1945年 7月20日 『警部補の沖縄島脱出』

〝沖縄〟という米軍基地

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読谷飛行場に降り立ち、歓迎の出迎えを受ける “ハップ” アーノルド陸軍大将。(1945年7月20日撮影)

General view of Army General ”Hap” Arnold being welcomed as he stepped down from plane on Yontan Airfield, Okinawa.

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那覇飛行場の第9空軍兵站部の貯蔵庫及び倉庫建設予定地を片づける第933連隊航空工兵隊。ブルドーザーはビルの土台となる表土を運び入れ、キャタピラー石灰岩を平らにしていく。ビルとテントは第9極東空軍兵站部の事務所及び司令部となる。(1945年7月20日撮影)

Aviation engineering of the 933rd Regiment are seen clearing out an area at Naha Airfield where the storage and warehouses for Air Force Depot #9 were later built. Earthmovers are dumping top soil for the base of the buildings while caterpiller graders are leveling off the coral sand brought in. Buildings and tents are offices and quarters of the Far East Air Force Depot #9. Okinawa, Ryukyu Retto.

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米軍の動向

日本軍陣地の調査

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沖縄北部の“レッドビーチ1”を防御するトーチカの入り口。(1945年7月20日撮影)

Entrance to pillbox covering Red Beach #1. Northern Okinawa.

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沖縄北部の“レッドビーチ1”を防御する重機関銃の小さなトーチカ(1945年7月20日撮影)

Small pillbox used for heavy machine gun covering Red Beach #1 northern Okinawa.

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沖縄本島北部の掃討作戦中、敵の壕の継続使用を阻止するため仲宗根付近の大井川沿いで見つかった壕に200ポンドのトリニトロトルエン爆弾を装着し、爆破した。(1945年7月20日撮影)

A cave is blasted with a 200 pound charge of TNT discovered along the Oi-Kawa River near Nakasone, Northern Okinawa to prevent further use of the cave by the enemy during mopping-up operations on Northern Okinawa.

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砂袋を積み補強が施された日本軍の兵員用待避壕(1945年7月20日撮影)

Sand bagged and rivetted Japanese dugout for personnel.

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読谷飛行場を望む52高地にある疑似対空砲の防壁と塹壕(1945年7月20日撮影)

Dummy AA Revetment and trenches Hill 52 overlooking Yontan Airfield.

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読谷飛行場の端に設置された大型高射砲列。大型建造物の擁壁に注目。(1945年7月20日撮影)

Link of heavy AA emplacements on edge of Yontan Airfield---Note heavy construction of revetment.

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グリーンビーチ2の堅固な陣地にある対艦砲および重機関銃射撃用副砲門(1945年7月20日撮影)

Side ports for anti-boat gun and heavy M. G. In strong point, covering Green Beach #2.

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第32軍の敗残兵

沖縄島からの脱出

警察特別行動隊(警察別動隊)

沖縄県の荒井警察部長は5月11日、8人の部下を選抜し、警察特別行動隊(警察別動隊)を編成した。彼らの任務は、内務省沖縄県民の現状を直接報告するというものであり、そのためには、米軍に気付かれないよう沖縄から脱出し、東京へ向かう必要があった。舟や食糧は、海軍が協力する手はずになっていた。

5月12日、県庁・警察壕を出発した別動隊は、豊見城の海軍司令部へ行くが、沖縄島脱出に関し、海軍の協力を得ることができなかったため、自力で脱出を決行することにした。

準備が整った6月7日、知念村知念城跡丘陵の壕に集結。4つの班を編制し、北上することにした時、米軍部隊が近づいたため、一旦、分散して退避した。その際、一部の者が米軍と応戦、警部が自決してしまった。残った者で3班を編成し直し、6月8日、北部を目指した。

3つの班に分かれた警察別動隊は、6月8日、それぞれ知念村を出発したが、そのうちの1つ班にいた者は10日に与那原で米軍に捕らわれ、もう1班では6月17日に中頭郡中城村で米軍と銃撃を交え、殉職者が出た。残りの1班は、15日かけて沖縄本島北部の久志村に辿り着いたが、そのときには、日本軍の組織的抵抗が終了していたため、6月25日、辺野古で米軍に投降していた

しかし、1945年7月20日、警察別動隊の1つの班にいた警部補1人は、沖縄北端に近い国頭村奥集落からサバニで脱出することができた。荒井警察部長の命令を遂行できたのは、この警部補だけであった。

警部補は、海路、与論島沖永良部島徳之島奄美大島を経て日本本土を目指した。

警部補が千葉県の東京留守業務部沖縄班にたどり着いたのは、敗戦から2か月後の10月である。警部補は「住民や官公吏の沖縄戦への協力の実情、戦況等について、内務省で詳しく報告した沖縄県民のスパイ行為があったために戦争に負けた、という流言を打ち消すことにも心を砕いた」と語っている。(366頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 366頁より抜粋、要約》

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与那原で米軍に捕らえられた班にいた巡査の体験談: 1945年6月10日以降

『夜になってちょうど佐敷にさしかかったときに、約20メートル前方からパッと照明燈を照らされ肝を冷やした。幸いにも私たちが立っていた場所はユーナの木の陰になっていた。向うからは見えなかったようだった。わたしたちは、近くのいも畑の中に飛びこんでしばらくじっと身をひそめていた。その間も、照明燈が絶えず照らされていた。やがてそれが点滅したので、2人一緒では眼につくから、と別れて行動することにした。いも畑の中からこんどはたんぼの中に入った。稲が伸びていて身を隠すのには丁度いいあんばいであった。そこに昼中いて、夜になってから行動を開始した。後で分かったことだが、その田んぼの中で2人は幾度か出会っていた。お互いに敵と思い、あわてて遠ざかった。顔を合わせたわけではなかったのである。

与那原近くの森の草むらに隠れたりして、道端の砂糖キビをかじりながら、出発して3日目にやっと与那原町に辿り着いた。大雨が降っていた。町の中の民家や商店などはほとんど焼失していた相当数の米軍幕舎が並んでいた。町の中は大雨の水でまるで田んぼのようになっていた。

町外れに、焼け残った民家を見つけ、そこに行こうと決心した。もうどうにでもなれ、と幕舎の間を堂々と歩いて行った。その家は空家になっていた。私は、濡れた着物を脱ぎ、それで下半身を包み、イロリの中に隠れていた。蚊が襲ってきた。しばらくすると米兵らがこの家にトラックできた様子で、私は身を固くしていた。この家を取り壊しにきたのだ。やがてブルドーザーで敷き殺されるのか、とびくびくしながら薄暗い家の中を見つめていた。

米兵らがどかどかと上がってきて、床板を片っぱしからはねあげた。幸いにも私には気づかず、夕食時間ということでさっさと引き揚げて行った。私を、ぼろ切れと思ったのだろう・・・。』(461頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 461頁より》

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沖縄本島にある藁葺き屋根の民家。米軍の空爆と艦砲射撃によって被害を受けた。

The thatched-roofed homes of civilians on Okinawa in Ryukyus damaged by US aerial and naval bombardment.

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『彼らが出た後、私は持参していた風呂敷に入っていた〝かつお節〟のちびたのをしゃぶりながら夜になるのを待った。

砂糖キビを杖にしてよたよた夜道を歩いているうちに、また照明燈をつきつけられた。その瞬間、私は無意識に、足元にあった罐詰の空罐を取る真似をしながら、ピストルを側の溝の中に突っこんだ

彼らが手招きしたので、私は覚悟を決め、オーバーにビッコを引きながら近づいたら、彼らは声高らかにゲラ、ゲラ笑いながら、これをのめと、大きなコップを私の鼻の先につき出した。それは暖かいコーヒーであった。私はお代わりをした。また彼らは笑った。

2人の米兵に抱きかかえられるようにしてジープに乗せられた。最初は名城の金網に入れられたが、すぐ百名の収容所に連れて行かれた。そこでまた金網に入れられ、MPと2世(米兵)に調べられた。私は、防衛隊でもない、また兵隊でもない、自動車の運転手で、那覇、国頭間の物資運んでいたが、那覇にいたときちょうど「10・10空襲に遭い・・・と嘘をついた。彼らは一応納得したように思ったが、そうではなかった。

…「君は嘘をついているからついてこい」、と山の麓に連行された。そこで、本当のことを言わないとここで射殺するとおどされた。私は本当のことを正直に話した。…銃を突きつけられ本部に連行された。私はしばらく金網の中にいたら、通訳と元日本軍憲兵隊長がきて、首実験をした。私はその隊長を知っていた。特高課長の名も聞いた。よし間違いなく警察官であると太鼓判を押した。そしてすぐここから出て好きな所に行け、と追い出された

結局MG本部(米軍政府)にいた…氏を頼って、そこに行ったら、そこには警察官が大勢いた。警察官の経験年数の一番長かった糸満の…刑事がそこのCP隊長になった。私は、傷を治療するために、しばらく病院に入院した。』(462頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 462頁より》

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正面を向いているのは、地元の警察署長。沖縄本島の下原にあるC-3軍政府チーム事務所にて。

Facing front, chief of native police at office (Shimobaru) of Military Government C-3, Okinawa, Ryukyus.

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月20日(金)