1945年 6月19日 『無敵皇軍参謀たちの最後の姿』

新・第10軍司令官

『バックナー中将の戦死は、第10軍参謀長からニミッツ元帥に報告され、…19日、第3海兵軍団長のR・S・ガイガー少将が中将に昇進するとともに第10軍司令官に任命された。海兵隊将官が軍司令官に任命されたのはこれが初めてだった(ビーニス・M・フランク『沖縄』)。もっともその後6月23日には、J・W・スチルウェル陸軍中将が東南アジア戦域の副司令官から沖縄の第10軍に移ってガイガー司令官と交替した。』(202頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 202頁より》

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MajGen Roy S. Geiger

THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

 

南進する米軍

『アメリカ軍が89高地と称していた牛島の洞窟のある断崖は、摩文仁の南約400ヤードにあった。これは与座岳と八重瀬岳および国吉の大地を結ぶ最後の抵抗線から南に約1マイルの地点にあった。』(335頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 335頁より》

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 18]

最後の追い込み

日本軍の保持している地域はほとんどなくなり、これまでどおり空軍による大量の爆撃や海軍の艦砲支援射撃を集中すれば、友軍に損害を与えるおそれがあったので、陸軍の指揮官たちは海空軍の支援を要請することを躊躇していた。そのため、将兵は疲労していたにもかかわらず、日本軍の最後の抵抗を歩兵の近接戦闘によって排除しなければならなかったのである。ある戦史家は、この時機における戦闘についてこう述べている。「彼らは、火炎放射器や爆破により、あるいは戦車を使用して、抵抗拠点の一部を奪取するか、これをいくつかの小さな陣地に分断し、人が無数の蛇を踏みつぶすように日本兵を一人残らず殲滅するという方法で、これをやってのけた」』(336頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 336頁より》

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日本軍壕を攻撃する火炎放射戦車。この真栄里高地での戦闘で、2つの壕が焼け落ち、少なくとも5人の日本兵が死んだ。(1945年6月19日)

Flame throwing tank operating against Japanese cave. Two caves were burned out with at least five Japanese killed. The action took place on Mezado Ridge.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米兵の行動

復讐という虐殺 ②

『手を挙げていた者、あるいは、手を挙げようと思っていた者を殺すことは、必ずしも残虐行為ではなかった。アメリカ軍の歩兵で、それまでの本人の道徳的信条がどうであろうと、多少なりとも怪しいところがあると思われた日本兵を射殺しないと自分がやられる、ということに疑問をもっている者はいなかった。彼がアメリカ兵を殺すかもしれなかったからである。このような考え方は、沖縄における仮借のない現実を反映していた。それは、必ずしも人種にもとづく憎悪やその他の憎しみを反映したものではなかった。多くの者はたんに、任務をやり遂げねばならないと承知していただけである。しかしながら、それにもまして、武装していない者や武装していないと思われる者に対して、歩兵が引き金を引いたのは、たいていの者が疲れ果て、恐怖におののき、自分たちの軍の戦死者を悼む気持ちでいっぱいだったからである。』(311頁)

『…第一線にいるほとんどのアメリカ兵の気持ちは、だいたいいつもはっきりしていた。戦友との絆は、彼らを撃った者への憎しみにつながるものだった。日本に対して一般にどのように感じていたにせよ、彼らは個人的に愛していた者を殺した日本人をひどく嫌った。ある者はこう語った。「私は以前は日本人を嫌っていたわけではなかった。いちばん親しい戦友がばらばらにされて横たわっているのを見た瞬間に、憎しみが湧いてきたのだ。毎日一緒にいた男、愛した男が死んだのだ。私はあの畜生どもを憎んだそれは今日まで続いている。私は戦友が殺されるのを見たんだ」』(312頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 311、312頁より》

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傷病者輸送車から注意深く負傷兵を持ち上げる担架運搬者。兵士は重傷を負っている。赤十字の現地責任者は患者の顔に酸素マスクをあてている。赤十字の人々は負傷兵のためにたくさんのタバコと“コーク”を持っていた。(1945年6月19日撮影)

Stretcher bearers gently lift casualty from ambulance. He is badly hurt. A Red Cross Field Director adjusts an oxygen mask to the patient's face. The Red Cross had plenty of cigarettes and ”cokes” on hand for the wounded.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

真栄里での虐殺

『米第10軍司令官バックナー中将が戦死した翌日の1945年(昭和20年)6月19日午後5時すぎ、…良正さん(当時27歳)は米兵につかまり、射殺されたのち、戦車にじゅうりんされた。場所は同中将戦死の丘から東北約千メートル。』(203頁)

良正さんの妻の証言:

『「19日夕方5時から6時ごろでした。…壕にかくれていたのですが、捕虜になることを決め、夫らといっしょに壕を出ました。夫は防衛隊員でした。具志頭村方面に行っていたのですが、けがをして村に帰ってきていました。戦闘帽をかぶったままでしたので米兵が日本兵扱いをしたらしいのです。米兵はまず日本兵と沖縄の住民を引き離そうとしていたようです。夫はそれに抵抗しようとして鉄砲で撃たれました・・」

撃たれてピクピク動く夫にとりすがった義弟…は、銃剣を構えた米兵に足蹴にされた。そのとき戦車が夫を轢き去って、南の方へ行った。夫はあとかたもありませんでした」』(203頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 203頁より》

国吉での虐殺

『…「そこ、そこ」と指さしながら恐怖のまなざしで米兵による住民虐殺の模様を語る。日付は1945年(昭和20年)6月19日と推定される。バックナー米第10軍司令官戦死の翌日であり、国吉は…中将戦死の真栄里とは隣接集落である。

「私は…戦時中は防衛隊員として糸満市大里の山部隊にいたが、首里からの退却部隊とごっちゃになり混乱していた。時どき、自宅の壕にも帰っていた。家族は母、私、妻、5歳の長女と3歳の長男の5人だった。自宅に帰って4、5日目の午後3時ごろ、5人の米兵が屋敷に入ってきて、かくれていた壕の中に黄燐弾を投げ込んだ。妻と長男はこれがもとで間もなく亡くなった。5人の米兵は南隣りの屋敷へ入って行った」

「パーンと彼らは一発ぶっぱなした。母と長女に集落の壕へ移るようにせかせた。パーンとまた一発。くずれた石垣をのりこえてさらに米兵7、8人が隣の屋敷に入る。メガホンで『デテコイ、デテコイ』とどなる。出てきた男たちは一列に並ばされるパンパン、バタバタ・・・。ひんぷん(屏風=玄関などの前がくし、石やコンクリートでつくる)のかげで東の方は見えなかったが、撃たれる人が西へ移るにつれて、バタバタ倒れるのが見えた。女や子どもが泣き叫んだ。何十人もやられたと思う。ピストルを持っていた米兵もいたが、撃ったのは小銃だった。背筋の凍る思いでぼう然と集落の壕に移った。』(205頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 205頁より》

 

戦利品への執着 ②

土産物狩りの兵は、彼らの収穫を戦場に持ち込んでは規則を破り、時には自分の荷物を軽くするために、装備として必要なものまでも処分して、また規則を破った。戦闘の緊急事態で持ち物を捨てなければならなかった者は、非常に残念がりながら従った。略奪に対する不合理な執念は、ある程度は自分の生存確認のためでもあった。

収集家」は配置換えになっておびえている若い兵だった。目標にしたものは、そこに行ったこと、また恐ろしい日本兵との戦いという地獄からの生還を立証するものであった。それはまた、日本人が完全な人間ではないという見解に由来するものであった。他には何の価値もない土産物が、他の種のもの、他の惑星のものであることに価値があったのだ。』(318-319頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 318-319頁より》

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拾った日本軍の軍服を着てポーズをとるティロットソン軍曹(1945年6月19日)

Corp. John A. Tillotson, Morristown, New Jersey, poses in a Jap uniform found on Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の動向

『牛島は…6月19日に、彼の軍に次のような一般命令を出した。

「全軍将兵の三ヵ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは同慶の至りなり   然れども今や刀折れ矢尽き軍の運命旦夕に迫る   既に部隊間の通信連絡杜絶せんとし軍司令官の指揮は至難となれり   爾今各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし

この最後の指令は、漠然とした表現が用いられているという点において典型的なものであったが、解釈する必要はなかった。命令の趣旨は「自己を犠牲にせよ」ということである。』(335頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 335頁より》 

鉄血勤皇隊を遊撃戦に投入

前日18日、第32軍は最後の命令を出した。それは、鉄血勤皇隊をひきいた遊撃戦を展開せよ、というものであった。摩文仁の軍司令部壕では、軍服を脱ぎ捨て、民間人になりすまし、偽名や偽の職業なども考えられ、北部を目指すための準備が進んでいた。一方、参謀の中には、沖縄島を脱出し、本土へ渡って戦況を大本営に報告するという任務が与えられた者もいた。

軍司令部: 摩文仁(まぶに)

八原高級参謀の回想:

19日の夕迫れば、参謀室内は異常の重苦しい空気に包まれる。人々は多くを語らず、ときどき低声私語するのみである。軍司令官、参謀長への申告を終えるや、彼らは出撃の服装にかえた。両将軍の自決に立ち会い、軍司令部の最期を見届けた後、なおもし生あらば、新任務に就くべしと深く決意している私に対し、若い参謀たちは、私の運命を優しく労わる如く、万感罩めてお別れの挨拶をした。そして矢張り両将軍を残して、去り行くのが気に懸かるのか、口を揃えて軍司令官、参謀長のお世話をよろしくお願いします、と言った。私もこの若い人々の、武運長久を心から祈り、そしていかなる危難に遭遇しても、不屈不撓、特に功を急ぐことなく、人知を尽くして任務を遂行するように注意した。

いよいよ出発の時間だ。だが通路両側の寝棚に腰かけて待機したまま、一同は重くロウソクの灯に影を落として容易に動こうとしない。心なしか、今夕は摩文仁高地に、吼え狂って落下する砲弾がとくにひどい。ときどき至近弾に洞窟の側壁が崩れ、灯も消えなんとする。かくてはあらじと思ったのか、いちばん若い長野が、「私が先頭を致します。皆様万歳‼︎」と叫び、決然として、洞窟の外に突進した。これをきっかけに、三宅、薬丸、木村の順序に、数分を間して、次々と死の出撃を了し終わった。』(417-418頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 417-418頁より》

 

鉄血勤皇師範隊: 沖縄師範学校男子部

大田昌秀の体験談:

『私は、増永隊長に報告のため、軍司令部の壕へ駆けつけた。…一歩壕内に入った途端、私が全身で受けとめたものは、まぎれもない「敗戦」の実感であった。

骸骨のように痩せ衰えた将兵が狭い壕の両側にうごめき、嘔吐を催す膿臭と血の匂い。…流通に悪い湿った熱気。そして呻きとも嘆きともつかぬ声が、洞窟の低い天井に重苦しく交響し、…その様は、まさしく地獄絵図だ。その中を通り抜けて、混乱に中をようやく増永隊長を探し当ることができた。私はそれまでの経過を逐一報告した。すると隊長は、伝令のことについては一言も触れず、

お前たちは本日を以って一応解散せよ。そして国頭へ集結して時機を待て。今後はいかなるところにあっても、召集がある時は、ただちにやってこい。万一敵に捕まっても、決して死んではいかん。そして常に敵の背後に出て工作することを忘れるな。いいか、わかったか。よし、帰って皆に伝えろ」というなり、あわただしく壕の奥へ消えた。

解散」一瞬、私はガーンと一撃くらわされたように、めまいがするのを感じた。

…すると、垂直坑道に出る奥の軍司令室の方から、金モールの参謀肩章を肩から胸に吊った第一装の参謀たちが、つぎつぎに姿を現した。…そしてしばらくすると、長身の薬丸情報参謀三宅参謀木村後方参謀が、地元住民の黒い着物に着替えて出てきたのを見て私は唖然とした

参謀たちの透きとおるばかりの白い手や毛脛が、民間人の着物から不恰好にはみ出し、日頃の威風堂々たる風彩とはまるでそぐわない。参謀たちの日常を知る者には、その変装は余りにも哀れであった。

かつては「無敵皇軍」の参謀として羽ぶりがよかった参謀たちの、この最後の姿ほど私を惑乱させ、深刻な衝撃を与えたものはなかった。反面、守備軍参謀の随員として行く学友たちに、私はわけもなく一種の羨望を感じていた。と同時に、私の目には、一行の前途に、この戦争の結末を象徴するかのような不吉な影がどす黒く尾を曳いているように感じられてならなかった。』(157-160頁)

《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 157-160頁より》

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摩文仁での激戦中大田さんらが身を寄せていた日本軍管理部の壕。 大田さんら「鉄血勤皇隊」のほか17 〜20歳の女性らも炊事の任務に 当たっていた。2014年5月21日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

「軍隊は人を守らない」という沖縄の教訓 (大田昌秀元沖縄県知事 ) – 世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPAN

『…日本軍のこの動きは、6月18日から19日にかけての夜に発覚し、前面と後方で、たちまち米軍の機関銃が猛烈に火を吹いた。夕暮れと夜明けには、照明弾が宙に浮かび、機関銃は一晩中、鳴りひびいていた。

日本軍の暗夜の移動は、数日後には最高に達し、第7師団などは502人もの日本兵を殺した。日本兵は攻撃には出なかった。彼らは、自分の身を守るに十分な兵器だけしか、携行していなかったのだ。それにおもな目的は、北部に逃げることであり、また民間人のあいだにひそむことであった。』(500頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 500頁より》

『戦後の調査によれば、三宅は八重瀬岳東麓において、木村は与那原西方において、ともに戦死し、薬丸、長野は脱出後の消息は全然不明である。』(418頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 418頁より》

 

捕虜になった日本兵

 『…沖縄戦の最初の70日間は、第10軍管轄下で捕虜になる守備軍兵士の数は、1日平均4名ていどだったのが6月18日頃には50名にふえ、翌19日には400人名近くが自発的に投降した。一方、日本軍の損害も日を追うて増大し6月の初めから月半ばにかけて平均1000名ほどだったのが6月19日の時点では2000名に倍増、3日後には4000名以上を数えるにいたった。』(201頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 201頁より》 

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6月19日午後3時に第22海兵隊第1大隊に捕らえられた日本陸軍第22連隊第1大隊の5人の兵士。一番右の兵士は片言の英語を話す。沖縄。

Five Nip soldiers captured by 1st Battalion, 22nd Marines, 1500 Jun 19th. They are from 1st Battalion 22nd Regiment (Jap Army)—Nip on extreme right spoke broken English.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

そのとき、住民は・・・

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第7師団の前線の後方の収容所へ向かう途中、年上の住民にサポートしてもらう足を怪我した少年。(1945年6月19日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

『アメリカ軍は夜襲されるのを警戒して、夜になると照明弾を放って地上を照らし出し、動くものがあると絶え間なく砲弾を浴びせかけてきたという。』(151頁)

糸満の国吉集落付近で避難する住民の列に砲弾が撃ち込まれる様子を目撃した現地召集兵の証言:

『「とにかくひどかったんですよね。人間の肉切れ、手足の切れたものと思われるようなものが、ずーっと散って飛び上がるでしょ。もう本当、いろいろな無残な死体でしょ、バラバラになった。住民は夢遊病者みたいになって歩いていましたね」』(151頁)

逃げ惑う人が砲弾に直撃されたのを目撃した人の証言:

『「砲弾の破片なんか大きいんですよ。手のひらの大きさの鉄板ね。もう熱くて火になっているから。バーンって浮くんですよ、首ね、さーっと切れてね。首と胴体が目の前に落ちよった」』(151頁)

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 151頁より》

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail21_img.jpg

沖縄戦の絵】「逃げ場を失った住民たち

『昭和20年6月19日、米軍の攻撃で逃げ場を失った避難住民。…この時、すでに海、空、そして陸上から攻撃を受けて、避難住民たちは袋のねずみとなり、逃げ場を失った状況になった。付近一帯の道路は爆撃などによって負傷者や死体でいっぱいとなり、道の脇では腹をけがした男性が「もう逃げ場がない!」と叫んでいた。』

逃げ場を失った住民たち | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

『…19日の朝、私たちは米須まで逃げ延びてきた。どこへ行くのか、わずかばかりの身の回りのものを持って、疲れ切った足どりで歩く民間人や、全く武装もせずただボロボロに破れ汚れた軍服を着た亡霊のような兵隊の群が、この一角で右往左往していた。一帯は文字どおり死の道で、道路の真ん中といわず、傍といわず、至る所に人間が折り重なって息絶えていた。その惨状な情景は、明日に迫るこの島の運命を暗示しているようで、私たち自身が何らかの結末を迫られている思いだった。摩文仁の部分を過ぎる頃、喜屋武岬の方から、あの特徴のある戦車砲の金属音がタンターンと近づいてきた。包囲の網の目は、ジリジリと、そして確実に、狭められてきた。にもかかわらず、指揮系統を失って彷徨する武器なき兵たちや、行く先もない住民たちが、その網目にほころびから脱出しようと最後の空しいあがきを続けた後、空しく瀧のように落下する敵弾の好餌となっていった。死の道はかくしてつぎつぎに作られてゆくのだった。』(156頁)

《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 156頁より》

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(米軍の)護衛なしで前線から離れようと歩く地元民。日中、多くの人々が真栄里の丘陵地南に位置するこの海岸沿いを歩いてきた。(1945年6月19日)

Natives walking back from front without escort. Hundreds came along this beach road South of Mezado Ridge during the day in similar groups.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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