〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年5月28日 『最前線に戻った海軍部隊』

海軍、小禄への復帰命令 / 老女の処刑 / さまよう母と子

 

米軍の動向

首里に迫る米軍 -

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 14]

第10軍の情報将校は、5月28日の幕僚会議で、「日本軍は首里北方周辺で、前線を守り抜く、というのがどう見ても最上の線だ。われわれはおそらく、周辺を遮断して、彼らの陣地をしだいに包囲するこができるだろう」と意見を発表し、バックナー中将もまた、この会議で日本軍が、左翼で第7師団を反撃する可能性が十分あることを懸念した。(426-427頁)

だが…5月28日に行なわれた偵察で、大名丘陵の南のほうにある高台地の日本軍は、前よりも少なくなっているようだとの報告が、第1海兵師団第5連隊にもたらされた。(431-432頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 431、426-427、431-432頁より》

  

南進する米軍

真嘉比(まかび): クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)

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《ジェームス・H. ハラス『沖縄 シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間』 光人社 (2007年) p. 413》

5月28日の夜明けには雨も上がり、われわれは午前中の出撃に備えて待機した。10時15分ごろ、長距離迫撃砲や機関銃によるまばらな反撃をついて南へと進撃を開始。本格的な抵抗もなく、好天にも恵まれ、われわれは意気揚々と歩を進めた。実際、その日は数百メートルも前進できた。この区域としてはたいへんな成果だった。

泥のなかの行軍は依然として困難だったが、ハーフムーン周辺の悪臭漂う、水のたまったごみ穴のような壕を去ることができて、われわれは大喜びだった。夜には、翌日も首里高地へとまっしぐらに進んで正面突破を狙うことを知らされた。

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 415頁より》

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To absorb recoil from Marine 155mm. Howitzers, trenches must be dug for the trail legs.

海兵隊155ミリ榴弾砲の発射後の反動を緩和するため、砲脚のための穴を掘る必要がある

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

国場奥武山

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Chapter 09 | Our World War II Veterans

27日に安里川を渡り那覇の西側に入った第22海兵連隊は、28日に奥武山付近まで進んだ。海軍司令部壕のある小禄はすぐ目前となった。

… 陽が上がってから、ふたたび進撃を開始し、国場川の河口のほうへ進んで、午前9時ごろにはそこに到着した。壊れたビルや残骸が散乱してうず高く積まれている中を、海兵隊は粛々と進撃していったが、一発の弾丸もうけなかった。一小隊は国場川中流にある奥武山付近の状況を探るため進撃していったが、これは失敗した。海兵隊はここで日本軍の猛烈な機関銃火にあって進出を阻止されたばかりではなく、退却するところを小隊長がやられて戦死した。… 第29海兵連隊は、5月28日に第4海兵連隊と交替し、日本軍のささやかな抵抗はうけながらも、日が暮れるまでに国場へ800メートルほども進撃していた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 406頁より》

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《AIによるカラー処理》Wreckage in harbor on the southern outskirts of Naha, Kokuba River.

壊れた船。国場川の埠頭

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南風原与那原運玉森

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 14]

この戦線にいた日本軍は、首里を撤退する司令部を掩護するため、米軍の進撃に対し「死にものぐるい」の抵抗をしていた。そのため、ここ数日間の戦況に変化はなかった。

27日にも戦況は進展せず、28日もただ偵察隊を出したにすぎなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 415頁より》

大里城陣地

重砲兵第7連隊(球4152部隊)兵士の証言:

我々の大里城陣地に敵が来襲したのは5月20日ごろで交戦状態となりました。昼は壕に入り、夜は出て行って攻撃するのだが、一人倒れ、二人倒れ兵員はだんだん減って行き、…それでも大里陣地は5月28日ごろまで頑張り、 首里の司令部の南部撤退を援護していました。他の周囲の部隊、第62師団、我々指揮下にあった独立混 成第44旅団の各隊も同様でした。海軍の大田少将らはこれに協力しつつ、小禄飛行場の元に陣地に撤退していきました。… 大里城陣地で我々通信隊は3階に上がり死ぬ覚悟をしていましたが、他の人たちは脱出し途中でほとんど戦死しました。城は階下は焼け、弾を受けながら一人、一人脱出して助かったのです。我々重砲隊は5月28日ごろまで頑張りましたが、撤退したときは200人くらいに減ってしまっていました。第1中隊や知念半島の第2中隊は全滅し、残ったのは本部と第3中隊だけになってしまいました。

《「重砲兵第七連隊 沖縄戦で生き残れた私」軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第6巻・重砲兵第七連隊 沖縄戦で生き残れた私」(平和祈念展示資料館: PDF より》 

 

第32軍の動向

小禄に差し戻された大田海軍

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

28日、米軍は小禄の手前、国場川の奥武山付近まで進軍していた。小禄に司令部壕をおく大田海軍は、11日 の陸軍第32軍の要請に従い、その抽出された部隊の多くがシュガーローフ首里南東(与那原・大里)に投入され、多くの犠牲を出した。

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《AIによるカラー処理》小禄半島全景 / Panorama of Oroku Peninsula.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

第32軍司令部による復帰命令

22日に第32軍司令部が決定した南部への移動に伴い、小禄半島を拠点としていた海軍部隊は、26日に砲台や機関銃座などの重火器を破壊したうえで南下を開始、27日までに真壁村伊敷(現・糸満市)への南下を終えていた。ところが、これは第32軍司令部の退却作戦計画が意図したものとは異なる行動とされ、この状況を知った第32軍司令部は「大いに驚いた」と伝えられている。八原高級参謀によると、第32軍退却計画にある海軍部隊に関するものは、以下の内容だった。「軍主力」とは第32軍司令部を意味する。

小禄地区海軍根拠地隊は、長堂北側高地以西国場川南岸の線を占領し、軍主力の退却を掩護する。退却の時機は、軍司令官後命する。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 339頁より》

しかしこれは海軍に伝えられていたのか。この事態について、沖縄戦に関する多くの文献では、「連絡が不十分だった」、「伝達ミス」、「命令の誤解」などと解釈されているが、これは、八原高級参謀が自身の著書で以下のように記していることに起因する。

海軍部隊は、かかる状況に処し、軍命令通りに動いているだろうか?28日夕までに得た諸情報を総合するに、海軍部隊は意外の行動をとりつつある。海軍の主力はすでに昨日喜屋武半島に後退し、軍の計画を無視して同地域各所の陣地を占領し小禄地区には数百名の弱小部隊が残置してあるに過ぎない。しかも、砲台、機関銃座の全部を破壊したという。

海軍の小禄地区撤退は、軍が後命することになっている。小禄地区に海軍が健在することは、軍全般の退却作戦に重要なことであった。海軍のかかる行動は軍命令の誤解に基づくものと推断される。軍としてこれを黙過するか、あるいは無慈悲に旧陣地に復帰を厳命するか、至急態度を決定しなければならぬ。憤然たる長野は、復帰命令を起案して私に提示した。この命令の巻き起こす混乱を予想して当惑したが、大局より判断し、これを認めることに同意した。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 358-339頁より》

これにより、海軍部隊は小禄半島へと引き戻される。復帰命令は長野参謀の案、とあるが、八原は第32軍南部撤退案を長野と共に進めてきた経緯があるため、今回の「無慈悲な」復帰命令も二人の判断と思われる。

一度南部に後退した海軍部隊を小禄地区に再び戻すことは混乱も予想されたが、南部戦線全体が総くずれになるのを恐れて軍司令部は28日再復帰の命令をだした。

大田司令官は軍命令に接して、海軍部隊が命令を誤解して後退したことを知り、28日夜直ちに大田司令官以下の主力は、ふたたび雨と泥と砲弾のなかを死傷者を出しながら、小禄地区に復帰した。将兵の中には「どうせ死ぬなら自分らが築城した陣地がある小禄で死ぬのが本望だ」という安堵の顔も見られた。

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 90-91、91頁より》

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《AIによるカラー処理》小禄半島--単発エンジン戦闘機 / OROKU PENINSULA---Single Engine Fighter.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍と小禄の海軍、復帰命令の背景

米軍の公刊戦史には、海軍の青年将校ら自身が小禄へ戻ることを主張したとある。米軍側の説では、海軍部隊の小禄地区復帰は、陸軍の命令に基づくものではなく、大田少将の判断であったことになっている。また、計画された撤退の時機についても、日本側の説と異なるうえ、青年将校らが『配置された地区に不満をもった』、『一部はそのままふみとどまった』という内容になっている。

第32軍本部は、全海軍に、5月28日を期して東海岸寄りの玻名城村落の新しい防衛線まで撤退するようにとの指令を発した。ところが、この指令の言葉の意味がどのようにでもとれるあいまいな文句を使用してあったので、根拠地隊のほうでは、運搬できないような兵器や大きな機械はほとんどその場で破壊し、撤退予定日より2日も早く、5月26日に南へ移動を開始した。ところが、指定された地域にきてみると、そこは、持ってきた武器だけではどうにもならない、いままでいたところと同じように悪い場所であった。

配置された地区に不満をもった海軍の青年将校たちは、憤懣やるかたないといった面持で大田少将に、「私たちは小禄に帰りたい。そこは海軍がみずからの手で築いた陣地であり、海軍のものです。長いあいだ、そこで戦うことを待ち望んでいたのです。ぜひそこで死なせて下さい」と懇願した。海軍として単独行動をとるべきだという彼らの決意は、やがて大田少将を動かし、部隊を小禄に移動させることになった。

大田少将は、陸軍に連絡することなく、5月28日、ふたたび部隊の移動を命じ、引き揚げはその夜のうちに行われた。およそ2千の兵が元の陣地に帰った。一部はそのままふみとどまって与座岳・八重瀬戦線で戦った。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 457-458頁より》

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那覇空港がある小禄半島、糸満市伊敷、八重瀬町玻名城の位置関係】

海軍の将兵による証言

海軍の上等機関兵は、第32軍司令部が撤退を決めた5月22日の夜、大田少将は戦闘経験がなく、武器をほとんど持たない〝槍部隊〟となった海軍の南下先の壕の調査を命じ、上等機関兵を含む4名を翌23日に先発調査で出したと証言しており、そこは、米軍側の説にある『悪い場所』とは正反対の内容である。

… 軍の喜屋武半島への撤退が決まった5月22日夜、大田少将は槍部隊を南部に移動させようと考えた。…翌日の正午ごろ、激しい艦砲射撃と梅雨の土砂降りの雨をついて出発した。… 一行は糸満の南約2キロ、目的地の真壁村伊敷(現・糸満市)にたどり着いた。そこはまだ、緑したたる田園が広がり、鶏、山羊の鳴き声がのどかな平和郷だった。

上等機関兵の証言:

「集落の前に松の大木が3、4本繁っていましたが、その地下に2、3百人は入れる立派な自然洞窟がありました。水も豊富に湧いているので、そこを護部隊の本部候補地にしました。うちの部隊は正規の隊員は800名でしたが、防衛隊や徴用の女子軍属などを入れると千名は居ましたから、付近に幾つかの自然壕を確保しました」

「…私の報告で各中隊の壕の配置が決まり、部隊が撤退を開始したのは5月26日ではなかったかねぇ」(393頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 391-392、393頁より》

海軍部隊の転進が完了した頃、その上等機関兵は、小隊長の命令で豊見城や宇栄原まで行っていた。そこで任務を済ませたあと、新たな陣地となった伊敷に引き返す途中、北上する海軍部隊と遭遇した。

上等機関兵の証言:

「砲撃をかいくぐり、29日午前3時ごろ、やっと真栄里(糸満と伊敷の中間)まで来た時です。南から友軍の部隊が北上して来る。よくよく見ると、何と羽田大佐以下の我が護部隊じゃありませんか。先頭に居た先任将校に聞くと『海軍部隊は小禄の元の陣地に復帰だッ』と吐き捨てる様に言う。私は半信半疑で、伊敷の自分の小隊に戻りました」(394頁)

…「陸軍は海軍に撤退の掩護をさせて、先に後退しようと考えていたのに、我々がいち早く転進し、良い陣地を確保したものだから、居場所がなくなると追い返したのですよ。一旦、壊した陣地を復旧するのは、そりゃあ大変でした。」(395頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 394、395頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/82-15-3.jpg

Terrain shot showing the approach to the enemy's hill on Oroku Peninsula which possessed an 8''gun which has been photographed in detail and which appears in this intelligence library. Note the high ground and the ruined hamlet on its slope.

小禄半島の、敵陣(日本軍)のあった高台への入り口付近。その陣地には8インチ(約20cm)砲が据えられていた。その様子は詳細に撮影され、写真は情報資料室に収蔵されている。丘と、廃墟と化した斜面の集落に注目

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

第32軍司令部は、「海軍が命令を誤解した」との認識だが、海軍側の将兵従軍看護婦の見解はそれとは異なる。

沖根の従軍看護婦の証言:

「戦後、32軍の将校さんに理由を聞いたら、海軍が大量に運んだ食糧が目当てで、小禄へ返したと告白しましたよ」

司令部付の曹長の証言:

「あの温厚な大田司令官が、復帰命令を聞いた時『今ごろ何を言うか』と激怒されました。海軍が命令を誤解したのなら、あんなに激怒されるはずがありません」』(395-396頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 395-396頁より》

小禄半島に戻った海軍部隊だが、火力が豊富にある米軍はすぐ目の前の国場川まで迫っているにもかかわらず、完全な槍部隊状態での復帰だった。

5月28日小禄に復帰した沖縄方面根拠地隊は、正規の軍人はわずかで、しかも主力を首里戦線に投入したことや、さきの南部への後退の際に重火器類をほとんど破壊したため、主力は〝槍部隊〟になっていた。

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 92-93頁より》

こうして陸軍第32軍は、小禄海軍からとれるだけ多くの戦力を抽出させながら、最後は何の装備もない「烏合の衆」となった小禄海軍を、自らの南下作戦を防備させるためにむざむざと前線に差し戻した。その小禄の部隊の多くが、地元から召集された防衛隊、民間人で構成されていた。また郷土部隊の永岡隊首里に残された。

6日16時53分(時点)に大田實司令官から本土に対して生き残っている部隊の人数が報告されている。これによると将校347名、兵6758名、配属された民間人 (attached civilians) 2995名、計一万名、さらに任務に付いていない者が千名(負傷者などか?)とある。この時点で小禄地区の海軍部隊には将兵以外に約三千人の民間人が動員されていたことがわかった。

林博史「暗号史料に見る沖縄戦の諸相」2003年》

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米国海兵隊: A long shot of the Machishi Hills, suburban hills generally northeast of Naha. These hills dominate the Eastern section of Naha and were defended by an enemy holding force while the bulk of the enemy's troops were withdrawing from Shuri to Yaeju Dake betw
那覇の北東側郊外に位置する牧志ヒルの遠撮。この丘陵地帯は那覇の東方にそびえていて、5月28日から29日の間に日本軍の大半が首里から八重瀬岳に撤退する間、一部の部隊が残って防御した。撮影日: 1945年 6月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

沖縄本島北部の日本軍 - 老女の処刑

4月の中旬までに沖縄本島北部地域一帯を制圧した米軍は、山々に入り掃討作戦を展開していた。北部地域にいた日本軍部隊には、ゲリラ戦部隊の第3遊撃隊、および第4遊撃隊がいた。

恩納(おんな): 第4遊撃隊

北部の恩納岳に避難していた多くの住民が、本部半島から恩納岳に敗走した日本兵の陣地と、それを掃討するために四方を包囲する米軍とのあいだに挟まれ、多くの住民が犠牲になった。

軍隊と住民との間には少なくとも一線が画されていた。戦うものと戦わないものとの区別があり、戦うものは戦わないものをかばい、戦わないものは戦うものに協力していた。お互いに目的は明確だった。だが、軍のいるところが安全だと思って、陣地に入ってくる住民のなかに、スパイが入り込んでいるという噂が流れた。

スパイは沖縄出身の妙齢の婦人で、彼らは赤いハンカチと、小型の手鏡をもっていて、陰毛をそり落としているのが特徴である、という情報がまことしやかに流れて、私たちもそれを信じていた。激しい戦闘がおわった28日の夕ぐれどきのことだった。雨が小降りになって硝煙がたれこめたわが頂上陣地の中ほどで、突然、自動小銃音が、パパパパンと鳴りわたった。「スワ敵襲」とばかり、南側の稜線陣地にいた私たちが、おっとり銃で駈けつけたところ、すでに惨劇はおわっていた。スパイをしたという住民の密告で住民の60歳くらいの老人が、狂暴化した兵隊に処刑されたのである。ついに味方が味方を殺す修羅場が現出しはじめた。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 216頁より》

 

 

南風原陸軍野戦病院壕 - ミルクと青酸カリ

南風原の陸軍野戦病院壕では5月25日に撤退命令が出されていた。

青酸カリが配られたのは5月28日のことだ。衛生兵が来てミルクの配給があるから、入れ物を出せと言うので、私も飯盒のフタを出して置いた。壕の入り口の方からミルクが配られると、入り口の方で大きな声で騒いでいるのが聞こえた。喜んで騒いでいるのだと思った。そして、自分の所にもミルクがきた。ちょっとなめると非常に苦かったので、ナゲーラ壕で看護婦さんがくれた黒砂糖を飯盒の縁で削ってミルクに混ぜた。「まだ苦いな」と、隣にいた北海道出身の兵隊と二人で話しながら、「もうこれくらいでいいやろ」と一気に飲み干した。そしたら目がグワーッとちらついてきて、息苦しくて、胃の中が煮えくりかえる感じがした。「こりゃ毒や」と気づくと、水筒の水を飲み、指を突っ込んで吐いた。2~3回繰り返した。北海道の兵隊さんにも吐かせた。他の患者は一気飲みしたのか、始めは苦しんでいたようだが、もうシーンと静かになっていた。「殺される」と思った瞬間、不思議な事にそれまで動けなかった体で立っていた。走り出した途端、後ろから「コラー、誰だ、逃げるのはーっ」と怒鳴られ、ピストルの音が何発も聞こえた、壕は真っ暗なので当たらず逃げる事ができたが、北海道の兵隊は山川橋200~300メートル前まで行ったところで艦砲射撃に吹っ飛ばされてしまった。 

南風原町南風原沖縄戦PDF

「恐らく唯一の生き残りだろう」

岡氏は今日に至るまで、この南風原の壕の毒殺事件のほかの生き残りに出会ったことがない。「 (日本軍兵士として) 国のために戦ってきたのに、怪我をしたら殺して捨てるのか。軍に裏切られた怒りは絶対忘れない」と語る。

《國森康弘『証言沖縄戦日本兵: 60年の沈黙を超えて』岩波書店(2008年12月) p.55》

 

そのとき、住民は・・・

さまよう住民 - 壕からの追い出し

日本兵に壕を追われながらさまよい南下する住民。子どもを連れた母親を迎え入れてくれる壕はなかなか見つからなかった。

その翌日の事でしたが、前に私達が入っていた壕が直撃にあい七~八名は下敷になったままで後の人達も黄燐弾にやられて死んでいたり、虫の息になっている、とその壕に入っていた人が知らせに来ました。… ここでやられたのは、ほとんどが大名の人でした。ついこの間までは親しくつきあっていた人達の不幸に直面しても看設さえしてあげる事も出来ませんでした。シズさんからも「姉さん私をこのまま捨てないで!おかゆでも炊いてからどこかへ行ってね」と云っていました。もうその場を離れる時は本当に後髪をひかれる思いでした。

 ぬかるみの中をあてもなくさまよい歩きました。どこをどう歩いたのか、何日たったかも分らずただ歩いていて、疲れたらどこか壕をさがして入って眠り、又歩くといった具合でした。真玉橋に来た時でしたが、橋はこわれていて、そのあたりにはちのすごく大きく脹れあがった死体がころがっていて、無数のハエがブンブンたかっているのを目をつぶり、息をのみこんで、ようやくの思いで通りました。

夜はいつも照明弾が上っていましたので、その明りを利用して「ああ、こっちに道がある」といった具合にして進んでいきました。子供をおぶり、母の手をひき、荷物をもった私達ですから、思う様には進めませんでしたが、具志頭にきて、そこでは具志頭郵便局の壕に入りました。こっちでも二~三日位入っていたと思ったら友軍の兵隊が来て「日本が勝つためには皆さんに協力願わねば」とその壕のあけわたしを云われました。出された時は日も暮れ、雨も降っていたので困り、大名で近所だった玉那覇のお母さんや次男が、近くの壕に入っていたのでその壕に行って、入れてほしいとたのみましたが、子供づれは嫌がられて、ことわられました。壕をみつけても「こっちに入りなさい」といってくれる人は誰一人としてなく唯もう自分さえよければ、という態度ばかりでした。しかたなく又どこかのお墓をあけてかめを一まとめに出しそこに入り眠るといった連続でした。もうその頃からは食糧にも困りだしていました。

「首里先発隊」沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

 

「デテコイ」役

米軍が設けた田井等収容所にいた住民の中には、前線で住民に投降を呼びかけるという任務を与えられた男性たちがいた。その中の数人は、5月上旬から米海兵隊の第29連隊とともに南下、浦添の牧港、勢理客一帯の壕内に潜む住民や日本兵を捜索し、那覇に入った。

壕あさりの舞台は那覇市内にも展開した。5月28日日本軍の一部は楚辺一帯の平地に押し込められ、城岳には平賀中佐の指揮する船舶部隊が居残って、それらの陣地から死物狂いの反抗をつづけた。そのために捜索班は行手を阻まれ土堤にしゃがんで日本軍の機銃弾をさけた。連日の雨で、水が奔流となって畑のあぜを浸し、附近の畑や地上に転がった、日本軍の腐爛死体から湧く、無数の蛆虫が、流れに乗って、彼らのズボンや手足に遠慮なく這い上った。

那覇市貫流している久茂地川の裏手の墓地には、…多数の住民がたて籠っていた。皆目戦況を知らぬ住民は、…説得にも頑固に首を振り一歩でも墓穴壕を退かぬ、「若し強いてわたし達を米軍に引き渡したければ、一思いに君の手で殺してくれ」と、拒んだ。…説得が効果を現わし、恐怖と、死地脱出の一縷の望みに、ゾロゾロと墓穴を出た人々が、泊高橋附近まで誘導され、そこから米軍の差し廻したトラックに乗せられて安全地帯へ送られた。垣花部落の後方高台には、未だ日本軍の敗残兵が頑強な抵抗を試みるのか、迫撃砲や、重機関銃の弾が飛来するので、一行の進出は難渋を極めた。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 174-175頁より》

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《AIによるカラー処理》前線で集められ、屋富祖で(トラックから)降ろされる地元民

Civilians collected at front being unloaded at Yafusu.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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屋富祖で登録された地元沖縄人

Okinawan Civilians being registered at Yafusu.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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