけが取り残されたようになっていたが、そのうえ敵が目前に迫っている場所に置き去りにしようとしている。命令通りにすれば米軍の銃弾にやられる。そむけば命令違反で斬られる ― 途方に暮れた。木の下でぼう然としたまま、隊列を整え去っていく兵隊らを見送らなければならなかった。

三中通信隊暗号班 ~ 敵前に置きざりにされた宇土部隊の学徒たち - Battle of Okinawa

米軍は沖縄島の北部地域を制圧した後、掃討戦を展開した。

f:id:neverforget1945:20200317134245p:plain

Shots of a 105mm. artillery battalion of Major general L. Shepard's 6th Marine Division in action firing at Nips in the background.後方の日本軍を砲撃している、シェパード少将率いる第6海兵師団の105ミリ砲兵大隊(1945年4月19日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

斬りこみ作戦

日本軍は米軍戦車に対して地雷速射砲、急造爆雷を用い、22輌を破壊した。急造爆雷は導火線の発火方式と、信号方式とがあった。信管を靴の底にある鋲で叩き、または信管に紐を取り付け手首に巻き、爆雷を敵の戦車に投げると紐が張りつめ爆発する。《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 111頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p90d.jpg

日本軍の手製爆雷(急造爆雷

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 4]

「斬り込み隊」という自爆攻撃の運命。

独立速射砲第22大隊兵士の証言:

4月19日、牧港付近も占領された。伝令があった。わが中隊は、緊張感と闘志が燃えあがった。敵軍はひしひしとわが陣地に迫ってくる。夜となく、昼となく応戦、また夜間は斬り込み隊を編成して敵陣に斬り込むが、全員戦死で帰っては来なかった。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記/戦時編」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 566頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/118804.jpg

Two dead nips that tried to invade an artillery CP and were shot down by the artillery men--this is rare for the artillery men for most of the Japs they kill (1200 in one night) are too far away to be seen. 砲兵隊指揮所に侵入を試みて射殺された日本兵。砲兵隊は一晩に1200人もの日本人を殺しているが、このように間近で撃つのは稀(1945年4月19日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

破壊と死

f:id:neverforget1945:20200317140239p:plain

Kadena village on Okinawa in the Ryukyus demolished by naval gunfire. 艦砲射撃で被害を受けた嘉手納村 1945年4月19日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 収容所

No Picnic 米軍政府管理下の捕虜収容所で肩を寄せ合い配給を食べる民間人(1945年4月19日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20200317135125p:plain

Strange Taxi 水陸両用車で捕虜収容所へ運ばれる民間人(1945年4月19日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■