1945年 4月19日『米軍の総攻撃「耕す戦法」』

米軍の動向

周辺離島の制圧

伊江島(いえじま)

『米軍は伊江島の高台を奪るため、白兵戦につぐ白兵戦で血みどろの戦闘をくり返し、日本軍の陣地を一つ一つ攻撃し、日本軍は高台から迫撃砲や機関銃で応戦した。これまでにない激しい戦闘となった。』(164頁)

4月19日の朝、 米軍は、半時間の予備砲撃で硝煙まだ消えやらぬ午前9時零分、3個大隊がいっせいに攻撃を開始した。第305歩兵連隊の第3大隊は、東方に進出して町の北部まで進撃し、第307連隊の第2、第3大隊は、西江前ー東江前陸正面稜線南の陣地から村落北方と東方を攻撃した。この両大隊の第305連隊第1大隊の81ミリ砲、重機関銃が、集中攻撃を加えているうちに第307連隊砲兵隊も前進する攻撃部隊のために猛烈な砲撃を浴びせた。』(160-161頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 160-161、164頁より》

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伊江島攻略図(1945年4月19日)

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

『…前2日と同じく日本軍はすべての台地、とくに東江前ちかくの…丘から、きわめて正確に、激しい砲射をあびせてきた。これに反して米軍の砲弾はなかなかあたらず、無数の日本軍陣地から撃ち出される砲や機関銃でさんざん苦戦した。これに加えて地形が悪く道路は狭く、さらに数知れぬ地雷が敷設してあったため、自動砲は上陸しても使いものにならなかった。
…阿良、東江前付近ではある程度は前進し、西江前西方にいた部隊はわずかに進めたが、中央部にいた部隊は、まったく動けなかった。』(164-165頁)

4月19日の夜には、…第306歩兵連隊の散兵線は、城山から北東の方向へ海岸線までのび、第307連隊第3大隊は、19日には前進して東側麓まできた。山や町の南部と西部では、大隊が丘陵地帯の攻撃をはじめた。米軍の散兵線は、南東から西へ第305連隊第1大隊、第307連隊第2大隊、第305連隊第3大隊の順にならんだ。』(168頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 164-165、168頁より》

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IE AND THE SOUTHERN BEACHES viewed from directly over the Pinnacle.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

『ブルース少将は戦局の行き詰まりを打開しようと決意した。4月19日、将軍は海軍の管制ボートに乗って、伊江島東海岸の沖に出た。そこを行きつもどりつ、島の城山を東側から接近する方法を探した。空中写真では島の完全な姿を写し出すことはできなかったが、海上からはこれまでわからなかった部分がはっきり写しだされた。ブルース少将は日本軍に米軍歩兵部隊と思わせながら、艦上からゆっくり地形を観察することができた。

その結果、彼は城山攻撃に最も適した地点は城山の北部と東部であるとの結論を下した。そこで4月20日の攻撃では、主力を城山南部にいる第307歩兵連隊から、北部のほうにいる第306連隊のほうに移し、師団全体として城山の包囲陣を固めることになった。』(168頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 168頁より》

 

南進する米軍

「耕し戦法」による総攻撃

『ホッジ将軍は、洞窟内の日本軍を駆り出すためには「一寸刻みに爆破するしかない」と4月19日午前6時40分を期して全部隊に空、海、陸からの「耕し戦法」による総攻撃を命じた。陸続と増援部隊も派遣され、沖縄作戦で最大規模の650機にも及ぶ米機が与那原から稲嶺首里にかけて、ナパーム弾やロケット弾を浴びせて一帯を焼野が原にした。』(115頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 115頁より》 

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 8]

『第24軍団と師団砲兵27個大隊の150ミリ砲から200ミリ曲射砲にいたる全320門の砲が、午前6時零分、いっせいに第一回の砲口を開いた。轟音は千個の雷が一時に落ちたかのようにとどろき、島中を震わせた。この集中砲撃で平均1.5キロ四方に75発の砲弾が落ち、しかも、前線が東から西へ移動するにつれて、ますます激しくなっていった。』(195頁)

午前6時30分、砲兵隊は日本軍の前線を乱すために10分間攻撃を加え、合計1万9千発の砲弾を日本軍の前線に撃ち込んだ。こうして午前6時40分、砲兵は前線攻撃をやめ、目標を後方地域に向けた。』(195頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 195頁より》

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4.2-INCH MORTAR fires in support of the 7th Division attack on 19 April. (Army Photograph)

Chapter 07 | Our World War II Veterans

午前9時までに与那原を襲った米軍機は67機で、まき散らすようにナパーム弾を投下し、地上のありとあらゆるものを焼きつくした。…首里は139機の大空襲をうけ、500年の歴史が石垣のくずれるごとくくずれ去った。

…このほか、米軍は、第5艦隊の戦艦6隻、巡洋艦6隻、駆逐艦6隻が、空陸からの攻撃に加えて、艦砲射撃を行なった。』(194頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 194頁より》

『…米軍は1個師団(第27師団)を増加、十分に準備を整えたうえで4月19日、牧港ー嘉数ー和宇慶の線に総攻撃を開始した。増援された第27師団が新たに西海岸道(牧港)と中街道西側(嘉数)を戦力を消耗した第96師団が中街道東側(西原ー棚原)を、第7師団はひきつづき東海岸道(和宇慶)を突破しようとした。』(81頁)

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 81頁より》 

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先を行く前線部隊を目指して進む米陸軍戦車(1945年4月19日撮影)

U.S. Army tanks rumble toward the fast moving front lines on Okinawa in Ryukyus.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『歩兵の進撃がはじまった。…日本軍は、米軍の大量の砲弾撃ち込みで陣地を破壊され、あるいはすっかり度肝を抜かれた格好になっているだろうと思いながら・・・。

ところが、…日本軍は防空壕の奥深くにひそんで、空陸からの爆撃や、海上からの艦砲射撃には、いささかの影響もうけなかったばかりか、砲撃終了と同時に、ただちに兵を動員して陣地をたて直したのである。』(195頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 195頁より》

 

牧港(まちなと)

第27師団は4月18日の夜から19日にかけて、攻撃部隊が夜のうちに渡河できるような歩行橋1本、浮橋2本、ゴム製の船橋1本の建設を行なっていた。

『第106歩兵連隊の進撃は真夜中にはじまった。兵が夜通し河の流れのようにぞくぞくこの橋を渡って行った。日本軍の方からは何の反撃もなかった。…1号線道路が浦添丘陵と交差している地点まで静かに進出した。この地点は、日本軍が強力な陣地を構築してあることがわかっていたので、深夜といえどもハイウェー前線は米軍の犠牲も多いことが予想されていた。

丘陵地のふもとで1小隊が道路を右へ迂回して、繁みにおおわれた丘を登って行った。

半時間ほどたって米軍は丘の頂上に達した。日本軍はまだ気づかない

1小隊は丘の頂(南東)の方向へ迂回し、静かに稜線に沿って下り、丘陵と1号線の交差点まで前進していった。』(193頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 193頁より》

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米陸軍工兵隊が牧港の入江に架けた歩行橋

OPENING ACTION, 19 APRIL, was the crossing of Machinato Inlet on footbridge in the early morning.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 8]

『もう夜は明け、日はさんさんと輝いていた。

丘陵と1号線道路交差点付近で、日本兵が焚き火をかこんで朝食の準備をしていた。

米軍はただちに砲火を開いた。日本兵は数名が倒れ、他の兵隊は銃をすてて岩かげにかくれた。いまや彼らは、米軍が来たのを知ったのだ。

まもなく砲弾がハイウェーを進軍中のF中隊の方に落ちはじめた。米軍は日本軍陣地に深く接近し、30分にわたって激しい応戦がくりひろげられたが、ついに日本軍は、南の方へ後退した。第106連隊は、浦添村北西端に陣地を構え、それを強化していった。

午前7時10分、稜線と1号線道路が交差する牧港の丘を削りとって道をあけた付近に増援軍小隊がぞくぞくと到着し、残存の日本軍も、掃討された。第106連隊は丘を降りて、第105連隊と連絡できる地点まで進撃していった。

この攻撃は、第27師団にとって、まずまず幸先のよいものとなった。』(193-194頁)

『牧港入江を暗夜にまぎれて渡り、夜明けまでに浦添村の丘陵地帯に陣を構えた第106連隊の歩兵2個大隊につづいて、第3大隊は午前6時、嘉数西方を後にした。この部隊は総攻撃がはじまったとき牧港入江をちょうど渡っているところだったのだ。大隊は丘の頂上に登り、稜線にそって他の2大隊のあいだに陣地を構えた。』(204頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 193-194、204頁より》

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牧港攻略を補助した第27師団第106歩兵部隊E中隊の陸軍パトロール犬。一緒にいるのは訓練士のスタバー伍長(左)と調教師のヘリンク伍長。(1945年4月19日撮影)

Blitz, Army patrol dog with E Company, 106th Infantry, 27th Division, was an aid in taking Machinato town in Southern Okinawa. He is with his trainer, left, Cpl. George Stuber, Euclid, Ohio, and his handler, Cpl. J. Herinck, Banks, Oregon.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…第106歩兵連隊が夜襲の成功に気を良くし、さらに南下しようとしたが、日本軍は稜線に沿って1号線道路の西側にいたる線まで、洞窟、墓、トンネル陣地を築き、戦闘は行き詰まり状態になった

…米軍は目標を選んで一つ一つ〝封じ込め戦法〟をとっていった。…南進はできなかったが、散兵線をのばして東側の第105連隊第3大隊と連絡をとることはできた。』(212頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 212頁より》

 

伊祖(いそ)

『長く、かつ高くそびえている浦添丘陵は自然の要塞だった。西海岸のほうから東方へ進むたびに丘陵はひときわ高くなり、いよいよ攻めにくくなる一方であった。島の中央部で、丘はいっそう高くなり、その北面はほとんど崖のようにそそり立っている。ここは第27師団の左翼地区に入り、そこからつづいて第96師団地区までのびていた。
伊祖の村落は、この丘陵の向こう側にある日本軍防衛陣地のカギとなる地点で、独立歩兵第21大隊と野戦重砲第1連隊の一部が守備にあたっていた。

浦添村伊祖周辺の日本軍防衛網の中心は、村落のちょうど北東の方角にあり、小高い丘の上からさらに15メートルほども高く突ったった岩山だった。米軍はこれを〝西の高峰〟と呼んでいた。この高峰には洞窟や岩の裂け目があり、小さな隠れ場所や割れ目が無数に散在して、どの方角からも攻めるにもむずかしく、大砲や迫撃砲弾でも攻略できそうにない。地下壕は八方に通じ、中には伊祖に出ているものもあれば、また西方に180メートルものびているのもあった。

もう一つの要塞は、〝西の高峰〟から南東およそ500メートルの地点にある丘陵上に高くそびえる〝東の高峰〟である。この丘の頂上には墓があり、なかは空洞で納骨所になっており、その前にはほとんど庭があった。日本軍はこのなかに機関銃をすえ、あらゆる方向からの米軍の進撃を阻んでいた。

西高峰の中間には道路が一本あり、丘の頂まで走って急カーブで峰を横切っていた。ここには強固な障害物が設けられ、道路自体に地雷を敷設してあった。4月19日の夜、第105連隊の第3大隊は、丘陵の頂上に登ってそこから〝西の高峰〟の端のほうに兵を展開させた。第2大隊は頂上までは登らず、…丘腹を東方に兵を散開させた。』(259-261頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 259-261頁より》

 

嘉数(かかず)

『嘉数では、表に出ること自体、死か負傷を意味した。ここで第96師団と第27師団は合流し、嘉数と西原丘陵間にある首里-宜野湾街道に沿って布陣した。』(203頁)

『…第27師団のなかで前線で総攻撃の態勢にあった部隊は、第105連隊の第1大隊だけであった。

…第1大隊の攻撃は、前線主力を糾合して嘉数高地の東端を、戦車隊を先頭に掃討戦を開始するということになり、2攻撃部隊が嘉数村落近くの高地の後方で合流し、その前方、浦添丘陵を共同攻撃することになった。』(204頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 203、204頁より》

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https://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/USA-P-Okinawa-8.html

『…午前7時30分…に峡谷をめざして進撃を開始した。8時23分、部隊先頭は、嘉数高地からおよそ200メートル離れた峡谷付近にある小高い丘のうえに陣取った。ここから前面の広場へ進撃しようとしたとき、日本軍の機関銃や野砲が近くの陣地から砲撃を開始した。

この一時の砲撃で米軍は多数の犠牲者を出し、その後も犠牲者の数はふえる一方だった。広場にいた米軍はそのまま釘づけにされ、後方の部隊との連絡もたたれた。嘉数の山頂や西部スロープの日本軍陣地では機関銃が真っ赤に火を吐いていた。』(204-205頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 203、204-205頁より》

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刻々と進む前線へ、低い音を響かせて向かう米陸軍の戦車。沖縄にて。手入れの行き届いた農地を横切り、荷車のそばを通りすぎる。米軍の艦砲射撃が始まったときに住民が慌てて捨てたものだ。(1945年4月19日撮影)

US army tanks rumble toward the fast-moving front lines on Okinawa in Ryukyus. Over perfectly cultivated farms lands past natives wagons hurriedly abandoned when our naval bombardment began.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『午前8時30分、歩兵部隊が嘉数高地前方の小山をあきらめて後退しかけたとき、戦車隊が3列、4列になって嘉数台地を横断しはじめ、嘉数と西原を南進していた。火炎放射器を装備した自動操縦戦車も加え、全戦車30輌が、日本軍陣地の主力に強力な攻撃を加えようとこの台地に集結したのである。

…戦車3輌が進撃の途中、台地付近で地雷にあって擱座した。

戦車隊が列をつくって進撃しているとき、西原丘陵の陣地から、日本軍の47ミリ対戦車砲が猛攻撃を加えてきた。敵弾は16発が発射されたが、米軍は一発も撃ち返せずに戦車4輌を撃破されてしまった。

米軍戦車隊は、空中写真でかすかに写っていた嘉数への道を求めて南へ急いだ。だが、この道はみつからず、ここでもまた戦車1輌が、日本軍の対戦車砲にやられた。そこでまた進路をかえて…さらに南進したが、ここでも道をまちがえ、…戦車は引きかえし、主要道路まで出て、そこで正しい道を発見し、午前10時すぎ、どうにか嘉数まで到着することができた。村落を取り巻き、ときには中に進撃して火炎放射器で火を放ち、日本軍陣地を破壊した。こうして嘉数は、3時間で完全に撃滅され、燃えつくされた。

だが、米軍の被害も大きかった。とくに村落に入るときが激戦で、…戦車14輌がやられた。その多くは敷設地雷や47ミリ対戦車砲にやられたものだが、なかには、重砲や野砲で擱座させられたのもあり、また日本軍が爆薬箱を持って接近攻撃法をこころみ、爆薬もろとも戦車に体当たりし、自爆をとげるという特攻にやられて撃破された戦車も多かった。

…嘉数-西原戦線でも10キロ爆弾をかかえた〝自爆攻撃兵〟によって、日中に6輌が撃破された。』(204-206頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 204-206頁より》

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DEATH OF A TANK, series of photos enlarged from a movie film of Okinawa fighting. Sherman tanks, supported by riflemen, are assaulting Japanese cave positions, and in the engagement a tank is overturned by a Japanese land mine. One of the crew is thrown clear by the blast. Infantrymen fight flame with fire extinguishers in an effort to rescue four tankmen trapped in the vehicle. Before rescue can be effected fire reaches ammunition in the tank, and the resulting explosion leaves only a battered metal hulk.

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/USA-P-Okinawa-8.html

『戦車は無限軌道をやられ、動けなくなっても、中の搭乗員はなんでもないのがふつうだった。だが、日本軍は戦車を擱座させてからなだれこみ、天蓋をあけて手榴弾を投げこんだ。こうして多くの戦車が破壊され、また搭乗員も殺されたのである。』(206-207頁)

『嘉数戦線では、米軍戦車隊が日本軍の後方で、ちょうど単独戦闘をしているとき、後続部隊の米第105歩兵第1大隊は嘉数丘陵の前で釘づけにされていたのだ。

…小隊が嘉数村落の北端にさしかかったとき、…兵がばたばたと倒れ、あるいは四散し、激しい応酬戦がくりひろげられた。

…第105連隊第1大隊が完全に進撃不可能となったので、…真志喜の南にいた第2大隊が、ぐっと左翼に回って、宜野湾街道にそって圧力をかけることになり、…午後12時25分に攻撃を開始した。場所は嘉数高地の東端であった。』(210-211頁)

『午後1時30分、いまや米軍歩兵が来るのぞみはすっかり断たれ、戦車隊は、もとの線まで後退するよう命令をうけた。朝、嘉数高地に出撃した30輌の米軍戦車のうち、午後もとの位置に帰ってきたのはわずか8輌であった。』(207頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 206-207、210-211頁より》

 

我如古(がねこ)浦添西原

『…第96師団は、…宜野湾村と中城村の境界線から、西側の方を進撃していた。第382連隊が左側で我如古付近、第381連隊が右翼で浦添村の西原方面に向けて攻撃を開始していた。

…宜野湾村我如古村落の前面にいた第382連隊第2大隊は、午前6時40分、進撃を開始した。間もなく前方にあるひくい連丘を占領したが、…小銃や迫撃砲で日本軍が激しく撃ちまくってきたので米軍の被害も大きかった。

…あるところでは小さな道のそばにあった壕の中から、一人の日本人が飛び出し、奇声を発しながら米軍1分隊の先頭にあった戦車めがけて爆薬箱を抱えて飛びこんできた。轟音もろともひっくり返った戦車は、…倒れざま日本軍の防空壕入口をふさいでしまった。

…うまいぐあいに壕が塞がれ、他の戦車が攻撃をうける心配もなくなった。…師団左翼はおよそ800メートルほど進撃することができた。』(199-200頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 199-200頁より》

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BATTLE FOR TOMBSTONE RIDGE, like many others on Okinawa, did not permit much use of heavy armored weapons because of uneven terrain. Above an M-7 self-propelled 105-mm. howitzer, supporting 96th Division troops, fires at a Japanese position. 

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/USA-P-Okinawa-8.html

『我如古東方にいた第382連隊は、右翼では第1大隊が…機関銃や迫撃砲で前進を阻まれ、…手榴弾でその場に釘づけにされた。…彼我の激しい攻防戦がしばらくつづき、…激しい戦闘の末、日が暮れるまでに第1大隊が占領し得た地域といえば、…丘の北西端を越えた地点と西側スロープの一部であった。』(200頁)

『第381歩兵連隊第1大隊は、我如古北方の位置から村落の西部を通過して進撃して行ったが、村落にさしかかったとき、我如古南東部の日本軍から機関銃掃射をうけた。…ちょうど墓地のある丘の近くにいたため、頭上からまともに機関銃に狙い撃ちされ、夕暮れまで進みも退きもできなくなってしまった。

午前10時45分、これまでの猛撃に加えて、さらに日本軍の重砲が攻撃をはじめた。米軍は一部がどうにか西原丘陵の北端にたどりついたが、これも一時退いたため、その日のうちには、もう二度とこの丘を占領することができなくなってしまった。』(201頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 200、201頁より》

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men of the 1st Battalion, 381st Infantry, bend low as they run through burning ruins of western Kaniku, 19 April.

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/USA-P-Okinawa-8.html

『師団右翼の宜野湾村では、第381連隊の第3大隊が…窪地の端にさしかかるやいなや、…西原丘陵や墓の中から、いっせいに迫撃砲や機関銃、小銃の射撃を浴びた。米軍はこれに応戦、…午前8時30分までには、どうにかこうにか西原村落の端にある丘の頂上まで進撃することができた。しかし、ここですべての進撃が阻止された。日本軍の迫撃砲や手榴弾は霰のように降って弾幕をなし、両翼の丘からは機関銃の雨が降っていた。米軍はいまや一歩も進撃できない状態におちいったのだ。』(202頁)

『第381歩兵連隊第3大隊長…は、右翼からの嘉数進撃はまったく望みがないことを悟って、…兵を後退させ、低地を守備させることになった。…大隊の戦車5輌のうち1輌が隊列をはなれて先に動きだし、嘉数と西原丘陵のあいだの平地にさしかかったとき、西原から飛びこんできた日本軍の1隊の爆薬にあたって、たちまちにして爆破されてしまった。』(203頁)

『この日、西原丘陵前にいた第381連隊に落ちた81ミリ砲弾は、およそ2200発といわれ、午後5時までに第3大隊の損害は16名の戦死もふくめて85名の戦死傷という大損害をこうむった。』(204頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 202、203、204頁より》

 

千原(せんばる)

『米軍第7師団は、4月19日西原村千原のロッキークラグ(岩山)に攻撃を試みたが、ここには日本軍の堅固な陣地が控えていた。岩山は高く、その陣地からは、上原への北西部接近路もカバーすることができた。陣地は、200メートルほど東方の高台に機関銃をすえ、南東は178高地(上原)、南は棚原丘陵、西は高台に長距離機関銃と迫撃砲で防衛戦を張っていたが、千原高地それ自体は、洞窟やトンネルで蜂の巣のように縦横に壕を通してあった。』(249頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 249頁より》

 

和宇慶(わうけ)

『中城方面から南下してきた米第7師団は、東海岸からすぐ後方の高地にまたがる線に陣取っていた日本軍の独立歩兵第11大隊と直面した。米第7師団は、第32歩兵連隊を左翼につけて和宇慶から丘陵地帯の南上原付近に、さらに第184連隊を右翼にして、千原-長田付近に展開させていた。

作戦では、和宇慶から西にのびる稜線を占領し、第184連隊は178高地とそれにつづく西方への稜線を奪取することになっていた。

…中型戦車2輌と火炎放射器を装備した装甲車3輌が第7師団の戦列を離れ、東海岸の平地をころがるように南のほうへ走り、やがて和宇慶を通過、稜線地帯の先端に止まって、すばやく陣取った。そこからは、丘のふもとにある墓地にたてこもった日本軍やその陣地が見える。この陣地めがけて戦車砲と装甲車の火炎放射器がいっせいに火を吹いた

長いオレンジ色の炎がおをひいて、陣地前面にあたったかと思うと、真っ黒い煙が渦をなして空高く舞いあがった。一面めらめらと燃え、渇ききったきび畑や墓のなかでこの火炎放射をまともにうけた日本兵は、まったくあっと驚きの声をあげるまもなく死んでいった。』(196-197頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 196-197頁》

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 『米軍戦車や装甲車の火炎放射器で、丘陵の表に出ていた日本兵はほとんどやられたが、裏側にいた兵は米軍の進撃を阻止すべく反撃し、頂上を征服するのはなかなか困難だった。

ここで日米の熾烈な歩兵戦がくりかえされ、…彼我の猛烈な攻防戦が展開された。米軍は、日本軍の反撃にあい、前面の山腹にしがみつき、死物狂いに戦ったが、相手もまた死物狂いで、砲撃と突撃を同時に行なったため、爆薬箱を抱え、手榴弾を手にして、米軍めがけて突っ込んできた日本兵が、後方から撃ち出した友軍の砲弾に当たって、戦死する光景も見られた。

和宇慶高地につづくスロープを登っていた米軍は、500メートル進撃する間に一発の敵弾も受けなかったが、その後、突然、日本軍が待機していた地点にさしかかると、米軍に対して、迫撃砲や機関銃で、いっせいにダダダッと掃射してきた。米軍部隊はここで進撃をストップし、ただちにこれに応戦した。

この日は一日中、米軍は進撃できなかった。そして、午後4時20分、米軍はついにもとの位置に退却せざるを得なくなった。』(197頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 197頁》 

米軍は、歩兵隊の進撃前に大量の砲弾を撃ち込んで日本軍の陣地を破壊したつもりでいたが、実際は、どの進撃部隊においても苦戦を強いられて立往生する部隊もあった。この日、米軍としては前進できず、もとの位置に退却せざるを得なくなり、総攻撃は失敗に終わった。

  

日本兵と民間人捕虜の収容

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水陸両用車で捕虜収容所へ運ばれる民間人(1945年4月19日撮影)

Strange Taxi

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

沖縄島北部の米軍

米軍は沖縄島の北部地域を制圧した後、掃討戦を展開した。

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1945年4月19日の前線と本部半島における砲兵部隊の状況を示す戦況図。(1945年4月19日撮影)

A situation map showing the situation of front lines and artillery units on the Motobu Peninsula on April 19, 1945.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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後方の日本軍を砲撃している、シェパード少将率いる第6海兵師団の105ミリ砲兵大隊(1945年4月19日撮影)

Shots of a 105mm. artillery battalion of Major general L. Shepard's 6th Marine Division in action firing at Nips in the background.

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第32軍の動向

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砲兵隊指揮所に侵入を試みて射殺された日本兵。砲兵隊は一晩に1200人もの日本人を殺しているが、このように間近で撃つのは稀(1945年4月19日撮影)

Two dead nips that tried to invade an artillery CP and were shot down by the artillery men--this is rare for the artillery men for most of the Japs they kill (1200 in one night) are too far away to be seen.

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北部戦線

本部(もとぶ)半島周辺: (国頭支隊・宇土大佐)

布陣していた八重岳が米軍に占領されたことから、日本兵や学徒らは多野岳を目指して山中を歩き続けていた。

19日、朝、呉我山の山中に昼を過ごした隊列は、再び行動を起こしたが、途中鉄血勤皇隊や護郷隊の木下隊は、勝手に行動を開始し、隊列から抜けた。古我知の山中にはいると、ー「薬草園」を突破しようーと称して、なかなかゆずらぬ将校達の群れの中にあって、当惑した中島大尉が、マントで  袖びょうぶをして、マッチを摺り、しきりと地図を案じた。その時、名護出身の将校が「地形は俺の方が詳しいから、コースを決めるのは、俺に任せろ」と言い、それで道をビーマタにとった。隊列が闇の中をビーマタと覚しい地点に差しかかると、突然、前方の暗闇から、激しい機関銃音が湧き起こり、不意を衝かれた隊列は、敵弾に晒されて右往左往した。隊列はそのためまた後方へ逆戻りしなければならなかった。ビーマタには、米軍が陣地を造って駐屯していた。』(305-306頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 305-306頁より》

 

伊江島の「六日戦争」

伊江島(いえじま): (国頭支隊・井川少佐)

伊江島での日本軍の戦術は太平洋の島々で使ったのと同じだった。民家から民家へ、洞窟から洞窟へ、そして1メートルおきに布陣して、これをさらに分隊から中隊の兵力の決死隊で強化し、またいるところに伏兵を置き、米軍を通過させてからその後方をねらうという戦術であった。また、彼らは、米軍が、日中、回収した地雷にみずからぶつかることがあったが、日本軍は夜襲戦術にも出たのである。』(167頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 167頁より》

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日本軍の防衛陣地を表した図
IE SHIMA -- Typical Defense Position On Face of Iegusugu Pinnacle

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

 

中南部戦線

米軍からの総攻撃

伊江島で同島守備隊が城山に立てこもって必死の抵抗をしていたとき、中部戦線の守備軍主力は、怒濤のように押しかけてきた米軍にたいし、嘉数や西原の丘陵地帯首里の攻防をかけて死闘を展開していた。』(114頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 114頁より》

『米軍は1945年4月19日、日本軍第1防衛線への総攻撃に転じた。最大規模の航空機650機で爆弾やナパーム弾、ロケット弾による空爆を徹底のうえ、海上の戦艦、重巡洋艦駆逐艦各6隻から猛烈な艦砲射撃を浴びせた。』(111頁)

『地上では324門の火砲および戦車30輌に加えこの日、沖縄戦に初めて火炎放射装甲車を投入した。ガソリンとナパームを混合の炎は、70メートルないし110メートル先まで届く。』(111頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 111頁より》

4月19日、米軍は三方から首里周辺の日本軍第1線を攻撃してきた。第7師団は首里の裏側から、第96師団は北側から、第27師団は嘉数丘の西側と浦添の丘の西側に対し総攻撃を加えた。』(60頁)

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 60頁より》

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先を行く前線部隊を目指して進む米陸軍戦車(1945年4月19日撮影)

U.S. Army tanks rumble toward the fast moving front lines on Okinawa in Ryukyus.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍は陣地攻撃の前に必ず大規模な砲撃・爆撃をおこなった。空母や北・中飛行場から飛びたった米機は通常爆弾だけでなく、ナパーム弾を投下し、ロケット弾をうちこみ、銃撃した。4月19日、ナパーム弾攻撃をうけた与那原は一瞬にして焼きつくされ、長い歴史をもつ首里も爆撃で一日にしてガレキと化した。』(82頁)

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 82頁より》

『米軍の莫大な砲弾の雨は、すっかり日本軍陣地の様相を変えてしまった。気を許した米軍がいっせいに前進してくると、待ち構えていた日本軍は、洞窟から躍り出て、砲や機銃で頑強に応戦して、日が暮れるまで激戦が展開されたので、戦場はたちまち修羅場と化した。この戦闘で米軍は戦車32両のうち22両を失い、死傷者720人を出した。』(61頁)

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 61頁より》

八原高級参謀の回想:

4月19日敵が再び攻撃を開始して以来、全線に亘って彼我の間に英雄的死闘が演ぜられている。わが軍は最左翼歩兵第64旅団の正面において一部の陣地を突破せられたが、大局的にみて依然、陣地の大部を頑守している。わが損害も大で、第62師団の戦力も概ね2分の1に低下している。しかし攻撃中の敵3個師団も、我に劣らぬ死傷者を生じている。』(252頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 252頁より》

  

牧港(まきみなと)・伊祖(いそ)

八原高級参謀の回想:

『…今現に敵が取りつつある牧港、伊祖を経て直路端的に、仲間の左側背に進出せんとする攻撃法は、…妙案である。

…伊祖より牧港を経て那覇に至る正面は、歩兵第64旅団の防御地区であって、当初陣地配備の重点は、陸正面よりもむしろ西海岸方面より敵が上陸する場合を顧慮して、決定されていた。ところが敵が嘉手納に上陸して以来、陸正面の戦闘は主として右翼歩兵第63旅団が担当しており、有川少将の第64旅団はいつまでも海正面に気を奪われ、配備を陸正面に転換することにやや手抜かりがあった。特に伊祖、牧港正面の守備に任じた平林中佐の独立第21大隊においてその感が深い。』(229-230頁)

『平林中佐は、責任を感じたか19日夜大隊主力をもって、牧港から伊祖への攻撃進路を制する48高地に対し、回復攻撃を試みたが、損害のみ多く失敗に終わった。かかるうちに敵の滲透は伊祖からさらに安波茶および、その西南地区にじわじわと拡大する。

南上原高地も、前田、仲間も今なお堅持しある際、はなしくも牧港正面から生じた戦線の破綻に対し、上下挙って憤慨した。つい皆の口が荒くなり、有川将軍や平林中佐に対する個人攻撃にまで発展する。第62師団長の藤岡中将の憤激は、実は軍首脳部以上である。面目にかけても伊祖48高地の線を奪回しなければならぬ羽目となった。』(231頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 229-230、231頁より》

 

我如古 (がねこ)浦添西原

『宜野湾村我如古から浦添村西原にいたる米第96師団の前線に相対する日本軍は、兵員が大部少なくなった独立歩兵第14大隊と独立歩兵第12大隊が中央を守っていた。この部隊には第1軽機関銃大隊も配置され、全員でおよそ1200の兵力であった。』(199頁)

『このあたりの地形は、丘の両腹に石造りの墓がいっぱいあり、丘は高さ約20メートル、長さ1キロぐらいで、付近ではひときわ目立っていた。』(200頁)

『この〝墓地のある丘〟は遠くからは、さほどの陣地があるとも思われない姿をしていたが、実際は、地下に迷路のように坑道をつくり、双方の連絡がとれるようにしてあり、さらに両側面から攻撃できるようにつくられた恐るべき堅固な陣地だったのである。』(201頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 199、200、201頁より》

 

嘉数(かかず)

『嘉数高地とその周辺陣地は、沖縄で最も堅固な守備軍陣地の一つで、この陣地に配備された日本軍は、頑強に反撃をくりかえした。こうして彼我入り乱れて一進一退の膠着状態がつづいた。』(114頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 114頁より》

『日本軍は米軍戦車に対して地雷速射砲急造爆雷を用い、22輌を破壊した。急造爆雷は導火線の発火方式と、信号方式とがあった。信管を靴の底にある鋲で叩き、または信管に紐を取り付け手首に巻き、爆雷を敵の戦車に投げると紐が張りつめ爆発する。』(111頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 111頁より》

『…日本軍は戦車を擱座させてからなだれこみ、天蓋をあけて手榴弾を投げこんだ。こうして多くの戦車が破壊され、また搭乗員も殺されたのである。

4月19日嘉数地区で米軍が失った戦車22輌というのは、沖縄の一戦闘での損害としては最大のものであった。戦車隊はまったく歩兵の支援なくして戦闘に従事した。22輌のうち4輌が火炎放射器を装備、しかもこの日が初出陣でもあったのだ。』(207頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 207頁より》

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日本軍の手製爆雷(急造爆雷

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 4]

『日本軍のほうでは、米軍はきっと戦車隊を先頭に歩兵部隊が西原丘陵のあいだを突破してくるものと予想をたて、それに対して、じつに慎重に準備をしていたのだ。…作戦は、戦車隊と歩兵部隊を分断することにあった。』(208頁)

『米軍の総攻撃がはじまる前に、日本軍の大編成変えが行われたのは、…ここ嘉数一帯である。大打撃をこうむった各大隊が、独立歩兵第22大隊を主力に、第13、第15、第23大隊の残存部隊もふくめて約1400からなる混成部隊を編成し、これの支援部隊として独立歩兵第211大隊が準備態勢をととのえ、さらに軽機関銃第2大隊も合流して火力が増えた。』(208頁)

『日本軍は独立歩兵第22大隊だけでも、機関銃4梃、高射砲2門、連隊砲3門、それに第2迫撃砲大隊の81ミリ砲によって、両高地の窪地に弾幕を張る作戦をたてていた。機関銃は至近距離にすえられ、これに加えて、1分隊10名からなる歩兵2個分隊を配置して、米軍の歩兵にそなえた。この2個分隊は、この戦闘で1分隊が完全にやられ、他の分隊は、分隊長が負傷、兵3名が戦死した。

日本軍はまた、陣地防衛に独立速射砲第22大隊の47ミリ砲を使用、そのほかに、自爆攻撃隊も準備して、完璧な防御陣をしき、「一兵たりとも逃すまじ」と、その堅陣を豪語していた。』(208頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 208頁より》

独立速射砲第22大隊兵士の証言:

4月19日牧港付近も占領された。伝令があった。わが中隊は、緊張感と闘志が燃えあがった。敵軍はひしひしとわが陣地に迫ってくる。夜となく、昼となく応戦、また夜間は斬り込み隊を編成して敵陣に斬り込むが、全員戦死で帰っては来なかった。』(566頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記/戦時編」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 566頁より》

  

軍司令部

八原高級参謀の回想:

『昼間敵が鉄量にもの言わせ、戦車を先頭に強引にわが陣地に侵入すれば、我は夜間手榴弾をもって逆襲し、これを撃退する。敵が昼間二歩前進すれば、我は夜間一歩前進する。結局我はわずかではあるが、歩一歩後退の余儀ない戦闘の継続である。

我々はアメリカ軍の攻撃法を「耕す戦法」と称した。それは、敵がその前進地域を無尽蔵に近い鉄量をもって田畑を耕す如く掘り返し、地上一切の物の存在を許さぬ如く清掃した後、前進するからだ。』(222頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 222頁より》 

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail40_img.jpg

沖縄戦の絵】 死んだ母の乳を吸う赤ちゃん

昭和20年4月那覇市首里南城市知念との中間と思われる農道で…見た光景。』

『米軍の照明弾であたりは明るく照らし出され、近くで迫撃砲が爆発する様子や、死んでいる馬が見えた。そしてその近くに、30代くらいの女性が倒れていた。女性は死んでいたが、その女性の上で動く影が見えた。赤ちゃんだった。弱々しく手を動かし、母親の乳を探っていた。』

死んだ母の乳を吸う赤ちゃん | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

収容所生活

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米軍政府管理下の捕虜収容所で肩を寄せ合い配給を食べる民間人(1945年4月19日撮影)

No Picnic

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

  

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月19日