1945年 9月5日 『祖国という観念』

米軍の動向

戦利品

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オーウェン・ランディ(右)のとっておきは、長さ30フィートになった、記念の署名入りの紙幣70枚である。(1945年9月5日撮影)

Prized possession of Owen Landy (right) is this 70-piece, 30-foot long short-snorter bill.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

降伏文書調印式までの動向 

琉球列島の「降伏」 ⑥

第10軍司令官スティルウェル将軍は、9月2日以後、琉球列島の全日本軍の降伏を受諾せよとの指令を受けたため、8月28日宮古八重山奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。翌 29日以降、離島に駐留する日本軍部隊の司令官らと連絡がついた。9月4日、日本側の代表者らが読谷飛行場に到着、降伏に関する詳細な指示が書かれた文書などを受け取った。

『…9月5日の朝、彼らは第10軍参謀長フランク・メリル少将に面会し、降伏指示文書の不明確な点について質問を許された

日本側代表団は午後1時、読谷飛行場から離陸した。宮古島代表団は旧式の爆撃機を利用し、徳之島代表団はC-47輸送機で送られた。』(229頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 229頁より》

 

 

第32軍の敗残兵 

美里野戦病院

『入院して4日目に、前回と同じように4度目の熱が出たあと、マラリアの症状は止まった。しかし、この頃からアメーバ赤痢の症状が出てきた。血便とも粘便ともつかぬものが、暇にまかせて数えたところでは1日53回にも及んだ。こうした状態では食欲は全くなく、Kレーションの中から角砂糖だけを抜き取って、舌の上でとろけさせるだけの日が続いた。私の枕許にはレーションの箱が煉瓦のように積まれた。

隣に寝ている住民の患者が、遠慮がちに

このレーション、食べないなら私にくれませんか。」

といった。私は〝角砂糖のほかは、みな持って行ってくれ〟と言うと、喜んで1日おきくらいにくる身内の者に、それを渡していた

便の始末は、最初のうちは便器を用いてテントの外で足し、50メートルほど離れた仮設便所まで捨てに行っていたが、その途中でも何回か使用せねばならぬようになり、やむなく便器を1個ベッドの下に借用しておいた。ところが、このテントの牢名主のような顔をして、他の者に大声で文句を言っていた兵隊が、

「手めえ、便器を独り占めにするない。使ったら洗って外にかけておけ」

と私に向かってどなった。私もそれはわかっているのだが、動くとすぐ尻の方がいかれてしまう状態なので、もはや方法もないと諦めて、腰にバスタオルを巻き、毛布で身体を包んでたれ流しの状態になった。

これが2日も続くと、牢名主もさすがに同情したのか、または私に気合を入れ過ぎたのを気がとがめたのか、衛生兵に、

あそこの若いのが、あぶないようだから何とかしてやってくれ

と私を指して言った。ようやく米人の軍医と衛生兵、それに前とは違う元気のいい若い日本人の軍医が来たが、日本人の軍医は入って来て私を見るなり、顔をしかめただけで手をかけようともしなかった。』(225-226頁)

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 225-226頁》

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コザ付近にある軍政病院。北向き。

Military Government Hospital area located near Koza, looking north.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『この頃は、皆が眼を覚める時刻になっても、一向に動こうとしない者がボツボツとあって、ほとんど夜中のうちに便をたれ流しにしたまま息絶えており、隣りの者も気付かないことが多かった。そうなるとすぐテントの外に出し、収容所から来る捕虜の作業員達が近くの藷畑に埋めてしまうのである。何日かに一人は確実に発生するそうした者を見ていると、〝やっと阿嘉島生き延びて来たのに、俺もここで終わるかもしれない〟と、いささか心細い日日での連続で、他の者の目にも私の状態がもうそれに近いものに映っていたようであった。

こうした身心共に病み衰えて、ズルズルと絶望状態になりかけているのを、ようやく食い止めることが出来たのは、19歳という肉体のもつ復元力であった

熱の一週間とそれに続く下痢の一週間で、瘠せることの限度まで来た時に、ようやく僅かながら食欲が出て来た。

やっと立上れるようになった頃、このキャンプに看護婦兼雑役のために来ている沖縄の娘が、放置されたままの私に同情して、洗たく場からたらいを持って来て水浴させ、便で鼻もちならぬタオルなども洗ってくれた

私は感謝の意を表すために、積み重ねてあったレーションを渡した。そして、もし出来るなら米と梅干と味噌を見つけてもらいたいと頼んだ。米はとにかくとして、この戦場のあとの沖縄の地では、味噌や梅干はとうてい不可能な望みと思っていたのだが、どこでどうやって見つけたのか、2、3日すると少量ながら米と味噌を持って来てくれた

一方私のあとを追うように、これも赤痢の疑いで送られて来た渡辺が、偶然隣りのテントに入ってきたので、彼に粥を作ってくれるように頼んで、子供のころから変わった好物としていた、粥に味噌を入れて掻き廻したものを、少量ながら口にすることができた。これが回復のきっかけとなったようで、下旬になってようやく、ふらつかずに歩けるようになった。』(226-227頁)

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 226-227頁》

 

 

そのとき、住民は・・・

 米軍野戦病院: 久志村

『日本が無条件降伏をして「イクサ」は終わった。テント病棟の喧騒はおさまり、退院を待つ者が多くなったためであろうか、村のこと、暮らしの様子が話の中心であった。特に、消灯後の話は、離れ離れになっている肉親のこと、故郷への思いに終始した。あとは思い出につながる歌を歌い、今でいうリクエストが出ると誰かが歌った

そのころ、私たち(私だけだったかもしれない)には、日本が戦争に負けたという切迫したものがなかった。日本降伏の日の悲嘆はどこへどうなったか、誰も口にしなかった。祖国という観念も消えていた。戦争に負けたことに、むしろホッとしている自分に気がついてもあわてなかった。後ろめたさもなかった。』(121頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 121頁より》

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仮設病院施設。沖縄にて。/ Okinawa. Temporary hospital facilities.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

1945年9月、…私が、かつて経験したことのない世界---戦後の沖縄がそこに始まっていた。…配給所前の国旗掲揚のポールにはためいている星条旗に気がついた。喜屋武の海岸に追い落とされたとき、米艦艇のマストにひるがえっている星条旗を間近に見たときの恐怖がよみがえったが、それはすぐに消え、雑踏の匂いに包まれた。

…久志へ来て間もなく、市長、市会議員の選挙があった。…久志は、久志、ミヤランシン、辺野古、大浦崎の4つの「区」を持つ市であった。ところが、「メイヤー」と呼ばれるもうひとりの権力者がいた。彼は久志市の中心久志区の区長であるべきであるが、この区長のメイヤーは市長選挙よりも前、米軍の久志占領と共に任命されたらしく、食糧配給の実権を握る実力者であった。民意によって選ばれた市長は、戦後処理の第一歩たる住民の出身市町村への移動事務が主たる仕事であった。

だから、市長選挙があったとしても「区長のメイヤー」の存在に変わりはなかった。彼の事務所には米大統領トルーマンの肖像が掲げられ、メイン・ポールにひるがえる星条旗とともに、新時代の到来を謳歌しているようであった。戯画ではない。本当のことだ。』(121-124頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 121-124頁より》

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軍政府施設の上ではためく米国旗。沖縄本島の久志にて。

The American flag flying over the Military Government center at Kushi, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『アメリカ・ナイズされたメイヤーさんに対して、「アメリカーになったつもりでいる」と、陰で非難をする者はいたが、面と向かって「大和魂を忘れたか!」と怒鳴る者はいなかった。〝大和魂〟は戦争で吹き飛ばされ、米兵との交歓風景があちこちで見られた。米琉親善という言葉はまだ無かったが、〝民主主義〟という言葉がそろそろオールマイティーになりつつあった。』(124頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 124頁より》

 

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読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所