1945年 4月21日『郷土沖縄を救え・郷土は自分で護れ』

南進する米軍

城間(ぐすくま): アイテム・ポケット

4月21日午前6時30分、第2大隊はアイテム・ポケットの入口を横切って別の攻撃を開始した。部隊は対戦車砲を装備していたが、この砲は海岸に陸揚げされ、およそ900メートルを兵が手でひっぱってポケットの中央真向かいに据え付けたものだ。だが、部隊の進撃が開始されて十分とたたぬうちに、全左翼は激しい砲火にあって釘づけにされてしまった。部隊は…丘陵に後退した。』(220頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 220頁より》

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

 

伊祖(いそ)

『長く、かつ高くそびえている浦添丘陵は自然の要塞だった。西海岸のほうから東方へ進むたびに丘陵はひときわ高くなり、いよいよ攻めにくくなる一方であった。島の中央部で、丘はいっそう高くなり、その北面はほとんど崖のようにそそり立っている。ここは第27師団の左翼地区に入り、そこからつづいて第96師団地区までのびていた。

伊祖の村落は、この丘陵の向こう側にある日本軍防衛陣地のカギとなる地点で、独立歩兵第21大隊と野戦重砲第1連隊の一部が守備にあたっていた。

浦添村伊祖周辺の日本軍防衛網の中心は、村落のちょうど北東の方角にあり、小高い丘の上からさらに15メートルほども高く突ったった岩山だった。米軍はこれを〝西の高峰〟と呼んでいた。この高峰には洞窟や岩の裂け目があり、小さな隠れ場所や割れ目が無数に散在して、どの方角からも攻めるにもむずかしく、大砲や迫撃砲弾でも攻略できそうにない。地下壕は八方に通じ、中には伊祖に出ているものもあれば、また西方に180メートルものびているのもあった。

もう一つの要塞は、〝西の高峰〟から南東およそ500メートルの地点にある丘陵上に高くそびえる〝東の高峰〟である。この丘の頂上には墓があり、なかは空洞で納骨所になっており、その前にはほとんど庭があった日本軍はこのなかに機関銃をすえ、あらゆる方向からの米軍の進撃を阻んでいた。

西高峰の中間には道路が一本あり、丘の頂まで走って急カーブで峰を横切っていた。ここには強固な障害物が設けられ、道路自体に地雷を敷設してあった。』(259-261頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 259-261頁より》 

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牧港から見た仲間、伊祖方面

THE PINNACLES, center of the 27th Division's fighting on Urasoe-Mura Escarpment.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

『…4月21日、東西両峰をめざしての丘陵争奪戦は、あい変わらずつづけられた。…前日、戦死した日本軍将校のポケットを調べてみると、牧港から丘陵頂上にいたるまでの道路の地雷敷設図を発見したのである。さっそくこの地図を頼りに、21日の払暁から作業にかかり、午前9時までには全地雷を片付けてしまい、丘の頂まで一本の補給道路ができあがったのである。そしてさらに正午までには、道路の上りつめたところにある障害物もきれいに片づいた。

午後2時、戦車隊がまず切り通しを通過、装甲車もついに丘の頂上に達した。』(266-267頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 259-261頁より》

 

嘉数(かかず)

『4月20日の夜から21日にかけて、丘陵地帯からかなりの日本兵がおりてきて、米第27師団の左翼に移動し、嘉数地区に迫撃砲や機関銃をすえて陣地を強化しはじめた。この増援された抵抗軍に対して、米軍師団の偵察隊は、嘉数村落めざして、戦いながら徐々に進撃していって、午前11時45分、村落の端についた。』(269頁)

4月21日の嘉数陣地での戦闘では、第27師団は苦境に追い込まれた。日本軍は前線後方に大部隊をひかえ、それにひきかえ第27師団は予備軍さえもっていなかった。しかも第96師団とは遠く離れていた。散兵線は希薄だった。第106歩兵連隊の第3大隊は、師団予備軍として前線から後退、し嘉数西の攻撃を命じられた。…大隊は夜にまぎれて塹壕を掘った。』(270頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 269、270頁より》

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

 

西原(にしばる)

『第382連隊の第1大隊は、…4月21日の午前7時20分、第3大隊の方が第381連隊の位置を通って西原丘陵に着くよう、その西方から後方に回って円形陣をつくれるように進撃していった。いったん峰の上にのぼって…東方に攻撃を開始した。…ついに12時45分、日本軍の最初の反撃をくらった。その後、反撃は2回もあったが、最初に反撃は…撃滅することができた。第2回目は…午後1時30分西原村落から行われ、激しい接近戦を展開した。』(255-256頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 255-256頁より》 

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西原丘陵へと向かう米軍

On 21 April the 3d Battalion, 382d, attacked eastern end of escarpment by moving through the 381st's zone to the ridge, then turning east. Men of the 3d Battalion are shown moving forward in support of this attack.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

第381連隊の第1、第2大隊が、4月21日西原村落を占領すべく、夜も明けたばかりの午前6時30分、共同作戦で攻撃を開始した。西原丘陵に向かった第381連隊は、第1大隊を左翼に、第2大隊を右翼に配置した。丘腹は勾配があまりにもはげしく、戦車も使用できなかった。…丘陵の頂上をちょうど登り終わったとき、日本軍の猛火をうけて進路を絶たれてしまった。…右翼の前線には日本軍が侵入し、左翼の村落には大部隊がなだれ込んできた。…午後2時、煙幕が張られ、米軍大隊は負傷者や戦死者をかついで、後方陣地に足取りも重くひきあげた。この日、陽が西に落ちても、西原丘陵と村落は、いぜん日本軍の手中にあった。』(257-258頁)

 《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 257-258頁より》

 

周辺離島の制圧

伊江島(いえじま)

4月20日の夜から21日の夜中にかけて、…米軍散兵線を少数の日本兵が偵察にきた。…午前4時30分、日本軍はこの陣地を、迫撃砲で1時間にわたって攻撃するや、5時30分、日本軍の300から400の部隊が、左翼を強襲してきた。迫撃砲や機関銃でうちまくってから縦隊になって、北、北西、西の三方からなだれのように最後の突撃を敢行してきた。そのなかには婦人もいて、死物狂いで突入してきた。』(174頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 174頁より》

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GOVERNMENT HOUSE HILL, western end of Bloody Ridge, viewed after the battle from beach road at east end of Red Beach 4. Scarcely any vestige of the town of Ie remained. The Pinnacle looms behind ridge.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

『日本軍は村役所の下に陣取っていた大隊本部にも突入し、本部付全将兵や配属工兵隊、G中隊の生き残り全員が死物狂いで戦った。大隊長から参謀、事務兵、炊事兵に、運転兵までが銃をとり、丘の上に戦列を敷いた。

この突撃で日本軍は、米軍の散兵線内にとび込み、爆薬箱を投げ、中には本部中央わずか5メートルのところまで来て、米軍の手榴弾や機関銃弾に倒れたものもいた。…米軍は…1時間も肉弾戦をくりかえしたあげく、ついに日本軍を退却させ、失われつつあった陣地をふたたび取りもどした。明け方になって日本軍の攻撃の手はゆるんだ。突撃してきた日本兵のほとんどは、米軍の散兵線内で戦死していた。G中隊地区では日本兵の死体は280を数え、F中隊、E中隊前方にはさらに84の死体が横たわっていた。』(174-175頁)

 《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 174-175頁より》

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Government House was only a concrete shell after both American and Japanese fire power had worked it over. The 2d Battalion, 307th Infantry, 77th Division, used the second floor as machine-gun position to cover 305th and 307th troops moving up Bloody Ridge on right.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

21日の朝城山を包囲した第306連隊の第3大隊は、しだいに包囲陣をせばめていった。東側スロープにいた第3大隊は、8時30分、進撃を開始し、第1大隊と第2大隊はそれぞれ北側と北西側から日本軍のトーチカや洞窟陣地を一つ一つ攻撃していった。

この日、日本軍の反撃はいよいよ激しくなり、交戦範囲も非常にせばめられてきたので、米軍としては、各部隊が密接な連携をとる必要が出てきた。同士討ちになることを恐れたからである。

ランドル将軍は、積み重ね式攻撃を命じた。一大隊が攻撃、他の大隊が占領するという戦法である。…こうして四方から城山を攻めたてて、ランドル将軍は、午後1時45分、「日本軍の全抵抗線を撃滅せり」とブルース少将に報告した。』(176-177頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 176-177頁より》

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日本軍の防衛陣地を表した図

IE SHIMA -- Typical Defense Position On Face of Iegusugu Pinnacle

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

 『その後も、日本軍の抵抗はつづいたが、21日の昼下がりからは、米軍は掃討戦に入った。城山の外部陣地は、一応、確保された。日本軍は平地に下って陣地をつくり、米軍の通路を狙って攻撃してきた。しかし、平地の日本軍陣地はわけなく撃滅された。…4月21日の午後5時30分、伊江島確保が宣言された。』(177頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 177頁より》

 

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-58000/NH-58558/_jcr_content/mediaitem/image.img.jpg/1456533758231.jpg

伊江島の城山に掲げられた星条旗 (1945年4月21日午前10時25分撮影)

The flag of the US 77th Infantry Division flies for the first time on the pinnacle of Mt. Iegusugu at 10:25 a.m. on 21 April 1945.

NH 58558

伊江島に上陸したのは、慶良間を攻略した米軍の歩兵第77師団だった。

『米軍の戦史はいう。「伊江島では慶良間の場合と違って、日本軍は多くの民間人をも戦闘に投入した。それらのなかには乳飲み子を背負ったままの婦人も含まれていた。住民たちは、死ぬと知りながらも斬り込み隊員となり、竹ヤリ、手投げ弾、爆薬箱をかかえて米軍陣地に突入し、同島防衛の一翼をになった」と。だが、その犠牲は大きかった。米軍は、死体を点検してはじめて軍人とばかり思っていたのが、じつは非戦闘員が日本の軍服を着ていたのだとわかった。中には、米軍の軍服を着た者までいたという。』(107頁)
《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 107頁より》

 

米軍にいたウチナーンチュ

比嘉太郎さん ①

伊江島が米軍の手に陥ちた4月21日の晩のこと。ハワイのヒッカム陸軍飛行場から1人の小柄な沖縄出身二世が飛び立った。目的地は沖縄で、彼は固い決意を胸に秘めていた。両親が、中城村字島袋の出身の比嘉太郎一等兵である。比嘉さんは、英語はむろん、日本語と沖縄方言にも通じていた。彼は、有名な歩兵第100隊の一員としてヨーロッパ戦線に参加したこともある多彩な経歴の持主でイタリアで重症を負い再起不能とまでいわれたが、奇蹟的に一命をとりとめ除隊してハワイへ帰った。が、沖縄が戦場になったのを知ると欧州戦線で目撃した民間人の悲惨な状況を思い出し、矢も楯もたまらず沖縄へ飛び込んで一人でも多くの住民を戦災から救出しようと決意したのである。その前、彼はハワイ各島を回って「郷土沖縄を救おう」と呼びかけ、沖縄戦災民救済運動を起こすとともに沖縄でハワイ在住県出身者たちの援助物質の受け入れに当たることになった。』(110頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 110頁より》

 

 

第32軍の動向

北部戦線

本部(もとぶ)半島・名護(なご)周辺: (国頭支隊・宇土大佐)

八重岳が米軍に占領され、多野岳に後退することになった日本兵と学徒らは、幾度か米軍の攻撃を受けながらも、中島大尉の指揮のもと、山中を歩き続けていた。攻撃される度に死傷者を出したが、遺体を埋葬することも、負傷して動けない者を手助けすることもできず、歩ける者だけひたすら多野岳を目指していた。

21日、昼、大工又の山中に潜んだ部隊は、久しぶりに炊さんに取りかかった。…宮城、上地両兵長が、連絡の使命を帯び、護郷隊の油井小隊のいる場所をさがして谷間を歩き廻っていると、岩陰に坐っている一団の人々を発見した。宇土大佐と熊田副官、榎木原曹長の数人だった。

宇土大佐の本部は、既に17日の昼、真部山を発つと、中山(名護)にはいったが、そこで樹陰で昼寝しているところを、俄かに米兵に拳銃で射たれ、大佐は指を負傷したが、翌18日の昼間、羽地の古我地山中をさまよい、迫撃砲に追われつつ19日、薬草園を抜け、20日、中島隊のいる大工又に着いたところだった。

…護郷隊の油井少尉外数人の隊員は大佐の前に呼び出された。宇土大佐は、八重岳の顛末を短く説明すると、…「八重岳の戦闘は苦しかった。だが、俺としては無事任務を果たしたつもりだ。今後は、部隊の残力を挙げて敵の後方攪乱をやる。支隊長は後からいくから、宇土と協力するようにと、村上大尉に伝えてくれ」といった。護郷隊長村上大尉は、羽地の多野岳に陣取っていた。

宇土大佐の本部を含む隊列がそこを出発する時のことだった。空腹にたまりかねた上地と宮城両兵長が、山に近い一軒の民家を覗いたら、一人の老婆がいて、ありあわせの豚肉と黒砂糖の塊をくれた。…「…この黒砂糖を宇土大佐殿にやろう」と…二人が差出た黒砂糖を物珍しそうに手に受けとると、宇土大佐は…黒砂糖の塊を素早く頬張り、「有難う、糖分が欠乏しているからな」と笑った。

隊列は、中島大尉の指揮で再び隊伍を整え、夜が来ると、例のように暗夜の行進に移った。羽地大川を渡ると、目的地の多野は近い。ーその頃からは、勝手に脱落していた兵隊達がいつの間にかぞくぞく隊列に復帰していた。そのため兵員は元通りの約1千人近くを数えるようになっていた。』(307-308頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 307-308頁より》

 

野岳(たのだけ/タニューだけ): (第3遊撃隊、別称: 第1護郷隊・村上大尉)

『北部には、大本営の直接指導を受けて行動する予定の二つの隠密部隊がいた。…隠密部隊だけに、隊編成は、現地で行うこととなっていた。軍隊教育を受けた優秀な下士官と、土地出身の青少年達を義勇隊員の名目で募り、羽地村、多野岳に、4個中隊からなる第3遊撃隊を編成して、村上大尉の指揮で布陣した。…第3遊撃隊は、兵力約600人、…防諜の意味から、…護郷隊と名づけられた。「自分の郷土は自分の手で護れ」というのが、軍の沖縄人に与えた大義名分であり、義勇隊に志願した青少年達は、村上大尉の指導と相俟って、この使命に生き、青春の若い血を無謀に燃やしつくしたのだ。』(309-310頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 309-310頁より》

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野岳遠望

名護市役所-多野岳の自然観察

 

伊江島(いえじま): (国頭支隊・井川少佐)

沖縄戦日誌・4月21日伊江島地区隊長井川正少佐は夕刻7時最後の総攻撃を命令、果敢な突撃を敢行し井川少佐以下将校全員が戦死、日本軍伊江島守備隊の組織的抵抗終わる。この最後の突撃には、住民、防衛隊、女子救護班、女子協力隊も参加、伊江島全戦闘を通じ住民1,500人が戦死した。』(440頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 440頁より》

『1945年(昭和20)年4月21日午後5時30分米軍は伊江島占領を宣言したが、伊江島戦を指揮したブルース海兵隊少将は「最後の3日間は、私がいまだかつて見たこともない激しい戦闘だった」と語っている。』(582頁)

名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 582頁より》 

青年義勇隊にいた男性の証言:

『ちょうどうちらが壕から出て総攻撃っていう命令が、命令、誰からやらんけれども、分隊長の命令ですから、出ていってやったら、もうその人もかなわんと思ったんでしょうね。「もうダメだ、引き揚げ、引き揚げ」って。それで引き揚げたんですよ。』

『引き揚げて行ったらここに10名ぐらいの兵隊がいましたね、壕の中に。それでそこで残っている連中の中で、もうこの戦は負けだということで、もう自爆する用意はありましたね。もういつ何時上官の命あるかと思って待っているけれども、命令はなかったですね。その間に兵隊さんが、これに書いてある、「まだ死ぬのは早い。生きてさえいればなんか道は開けるんじゃないか」という声が交わされた。それで自爆は終わったわけです。中止になったわけです。そのおかげで生き残ったんでしょうね。もう自爆でもしておったら、もう死んでおったでしょう。』

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youtu.be

NHK沖縄放送局】「ドキュメント沖縄戦伊江島をめぐる激戦

(8分40秒頃まで) 

150212NEWS▽ドキュメント沖縄戦伊江島をめぐる激戦▽アート探訪沖縄古美術 - YouTube

 

中南部戦線

沖縄戦日誌・4月21日・城間、伊祖、安波茶地区で死闘展開、嘉数、棚原、西原高地で米軍の攻撃を阻止。米軍東部海岸で和宇慶西方1キロの高地を占領。つづいて夕刻には同高地の東方につらなる全稜線を占領。』(440頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 440頁より》

嘉数の陣地にいた日本兵の証言:

『「お前いいところに帰ってきたわ。ここで山の上で白兵戦を何べん繰り返したか分からんへん」て言われた。山の上あがってったらよーけ黒人が死んどったもん。ほんで、アメリカも戦車や飛行機やら乗っとんのは白人が乗って歩兵は黒人ばっかやな。かわいそうに。』

『よーけ、転がっとったもん。そのままにしたった。日本の兵隊はみんな、戦死者は山から降ろしてな。処分したけども、アメリカの黒人はほったらかしやったもん。』

野戦病院から帰ったらその2中隊の中隊長から呼ばれて、「お前どういうふうな陣地がいちばん悪いと思う、欠点や」と思ったら「あのタコツボみたいな、あんなかわいそうに。来る前に、戦車が来る前に火炎放射器で全部死んで無駄やと思う」ったら「俺もそう思う」て言うたら「全部引きあげよう。」て。2中隊の中隊長が引きあげさせとったわ。こんな爆薬を持って戦車の下敷きなるやんもん。ありゃ日本人ようしたわ。今の日本じゃったら「こんなあほらしい」って皆反対するけど、あの時分はおとなしかったやな。』

『下敷きになんの。自分もろともに。自分は死ぬわな、もちろん。』

『もうその蛸壺の来る前にその戦車が火炎放射器ずーっとまいて。皆焼き殺された。うちら。かわいそうに。』

『やっぱり、武器の相違やなと思うた。兵器の。日本魂で勝てるはずはないと思うた。もう、嘉手納へ来るときに負けたなと思うたもん。夜、たまに日本の特攻隊がガーッと行くと、なんや照明灯がパーと、曳光弾でパーパーパーて撃つと日本の特攻隊がみんな海の中へ、みんな火吹いて沈んでったもん。そんでも、10機位来たかいな。きたことは来たやな。途中でやられたらしいわ。みんな。沖縄来る前に。日本の特攻隊は。』

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