1945年 9月4日 『こんな国のために死ぬもんか』

降伏文書調印式までの動向

琉球列島の「降伏」 ⑤

第10軍司令官スティルウェル将軍は、9月2日以後、琉球列島の全日本軍の降伏を受諾せよとの指令を受けたため、8月28日宮古八重山奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。翌 29日以降、離島に駐留する日本軍部隊の司令官らと連絡がついた。

9月4日午後2時宮古飛行場から飛び立った日本軍航空機は宮古上空でアメリカ軍護送機と落ち合い、ともに午後3時5分読谷飛行場に到着した。そこにはアメリカ兵が出迎えていた。それから第10軍本部のSIC特別尋問センターへ案内された。徳之島の飛行場は砲弾で破壊され日本軍航空機の残骸が散乱していたものの、徳之島の代表団を迎えるアメリカ軍航空機は予定どおり着陸した。

コナー少佐とボッグズ中佐らの第10軍代表団を乗せた2機のL-5機が緊急修繕された徳之島飛行場に着陸した。そこにはコリンズ少佐とマカドウ少尉の2人の捕虜が待っていた。2人は待ちに待った釈放の日を喜んだアメリカ製煙草とチューインガムを口に運んで、自由を味わった

アメリカの水はうまいなあ」と差し出された水筒の水を飲んだ。他の地域で保護されたアメリカ人捕虜と比べると、待遇は良好だったらしい。L-5機のパイロットが日本人と一緒に飛行場の滑走路を点検し、C-47輸送機が無事着陸した。

コリンズ少佐とマカドウ少尉が輸送機に乗り込み、徳之島代表団がそれに続いた。中溝中佐と佐藤海軍中佐のどちらかが英語を話せるということだった。輸送機は無事、飛行を続け、午後4時読谷飛行場に着陸した。午後7時半、日本側代表団は全員、参謀長室に向かった。指揮官あての詳細な指示が手渡され、その夜、日本側代表団はその文書の検討に追われた。』(228-229頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 228-229頁より》 

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読谷飛行場に着いた、先島群島多賀俊郎少将の全権と民間人通訳竹村氏。(1945年9月4日撮影)

Japanese Envoya from Sakashima Gunto Maj. Gen. Toshiro Taga and civilian interpreter Wert Takamura arrive at Yontan Airfield.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の沖縄観

『アメリカ軍を中心とする連合軍の猛攻が日本本土の方に迫りつつあった1944年初めごろ、日本側としてはサイパンを含むマリアナ諸島を先端とする日本の国防圏を維持するための後方航空基地が必要となっていた。そのため、日本軍は沖縄諸島を含む南西諸島に注目した

太平洋戦争では、大艦巨砲主義から航空主力主義に戦略が転換されていたのだが、日本軍はこの流れに乗り遅れ、航空機と搭乗員、そして航空母艦が決定的に不足していた。その航空母艦の代役として日本軍が選んだのが、沖縄諸島奄美大島も含む)だった。沖縄諸島に航空基地を建設し、これらの〝不沈空母〟から特攻機を発進させる構想が泥縄式に浮上したのだった。

1944年3月22日、大本営は切迫した戦局に対応するため、沖縄守備軍(第32軍)を新設し、同年5月ごろから、伊江島から石垣島にいたる全県下で中飛行場(嘉手納)、小禄飛行場(那覇)など15カ所の飛行場建設を始めた。そして、この建設作業や、それに付属する軍の陣地構築に、沖縄住民は根こそぎ駆り出された。現地徴兵、防衛招集、労務徴用、勤労奉仕作業などといった名目の、有無を言わせぬ総動員だった。』(3-4頁)

《証言「沖縄戦日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 3-4頁より》

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1945年2月、米軍の上陸を前に撮影した日本軍第32軍の集合写真。(1)大田実海軍中将、(2)牛島満第32軍司令官、(3)長勇第32軍参謀長、(4)金山均歩兵第89連隊長、(5)北郷格郎歩兵第32連隊長、(6)八原博通高級参謀

Group picture of the staff of the Japanese Thirty-second Army at Okinawa taken in February 1945 prior to the American assault. Numbers identify: (1) Rear admiral Minoru Ota, Commander, Okinawa Naval Base Force;(2) Lieutenant General Mitsuru Ushijima, Commanding General. Thirty-second Army; (3) Lieutenant General Isamu Cho, Chief of Staff, Thirty-second Army; (4) Colonel Hitoshi Kanayama, Commanding Officer, 89th Infantry Regiment; (5) Colonel Kakuro Hongo, commanding Officer, 32d Infantry Regiment; (6) Colonel Hiromichi Yahara, Senior Staff Officer (G-3), Thirty-second Army.

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沖縄に渡った日本兵らは、生活様式や言葉など文化の違いに戸惑った日本語とは違う言語を話す人々が、米ではなく芋を主食にし、裸足で生活していたため、沖縄出身の兵隊たちは、本土の兵士に馬鹿にされ人一倍辛酸を嘗めた。

沖縄の人は日本人以上に日本人であろうとした」。沖縄戦を経験した元日本兵の1人はそう語る。戦時中は特に、日本軍への協力姿勢を示さなければ、「非国民扱い」「スパイ扱い」されるという恐怖心が沖縄住民に浸透しており、また、本土から蔑視されないように皇民化教育を徹底しようともがいていた。「沖縄の人は私ら兵隊以上、日本人以上に一所懸命やって、日本人だということを認めてもらおうとしているのが痛いほど分かった」と、元日本兵は、当時を振り返った。(33-34頁)

《証言「沖縄戦日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 33-34頁より抜粋、一部要約》

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『毎晩のように執り行う陰鬱な初年兵〝教育〟があった。沖縄本土に駐留した球12517部隊独立高射砲第27大隊に所属した男性は、糞尿の汲み取り作業の際に軍靴についてしまった人糞を上等兵に見咎められた。「舐めろ天皇陛下からお預かりしたものを汚すとは何事だ。舐めて食ってしまえ」。言葉に表せない屈辱だった。両目から「稲妻が飛び出るほど」殴られた。執拗なしごきでほとんどの初年兵が軍人精神に凝り固まっていくなか、男性の胸中には「こんな国のために死ぬもんか」との思いが増幅していった。』(30-31頁)

《証言「沖縄戦日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 30-31頁より。証言者らを「男性」と書き換える》

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小禄: カメラを向けると顔を伏せる3人の日本兵捕虜。側に座っている他の捕虜は興味なさそうに見ている。これら日本陸軍、海軍、沖縄防衛隊の兵士らは、沖縄戦終結までの最後の24時間で第6海兵師団が捕らえたこれまで例のないの306人という捕虜の一部だ。

OKUKU, OKINAWA: Three Jap prisoners duck heads before camera while the others sit disinterestedly watching. These jap soldiers, sailors and Okinawan home guardsmen were among the unprecedented 306 who filtered through Sixth Marine Division front lines during final 24 hours of Okinawa battle.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『石部隊独立歩兵第12大隊所属の男性は、…「軍というところは真空地帯」と表現する。一般世間の常識は通らない。上官、先輩から殴られて半殺しの目に遭わないよう、理性や感情、判断力を働かさずに、言われたことを機械的に遂行する。』

男性は、部隊が中国大陸にいた頃には、『「(日本軍部隊の)普通の中隊だと、生きた捕虜を連れてきて〝度胸試し〟と称して初年兵に突き殺させるんですわ」』と語る。(37頁)

沖縄守備軍の兵士の大半は中国の戦場から沖縄に転戦している。日本軍将兵が沖縄に行ってみると、便所で豚を飼うなど、習慣や言葉が本土のそれとは大きく異なることを知り、「沖縄の人は本土の人間と違う」という感情が多くの兵士たちの間で湧いた。

その結果、日本兵らは「同じ中隊の戦友であっても、沖縄出身の人は馬鹿にされていた」、「中国人に対する差別感と同じような見方をしていた」、「対中国の優越感。それと似たような、見下す感情を沖縄住民にも抱く風潮はあった」と話す。

『日本本土とはまったく異なる沖縄の文化に、もともとは中国の冊封国だったという「琉球」の歴史背景も加わり、日本兵たちは沖縄の人を中国人と同一視、あるいは中国人に対するのと似た感情を抱いたのだった。戦時中、敵国だった中国の人々に対して、日本人は「優越感を持って」(証言者のほぼ全員)おり、なかには「チャンコロ(中国人の蔑称)は人間じゃない」と上官や先輩兵から叩き込まれた」という証言者もいる。中国人と「沖縄人」の両者に対する差別感情ーー。多くの日本軍将兵は中国で培った兵隊としての感覚を、沖縄に持ち込んだ。』(113-114頁)

《証言「沖縄戦日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 37、113-114頁より抜粋、一部要約。証言者らを「男性」と書き換える》

 

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