1945年 8月21日 『消えた村、消えた家』

〝沖縄〟という米軍基地

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第3水陸両用軍団司令部の外観(1945年8月21日撮影)

View of III Amphibious Marine Corps Command Post.

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那覇にある物資補給所(1945年8月21日撮影)/ The Quartermaster Depot at Naha.

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補給物資販売所とタイプライター修理店(1945年8月21日撮影)

Quartermaster Sales Store and Typewriter repair shop.

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輸送船舶(1945年8月21日撮影)/ Boats & Transports.

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『沖縄の建物の60パーセントから70パーセント沖縄戦の結果、全壊したものと思われる。破壊を免れた建物の多くもブルドーザーで倒され、道路、飛行場、その他の軍事施設に姿を変えた。こうして、嘉手納の村落は完全にブルドーザーでつぶされ、軍用道路の重要な交差点カデナ・ロータリーになった。石垣は道路の下地に使われた。道路は村落を突っ切って建設され、道路の途中にある遺跡や建物は全て破壊された。例えば比謝の村落は完全に地上から姿を消した。』(290-291頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」290-291頁より》

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嘉手納飛行場。ダグラスC-54輸送機が2平方マイルの敷地に並ぶブリスベンやカイロ、ロンドン、ホノルル、マニラ、その他の地域からそれぞれ5人の乗組員に加え、もう一組の乗組員と地上勤務の5人の軍人を輸送して来た飛行機は誘導路に沿って翼を並べて駐機した。(1945年8月21日撮影)

Aerial shot at Kadena Strip in Okinawa where the greatest fleet of Douglas C-54s ever assembled on one field spread over a two square mile area. They were parked wing to wing along service aprons and taxiways after coming from Brisbane, Cairo, London, Honolulu, Manila and other places. Each plane carried its own five man crew also another crew, as well as five ground force personnel.

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第7空軍基地内売店(PX)。沖縄。(1945年8月21日撮影)

Post Exchange counter at the 7th Air Force base on Okinawa, Ryukyu Retto.

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第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

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日本軍が連合軍の降伏条項を受諾したと聞き、丘の隠れ場から出てきた二人の日本兵とその彼らに質問する陸軍翻訳官。沖縄。(1945年8月21日撮影)

An army interpreter questions two Japs who came out of hiding in Okinawa's hills following announcement that Japan had accepted Allied surrender terms.

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太平洋における戦争が終結した後、沖縄で最初に投降した日本兵たち。(1945年8月21日撮影)

The first group of Japs to surrender at Okinawa following the end of hostilities in the Pacific.

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そのとき、住民は・・・

集落や建物を失った住民たち

『軍政府の保護下に置かれたあとも住民は収容所を転々と移動させられた。収容所に落ち着いたかと思ったその2、3週間後、あるいは2、3ヵ月後に集団移動させられたこともある。基地建設のため住民を移動させる必要が出てきたからである。あるいは日本軍の空襲から住民を守るために集団移動させることもあった。

忘れてならなのは、本部半島の北部や西部では戦禍はそれほどひどくなく、多くの住居が破壊を免れたが、アメリカ軍の占領後に強制移動させられたことである。ここでは、4月上旬から中旬にかけてアメリカ軍が侵入してくると、ほとんどの住民は村を捨て、山へ逃げた。2、3日経つと、アメリカ軍に対する恐怖心は消え、自分の住居に戻ってきた。アメリカ軍がすぐ側で野営しているにもかかわらず、住民は平常の生活に戻り、農耕収穫に励んでいた。2ヵ月半もの間、戦闘の始まる前と同じように平和に暮らすことができた唯一の幸運な共同体であった。だが、日本軍の組織的抵抗が終了すると、アメリカ軍は休養のため、本部半島に移動してきた。そのため、住民を移動させることになった。本部半島の住民を受け入れる施設は全く用意されていなかった。約2万人の住民がトラックで東海岸に運ばれ、何もない原野に放り出された。数日してようやく仮の宿舎が与えられるという始末だった。

こうして沖縄住民は一人残らず、アメリカ軍の上陸の結果、家を失い、村を離れ、全くの混沌の中に放り投げられてしまったのである。多くの住民が死に、生き残った者は出身地がどこであるにしろ収容所に入れられ、アメリカ軍の保護を受けることになった。沖縄群島のいくつかの離島でそこの住民が散り散りになることが余りなかっただけである。』(288-289頁)

『…空襲、艦砲射撃、砲攻撃は大規模な破壊をもたらした。…アメリカ軍の空襲や艦砲射撃は特に校舎や大きな建物を狙い射ちにした。それは兵舎の可能性があるからだ。』(290頁)

『無抵抗のまま占領された地区に残っていた校舎も片っぱしから破壊された。住民全てが避難し、人っ子一人いない名護の街に砲弾の雨を浴びせ、街はほとんど全壊した。軍政府将校が街の偵察に出て、無人の街だと知ったとたん、味方の砲弾が飛んできて、あわてて退却するという一幕もあった。このように不必要な破壊の結果、アメリカ軍は利用できる建物を失い、住民は狭い収容所の建物にぎっしり詰め込まれることになった。』(290頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」288-289頁より》

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説明する日本人:沖縄の離島にあるハンセン病療養所所長早田皓医師からハンセン病は感染力が極めて弱いことについて説明をうけるフレンチ少尉。2人の間にいるのは第1海兵師団衛生大隊隊長コンウェイ准将。疫学者である准将はハンセン病患者について研究している。フレンチ少尉は、“日本降服”を認めないこの島の全ての日本兵にその旨伝えよとの伝令を携え、療養所を訪れた。(1945年8月21日撮影)

A JAP EXPLAINS: Marine 2nd Lt. Harry D. French, 23, 207 North Oxford St., Indianapolis, Ind., listens to Dr. Hiroski Hayato,a Jap physician in charge of a leper colony on an island off Okinawa, explain that leprosy is not easily contracted. Between Fre

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(投稿者註: リンク先の原文キャプションが途中で途切れているため、和訳の内容と合致しない)

屋我地の愛楽園ハンセン病は数回の攻撃で全壊した。その結果、アメリカ軍はハンセン病患者に最低限の人道的扱いを施すため、病棟を再建する必要に迫られた。』(290頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」290頁より》

『早田園長の戦争記録によると、5万坪の愛楽園に投下された爆弾は約600、ロケット弾約400、艦砲弾約100、22ミリ機銃弾10万発、焼夷弾・黄燐弾に至ってはその数はかり知れず、施設は殆んど爆撃されつくされ、焦土と化した、とある。』(108頁)

《「語りつぐ戦争  市民の戦時・戦後体験記録  第1集」(名護市戦争記録の会・名護市史編さん委員会(戦争部会)・名護市史編さん室 編集/名護市役所) 108頁より》

 

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