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1945年 4月15日『北部の学徒隊 〜 県立第三中学校 〜』

本部(もとぶ)半島・八重岳の攻略

海兵隊は堅固な陣地のある小島での戦闘には慣れていた。だが、沖縄での戦闘は過去の経験からではなく、それこそ「教科書のなかからそのまま抜き出した」演習のような戦術を使用しなければならなくなったのである。こうした演習のような戦術をくりかえして、4月15日海兵隊はついに最後の攻撃を試みるにいたった。

これと同じ日に、海兵第29連隊の第3大隊は、八重岳の西方、山の峰を越えてすぐ真下にある米軍前線の左翼(北)から東部の日本軍を攻撃した。

一中隊がその場に残留する間に他の部隊は山をぐるっと迂回し、第3中隊の小銃や機関銃の掩護射撃に守られながら攻撃して行った。ここで激しい肉弾戦がくりかえされたが、海兵隊はついにこの山の稜線を奪いとったのだ。

この前線中央部では、海兵第4連隊の第2大隊が、八重岳のちょうど西側にあるもう一つの丘を攻撃した。一中隊が一つの峰を占領したかと思ったら奪いかえされ、はげしい攻防戦がくりかえされた。しかし、この攻防戦のおかげで、右翼(南側)を攻めた第一大隊の進撃は大いに救われた。4月15日の夕暮れまでに、第一大隊は、八重岳に面してうねりくねった山の稜線に沿って塹壕をめぐらすことができたのだ。その左翼後方(北西部)には、シャプレイ大佐の他の大隊がいるのだ。米軍がしだいにその包囲網をせばめて行くにつれ、日本軍はだんだん八重岳の頂上の方に追いつめられていった。(134-135頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 134-135頁より》

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洞窟内に潜む日本兵を探す米軍兵

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 6]

 

周辺離島の制圧
伊江島(いえじま)・上陸前夜: 水納島(みんなじま)

15日には、第305、第902、第306の各野砲大隊が、水納島に陣地を敷き伊江島作戦にそなえた。各大隊ともいち早く基地を選定し、攻撃目標にねらいをつけた。水納島占領後2、3時間でつくった急ごしらえの飛行場から小型飛行機3機が飛び、砲兵大隊の目標選定の連絡をとった。だが、米軍砲兵隊は、翌日の攻撃開始時間までは、予備攻撃もなにもしなかった。』(147頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 147頁より》

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伊江島(上・下)

IE SHIMA looking east over 77th Division landing beaches, toward the Pinnacle. Marked are Green Beach 1, where the 1st and 2d Battalions, 306th landed, , and Red 1 and Red 2, landing beaches of the 3d and 1st Battalions, 305th, respectively. Heaviest fighting took place on the eastern end of the island (below), where the town of Ie can be seen between southern beaches and the Pinnacle.

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 HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

 

 

 日本軍の航空特

「菊水作戦・3号」発動

4月15日になると、増槽をつけた米戦闘機80機あまりが、午後、鹿屋と鹿児島に来襲。翼の下に増槽をつけていることから、沖縄基地から飛びこんできたことがわかり、こうなるといつ、どんな形で奇襲を受けるか、油断もスキもならなくなった。

この米戦闘機が引揚げるのを追跡するという形で、「菊水3号」作戦がはじまった。

「菊水2号」作戦のとき、米軍のレーダー・ピケット艦、陸上レーダー基地、攻撃基地が整備してきたため、味方攻撃機は、目標に到達する相当前のところで、待機しているグラマンに食われた。そこで「菊水3号」では、前の日の夕方、特攻隊を出して、まず飛行基地を制圧、これを使えないようにし、作戦当日には、味方の使える戦闘機を一回に集中使用し、戦場の制空権をとって、そこに特攻部隊を進入させる、という方法にかえた。

この日の作戦機数は、海軍が415(内特攻176)機、未帰還127(内特攻106)機。陸軍92(内特攻51)機。陸海を合わせると、作戦機数507(内特攻224)機。

しかし、507機も作戦させたにしては、成果はそれほど挙がらなかった特攻機によって駆逐艦1隻を撃沈し、空母「イントレピッド」、戦艦「ミズーリ」、その他駆逐艦・掃海艇5隻を損傷させたにとどまった。米軍の特攻機対策が、レーダーと戦闘機の緊密な協同によって、日一日と完成されていることを証拠立てていた。それと反対に、味方航空部隊の側では、依然として戦局に追い立てられ、搭乗員の技倆はジリジリと落ちていき、かつ機材の性能も悪くなった。練習機まで特攻機として出ていたグラマンにとっては、赤子の手をねじるようなものであった。』(216-217頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 216-217頁より》 

恩納岳にいた日本兵の証言

『12日から15、16日にかけて空の特攻はなおつづいた。

恩納岳からみる海上はるか、早朝、薄暮を利用して敵の艦船部隊に対して突入してゆくわが軍の特攻機の姿がみえた。九州の方から編隊をくんで、海面近く突入してくる日本軍の飛行機はあまりに小さく可憐であった。それが、脚の間にばかでかい爆弾を抱いて、ちょうど蜜蜂が体の半分もある花蜜を脚につけて、ようやく自分の巣にたどりつくように彼らは敵艦の上に次々に吸いこまれていった。大きな火柱があがると、われわれは「フーッ」と溜息をつき、頭を垂れて冥福を祈ったが、しかし敵は巨大な艦隊であった。突っ込んでも、突っ込んでも、沈めても、沈めてもなお敵艦は健在であった。』(193頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 193頁より》

  

第32軍の動向

北部戦線

本部(もとぶ)半島: 八重岳(国頭支隊・宇土大佐)

宇土部隊長はついに八重岳を放棄し、4月15日の夜、山本中尉、態田(正行)副官などを率いて野岳へ後退した。…宇土隊長の一行は、激しい砲撃下を暗夜をついて嵐山稜線を越え、翌16日の午前3時ごろ、羽地村我部祖河の武田薬草園近くまできた。一行がその前線を突破しようとしたとき、突然激しい十字砲火に襲われて支離滅裂となり、ほとんど全滅の状態になった。そこには米軍が布陣していたのであった。(249頁)

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 249頁より》

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 八重岳と多野岳の位置

 

伊江島(いえじま): 国頭支隊

伊江島沖縄本島北部の本部半島から西5キロの海上に浮かぶ円盤状の島である。この島に日本軍は東洋一を誇る航空基地を建設していた。工事は昭和18年ころから始まり、島の住民はもとより北部全域の労働力を徴用して昼夜兼行で進められたが、ショベルや鍬などの原始的な工具に頼る工事は長期間を要し、ようやく飛行場らしい体裁がととのうのは米軍上陸の1ヵ月ほど前だった。しかし、せっかく完成した飛行場もほとんど使用されぬまま日本軍みずからの手で破壊されねばならなかった。敵上陸を目前にひかえた沖縄ではもはや航空基地としての役割はなくなり、劣勢の守備軍ではこれを確保することが困難だからである。

滑走路は破壊したが、これが米軍によって修復され本土侵攻の航空基地に利用されるおそれはのこっていた。そこで、国頭支隊から伊江島守備隊約2700名が派遣され、城山を中心に堅固な陣地を構えた。守備隊のなかには正規兵のほかに約1200名の防衛召集兵と伊江島防衛隊、青年義勇隊、女子救護班、婦人協力隊など島の住民が数百名も参加していた。』(128-129頁)

《復刻版「日本の空襲ー九 沖縄」(日本の空襲編集委員会/三省堂) 128-129頁より》

 

 

北部戦線の学徒隊

県立第三中学校・通信隊 (無線/有線/暗号)

『19年11月ごろから第三中学校の教室を利用して、無線(37人)、有線(16人)、暗号(13人)の3班に分かれて教育訓練を受けた。各班とも3月23日、伊豆味国民学校で軍服を支給され、二等兵として直ちに各部隊に配置された。

無線班は真部山、有線班は八重岳の部隊に配置され、勤務は交代制で大本営からの通信を傍受したり、道路の補修、陣地構築、歩哨、警戒などにあたった。

4月15日真部山が激しく攻撃され、通信不能に陥ったので、電信機を破壊し、各自手榴弾を携帯して15日の夜、三々五々、野岳に移動を始めた。途中真部山のふもとで米軍に遭遇し、無線班…有線班…など4人の学徒が戦死した。その後も為又や薬草園付近で米軍の攻撃を受けて死傷者を出したが、敵中を突破して21日ごろ、やっと多野岳に着いた。その後は遊撃隊に合流してゲリラ戦に従っていた。

暗号班は、3月23日から4月13日まで真部山の陣地で暗号勤務に服していたが、4月14日、米軍の砲爆撃により電信機が破壊されたので、全員手榴弾4個ずつを支給され、佐藤大隊の戦闘指揮所付近の守備についた。

4月15日正午米軍の攻撃を受け、徳丸中尉の指揮で暗号班全員肉薄攻撃を敢行、うち6人が戦死。…が負傷した。16日夜、部隊長の命令で多野岳に向かって撤退。21日、多野岳に着くと、直ちに谷口中尉の指揮下にはいり遊撃隊に合流した。』(105-106頁)

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 105-106頁より》

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暗号班学徒の証言

『八重岳の本部では木造の兵舎内にあった暗号室は、真部岳に移動後は壕内に設けられていた。いつの間にか掘られており、ちょっとのことでは崩れそうもない堅固な壕だった。』

『ここでも少年たちに伝えられる兵隊たちの話は楽観的なものだった。「ここは苦戦をしているが石川までは日本軍で埋まっている」「皇軍はサンフランシスコに上陸、今ニューヨークを目指して突進中だ」。そんな“情報”の一つ一つに胸を躍らせて聞き入った。』

4月15日、暗号班にも出撃命令が下る。初めての戦闘だ。「訓練の時から暗号班が出るのは最後と教えられていたから、これでダメだと思った」』

『少年たちに銃はなく数個の手りゅう弾が渡されただけ。明るいうちに頂上に布陣したが、そのまま夜まで待機した。反対の南側のふもとでは戦闘が盛んに行われている。激しい機銃の音が休まず聞こえるし、砲弾がその音に強弱をつけていった。頂上にも時折、砲弾が飛んで来た。松の枝が鋭利な刃物で切ったようにサッと飛んで行く。夜になっても戦闘を始める気配はない。南側の斜面の木が燃え、照明弾がポンポン上がり、隣の顔まで見える。ふもとでの戦闘は続いている。三中の鉄血勤皇隊員らも加わっているはずだ。だが、その夜は戦うことなく、なぜか全員を引き揚げさせた。』

『帰る途中、…本部半島と伊江島との間に堂々と停泊している米軍艦を見た。「あんな大きな軍艦!」。…ほとんど見通しのない兵舎や壕内での生活で、外部を見ることがなかっただけに印象も強烈なものだった。翌16日、夜明け前に再び暗号班全員に集合命令が出た。中には前夜、出陣から引き揚げ、そのまま暗号任務についたのもいて、一睡もしていない。兵隊8人に三中暗号班が13人。壕の一番奥にある暗号班事務室に集められた。「本日、敵の総攻撃があり、わが暗号班も出撃する」―徳丸春雄中尉が命令を告げ、自らパインの缶詰を開けて全員に配った。少年たち一人一人に「一生懸命戦ってくれよ」と声をかけた。』その夜、真部山の頂上は前日とは一変した展開となった。13人の少年たちの運命も、その夜で決することになった。』

《 [27 三中通信隊暗号班(4)]大統領の死を傍受 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース 》 

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県立第三中学校・鉄血勤皇隊 (歩兵/遊撃)

『三中の鉄血勤皇隊は、20年1月ごろから軽機、擲弾筒、急造爆雷などについての戦闘訓練を受け、3月26日、激しい空襲下に伊豆味国民学校において編成された。147人が第2歩兵隊に、150人が第3遊撃隊に配属された。』(103頁)

第2歩兵隊

『第2歩兵隊に配属された勤皇隊は、宇土部隊から、伊豆味と今帰仁の境界「302高地を死守せよ」との命令を受けて守備につき、4月7日米軍が名護に上陸するまで、302高地で陣地構築にあたっていたが、米軍上陸後は戦闘に備えて待機した。
4月13日午後3時、米軍の攻撃が始まった。そのときは、主として遊撃隊第3中隊が応戦した。勤皇隊は、出来るだけ陣地に接近させてから応戦しようと待機していたが、午後5時半ごろ、あたりが暗くなると米軍は引き揚げた。午後7時ごろになって、遊撃隊第3中隊全滅の情報がはいってきた。その夜、勤皇隊は突然、移動命令を受けて、302高地から引き揚げ、15日の夜から真部山、喜納原、安和岳、八重岳などの配備についた。

そのころ、これらの陣地はすでに米軍に包囲されていた。翌16日、米軍の陸、海、空からの猛攻撃をうけ、戦闘指揮所をはじめ各陣地とも大混乱に陥った。その夜、多野岳への移動命令が出て、各部隊隊伍を解いて出発した。名護、羽地への道は米軍に遮断され、羽地の薬草園付近を突破の際、敵の攻撃を受けて各部隊とも多くの戦死傷者を出して、22日ごろやっと多野岳にたどり着き、谷口中尉の指揮下にはいって遊撃隊と合流した。』(103-104頁)

第3遊撃隊

『第3遊撃隊に配属された150人は、3月26日、名護岳の第3遊撃隊本部に入隊した。入隊から米軍の名護侵攻までは、各中隊との連絡、名護、羽地から山岳地帯への食糧輸送などにあたっていたが、米軍は4月7日名護、羽地に侵攻、9日には遊撃隊の本陣地名護岳に集中攻撃を加えてきた。

遊撃隊はよくこれに応戦、…3人が戦死。だが、次第に米軍の猛火に押され、ついに名護東方の陣地に撤退、翌10日多野岳へ移動した。遊撃隊は多野岳を拠点に、12日から20日まで、…遊撃戦を展開して羽地方面の米軍に大きな損害を与えた。
4月12日 川上、田井等地区攻撃
4月13日 川上、夜間攻撃
4月14日 源河、羽地、大川攻撃
4月15日 伊差川攻撃
4月16、7日 稲嶺、真喜屋攻撃
4月20日 耕地股、源河、伊差川攻撃
米軍は4月24日、多野岳に攻撃を開始した。第3遊撃隊は多野岳から久志の山中に後退し、引き続き遊撃戦を行なった。』(104-105頁)

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 103、103-104、104-105頁より》

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戦後70周年記念企画展 名護・やんばるの戦争展 - 日々のなごはく。

  

先島諸島沖縄戦

石垣島石垣島事件」

『昭和20年4月15日の朝石垣島飛行場爆撃のため飛来した米軍機からV・L・テボ中尉、R・タグル兵曹、W・H・ロイド兵曹の3飛行士が、同島南岸に降下した。石垣島海軍警備隊司令、井上乙彦大佐は、すぐに3飛行士を逮捕させ、同島南部のバンナ岳麓にあった警備隊本部に連行、壕に監禁して取り調べたあげく、同日夜半バンナ岳近くの刑場で処刑した。処刑は、上級機関の指示も得ず、軍法会議の審議もへずに警備隊の数名の将校の話し合いだけで決定されたという。後に戦犯に問われた法廷で井上司令は、処刑の理由として、1.捕虜を台湾か沖縄に送致するにも船便はなく、飛行機もなかった 2.人手不足、食糧不足で、長期にわたる捕虜収容はできかねた、と述べている。

こうした理由で、3名の捕虜のうち2名は斬首にされ、1名は銃剣で刺殺された死後も柱にくくりつけた捕虜の死体をおよそ50名の兵士たちが半時間にわたって刺突しつづけたほど処刑は、残虐のかぎりを尽した。敗戦後、警備隊は処刑に関する一切の書類を焼却し、全部隊員に箝口令をしいた。同年9月初めには埋めてあった遺体を深夜に掘り起こして火葬に付し、遺骨はガソリンの空罐に入れて西表島北方3千メートルの海底に沈めた。しかし何者かが鹿児島県から東京のGHQに密告書を送り事件は一きょに表面化した。そして昭和22年11月から翌年の3月にかけてこの事件にかかわる「横浜裁判」がつづき、一審判決では、46名の被告中、41名が死刑、懲役20年1名、同じく5年1名、無罪2名、病気による免訴1名となった。死刑を宣告された者の中には4月に現地で補充されたばかりの未成年者3名(17歳2名と19歳1名)も含まれていた。弁護士の記述によれば、8名の沖縄出身被告のうち1名だけが正規の軍人で残り7名は現地召集兵で、入隊後わずか3、4ヵ月か二週間そこらの者で銃の扱い方さえ知らない人たちであった。

ところで、被告たちは再審で大幅に減刑され、昭和24年4月7日のGHQの最終審で絞首刑は7名、終身刑1名、懲役40年1名、35年2名、20年1名であとは無罪と決定した。地元出身兵は1人として死刑になった者はいなかった。その背景には、東京の沖縄連盟本部会長…らのマッカーサー司令部にたいする熱心な助命嘆願運動があったことは看過できない。翌4月8日、死刑を宣告された7名の刑は、執行された。』 (235-238頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 235-238頁より》

 

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月15日

 

石垣島事件】

POW研究会 POW Research Network Japan | 研究報告 | 本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士 | 横浜BC級戦犯裁判で裁かれた搭乗員処刑事件

 

 【八重山毎日新聞】 

www.y-mainichi.co.jp

 

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