米軍の動向
北部の掃討戦
掃討戦は続く。今帰仁では基地建設のために6月半ばに住民が強制収容されている。
《AIによるカラー処理では火炎の色が再現できていない可能性があります》A cave is blasted with a 200 pound charge of TNT discovered along the Oi-Kawa River near Nakasone, Northern Okinawa to prevent further use of the cave by the enemy during mopping-up operations on Northern Okinawa.沖縄本島北部の掃討作戦中、敵の壕の継続使用を阻止するため仲宗根付近の大井川沿いで見つかった壕に200ポンドのトリニトロトルエン爆弾を装着し、爆破した。1945年7月20日撮影
今帰仁の運天港は日本海軍の秘匿拠点で、第27魚雷艇隊 (白石隊) や、第2蛟龍隊 (特殊潜航艇隊 鶴田隊)、第226設営隊 (山根隊) が配備され、住民総動員で陣地構築したが、十・十空襲、また1945年3月末に激しい攻撃の標的となり、4月6日には拠点放棄、敗走し国頭支隊の指揮下に入る。白石隊と渡辺隊は北部山地を転々と移動し住民から食料を収奪、住民虐殺を繰り返した。白石隊は9月3日に投降する。宇土部隊の隊長は10月3日頃に投降した。
〝沖縄〟という米軍基地の建設
日本軍の飛行場があったため上陸地点となった読谷村では、沖縄戦で村土の約95%から住民が排除され、全域で基地化された。
General view of Army General ”Hap” Arnold being welcomed as he stepped down from plane on Yontan Airfield, Okinawa.
読谷飛行場に降り立ち、歓迎の出迎えを受ける “ハップ” アーノルド陸軍大将。(1945年7月20日撮影)
米軍が日本軍陣地の調査を記録に残している
Small pillbox used for heavy machine gun covering Red Beach #1 northern Okinawa.
Dummy AA Revetment and trenches Hill 52 overlooking Yontan Airfield.
Link of heavy AA emplacements on edge of Yontan Airfield---Note heavy construction of revetment.
読谷飛行場の端に設置された大型高射砲列。大型建造物の擁壁に注目。(1945年7月20日撮影)
Side ports for anti-boat gun and heavy M. G. In strong point, covering Green Beach #2.
第32軍の敗残兵
民間人収容所の襲撃
5月12日の渡野喜屋事件を例に挙げるまでもなく、敗残兵が食糧を求め武器を振りかざして民間人収容所を襲撃することは珍しくなかった。
5月21日に米軍が与那原を占領した後、24日には与那原奪還攻撃を仕掛けるがこれも失敗し敗走した。7月19日に久手堅民間人収容所を襲ったのは、与那原からの敗残兵と思われる。*1
斎場御嶽の「ナーワンダ」の大岩の頂上に兵隊がいるのが望遠鏡でのぞかれた。この望遠鏡は日本軍大城原の砲兵隊の陣地から掘り出してきたもので倍率が大きく彼等のようすがよくみえた。彼等は海上挺進隊の一部で女もはいっており防衛隊もつれていた。昼は頂上の蘇鉄の中に身を潜め、夜になると縄梯子をおろしておりて食糧集めに部落に入ってきた。その敗残兵に狙われたのが私の家であった。
「生死を分けた沖縄戦」『南城市の沖縄戦 証言編 (第2版) 』南城市 (2021年) - Battle of Okinawa
特に敗残兵が鉄線などで外部と仕切られていない名ばかりの収容所で、日本兵に襲撃された捕虜たち。アメリカ軍は当時、住民保護を含む北部の統治について、失敗したと分析しています。
… 「全住民が山から下りたんですよ。下りたらですね、敗残兵の方々が徒党を組んで殺害に来たわけですよ。玄関に日本兵が15、6人きて、まだ午前3時もならんのに、おはようございますと三回怒鳴る。日本兵だと直感した。ここ(家の裏手)を這い上がって午前2時半か3時頃私は逃げた」
沖縄島からの脱出 - 警察特別行動隊(警察別動隊)
沖縄県の荒井警察部長は5月11日、8人の部下を選抜し、警察特別行動隊を編成。彼らの任務は、軍とは別に、内務省に沖縄県民の現状を直接報告するというものだった。翌5月12日、脱出を計画し。6月7日、知念村に集結し北部を目指した。一つの目的は、第32軍の政府への連絡事項に入れていたといわれる沖縄デマの打ち消しにあった。
3つの班に分かれた警察別動隊は、6月8日、それぞれ知念村を出発したが、そのうちの1つ班にいた者は10日に与那原で米軍に捕らわれ、もう1班では6月17日に中頭郡中城村で米軍と銃撃を交え、殉職者が出た。残りの1班は、15日かけて沖縄本島北部の久志村に辿り着いたが、そのときには、日本軍の組織的抵抗が終了していたため、6月25日、辺野古で米軍に投降していた。
しかし、1945年7月20日、警察別動隊の1つの班にいた警部補1人は、沖縄北端に近い国頭村奥集落からサバニで脱出することができた。荒井警察部長の命令を遂行できたのは、この警部補だけであった。警部補は、海路、与論島ー沖永良部島ー徳之島ー奄美大島を経て日本本土を目指した。警部補が千葉県の東京留守業務部沖縄班にたどり着いたのは、敗戦から2か月後の10月である。警部補は「住民や官公吏の沖縄戦への協力の実情、戦況等について、内務省で詳しく報告した。沖縄県民のスパイ行為があったために戦争に負けた、という流言を打ち消すことにも心を砕いた」と語っている。
《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 366頁》
《AIによるカラー処理》The thatched-roofed homes of civilians on Okinawa in Ryukyus damaged by US aerial and naval bombardment.
警察別動隊は分散しで捕虜となった巡査
与那原で米軍に捕らえられた班にいた巡査の体験談: 1945年6月10日以降
砂糖キビを杖にしてよたよた夜道を歩いているうちに、また照明燈をつきつけられた。その瞬間、私は無意識に、足元にあった罐詰の空罐を取る真似をしながら、ピストルを側の溝の中に突っこんだ。彼らが手招きしたので、私は覚悟を決め、オーバーにビッコを引きながら近づいたら、彼らは声高らかにゲラ、ゲラ笑いながら、これをのめと、大きなコップを私の鼻の先につき出した。それは暖かいコーヒーであった。私はお代わりをした。また彼らは笑った。
2人の米兵に抱きかかえられるようにしてジープに乗せられた。最初は名城の金網に入れられたが、すぐ百名の収容所 (知念地区) に連れて行かれた。そこでまた金網に入れられ、MPと2世(米兵)に調べられた。私は、防衛隊でもない、また兵隊でもない、自動車の運転手で、那覇、国頭間の物資運んでいたが、那覇にいたときちょうど「10・10空襲に遭い・・・と嘘をついた。彼らは一応納得したように思ったが、そうではなかった。
…「君は嘘をついているからついてこい」、と山の麓に連行された。そこで、本当のことを言わないとここで射殺するとおどされた。私は本当のことを正直に話した。…銃を突きつけられ本部に連行された。私はしばらく金網の中にいたら、通訳と元日本軍憲兵隊長がきて、首実験をした。私はその隊長を知っていた。特高課長の名も聞いた。よし間違いなく警察官であると太鼓判を押した。そしてすぐここから出て好きな所に行け、と追い出された。結局MG本部(米軍政府)にいた…氏を頼って、そこに行ったら、そこには警察官が大勢いた。警察官の経験年数の一番長かった糸満の…刑事がそこのCP隊長になった。私は、傷を治療するために、しばらく病院に入院した。
《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 462頁より》
正面を向いているのは、地元の警察署長。沖縄本島の下原にあるC-3軍政府チーム事務所にて。
Facing front, chief of native police at office (Shimobaru) of Military Government C-3, Okinawa, Ryukyus.
そのとき、住民は・・・
宜野座収容所と宜野座野戦病院
中南部から次々と収容者が送られ、宜野座村だけでも10万人余となった。収容所内の野戦病院は7月にピークを迎え、多くの民間人が亡くなったといわれる。
米陸軍: Sick call for natives in dispensary at AMG hospital.
米軍政府病院の診療室で沖縄の住民のための診療呼集。撮影地: 宜野座
宜野座(現在の宜野座村宜野座・惣慶・福山)
五月中旬頃、地元の住民と玉城村・東風平村・南風原村・大里村・佐敷村などからの避難民(沖縄戦直前の疎開者)を収容した。その後、中南部戦線で米軍の保護下に入った住民が幾つかの収容所を経て送りこまれた。収容所は、宜野座・大久保・惣慶・福山のブロックに分かれていたが、行政は宜野座市・惣慶市・福山市となっていた。
写真13 収容地の診療所(字漢那)(宜野座村立博物館所蔵)
銀原の診療所
米軍政府は、沖縄本島上陸とともに救護班を編成、戦場の傷病者を野戦病院に収容、民間人収容地区に、テント張り、コンセット(かまぼこ型プレハブ)、崩れ残った民家利用などの地区診療所を設けた。ピーク時の45年7月には、北部金武村の中川、銀原の診療所に5,000人もの外来患者があり、731人が述べ997日入院した。
宜野座の病院では、7月10日には南部や中部の診療所から大挙移ってきた患者が、1日で1,500人のピークに達した。90%が外傷患者で、あとの10%は栄養失調、寄生虫、結核、下痢その他の疾病。外科手術をしても34%は術後死亡した。容態が悪化しているのと衰弱が原因だった。患者は一時4,000人にも達し、7割が女性だった。
あれはもう墓とは呼べません。穴の壁に背をもたれた遺骨のそばで、うつぶせ、あおむけの遺骨が折り重なっていて、投げ捨てられた状態でした。いくつかは遺骨のそばに遺品が置かれ、墓と呼べるようなものもありました。当時としては精いっぱいの弔いだったと思います。
宜野座村立博物館に、村内の収容所ごとにつくられた、共同墓地に埋葬された人の名簿が残っています。
7月10日には中南部の診療所から宜野座野戦病院に移送された患者が、1日で1,500人に達した。90%が外傷患者で、あとの10%は栄養失調、寄生虫、結核、下痢その他の疾病だった。
玉城村から国頭に疎開しヤンバルから収容された16歳少女の証言
1983年7月1日の沖縄タイムスに「野戦病院跡から遺骨ぞくぞく、宜野座村体育館の建設現場」という見出しで三十八年ぶりに戦病死者の遺骨が発掘されたという記事を見て、我が目を疑いました。それはまがいもなく私達が米軍の野戦病院で看病をし空しく死んでいった人たちの遺骨だったからです。... (中略) ...
数日たったある日、班長さんから「明日島尻から大勢の負傷者が運ばれてくるので、若い娘たちは看護のため病院に行くように」との伝達を受けました。島尻からと聞き、もしや父もその中にいるのではと、たかぶる気持ちを抑えて米軍の野戦病院に急ぎました。
病院とは名ばかりで、畑の上に長いテントが張られ野戦用ベットが並べてあるだけです。その長いテントが10棟程あったと思います。間もなく負傷者を乗せたトラックが次々到着しました。トラックから降ろされベットに移された患者のあまりのむごたらしさに怖さを感じました。衣服も包帯も血にまみれ傷の痛さに呻いています。手や足を失い或は体中傷だらけで蛆が沸いている者、全身火傷の者、家屋の下敷きになった者、三歳位の子供から国民学校の子供、学徒隊、防衛隊一般避難民とほとんどの人が家族と離れ一人で収容されていました。私は第五テントに配置され患者の食事の世話や便の世話をしました。収容された人に知った人はいないか、何よりも我が村や父の消息が知りたくて捜しまわりました。
写真は糸満の臨時救護所。
米海兵隊: Jap nurses take care of wounded civilians as they are brought to Itoman. The nurses work very fast and do very good work.
負傷して糸満に収容された民間人を手当する日本人(地元の)看護要員。彼女たちの働きぶりは敏速、且つ有能である。
傷の治療は米軍の衛生兵が担当していましたが、時には私達も手伝いました。ガーゼを替え消毒し白い粉薬をふるだけの簡単な治療でした。手術室は他にあって腐った手足の切断や破片の摘出をしているようでした。私たちは夜間も交代で患者の世話にあたりましたが、毎日のように死亡者がでました。朝になるとベットの上やテントの外に出て死んでいるしかばねが見つかります。制服を着て髪を三つ編みにした女学生が破傷風にかかり引きつけを起こして死んでいきました。
死体を担架に乗せ死体置場まで運ぶのも私たちの仕事でした。死体置場には沢山の死体が並べられていました。祖国の勝利を信じ祖国防衛のため戦闘に参加し傷を負い屍となって並べられている姿に無念の涙を禁ずることができませんでした。
私たちのテントから少し離れた病棟で異様な光景を見ました。若い女性が全裸になり大声でわめきながら土の上を転げまわっています。その側に一歳位の男の子が座っています。衛生兵や看護婦が見守っているようでした。そんな状態が二、三日続いた頃、看護婦がその女の体をきれいに洗っていました。しばらくして、その場所を通りかかった時には病院着を着せられ静かになっていました。注射を打たれたのだろうとの話でした。若い美しい母親の死顔でした。
野戦病院構内の一棟のテントに朝鮮から連れてこられた慰安婦が収容されていました。その数は4、50人位いたと思います。... (中略) ... 朝鮮から徴用で沖縄に送られ日本兵相手の慰安婦にされていたそうです。そして悲惨な沖縄戦に遭遇した彼女らは米兵に保護され一ヶ所に集められていてひたすら故郷へ帰る日を待っているのであろうか。同じ女性として彼女らの境遇を気の毒に思いました。
収容所の元朝鮮人慰安婦たちは、8歳で一人ぼっちになった少女を引きとり父親が現れるまで世話をしていた。
1945年7月、戦災孤児となった私は、宜野座の野戦病院で看護婦だった朝鮮の女性たちに引き取られ、11月まで一緒に暮らしました。8月か9月にキャンプ・コザに移動。フサさんと呼ばれた女性は私を朝鮮半島に連れていくか迷ってコザの孤児院を訪れましたが、『慰安婦』だったことを子どもたちにからかわれたため、いたたまれない様子で私を連れテントへ戻りました。
大久保孤児院の少年(宜野座村立博物館所蔵)
11月11日、沖縄を占領している米軍は住民に密葬・洗骨の禁止令をだす。
収容所から戻るときに家族の遺体を掘り起こすケースが多発したため、アメリカ軍は65年前の今日、密葬や洗骨の禁止令を出しました。
宜野座小学校の敷地にあったアメリカ軍の野戦病院。当時7歳で、左腕の骨が見える大けがをしていた高嶺騏一さんは二人の従妹と共に運び込まれました。
騏一さん「中の骨が見えよったです」
大やけどをしていた従妹の姉妹は三日目に亡くなりました。
騏一さん「皮膚は焼けただれてかわいそうでした。水を飲ましたらいかん、死ぬといわれた。あげたかったんですけどね。一晩中水、水って・・・」
病院の隣にあった埋葬地では穴掘り作業が間に合わず、一つの穴に3、4体を一緒に入れる状態。ここに、幼い従妹も埋められました。
これは、目印におかれた石です。土葬の習慣がなかった沖縄では、土に埋められるのは豚や牛のようだと嫌がられ、必ず掘り出したいと印をつけたのです。
11月。墓を掘り起こし連れ帰ろうとする人や岩陰に遺体を隠す人が続出したため、アメリカ軍は衛生上の理由で「墓の掘り起こしや洗骨」を禁止しました。
昭和58年、宜野座体育館を立てるときに埋葬地の一部が発掘されました。現場には連日多くの遺族が詰めかけましたが、墓標が見つかってもほかの人の骨と混ざっていて、結局、誰も持ち帰ることはできませんでした。騏一さんも従妹の手掛かりは探せませんでした。
7月20日、宜野座民間人収容所に中川初等学校が設立されたが、慢性的な食糧不足のなかでは、子どもたちも生きるための食糧確保にせいいっぱいであった。
65年前の今日、宜野座村に初等学校が誕生。しかし多くの人々が集まっていた村内では、子どもたち全員が通えたわけではありませんでした。県から南部地域住民の疎開地に指定されていた宜野座村。4月以降は捕虜になった住民たちを集めた収容所も作られ、宜野座村は多くの戦争難民で混乱状態に陥りました。1945年の敗戦当時、宜野座村の人口は最大で10万3000人。沖縄県の人口のおよそ32パーセントが宜野座村に集まっていました。田里友伸さんは、当時宜野座村にあった福山収容所に沖縄市から移動してきました。田里友伸さん「もとは避難壕に入っていた。そこにいた人と一緒に捕虜にとられて、島袋に収容された。そこの収容所から福山に移動した」
65年前のこの日に宜野座村に誕生した中川初等学校。この時期、宜野座村では多くの収容所に学校がつくられましたが、田里さんは学校があったことすら知らなかったのです。田里さん「あっちはほとんど学校あったかわからなかったぐらいです。食べるものもないんだから。イモなんか植えても生えないんです。枯地で」子どもたちの教育のため作られた学校ですが、戦争難民であふれ、食べるのもやっとだった混乱のなか、学校は誰もが通える場所ではなかったのです。
本村地域に収容された人々は、米軍の指示によって住居づくり・芋の植え付け・食料調達・洗濯婦・便所掃除・埋葬等の作業に従事し、報酬としておにぎりや缶詰などの食料を得ていた。しかし、地区によっては急激な人口増や様々な要因により食料不足となっていた為、収容者の自由な移動が制限される中、食料を求めて収容地を越境する者も多かったようである。
中部の米軍基地建設の開始に伴い、北谷の住民は4月4日には島袋へ、さらに6月末からは宜野座収容所の福山に移送された。
砂辺→島袋→宜野座に移された北谷女性 (39歳) の証言
宜野座では、島袋よりももっと食糧難でした。一か月も経たぬうちにみんな飢え死にしそうになっていました。… おばあさんたちや子供たちから、栄養失調でつぎつぎと死んで行きました。それでも土地の人たちは、カンダバーが畑に沢山あるのに、私たちにはゆずってくれませんでしたよ。
北谷町砂辺出身の二十歳の女性の証言
漢那 (漢那収容所) からは、どこにも行けなかったんですよ。中川(金武村)めたりに、米軍のキャンプができていて、それから先には通れませんでした。金武や石川(旧美里村)は、食盤事情がとてもいいという噂を聞いていたんですが。漢那では、一人一週間分として米二合しか配給がありませんでした。私たちは、私とおじいさんと子供の分の配給でしたけど、それだけではとても足りないもんですから、私は毎日イモ掘り作業に出掛けていました。惣慶(伯金武村)に五名でイモ掘りに行ったとき、私だけが危険な目に逢ったことがありました。私たちがイモ掘りを畑の中でしているときでした。突然ジープに乗ったアメリカ兵が来たんですよ。
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*1:「陸軍マルレ海上挺進隊第27戦隊」- 「与那原の海岸側に配備されていた海上挺進隊第27戦隊(陸軍の特攻艇部隊)、重砲兵第7連隊(中城湾要塞重砲兵連隊を改称)、射堡隊(海軍)、戦車第27連隊も、米軍の攻撃の前には無力であった。」総務省|一般戦災死没者の追悼|与那原町における戦災の状況(沖縄県)