1945年 4月21日『郷土沖縄を救え・郷土は自分で護れ』

米軍の動向

周辺離島の制圧

伊江島(いえじま)

『4月20日の夜から21日の夜中にかけて、…米軍散兵線を少数の日本兵が偵察にきた。…午前4時30分、日本軍はこの陣地を、迫撃砲で1時間にわたって攻撃するや、5時30分、日本軍の300から400の部隊が、左翼を強襲してきた。迫撃砲や機関銃でうちまくってから縦隊になって、北、北西、西の三方からなだれのように最後の突撃を敢行してきた。そのなかには婦人もいて、死物狂いで突入してきた。』(174頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 174頁より》 

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GOVERNMENT HOUSE HILL, western end of Bloody Ridge, viewed after the battle from beach road at east end of Red Beach 4. Scarcely any vestige of the town of Ie remained. The Pinnacle looms behind ridge.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

『日本軍は村役所の下に陣取っていた大隊本部にも突入し、本部付全将兵や配属工兵隊、G中隊の生き残り全員が死物狂いで戦った。大隊長から参謀、事務兵、炊事兵に、運転兵までが銃をとり、丘の上に戦列を敷いた。
この突撃で日本軍は、米軍の散兵線内にとび込み、爆薬箱を投げ、中には本部中央わずか5メートルのところまで来て、米軍の手榴弾や機関銃弾に倒れたものもいた。…米軍は…1時間も肉弾戦をくりかえしたあげく、ついに日本軍を退却させ、失われつつあった陣地をふたたび取りもどした。明け方になって日本軍の攻撃の手はゆるんだ。突撃してきた日本兵のほとんどは、米軍の散兵線内で戦死していた。G中隊地区では日本兵の死体は280を数え、F中隊、E中隊前方にはさらに84の死体が横たわっていた。』(174-175頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 174-175頁より》

『その後も、日本軍の抵抗はつづいたが、21日の昼下がりからは、米軍は掃討戦に入った。城山の外部陣地は、一応、確保された。日本軍は平地に下って陣地をつくり、米軍の通路を狙って攻撃してきた。しかし、平地の日本軍陣地はわけなく撃滅された。…4月21日の午後5時30分、伊江島確保が宣言された。』(177頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 177頁より》

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-58000/NH-58558/_jcr_content/mediaitem/image.img.jpg/1456533758231.jpg

伊江島の城山に掲げられた星条旗1945年4月21日午前10時25分撮影)

The flag of the US 77th Infantry Division flies for the first time on the pinnacle of Mt. Iegusugu at 10:25 a.m. on 21 April 1945.

NH 58558

伊江島に上陸したのは、慶良間列島を攻略した米軍の歩兵第77師団だった。

『米軍の戦史はいう。「伊江島では慶良間の場合と違って、日本軍は多くの民間人をも戦闘に投入した。それらのなかには乳飲み子を背負ったままの婦人も含まれていた。住民たちは、死ぬと知りながらも斬り込み隊員となり、竹ヤリ、手投げ弾、爆薬箱をかかえて米軍陣地に突入し、同島防衛の一翼をになった」と。だが、その犠牲は大きかった。米軍は、死体を点検してはじめて軍人とばかり思っていたのが、じつは非戦闘員が日本の軍服を着ていたのだとわかった。中には、米軍の軍服を着た者までいたという。』(107頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 107頁より》

 

南進する米軍

城間(ぐすくま): 「アイテム・ポケット」

4月21日午前6時30分、第2大隊はアイテム・ポケットの入口を横切って別の攻撃を開始した。部隊は対戦車砲を装備していたが、この砲は海岸に陸揚げされ、およそ900メートルを兵が手でひっぱってポケットの中央真向かいに据え付けたものだ。だが、部隊の進撃が開始されて十分とたたぬうちに、全左翼は激しい砲火にあって釘づけにされてしまった。部隊は…丘陵に後退した。』(220頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 220頁より》

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

 

伊祖(いそ)

『…4月21日、東西両峰をめざしての丘陵争奪戦は、あい変わらずつづけられた。第105連隊の第1、第2大隊は、一夜のうちに隊を再編して東の峰めざして攻撃を開始した。そして、第105連隊の第3大隊と、第106連隊の第1大隊は、向きをかえて西の峰に進撃した。だが、この攻撃も失敗だった。一時は4つの部隊が同時に西の峰を攻めたが、岩かげにかくれていた狙撃兵に一人ずつ撃たれてしまったのである。

しかしながら、その日は一つだけ、確かに収穫になったと思われるものがあった。前日、戦死した日本軍将校のポケットを調べてみると、牧港から丘陵頂上にいたるまでの道路の地雷敷設図を発見したのである。さっそくこの地図を頼りに、21日の払暁から作業にかかり、午前9時までには全地雷を片付けてしまい、丘の頂まで一本の補給道路ができあがったのである。そしてさらに正午までには、道路の上りつめたところにある障害物もきれいに片づいた。

午後2時、戦車隊がまず切り通しを通過、装甲車もついに丘の頂上に達した。』(266-267頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 266-267頁より》 

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牧港から見た仲間、伊祖方面

THE PINNACLES, center of the 27th Division's fighting on Urasoe-Mura Escarpment.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

 

嘉数(かかず)

『4月20日の夜から21日にかけて、丘陵地帯からかなりの日本兵がおりてきて、米第27師団の左翼に移動し、嘉数地区に迫撃砲や機関銃をすえて陣地を強化しはじめた。この増援された抵抗軍に対して、米軍師団の偵察隊は、嘉数村落めざして、戦いながら徐々に進撃していって、午前11時45分、村落の端についた。

ここで全部隊が猛砲火をうけて釘づけにされ、戦車の1個小隊が救援によばれた。3時間ものあいだ匍匐前進をつづけ、嘉数の廃墟のなかを悪戦苦闘したあげく、進み得たのはわずか450メートルだった米軍はいちおう引き返し、午後4時、師団砲兵隊が村落に大量の砲撃を加えた。その後、米軍が村落に入っていこうとすると、日本軍が地下から出てきて砲火の壁をつくって進出をはばんだ。』(269-270頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 269-270頁より》

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

4月21日の嘉数陣地での戦闘では、第27師団は苦境に追い込まれた。日本軍は前線後方に大部隊をひかえ、それにひきかえ第27師団は予備軍さえもっていなかった。しかも第96師団とは遠く離れていた。散兵線は希薄だった。第106歩兵連隊の第3大隊は、師団予備軍として前線から後退、し嘉数西の攻撃を命じられた。…大隊は夜にまぎれて塹壕を掘った。』(270頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 270頁より》

 

我如古(がねこ)浦添西原

『第382連隊の第1大隊は、…4月21日の午前7時20分、第3大隊の方が第381連隊の位置を通って西原丘陵に着くよう、その西方から後方に回って円形陣をつくれるように進撃していった。いったん峰の上にのぼって…東方に攻撃を開始した。…ついに12時45分、日本軍の最初の反撃をくらった。その後、反撃は2回もあったが、最初に反撃は…撃滅することができた。第2回目は…午後1時30分西原村落から行われ、激しい接近戦を展開した。

…第382連隊の第3大隊は、日本兵150名を殺して、ついに反撃軍を撃退させることができた。

第3回目の反撃は、西原村落から南へ350メートルほど離れた143高地から、午後3時15分にきたが、これは簡単に阻止された。』(255-256頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 255-256頁より》 

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西原丘陵へと向かう米軍

On 21 April the 3d Battalion, 382d, attacked eastern end of escarpment by moving through the 381st's zone to the ridge, then turning east. Men of the 3d Battalion are shown moving forward in support of this attack.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

『…第381連隊の第1、第2大隊が、4月21日西原村落を占領すべく、夜も明けたばかりの午前6時30分、共同作戦で攻撃を開始した。西原丘陵に向かった第381連隊は、第1大隊を左翼に、第2大隊を右翼に配置した。丘腹は勾配があまりにもはげしく、戦車も使用できなかった。…丘陵の頂上をちょうど登り終わったとき、日本軍の猛火をうけて進路を絶たれてしまった。…右翼の前線には日本軍が侵入し、左翼の村落には大部隊がなだれ込んできた。

…午後2時、煙幕が張られ、米軍大隊は負傷者や戦死者をかついで、後方陣地に足取りも重くひきあげた。

この日、陽が西に落ちても、西原丘陵と村落は、いぜん日本軍の手中にあった。』(257-258頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 257-258頁より》

 

千原(せんばる)

『…21日、攻撃に出たが、まもなくはげしい機関銃の反撃をうけて進撃を阻止されてしまった。このため戦車隊や火炎砲装甲車が出動し、岩山北端を西側から至近距離で攻撃、歩兵部隊は、こうして岩山北部の西側を占領することができた

米軍が登った峰の向こう側では、日本軍の話し声も聞こえた。この日本軍を撃退しようと米軍はしのび寄ったが、先頭の一人が姿を現したとたん、彼は顔面を撃たれて即死した。もうそれ以上の進撃は不可能であった。千原南部を、西側から攻撃していた戦車隊と歩兵隊も、ともに失敗して、…ついに出発地点まで後退せざるをえなかった。』(250頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 250頁より》

 

和宇慶(わうけ)

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https://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/USA-P-Okinawa-9.html 

『午前9時…兵は40分も前進すると丘陵の真ん中あたりにある道のところまできた。…ここでF中隊は迫撃砲の猛烈な攻撃をうけ、進撃できなくなってしまった

第32連隊のE中隊は、左翼(東方)から進撃してきたが、この道路のところまできて、日本軍の機関銃や、先発の第3小隊が、手榴弾攻撃をうけ、それ以上の進撃は阻止されてしまった。そこで米軍のほうでは、前線の歩兵の前方20メートル足らずのところで、日本兵にもよく目に見える地点に迫撃砲をすえた。

午後12時30分、第7師団長のアーノルド少将が、フィン大佐の観測地点にきた。戦況について話し合った結果、…丘陵の下半分の丘腹攻撃は、178高地が陥落するまでは延ばしたほうが得策だという結論に達した。178高地が落ちれば、このあたりの防衛はできなくなるからである。』(245-246頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 245-246頁より》

 

軍政府

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下原に設置された米軍政府司令部(1945年4月21日撮影)

Headquarters of U. S. Military government established in the Village of Shimobaru.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

戦利品

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戦利品の日の丸の旗を持つボストン出身の兵士たち。写真は、上陸日から3週間目に撮影。(1945年4月21日撮影)

Boston Boys on Okinawa with captured Jap flag. Taken 3 weeks after D-Day.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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戦闘とパトロールの合間の見慣れた風景。故郷へ送る戦利品の検閲を受ける第22海兵連隊の兵士たち。(1945年4月21日撮影)

A familiar sight on Okinawa Shima-between fighting and patrols, men of the 22nd Marines have their souvenirs censored to send home.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

  

米軍にいたウチナーンチュ

比嘉太郎さん ①

伊江島が米軍の手に陥ちた4月21日の晩のこと。ハワイのヒッカム陸軍飛行場から1人の小柄な沖縄出身二世が飛び立った。目的地は沖縄で、彼は固い決意を胸に秘めていた。両親が、中城村字島袋の出身の比嘉太郎一等兵である。比嘉さんは、英語はむろん、日本語と沖縄方言にも通じていた。彼は、有名な歩兵第100隊の一員としてヨーロッパ戦線に参加したこともある多彩な経歴の持主でイタリアで重症を負い再起不能とまでいわれたが、奇蹟的に一命をとりとめ除隊してハワイへ帰った。が、沖縄が戦場になったのを知ると欧州戦線で目撃した民間人の悲惨な状況を思い出し、矢も楯もたまらず沖縄へ飛び込んで一人でも多くの住民を戦災から救出しようと決意したのである。その前、彼はハワイ各島を回って「郷土沖縄を救おう」と呼びかけ、沖縄戦災民救済運動を起こすとともに沖縄でハワイ在住県出身者たちの援助物質の受け入れに当たることになった。』(110頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 110頁より》

 

 

第32軍の動向

北部戦線

本部(もとぶ)半島・名護(なご)周辺: (国頭支隊・宇土大佐)

八重岳が米軍に占領され、多野岳に後退することになった日本兵と学徒らは、幾度か米軍の攻撃を受けながらも、中島大尉の指揮のもと、山中を歩き続けていた。攻撃される度に死傷者を出したが、遺体を埋葬することも、負傷して動けない者を手助けすることもできず、歩ける者だけひたすら多野岳を目指していた。

21日、昼、大工又の山中に潜んだ部隊は、久しぶりに炊さんに取りかかった。…宮城、上地両兵長が、連絡の使命を帯び、護郷隊の油井小隊のいる場所をさがして谷間を歩き廻っていると、岩陰に坐っている一団の人々を発見した。宇土大佐と熊田副官、榎木原曹長の数人だった。

宇土大佐の本部は、既に17日の昼、真部山を発つと、中山(名護)にはいったが、そこで樹陰で昼寝しているところを、俄かに米兵に拳銃で射たれ、大佐は指を負傷したが、翌18日の昼間、羽地の古我地山中をさまよい、迫撃砲に追われつつ19日、薬草園を抜け、20日、中島隊のいる大工又に着いたところだった。

…護郷隊の油井少尉外数人の隊員は大佐の前に呼び出された。宇土大佐は、八重岳の顛末を短く説明すると、…「八重岳の戦闘は苦しかった。だが、俺としては無事任務を果たしたつもりだ。今後は、部隊の残力を挙げて敵の後方攪乱をやる。支隊長は後からいくから、宇土と協力するようにと、村上大尉に伝えてくれ」といった。護郷隊長村上大尉は、羽地の多野岳に陣取っていた。

宇土大佐の本部を含む隊列がそこを出発する時のことだった。空腹にたまりかねた上地と宮城両兵長が、山に近い一軒の民家を覗いたら、一人の老婆がいて、ありあわせの豚肉と黒砂糖の塊をくれた。…「…この黒砂糖を宇土大佐殿にやろう」と…二人が差出た黒砂糖を物珍しそうに手に受けとると、宇土大佐は…黒砂糖の塊を素早く頬張り、「有難う、糖分が欠乏しているからな」と笑った。

隊列は、中島大尉の指揮で再び隊伍を整え、夜が来ると、例のように暗夜の行進に移った。羽地大川を渡ると、目的地の多野は近い。ーその頃からは、勝手に脱落していた兵隊達がいつの間にかぞくぞく隊列に復帰していた。そのため兵員は元通りの約1千人近くを数えるようになっていた。』(307-308頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 307-308頁より》

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攻略した沖縄北部の日本軍海軍基地にて、海岸に並ぶ日本軍及び海兵隊航空機のエンジンの残骸。(1945年4月21日撮影)

Ruins of Jap Airplane and Marine Engines line waterfront of captured Jap Naval Base in Northern Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

野岳(たのだけ/タニューだけ): (第3遊撃隊、別称: 第1護郷隊・村上大尉)

『北部には、大本営の直接指導を受けて行動する予定の二つの隠密部隊がいた。…隠密部隊だけに、隊編成は、現地で行うこととなっていた。軍隊教育を受けた優秀な下士官と、土地出身の青少年達を義勇隊員の名目で募り、羽地村、多野岳に、4個中隊からなる第3遊撃隊を編成して、村上大尉の指揮で布陣した。…第3遊撃隊は、兵力約600人、…防諜の意味から、…護郷隊と名づけられた。「自分の郷土は自分の手で護れ」というのが、軍の沖縄人に与えた大義名分であり、義勇隊に志願した青少年達は、村上大尉の指導と相俟って、この使命に生き、青春の若い血を無謀に燃やしつくしたのだ。』(309-310頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 309-310頁より》

http://www.city.nago.okinawa.jp/DAT/LIB/WEB/1/18_01.jpg

野岳遠望

名護市役所-多野岳の自然観察

 

伊江島(いえじま): (国頭支隊・井川少佐)

沖縄戦日誌・4月21日伊江島地区隊長井川正少佐は夕刻7時最後の総攻撃を命令、果敢な突撃を敢行し井川少佐以下将校全員が戦死、日本軍伊江島守備隊の組織的抵抗終わる。この最後の突撃には、住民、防衛隊、女子救護班、女子協力隊も参加、伊江島全戦闘を通じ住民1,500人が戦死した。』(440頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 440頁より》

『1945年(昭和20)年4月21日午後5時30分米軍は伊江島占領を宣言したが、伊江島戦を指揮したブルース海兵隊少将は「最後の3日間は、私がいまだかつて見たこともない激しい戦闘だった」と語っている。』(582頁)

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 582頁より》 

青年義勇隊にいた男性の証言:

『ちょうどうちらが壕から出て総攻撃っていう命令が、命令、誰からやらんけれども、分隊長の命令ですから、出ていってやったら、もうその人もかなわんと思ったんでしょうね。「もうダメだ、引き揚げ、引き揚げ」って。それで引き揚げたんですよ。』

『引き揚げて行ったらここに10名ぐらいの兵隊がいましたね、壕の中に。それでそこで残っている連中の中で、もうこの戦は負けだということで、もう自爆する用意はありましたね。もういつ何時上官の命あるかと思って待っているけれども、命令はなかったですね。その間に兵隊さんが、これに書いてある、「まだ死ぬのは早い。生きてさえいればなんか道は開けるんじゃないか」という声が交わされた。それで自爆は終わったわけです。中止になったわけです。そのおかげで生き残ったんでしょうね。もう自爆でもしておったら、もう死んでおったでしょう。』

 

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中南部戦線

沖縄戦日誌・4月21日・城間、伊祖、安波茶地区で死闘展開、嘉数、棚原、西原高地で米軍の攻撃を阻止。米軍東部海岸で和宇慶西方1キロの高地を占領。つづいて夕刻には同高地の東方につらなる全稜線を占領。』(440頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 440頁より》

嘉数の陣地にいた日本兵の証言:

『「お前いいところに帰ってきたわ。ここで山の上で白兵戦を何べん繰り返したか分からんへん」て言われた。山の上あがってったらよーけ黒人が死んどったもん。ほんで、アメリカも戦車や飛行機やら乗っとんのは白人が乗って歩兵は黒人ばっかやな。かわいそうに。』

『よーけ、転がっとったもん。そのままにしたった。日本の兵隊はみんな、戦死者は山から降ろしてな。処分したけども、アメリカの黒人はほったらかしやったもん。』

野戦病院から帰ったらその2中隊の中隊長から呼ばれて、「お前どういうふうな陣地がいちばん悪いと思う、欠点や」と思ったら「あのタコツボみたいな、あんなかわいそうに。来る前に、戦車が来る前に火炎放射器で全部死んで無駄やと思う」ったら「俺もそう思う」て言うたら「全部引きあげよう。」て。2中隊の中隊長が引きあげさせとったわ。こんな爆薬を持って戦車の下敷きなるやんもん。ありゃ日本人ようしたわ。今の日本じゃったら「こんなあほらしい」って皆反対するけど、あの時分はおとなしかったやな。』

『下敷きになんの。自分もろともに。自分は死ぬわな、もちろん。』

『もうその蛸壺の来る前にその戦車が火炎放射器ずーっとまいて。皆焼き殺された。うちら。かわいそうに。』

『やっぱり、武器の相違やなと思うた。兵器の。日本魂で勝てるはずはないと思うた。もう、嘉手納へ来るときに負けたなと思うたもん。夜、たまに日本の特攻隊がガーッと行くと、なんや照明灯がパーと、曳光弾でパーパーパーて撃つと日本の特攻隊がみんな海の中へ、みんな火吹いて沈んでったもん。そんでも、10機位来たかいな。きたことは来たやな。途中でやられたらしいわ。みんな。沖縄来る前に。日本の特攻隊は。』

 

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捕虜になった日本兵

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座間味島日本兵捕虜。(1945年4月21日撮影)

Jap prisoners at Zamami Shima, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

そのとき、住民は・・・

収容所生活: 座間味島(ざまみじま)

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/110-19-1.jpg

座間味島の病院に入院している地元の子ども。彼らの喉が親によって掻き切られそうになった点に注目。(1945年4月21日撮影)

Jap children in a hospital at Zamami Shima, Ryukyu Islands. Note how parents attempted to cut their throats.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/110-18-2.jpg

日本軍によって連れてこられた、朝鮮人の「芸者ガールズ」。座間味島にて。(1945年4月21日撮影)

Geisha Girls,” Jap Korean women found on Zamami Shima, Ryukyu Islands, brought to the island by the Japs.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/110-20-3.jpg

米軍占領後の座間味島の風景。民間人収容所。(1945年4月21日撮影)

Panoramas of Zamami Shima, Ryukyu Islands after being taken by American forces. Native camp.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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