〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月21日 『消えた村、消えた家』

無関心とネグレクト / 敗残兵の壕 大田昌秀 / 鳥取出身の米海軍将校 スタンレー・ベネット / 消えた村、消えた家

 

米軍の動向

沖縄占領政策 -「無関心とネグレクト」

米軍は計り知れない犠牲を伴い沖縄を占領したが、その占領政策に関しては米国政府と米海軍と米陸軍のあいだで長期にわたって調整に難航した。米国務省は外交上の懸念から沖縄を日本に返還すべき方針を打ち出す。しかし米軍は沖縄占領の継続を強く主張した。しかし、それでは陸軍と海軍、どちらが沖縄の占領政策を担うかという点について、後の5年間にわたって混迷した状態が続く。

7月18日、一部の海軍拠点を除いて、沖縄占領の司令は陸軍にゆだねられたが、日本の降伏により、米陸軍の軍政将校は深刻な人員不足となる。海軍から陸軍へと司令が移行したことで、具体的には何が起こったのか、陸軍公刊史は、初期の沖縄占領の実態を、「無関心とネグレクト」(apathy and neglect) と表現している。

第三章「無関心とネグレクト」より抜粋

【訳】いかなる沖縄の戦後復興も軍事的利便性に関連付けられていること明らかだった。戦後数年間、沖縄に対するアメリカの軍事的関心は何度か変遷を経た。沖縄はアメリカのすべての戦略計画において引き続き重要であったが、政府の琉球に対する経済的関与はそれほど一定ではなく、軍事政府の努力は戦後の軍事的緊縮財政によって深刻な打撃を受けた。極東軍ののけ者扱いで、琉球軍司令部の財源と人的資源は、日本と韓国の部隊が優先される組織のなかでは優先順位が低い傾向にあった。同じ時期に、司令部は大学側が提供した軍政府要員が沖縄から離れていくままにさせた。彼ら(大学からの将校) は沖縄戦の計画に参加しただけでなく、沖縄社会の復興を構築していっていた人員でもあったが、今や急速に動員解除されつつあった。彼らに取って代わられたのは、仕事に対する知的な取り組みも、教育や訓練における前任者のような特別な利点も持たない者たちだった。こうした戦後の人的資源の現状は、軍事政権にとって重大な任務を担うための戦略的、経済的、社会的考察の現実と結びついて、正確には琉球に対するアメリカの関心の最低点といえるかもしれない時期をうみだした。

Chapter 2: Apathy and Neglect ~ Arnold G. Fisch, Military Government in the Ryukyu Islands, 1945- 1950 (1988) - Basically Okinawa

 

「エリート」海軍将校 vs 実戦部隊

当時の米海軍は、大学出の優秀なエリートを引き抜き率先して軍政府司令部の管理職につかせ指揮権を持たせるという、ある意味アメリカ的民主主義を反映した傾向を有した。下記の将校はすべて米海軍の将校である。例えば文化人類学マードックコロンビア大学から軍政官僚として沖縄で一年間務めた。

1945年4月の沖縄本島上陸から翌46年7月まで、米軍政府には軍政についての特別な訓練を受けた若いインテリ将校たちが何人かいた。ジョージ・P・マードックをはじめ、ジェームズ・T・ワトキンズ、ジョン・コールドウェル、ウィラード・A・ハンナ、ヘンリー・ローレンス、ポール・デニングなど。なかでも戦後の軍政に深くかかわったのは、マードック中佐(のちにエール大学人類学部長)の後をついて政治部長になったコールドウェル中佐(のちにアーカンソ大学学長)、その後任のワトキンズ少佐(のちにスタンフォード大学教授)と文化、教育部長をしたハンナ少佐(英文学教授)である。

    宮城悦二郎『占領27年・為政者たちの証言』(2014年) より

9月2日、収容所における戦後初の市議会議員選挙では、日本に先駆けて女性参政権が実現した。

女性の参政権については、米軍政府ジョージ・P・マードック中佐の強い意向もあり、沖縄諮詢会会議で賛成12票、反対1票で日本本土よりも7カ月早く承認されました。

1945年9月20日 戦後初の市議会議員選挙を実施 – 沖縄県公文書館

軍内で軍政府要員への根強い反感もあった。

当時の軍政要員たちが残した記録には、実戦部隊の軍政への無理解のために苦労させられた話が書かれている。戦闘中だからしかたがなかったとしても予想外の数の難民の投降、救援物資の遅配などで要員たちは苦労させられたうえ、再三にわたり予告なしに一片の命令で(民間心)収容キャンプの移動を命じられたりしている。実戦部隊には戦闘訓練さえろくに受けてない大学出のインテリ集団であった軍政要員たちへの反感もあったようだ。コザから石川への移動命令にもそのような感を抱かせるものがある。それに当時の軍政最高責任者に対する評価は軍政要員の間でもかなり低かった。

宮城悦二郎『占領27年・為政者たちの証言』(2014年) より

破壊と殺戮の沖縄戦のただなかにあっても、沖縄の文化遺産や芸術の復興に貢献したといわれるハンナ海軍少佐や、戦闘の中で医療でもって住民の深い信頼をつないだ軍医スタンレー・ベネット海軍中佐のような将校は、1946年7月頃までには沖縄を去る。それ以降、1946から1949年にかけての沖縄は「極東軍の塵捨場」と称されるほどであった。

一方、海軍軍政時代には人員的に十分とは言えないまでも、博士クラスの学者を抜擢するなど質の維持に一定の努力が垣間見られたが、軍政が陸軍に移ってからは東京の GHQ 司令部や米本国から比較的経験の浅い将校が送られてくるなど、人材不足はより深刻となった。陸軍将校にとって沖縄は「極東軍の塵捨場」であり、「みじめな住居以外に何もない掃き溜め」であった。その状況はその後3年間も続いたとされる。

仲本和彦「民事報告書に見る米国統治下の米軍の民事機能」pdf

こうした「占領軍」のご都合主義と混乱は当然、沖縄住民にとっての地獄を意味した。

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Headquarters area of the 7th Air Force on Okinawa, Ryukyu Retto, including tents housing Quartermaster, Personnel, Officers Offices and Aircraft & Equipment units.
兵站部、人事部、将校室、航空機・設備部隊の揃う第7空軍司令部区域。沖縄。撮影日: 1945年8月21日

 

第32軍の敗残兵

潜伏し続ける敗残兵 - 大田昌秀の場合

「生きて残った者は米軍に投降しなさい」と、「右命令は朕の命令である」ってビラ張ってあるんだ。そのビラを見たけども、まだこれは米軍の宣伝だっていうことでね、本気にしなかったよ。これはたくさんあったんだ。

笹森 兼太郎さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

6月18日、第32軍最後の命令は、鉄血勤皇隊をひきいた遊撃戦を展開せよ、というものであった。摩文仁を生きのびた大田昌秀らは7月下旬、国頭突破のために北上する。8月中旬から1か月間八重瀬町小城の第24師団第2野戦病院2半部壕に潜伏した。

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… 大田さんはこの壕で、45年8月中旬から1カ月余り身を潜めた。大田さんは沖縄師範学校男子部在学中の1945年3月、鉄血勤皇隊として日本軍に動員された。首里の司令部壕を5月に出た後、糸満市摩文仁など県南部を転々。9月下旬ごろ、「八重瀬周辺の野戦病院」で投降した。それがどの壕だったのか分からないまま、今年 (2017年) 6月に92歳で亡くなった。

沖縄戦、大田元知事の投降場所 野戦病院2半部壕を確認 八重瀬 - 琉球新報

8月下旬から9月下旬まで潜伏、その後、投降した経緯

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日本が降伏したことを知らされたのは日本兵の白井兵長によってでした。東京文理大学 英文科を出た白井兵長は、大田さんが拾ってきたアメリカ兵の読み捨てた雑誌の英文をスラスラと読んで聞かせてくれたのです。大田さん「自分の無知さ加減を知って、そのほうにショックを受けた。戦争に負けたショックよりもね。自分があまりにも学問の無いことに対して、ショックを受けたよね」

65年前のこのころ (9月下旬)、ようやく敗戦を知った大田さんは、白井兵長らと共に投降しました。大田さん「彼はもしも生き延びることができたら、君も東京に来て英語を勉強しろよ、と一言言ってくれたわけ」その後、勉学に励んだ大田さんは県知事となり、基地問題などで再びアメリカと向き合うことになりました。

65年前のきょうは1945年9月23日(日) – QAB NEWS Headline

 

投降する日本兵

日本の敗戦後、投降ビラや、投降を促す「デテコイ」作戦により投降する日本兵が増える。

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An army interpreter questions two Japs who came out of hiding in Okinawa's hills following announcement that Japan had accepted Allied surrender terms.

日本軍が連合軍の降伏条項を受諾したと聞き、丘の隠れ場から出てきた二人の日本兵とその彼らに質問する陸軍翻訳官。沖縄。(1945年8月21日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

民間人の服装で投降する日本軍兵士

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The first group of Japs to surrender at Okinawa following the end of hostilities in the Pacific.

太平洋における戦争が終結した後、沖縄で最初に投降した日本兵たち。(1945年8月21日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・ 

奪われ破壊された島 - スタンレー・ベネット報告書より

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沖縄戦を記録した軍医ヘンリー・スタンレー・ベネット「沖縄の民間人における侵略と占領の影響」(1946) - Battle of Okinawa

ヘンリー・スタンレー・ベネット海軍中尉は、アメリカ人の宣教師の息子として鳥取県に生まれ育つ。奇妙な偶然であるが、捕虜尋問で「沖縄人犬説」が調書に記録された第32軍作戦参謀、八原博通との共通点は多い。鳥取に生まれ育ち、ずば抜けた秀才で、米国に留学し、軍人として沖縄戦に関わった。一方は米海軍将校として、一方は日本軍の高級参謀として。

ベネットは、渡米後ハーバードを卒業し医師となる。沖縄戦では軍医として、また、第3海兵軍団司令部参謀付き情報将校として住民対策や医療計画にかかわる。こうした経験から、彼は翌年にある報告書を提出する。

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沖縄島で米軍が設置した12の民間人収容所区域

ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐の報告書

沖縄の建物の推定60-70%は、沖縄作戦の直接的な影響で、破壊または深刻な損傷を受けた。しかし戦闘後に無傷またはわずかに損傷したまま残っていた家屋も、無傷ではありえなかった。おびただしい数の家屋が、道路や飛行場、その他の施設の用地のためにブルドーザーで破壊され、あるいは破壊されることになっている。こうして嘉手納村は現在、重要交差点のロータリーの下に埋没した。取り壊された家屋からの瓦礫は道路の舗装に使われた。比謝の場合のように、たとえその建設過程で村全体が消滅する可能性があるとしても、居住地域を通る道路は、既存の史蹟を切り倒し、損傷した建物や無傷の建物をブルドーザーで破壊することを気にもかけず、拡幅または直線化された。

ヘンリー・スタンレー・ベネット「沖縄の民間人における侵略と占領の影響」(1946) - Battle of Okinawa

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海兵隊: One of the most unusual sights on Okinawa is this traffic circle, designed and built by the Seabees to lessen congestion of heavy military traffic near the Kadena Airfield.
沖縄ではめったに見かけないロータリー。嘉手納飛行場近辺の軍用車両の渋滞を緩和するため米海軍設営部隊によって建設された。  1945年6月14日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米軍「嘉手納飛行場」。現在も嘉手納町の面積82%が米軍基地に占有されている。

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Aerial shot at Kadena Strip in Okinawa where the greatest fleet of Douglas C-54s ever assembled on one field spread over a two square mile area. They were parked wing to wing along service aprons and taxiways after coming from Brisbane, Cairo, London, Honolulu, Manila and other places. Each plane carried its own five man crew also another crew, as well as five ground force personnel.

嘉手納飛行場。ダグラスC-54輸送機が2平方マイルの敷地に並ぶ。ブリスベンやカイロ、ロンドン、ホノルル、マニラ、その他の地域からそれぞれ5人の乗組員に加え、もう一組の乗組員と地上勤務の5人の軍人を輸送して来た飛行機は誘導路に沿って翼を並べて駐機した。1945年8月21日撮影

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐の報告書

軍政府の保護下に置かれたあとも住民は収容所を転々と移動させられた。収容所に落ち着いたかと思ったその2、3週間後、あるいは2、3ヵ月後に集団移動させられたこともある。基地建設のため住民を移動させる必要が出てきたからである。あるいは日本軍の空襲から住民を守るために集団移動させることもあった。

忘れてはならないのが、わが軍によって引き起こされた占領後の民間人移送の中で、戦災による家屋の被害が比較的軽微であり、激しい戦闘も発生しなかった本部半島北部および西部の住民の場合である。4月上旬から中旬に軍隊が最初にその地域を通過したとき、住民のほとんどは村を出て丘に隠れた。多くの場合、近くに軍隊が野営していたにもかかわらず、数日以内に彼らの恐怖は克服され、自分たちの家に戻った。人々は村での生活を再開し、できる限りの田植えと収穫を行い、2か月半もの間、侵略前とほぼ同じように平和に暮らし、島で唯一といっていいほど幸運な共同体であった。しかし組織的な抵抗活動が停止した後、保養施設建設のためその地域に軍を投入する必要が生じ、それに応じて民間人も移動させられた。これらの人々を移送先の地域で受け入れる準備はほとんど行われず、そのうち約2万人がトラックで東海岸地域に移送され、野原に放置された。全員に最小限の仮住まいが与えられるまでには数日かかる有様だった。

ヘンリー・スタンレー・ベネット「沖縄の民間人における侵略と占領の影響」(1946) - Battle of Okinawa

6月27日から28日、米軍は本部半島の住民を大浦崎収容所へ移送した。人々は枝木をあつめて日陰を作るしかない状態だった。米海軍は多くの記録写真を残す。

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米海軍: Japanese people living under U.S. Military Government at Hinoko [Henoko], northern Okinawa, Ryukyu Islands.
米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。1945年7月8日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

こうして実質的に沖縄住民は一人残らず、我々の侵略の結果、強制的に移送され、全くの混沌の中に放り投げられてしまったのである。生き残った者はもとの住居地に関係なく小さな収容所に放り込まれ管理されることを強いられた。このような離散は沖縄群島のいくつかの離島ではまだましな状態であった。

… 空襲、艦砲射撃、砲攻撃は大規模な破壊をもたらした。… 私たちの空爆や艦砲射撃は特に校舎や大きな建物を狙い射ちにした。それは兵舎の可能性があるとみなされたためである。愛楽園ハンセン病患者の集落は一連の攻撃で破壊された。… 無抵抗のまま占領された地区に残っていた校舎も片っぱしから破壊された。住民全てが避難した名護の街に砲弾の雨を浴びせ、街はほとんど全壊した。軍政府将校が街の偵察に出て、敵が一人もいない街だと知ったとたん、味方の砲弾に襲われあわてて退却させられるという状況であった*1。このように不必要な破壊の結果、我々の軍は利用できる建物を失い*2、住民は狭い収容所の建物にぎっしり詰め込まれることになった。

ヘンリー・スタンレー・ベネット「沖縄の民間人における侵略と占領の影響」(1946) - Battle of Okinawa

ベネットは1945年7月には沖縄からグアムに転属となる。翌年1946年2月の彼の報告書からは、住民の強制移送の現場に関わってきた一人の海軍将校の強い批判と憤りが読みとれる。後に高名な細胞学研究者となるが、退役後は沖縄戦について書き記すことはなかった。

 

嘉手納 - 消えた村、消えた家

米軍は沖縄戦のあいだ、「避難」と称して住民を民間人収容所に強制収容したが、実際にはベネットが指摘するように、米軍基地建設のために人々を土地から排除し、集落を破壊した。

生きる場所を奪われて

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嘉手納飛行場によって南北に分断され、北側は嘉手納町となる。また南側の北谷町もキャンプ桑江とキャンプ瑞慶覧によって東西に分断された状態となる。

戦後は、1948年4月頃まで嘉手納飛行場内の部分的通行が可能でしたが、その後米軍の飛行場管理が強化され、全面的に通行立ち入りが禁止されたため、北谷村々域は完全に2分されました。このため嘉手納地域の住民は、役場へ用をたすために遠く謝苅(北谷)廻りかあるいは越来村(現沖縄市)を迂回しなければならなくなり、交通の発達していなかった当時、日常生活をはじめ村行政運営にも著しく支障をきたしました。そのため、1948年12月4日人口約3,800人をもって北谷村より分村、「嘉手納村」としての第一歩を踏み出しました。

その後、朝鮮戦争の勃発等により米軍は嘉手納飛行場を重要視し、逐年整備拡張が行われ、そのつど、宅地や農地は軍用地に姿を変え、狭小な住居地域を一層せばめていきました。膨大な面積を同飛行場地域に接収され、残された僅かな地域に住民はひしめきあった生活を強いられました。

また、住居地域が同飛行場に近接しているため、爆音、飛行機墜落事故、燃料流出、井戸汚染等枚挙にいとまがない程の基地被害をこうむり、「基地の町」として、嘉手納は沖縄の縮図だといわれてきました。

嘉手納町の歴史 | 沖縄県嘉手納町(かでな町)

現在も嘉手納町の面積82%が米軍基地に占有されている。

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日本軍が飛行場を造るため村民の土地を接収した。家や畑がつぶされた。「全部壊すんだよ。山も人の家も。畑を切って、捨てて、飛行場になった」住民を徴用してやっと造った飛行場は日本軍が使うことはなく、45年4月、米軍は上陸後すぐに飛行場を占領し、整備拡張した。あっという間に米軍の出撃拠点となった。それが現在の嘉手納基地である。< 中略 >

米軍上陸の数日前、知念さん一家は本島北部へ逃げた。食糧を探しながら、羽地村(現名護市)(ブログ註・田井等収容所地区) 川上の山中をさまよった。やっと見つけたイモは腐って糸を引いていたが、構わず食べた。車のタイヤの跡にたまった水を飲み、ソテツで飢えをしのいだ。

 米軍に捕まった後は久志村(現名護市)や宜野座村の収容地区で暮らした。戦後、テニアンに残った兄2人が手りゅう弾で自決していたことを知った。敗戦から数年後、集落があった中部地域に戻れることになった。喜びは相当なものだった。「お祝いをするほど、うれしい気持ちだった。生まれジマ(故郷)に帰れるのだから」

しかし、緑豊かな野里の集落は既に基地となっていた。知念さんの生家があった土地は住民の立ち入りが禁じられ、思い出に残る「生まれジマ」は、手が届かないフェンスの向こう側になった。野里の住民は広大な嘉手納基地をはさみ南側の旧北谷村と分断され、北側の嘉手納村に組み込まれた。周辺の土地を分けられ、かやぶきの家を造った。嘉手納基地からアメリカ人が捨てた木材を担ぎ、資材にした。

十数年後、軍の作業員として基地内に入った時、集落があった場所を近くで見る機会があった。幼いころ、水遊びをしていた「野里橋」の石垣を見つけて懐かしく思った。立ち入れない故郷を今も思っている。「本当は帰りたい。向こうに」とつぶやく。

嘉手納基地に飲み込まれた“生まれジマ” 知念文徳さん - 琉球新報

  

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奪われた故郷

沖縄の米軍基地

  1. 嘉手納基地: 嘉手納基地に飲み込まれた“生まれジマ” 知念文徳さん - 琉球新報
  2. 牧港住宅地区: 土地の接収 そして返還後のまちづくり 屋冨祖良栄さん - 琉球新報
  3. 普天間基地: 故郷は“世界一危険な基地”普天間飛行場 玉那覇祐正さん - 琉球新報

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*1:軍政府は住民の保護と避難を管轄するため、避難地の偵察をおこなっているさなかに、米軍の実戦部隊の襲撃に遭遇する、明らかに軍政府要員と実戦部隊の連携がとれていない事をここでも暗示している。

*2:軍政府要員が民間人を収容するための住居探しにあえいでいるなか、多くの住居が不必要に実戦部隊の攻撃や砲火によって破壊されたことを示す。