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1945年 4月19日『米軍の総攻撃「耕す戦法」』

南進する米軍

総攻撃

艦砲射撃と空爆

『ホッジ将軍は、洞窟内の日本軍を駆り出すためには「一寸刻みに爆破するしかない」と4月19日午前6時40分を期して全部隊に空、海、陸からの「耕し戦法」による総攻撃を命じた。陸続と増援部隊も派遣され、沖縄作戦で最大規模の650機にも及ぶ米機が与那原から稲嶺首里にかけて、ナパーム弾やロケット弾を浴びせて一帯を焼野が原にした。』(115頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 115頁より》 

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 8]

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総攻撃前の沖縄島南部方面(高度7500フィートから撮影)

※手前右下は中城湾と与那原、右中央に翁長・小波津、右上に嘉数・牧港・浦添村・前田高地、中央上に首里、その奥が牧港飛行場(現・キャンプキンザー)、左手は那覇方面

STRATEGIC AREA OF SOUTHERN OKINAWA seen from an altitude of 7,500 feet.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 8]

『第24軍団と師団砲兵27個大隊の150ミリ砲から200ミリ曲射砲にいたる全320門の砲が、午前6時零分、いっせいに第一回の砲口を開いた。轟音は千個の雷が一時に落ちたかのようにとどろき、島中を震わせた。この集中砲撃で平均1.5キロ四方に75発の砲弾が落ち、しかも、前線が東から西へ移動するにつれて、ますます激しくなっていった。』(195頁)

午前6時30分、砲兵隊は日本軍の前線を乱すために10分間攻撃を加え、合計1万9千発の砲弾を日本軍の前線に撃ち込んだ。こうして午前6時40分、砲兵は前線攻撃をやめ、目標を後方地域に向けた。』(195頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 195頁より》

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4.2-INCH MORTAR fires in support of the 7th Division attack on 19 April. (Army Photograph)

Chapter 07 | Our World War II Veterans

午前9時までに与那原を襲った米軍機は67機で、まき散らすようにナパーム弾を投下し、地上のありとあらゆるものを焼きつくした。…首里は139機の大空襲をうけ、500年の歴史が石垣のくずれるごとくくずれ去った。』(194頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 194頁より》

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牧港(まちなと)・嘉数(かかず)・和宇慶(わうけ)

『…米軍は1個師団(第27師団)を増加、十分に準備を整えたうえで4月19日、牧港ー嘉数ー和宇慶の線に総攻撃を開始した。増援された第27師団が新たに西海岸道(牧港)と中街道西側(嘉数)を戦力を消耗した第96師団が中街道東側(西原ー棚原)を、第7師団はひきつづき東海岸道(和宇慶)を突破しようとした。(81頁)

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 81頁より》 

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牧港の入江

MACHINATO INLET, seen shortly after the action of 19 April. Three Weasels on the road (left) were knocked out. In background (left) Buzz Bomb Bowl slopes up to Urasoe-Mura Escarpment.

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米陸軍工兵隊が牧港の入江に架けた歩行橋

OPENING ACTION, 19 APRIL, was the crossing of Machinato Inlet on footbridge in the early morning.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 8]

『(4月18日)午後7時30分、ベイリー・ブリッジ用資材を積んだトラックが伊佐浜の方向めざして進んで行った。午後8時30分には、ゴムの舟橋用資材がトラックで運ばれて行った。…ブルドーザーが動き出し、歩行橋やゴム舟橋近くの地面をならし、入江の端に資材が積めるようにした。(4月19日)午前零時までには約100メートルの歩行橋が完成し、午前3時にはベイリー・ブリッジができ上がった。』(192頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 192頁より》 

米軍は、歩兵隊の進撃前に大量の砲弾を撃ち込んで日本軍の陣地を破壊したつもりでいたが、実際は、どの進撃部隊においても苦戦を強いられて立往生する部隊もあった。この日、米軍としては前進できず、もとの位置に退却せざるを得なくなり、総攻撃は失敗に終わった。

『日本軍は防空壕の奥深くにひそんで、空陸からの爆撃や、海上からの艦砲射撃には、いささかの影響もうけなかったばかりか、砲撃終了と同時に、ただちに兵を動員して陣地をたて直したのである。』(195頁)

『和宇慶高地につづくスロープを登っていた米軍は、500メートル進撃する間に一発の敵弾も受けなかったが、その後、突然、日本軍が待機していた地点にさしかかると、米軍に対して、迫撃砲や機関銃で、いっせいにダダダッと掃射してきた。』(197頁)

『この日、結局、米軍は日本軍の猛反撃にあって何の進撃もできなかったのだ。』(198頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 195、197、198頁より》

 

 

周辺離島の制圧

伊江島(いえじま) 

4月19日の朝、 米軍は、半時間の予備砲撃で硝煙まだ消えやらぬ午前9時零分、3個大隊がいっせいに攻撃を開始した。第305歩兵連隊の第3大隊は、東方に進出して町の北部まで進撃し、第307連隊の第2、第3大隊は、西江前ー東江前陸正面稜線南の陣地から村落北方と東方を攻撃した。この両大隊の第305連隊第1大隊の81ミリ砲、重機関銃が、集中攻撃を加えているうちに第307連隊砲兵隊も前進する攻撃部隊のために猛烈な砲撃を浴びせた。(160-161頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 160-161頁より》 

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

4月19日の夜には、…第306歩兵連隊の散兵線は、城山から北東の方向へ海岸線までのび、第307連隊第3大隊は、19日には前進して東側麓まできた。山や町の南部と西部では、大隊が丘陵地帯の攻撃をはじめた。米軍の散兵線は、南東から西へ第305連隊第1大隊、第307連隊第2大隊、第305連隊第3大隊の順にならんだ。(168頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 168頁より》 

 

 

第32軍の動向

北部戦線

本部(もとぶ)半島周辺: (国頭支隊・宇土大佐)

布陣していた八重岳が米軍に占領されたことから、日本兵や学徒らは多野岳を目指して山中を歩き続けていた。

19日、朝、呉我山の山中に昼を過ごした隊列は、再び行動を起こしたが、途中鉄血勤皇隊や護郷隊の木下隊は、勝手に行動を開始し、隊列から抜けた。古我知の山中にはいると、ー「薬草園」を突破しようーと称して、なかなかゆずらぬ将校達の群れの中にあって、当惑した中島大尉が、マントで  袖びょうぶをして、マッチを摺り、しきりと地図を案じた。その時、名護出身の将校が「地形は俺の方が詳しいから、コースを決めるのは、俺に任せろ」と言い、それで道をビーマタにとった。隊列が闇の中をビーマタと覚しい地点に差しかかると、突然、前方の暗闇から、激しい機関銃音が湧き起こり、不意を衝かれた隊列は、敵弾に晒されて右往左往した。隊列はそのためまた後方へ逆戻りしなければならなかった。ビーマタには、米軍が陣地を造って駐屯していた。』(305-306頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 306-306頁より》

  

中南部戦線

伊江島で同島守備隊が城山に立てこもって必死の抵抗をしていたとき、中部戦線の守備軍主力は、怒濤のように押しかけてきた米軍にたいし、嘉数や西原の丘陵地帯首里の攻防をかけて死闘を展開していた。嘉数高地とその周辺陣地は、沖縄で最も堅固な守備軍陣地の一つで、この陣地に配備された日本軍は、頑強に反撃をくりかえした。こうして彼我入り乱れて一進一退の膠着状態がつづいた。』(114頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 114頁より》

『米軍は多くの損害をうけた部隊を後方に下げ、つぎつぎと新しい部隊を補充したが、日本軍はいぜんとして第62師団のみが奮戦していた。4月8日以降の激戦で、第62師団はすでに兵士の半数以上を失っていた。(81頁)

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 81頁より》

 

嘉数(かかず)・牧港(まちなと)

米軍は1945年4月19日、日本軍第1防衛線への総攻撃に転じた。最大規模の航空機650機で爆弾やナパーム弾、ロケット弾による空爆を徹底のうえ、海上の戦艦、重巡洋艦駆逐艦各6隻から猛烈な艦砲射撃を浴びせた。』(111頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 111頁より》

『米軍は陣地攻撃の前に必ず大規模な砲撃・爆撃をおこなった。空母や北・中飛行場から飛びたった米機は通常爆弾だけでなく、ナパーム弾を投下し、ロケット弾をうちこみ、銃撃した。4月19日、ナパーム弾攻撃をうけた与那原は1機は一瞬にして焼きつくされ、長い歴史をもつ首里も爆撃で一日にしてガレキと化した。』(82頁)

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 82頁より》

『4月19日、米軍は三方から首里周辺の日本軍第1線を攻撃してきた。第7師団は首里の裏側から、第96師団は北側から、第27師団は嘉数丘の西側と浦添の丘の西側に対し総攻撃を加えた。(60頁)
《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 60頁より》 

この総攻撃で米軍は、火炎放射装甲車を初めて投入した。

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『地上では324門の火砲および戦車30輌に加えこの日、沖縄戦に初めて火炎放射装甲車を投入した。ガソリンとナパームを混合の炎は、70メートルないし110メートル先まで届く。』(111頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 111頁より》

『日本軍は米軍戦車に対して地雷速射砲急造爆雷を用い、22輌を破壊した。急造爆雷は導火線の発火方式と、信号方式とがあった。信管を靴の底にある鋲で叩き、または信管に紐を取り付け手首に巻き、爆雷を敵の戦車に投げると紐が張りつめ爆発する。』(111頁)
《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 頁より》

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日本軍の手製爆雷(急造爆雷

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 4]

『日本軍は戦車を擱座させてからなだれこみ、天蓋をあけて手榴弾を投げこんだ。こうして多くの戦車が破壊され、また搭乗員も殺されたのである。…4月19日、嘉数地区で米軍が失った戦車22輌というのは、沖縄の一戦闘での損害としては最大のものであった。戦車隊はまったく歩兵の支援なくして戦闘に従事した。22輌のうち4輌が火炎放射器を装備、しかもこの日が初出陣でもあったのだ。…日本軍のほうでは、米軍はきっと戦車隊を先頭に歩兵部隊が西原丘陵のあいだを突破してくるものと予想をたて、それに対して、じつに慎重に準備をしていたのだ。』(207-208頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 207-208頁より》

『米軍の莫大な砲弾の雨は、すっかり日本軍陣地の様相を変えてしまった。気を許した米軍がいっせいに前進してくると、待ち構えていた日本軍は、洞窟から躍り出て、砲や機銃で頑強に応戦して、日が暮れるまで激戦が展開されたので、戦場はたちまち修羅場と化した。この戦闘で米軍は戦車32両のうち22両を失い、死傷者720人を出した。(61頁)

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 61頁より》

独立速射砲第22大隊兵士の証言:

4月19日、牧港付近も占領された。伝令があった。わが中隊は、緊張感と闘志が燃えあがった。敵軍はひしひしとわが陣地に迫ってくる。夜となく、昼となく応戦、また夜間は斬り込み隊を編成して敵陣に斬り込むが、全員戦死で帰っては来なかった。』(566頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記/戦時編」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 566頁より》

  

軍司令部

八原高級参謀の回顧:

『昼間敵が鉄量にもの言わせ、戦車を先頭に強引にわが陣地に侵入すれば、我は夜間手榴弾をもって逆襲し、これを撃退する。敵が昼間二歩前進すれば、我は夜間一歩前進する。結局我はわずかではあるが、歩一歩後退の余儀ない戦闘の継続である。

我々はアメリカ軍の攻撃法を「耕す戦法」と称した。それは、敵がその前進地域を無尽蔵に近い鉄量をもって田畑を耕す如く掘り返し、地上一切の物の存在を許さぬ如く清掃した後、前進するからだ。』(222頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 222頁より》 

 

 

そのとき、住民は・・・

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沖縄戦の絵】 死んだ母の乳を吸う赤ちゃん

『昭和20年4月、那覇市首里南城市知念との中間と思われる農道で…見た光景。』

『米軍の照明弾であたりは明るく照らし出され、近くで迫撃砲が爆発する様子や、死んでいる馬が見えた。そしてその近くに、30代くらいの女性が倒れていた。女性は死んでいたが、その女性の上で動く影が見えた。赤ちゃんだった。弱々しく手を動かし、母親の乳を探っていた。』

死んだ母の乳を吸う赤ちゃん | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局


 

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