〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年9月5日 『祖国という観念』

無貨幣という経済支配 / 66年目の「ヤマト世(ゆ)」終焉 / 身勝手な大人たち

 

米軍の動向

沖縄の日本軍降伏調印式に向けて

琉球列島の日本軍降伏受諾に関し、米第10軍司令官は8月29日に徳之島と宮古島の日本軍司令部に連絡をとりつける。9月4日宮古島から納見敏郎中将が到着。7日の沖縄第32軍降伏調印式まで、降伏文書の調整が行われる。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米陸軍: Representatives of the Japanese command in the Ryukyus met at the headquarters of Gen Joseph Stillwell today (Sept 5th) to receive their surrender instructions. They arrived on Okinawa Tuesday and met immediately with Maj Gen Frank Merrill to receive 

琉球の日本軍司令部の代表者は今日(9月5日)、降伏指示を受けるためにジョセフ・スティルウェル将軍の司令部に集まった。彼らは火曜日 (4日) に沖縄に到着し、すぐにフランク・メリル少将と会談し、会談を行った。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

基地依存経済の造成 - 無貨幣時代

4月1日のミニッツ布告によって貨幣を含め一切の金融・経済活動が停止された沖縄では、未曽有の無貨幣社会となる。(旧)日本紙幣は米兵に人気の戦利品(土産)となった。

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Prized possession of Owen Landy (right) is this 70-piece, 30-foot long short-snorter bill.

オーウェン・ランディ(右)のとっておきは、長さ30フィートになった、記念の署名入りの紙幣70枚である。(1945年9月5日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

人為的に作られていく基地依存経済。

米軍が沖縄本島に上陸して軍政府の樹立を宣言した1945年4月1日から、第1次通貨交換によって通貨経済が再開された1946年4月15日までの約1年間は現代史においてはきわめて異例ともいえる「通貨なし経済」が続いた。

上陸と同時に米軍は作戦上、住民を戦闘地区から非戦闘地域へ強制的に移動させて収容したが、戦後の住民生活はこのような収容所の中からスタートした。生産施設はいうにおよばず、ほとんどすべてのものを破壊された住民は、まさに着のみ着のままの状態であった。食糧、衣類等は米軍によって無償で支給される一方、労働可能な住民は収容所の建設、米軍施設の雑役、沖縄戦の後かたづけ等の「軍作業」に駆り出された。住民はこれを無償配給時代と呼んでいるが、そこでは通貨は流通せず、すべてが現物で支給または交換される物々交換の経済を営んでいた。こうした現物経済の下で必要なものはバーター方式で入手したが、当時、物々交換の単位を表わす標準的な価低尺度として利用されたのは米国製のタバコであったといわれる。

《牧野浩隆『戦後沖縄の通貨 上』おきなわ文庫 (2014) 》

タバコを吸わなくても、米軍タバコが経済の価値基準となった。

戦後、沖縄学の第一人者となる外間守善の手記

私は作業員の人員点呼をする仕事のほか芝居小屋の美人画家だった金城安太郎*1 さんたちといっしょに米軍将校宿舎の装飾用の絵を描くことをしていた。米兵たちは帰還する時のお土産用にといって下駄の台に富士山を描き、下の方にOKINAWAと書いてくれと注文した。沖縄に富士山はない、といっても彼らはきかなかった。注文は殺到し、代価はアメリカ煙草2ボール (2ボールはラッキーストライクなど10箱入り) だった。一日に10ボールくらい稼いだ。当時、学校の教員の月給220円で煙草が2ボールくらい買えた。だから相当良い仕事だった。私は煙草は吸わないので兄守栄用にストックしたほかはみんなに上げて喜ばれた。

米軍は緊急貨幣としてB型円軍票 (B円) を発行するが、1947年時点でもタバコボールが貨幣価値のはかりとなっていた。

そこに勤めたら、初の月給がB円の二百五十円でした。煙草のラッキーが一ボール(紙巻煙草二十本入り十個)そのくらいでしたから、ちょうど一ボールで一か月使われているわけですね

島袋勝子 証言『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 真栄里 - Battle of Okinawa

 

第32軍の敗残兵 

沖縄島の捕虜収容所

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米軍は7つの捕虜収容所を設置した。北東海岸に集中させた民間人収容所と異なり、捕虜収容所がそれぞれ米軍基地地域に設置されたのは、捕虜を港湾や飛行場などでの軍作業に従事させやすいためであると考えられる。

45年6月現在、沖縄本島及び近隣地域の日本兵1万人が捕虜となり 同年12月にはその数が1万6千人にふくれあがった。おそらくそれは米軍による住民スクリーニング(査察)により身分が露見した兵士や 部地区や周辺に潜んでいた日本兵が捕まったためであろう。しかし は、同年末から翌年早々に大量の旧日本兵を本土に送還したため、沖縄本島で捕虜となった者は約5千人と大幅に減少した。その代わり今度は宮古島から旧日本兵8千人沖縄本島に捕虜として送り込まれ、約3千人が引き続き米軍捕虜になっている。

この中で屋嘉収容所は46年6月に閉鎖となり、それまでの収容者は嘉手納収容所に移動された。1946年10月、最終的な捕虜の本土帰還が開始され、この月だけで約3,500 人が復員している。その後、収容者は嘉手納捕虜収容所に移動し、残余の収容所は閉鎖となり、47年2月までに捕虜全員が本土に帰還できた。

《保坂廣志『沖縄戦集合的記憶』紫峰出版 (2017) 218-219頁 》

海軍建設大隊が記録した日本軍捕虜の軍作業の様子。

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Jap prisoners

《 147th NBC メモリアルブック, 1945, p. 105. 》

米軍は、日本軍が住民を根こそぎ動員した少年兵から防衛隊員までを捕虜収容所に収容したため、結果的に11歳の少年から中高年までの多くの沖縄人男性が収容された。米軍は6月から、主に沖縄人捕虜をハワイやアメリカ本土の収容所にまで転々と移送し始めるが、港湾や飛行場での労務者として一律に効率を高めるため、多様な年齢層の沖縄人捕虜を県外に排除したとも考えられる*2

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コザ付近にある軍政病院。北向き。

Military Government Hospital area located near Koza, looking north.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

捕虜収容所でも蔓延するマラリア赤痢

この頃は、皆が眼を覚める時刻になっても、一向に動こうとしない者がボツボツとあって、ほとんど夜中のうちに便をたれ流しにしたまま息絶えており、隣りの者も気付かないことが多かった。そうなるとすぐテントの外に出し、収容所から来る捕虜の作業員達が近くの藷畑に埋めてしまうのである。何日かに一人は確実に発生するそうした者を見ていると、〝やっと阿嘉島で生き延びて来たのに、俺もここで終わるかもしれない〟と、いささか心細い日日での連続で、他の者の目にも私の状態がもうそれに近いものに映っていたようであった。

こうした身心共に病み衰えて、ズルズルと絶望状態になりかけているのを、ようやく食い止めることが出来たのは、19歳という肉体のもつ復元力であった。熱の一週間とそれに続く下痢の一週間で、瘠せることの限度まで来た時に、ようやく僅かながら食欲が出て来た。

やっと立上れるようになった頃、このキャンプに看護婦兼雑役のために来ている沖縄の娘が、放置されたままの私に同情して、洗たく場からたらいを持って来て水浴させ、便で鼻もちならぬタオルなども洗ってくれた。私は感謝の意を表すために、積み重ねてあったレーションを渡した。そして、もし出来るなら米と梅干と味噌を見つけてもらいたいと頼んだ。米はとにかくとして、この戦場のあとの沖縄の地では、味噌や梅干はとうてい不可能な望みと思っていたのだが、どこでどうやって見つけたのか、2、3日すると少量ながら米と味噌を持って来てくれた。

儀同保『ある沖縄戦 慶良間戦記』(1992年) - Battle of Okinawa

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米海軍: Okinawa. Native nurses with Navy doctors.
海軍の医師と一緒に写る地元看護師。沖縄にて。1945年 9月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

「かつて経験したことのない世界」

日本が「琉球処分」と呼んだ1879年3月27日の沖縄強制併合から、わずか66年目「ヤマト世」は、ありったけの地獄をかき集めた沖縄戦という最悪の結末で終わりを告げる。

米軍野戦病院: 久志村

日本が無条件降伏をして「イクサ」は終わった。テント病棟の喧騒はおさまり、退院を待つ者が多くなったためであろうか、村のこと、暮らしの様子が話の中心であった。特に、消灯後の話は、離れ離れになっている肉親のこと、故郷への思いに終始した。あとは思い出につながる歌を歌い、今でいうリクエストがでると誰かが歌った

そのころ、私たち(私だけだったかもしれない)には、日本が戦争に負けたという切迫したものがなかった。日本降伏の日の悲嘆はどこへどうなったか、誰も口にしなかった。祖国という観念も消えていた。戦争に負けたことに、むしろホッとしている自分に気がついてもあわてなかった。後ろめたさもなかった。

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 121頁より》

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Okinawa. Temporary hospital facilities.

仮設病院施設。沖縄にて。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

1945年9月、…私が、かつて経験したことのない世界 --- 戦後の沖縄がそこに始まっていた。…配給所前の国旗掲揚のポールにはためいている星条旗に気がついた。喜屋武の海岸に追い落とされたとき、米艦艇のマストにひるがえっている星条旗を間近に見たときの恐怖がよみがえったが、それはすぐに消え、雑踏の匂いに包まれた。

…久志へ来て間もなく、市長、市会議員の選挙があった。…久志は、久志、ミヤランシン、辺野古、大浦崎の4つの「区」を持つ市であった。ところが、「メイヤー」(市長) と呼ばれるもうひとりの権力者がいた。彼は久志市の中心久志区の区長であるべきであるが、この区長のメイヤーは市長選挙よりも前、米軍の久志占領と共に任命されたらしく、食糧配給の実権を握る実力者であった。民意によって選ばれた市長は、戦後処理の第一歩たる住民の出身市町村への移動事務が主たる仕事であった。

だから、市長選挙があったとしても「区長のメイヤー」の存在に変わりはなかった。彼の事務所には米大統領トルーマンの肖像が掲げられ、メイン・ポールにひるがえる星条旗とともに、新時代の到来を謳歌しているようであった。戯画ではない。本当のことだ。

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 121-124頁より》

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The American flag flying over the Military Government center at Kushi, Ryukyu Islands.

軍政府施設の上ではためく米国旗。沖縄本島の久志にて。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

変わり身の早い大人たち

戦争中、住民を弾薬運びなどの労役に強制的に駆り出した警察は、戦後は CP や CIC に、また生徒に皇国のための殉国を説いた教師は、戦後の教育や民政府樹立のための模索を続ける。しかし、この時期もまだ「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語教育勅語を背負わされた少なからずの学徒兵たちが戦場に置き去りにされていた。

県立水産学校通信隊でたった一人生き残った瀬底正賢さん証言

瀬底さんらが捕虜になったのは終戦からかなりたった10月3日だ。6月下旬の司令部壕の落盤で負傷した上前寛市さんも、かなり弱っていた。瀬底さんも地雷に吹き飛ばされた時、30カ所に大小の傷を負い元気はなかった。 

南部の収容所に着いた時、元警察署長*3 だった責任者に「上前君は弱っており、早く医者に見せてもらいたい」とたのんだ。だが、返って来た言葉は「学徒兵でも陸軍2等兵は陸軍2等兵。そんな言い訳は聞けない」と断られ、トラックで屋嘉収容所に運ばれた。2、3日して上前さんは傷口が悪化、死亡した。

軍部とともに威張り、私たちを戦場へ駆り立てていた警察幹部が、そのころには米軍の下で威張っている。たった1人生き残った学友も彼が奪った。今でも彼に対して怒り、うらみは消えない」― 純心であるがゆえに、戦場での犠牲も大きかった学徒だけに、変わり身の早い大人たちの身勝手さは許せなかった。

沖縄県立水産学校 22人の水産通信隊 たった一人の生還 - Battle of Okinawa

敗残兵として、あるいは捕虜として、野戦病院や、ハワイの捕虜収容所で…、ちりじりばらばらにされた学徒たちは、悪夢と孤独のなかでも戦後の世界を懸命に生き抜こうとしていた。

 

 

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*1:戦後の沖縄を代表する日本画家となる。

*2:県人捕虜のハワイ移送、捕虜増え収容所の環境悪化懸念が理由 米軍文書で判明 - 琉球新報

*3:この G という名の「元警察署長」は、一転して CIC の下で学徒や防衛隊員を暴きだそうとする厳しい尋問をすることで有名だった。