1945年 8月18日 『〝終戦〟3日後の住民虐殺』

〝沖縄〟という米軍基地

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/13-58-1.jpg

嘉手納B滑走路に停留するおよそ200機のダグラスC-54スカイマスター。南西太平洋地区及び米国にある全ての基地から飛来したもので、日本や満州からの捕虜を移送する任務を負っている。輸送機のスペース確保のため戦闘機は移動し、人員はいつでも出動できるように準備を整えている。(1945年8月18日撮影)

Douglas C-54 “Skymasters“ on service apron, Kadena Airstrip #B, Okinawa, Ryukyu Retto. These planes were flown in from all bases in the SWPA and United States, and alerted to carry prisoners from Japan and Manchuria. There were approximately 200 “Skymasters“ parked on this airstrip. All combat airplanes were removed from this strip to accomodate all transports. Personnel remained with the planes constantly to be ready to move at a moments notice.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

阿嘉島(あかじま): 海上挺進第2戦隊(戦隊長: 野田義彦少佐/阿嘉島慶留間島)

渡嘉敷島(とかしきじま): 海上挺進第3戦隊(戦隊長: 赤松嘉次大尉)

米軍は慶良間諸島の島々に潜む日本兵に投降するよう呼びかけていたが、なかなか成果をあげることができないでいた。そこで、既に捕虜となった日本兵らを使い、投降を呼びかけることにした。

8月18日

阿嘉島渡嘉敷島ではG2将校と日本兵捕虜が降伏の条件について、野田隊長と赤松隊長と詰めていた。協定が成立した。

1、上級将校からの命令を受けること。

2、守備軍の武器を全て一カ所に集めること。

3、守備軍は2隊に分かれて投降し、第1隊は武器を所持せず、第2隊は小火器を所持してよいこと。』(28頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 28頁より》

 

住民を虐殺した日本軍残党

久米島住民虐殺事件 ③: 1945年8月18日

久米島(くめじま): 久米島電波探知機部隊(隊長: 鹿山正 海軍兵曹長

玉音放送から3日後の1945年(昭和20)8月18日日本軍は久米島で住民を虐殺した

久米島の住民虐殺は、これで3度目である

昭和天皇が日本国の敗戦を告げてもなお、沖縄の住民は戦争の犠牲となっていた。

久米島出身で当時25歳の男性は、防衛招集で海軍小禄飛行場守備隊に配属されていた。6月上旬に捕虜となった男性は、収容所に入れられていたが、米軍は久米島攻略のために男性を道案内役として起用した。男性は、久米島無防備の島であることを米軍に説明したので、久米島は米軍による総攻撃の難をのがれることができた。男性が米軍に協力したのは、故郷の住民を救いたいからであった。

男性は、米軍と一緒に久米島に上陸。山中でうろうろしている住民に対し、「米軍は住民に危害を与えないから抵抗せず、安心して山から下りて帰宅するように」と告げ回った。しかし、山に潜む住民らは友軍が気になり、すぐには呼びかけに応じなかった。

それを知った久米島に駐屯していた日本軍の鹿山隊長は、男性がとった行動を「スパイ行為」であるとみなし、男性、その妻、そして1才の子どもの家族3人の命を奪った

惨殺された遺体を見つけた住民によると、遺体には頭部がなかった。それは、鹿山隊長に確認させるため一家を殺した後で首を斬り、部隊に持ち帰ったのではないかと推測されている。(QAB/太平洋戦争と久米島)

《 琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月18日(土)  および「太平洋戦争と久米島」(上江洲盛元 編著/あけぼの印刷株式会社) / 29頁より抜粋、一部要約》

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『朝焼けに染まる宇江城岳の展望台から、自衛隊のレーダー基地を臨む。かつてはこの辺りに鹿山隊の兵舎、電探室や機械室があった。2015年8月23日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

 

鹿山隊によって10人目に殺されたのは、住民が「久米島の恩人」と言う男性の一家3人だった。

一家は鹿山隊によって突き殺され、妻は殴り殺され、小屋に運ばれ、そのあと焼かれている。場所はイーフビーチに面する銭田のサトウキビ畑のあるところだという。

殺害された一家を知る男性の証言:

「彼は海軍上等兵として沖縄本島で米軍の捕虜になり、久米島に艦砲射撃されようというのを知った時に、『この島には数十人の通信隊しかいないから、艦砲射撃はやめてくれ』と米軍に掛け合ったのです。

そして米軍が島に上陸したときには彼は米軍の道案内をしていましたから、米軍に『住民に投降するように言って来い』と言われました。男性は、住民の隠れている場所を探して、危害は加えられないから出てきて家に戻りなさいと言って回ったんです。こうした行為は、鹿山隊にとってはスパイや裏切りに見えました」

終戦は8月15日ですね。ところが…18日になって殺されてるんです。だから、その辺が悔しいですよ」

「家が2軒隣りだったんです。この人のおかげで、米軍によって殺された久米島の島民の数は少なくて、10人だけです。ところが日本軍に殺されたのはその倍の20人です。それが久米島の戦争の特徴なんです。他の島では人口の半数が米軍の艦砲射撃で殺された島もあったのに」

「鹿山隊長は、米軍に捕まったり近づいたりした者を、みんなスパイ容疑のブラックリストに載せるんです。つまり軍の秘密をアメリカに告げていると考えたわけです。さらに島の人も、人のせいにして告げ口をすれば自分は助かるから、鹿山隊に嘘の報告をする。だからもう、誰を信じていいかわからなくなるわけですよ、戦争というのは。そういう状態に人間を追い込むんです。相手を直接殺さなくても、人間が人間でなくなっていくのが戦争ということです。…」

日本兵が島民を殺す 久米島の戦争 – 世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPAN より抜粋、要約》

daysjapan.net

 

 

そのとき、住民は・・・ 

先島諸島沖縄戦

遭難した疎開民 ⑭

1945年7月上旬には台湾へ疎開する予定だった石垣島の住民たち。台湾到着を目前にして米軍機からの攻撃で、疎開船一隻が炎上、沈没し、多くの犠牲者を出した。ほとんどの生存者らが着の身着のままで尖閣列島魚釣島に上陸。その後、約50日間続いた無人島生活は、過酷なものだった。助けの船が来る様子もないことから、疎開者らは廃材で小舟を造り、決死隊を結成して石垣島に派遣し、助けを求めた。

8月14日、決死隊は無事石垣島に到着。

15日、台湾の日本軍が派遣した飛行機が食糧を投下した。

それから3日後の18日石垣島の水軍隊少尉や町役場の人たちを乗せた3隻の救助船が魚釣島に到着した。皆、「船が来たー」と喜び、「今日で魚釣島ともおさらばだ」と安堵した。

だが、疎開者らは所持品は全て島に置くよう言われ、島で死んだ人々の遺骨も持って帰れることはできなかった。また、重症者は置き去りにしろと言われた人々もいたが、協力できる人同士がモッコで運び、無事に救助船に乗ることができた人もいた。

《  「戦禍を掘る 出会いの十字路」目次 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース尖閣諸島遭難 (1-5)」より抜粋、一部要約》

  

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