1945年 9月1日 『朝鮮から「商売」に来ている』

米軍の動向

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散り散りになった日本軍の部隊がまだ隠れている木が生い茂った山中に、日本語のビラを貼るシャウツ伍長(ペンシルバニア州出身)。ビラは投降の方法を指示し、戦争が終わったことを知らせている(1945年9月1日撮影)

Corporal John L. Schautz, Jr., 20, whose parents live at 848 Quiney Ave., Seranton, Penn., posts a Jap language leaflet in the wooded mountains of Okinawa where scattered Jap units were in hiding. Leaflets give direction for their surrender and tell of war's end.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

朝鮮人の犠牲

慰安婦

『日本軍が「慰安所」システムを考え出したのは、中国戦線からであった。食料の収奪はもちろん、若い女性を拉致しての集団暴行と虐殺事件が繰り返された中国では、激しい反日感情が爆発し、日本軍にとってそれは「想定外」の激しいものであった。そのため中国戦線での作戦変更まで強いられた日本軍は、1938年(昭和13)反日感情の原因が「強かん」事件であることを認めざるを得なかった。

そして、「軍人個人ノ行為ヲ厳重取締」るとともに、強かんを隠蔽する装置として、「速ニ性的慰安ノ施設」設置に至ることとなった。組織的に「慰安所」が増強されるにつれ、朝鮮では「処女供出」「処女狩り」と呼ばれた未婚女性の強制連行が進められた。南京大虐殺直後から本格的に強制連行が始まり、1943年から45年にかけて戦場が拡大すると、井戸端で、田畑で、道で、工場で、そして家の中まで軍靴のまま乱入し、14歳から20歳までの女たちを暴力的に連れ去った

こうして強制動員された朝鮮の女性たちは、アジア太平洋戦争の間、日本軍が占領した各地に設置された「慰安所」で「性奴隷」としての生活を強制され、敗戦に近づくと、現地で捨てられたり、置き去りにされたり、連合軍の空爆があるとだまされて壕の中で爆殺された。植民地朝鮮の女たちは、天皇が日本軍に与えた慈悲の「贈り物」であり「性病」予防にふさわしい存在にすぎなかったのである。

第32軍は、中国戦線での虐殺の延長線上で、アジア蔑視の経験と女性の体をもの扱いする「慰安所」を持ったまま沖縄にやってきた。…「慰安婦」が最初に送られてきたのは1941年(昭和16)で、南大東島での飛行場設営のための人夫と「慰安婦」7人が連行されてきた。そして「慰安婦」の多くが連行されたのは、主力部隊が沖縄に配置される1944年(昭和19)であった。』(84-85頁)

《「沖縄戦場の記憶と慰安所」(ホン・ユンシン/インパクト出版会) / 84-85頁より》

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『ソウル市とソウル大学人権センターが 米国立文書記録管理庁で見つける 1944年、中国雲南省のある民家で 7人の裸足の女性を撮影』

公開された朝鮮人慰安婦を撮影した映像のキャプチャー//ハンギョレ新聞社

[映像]朝鮮人「慰安婦」被害者を撮影した動画を発見 : 政治 : ハンギョレ

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上海にあった慰安所(1937年)

Military Comfort Station, Shanghai, c. 1937.

Comfort Women | Spring 2016 | Washington State University

沖縄に連行された『600人とも800人ともいわれる朝鮮人慰安婦は、慰安婦にさせられるとは思ってもみず、だまされて連れてこられた者が多かった。沖縄で確認されている慰安所は115カ所にのぼっている。もともと慰安所は外地に置かれるもので、兵員35人に1人という〝決まり〟もあったということだ。

沖縄守備軍は10万人だから、3,000人規模の慰安婦が必要だったが、そこまで揃えるのははばかられたのであろう。そのうえ、沖縄は〝外地〟ではなく〝内地〟(日本帝国の法律が例外なく適用される範囲)であり、小禄に集中していた海軍部隊はその理由から慰安所設置を拒否したという。しかし、結局は設置されたそうである。』(132頁)

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編、森山康平=著/河出書房新社) 132頁より抜粋》

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沖縄の収容所に入った慰安婦たち(1945年)

Japanese comfort women in an Okinawa prison camp in 1945.

Comfort Women | Spring 2016 | Washington State University

昭和19年7月頃から朝鮮人女性が那覇に姿を見せ始める

昭和19年末頃、那覇市松山小学校の隣、県立第二高女の側の検事正官舎が慰安所となり、数十人の朝鮮人慰安婦が入った。

十・十空襲後、那覇港に上陸して来た慰安婦たちは住む家もなく、焼け跡の波上宮近くの辻原に三角兵舎風の茅葺きの掘っ建て小屋を建て『軍慰所』の看板を掲げ、一人で一日数十人をこなしていた。泊港に上陸した慰安婦たちは泊北岸にテント小屋を設け兵隊たちを相手にした。70~80メートルの長い天幕に4つの入り口が作られ、兵隊たちが列をなした。このテントには40~50人の朝鮮ピーがいた。また、山形屋百貨店の裏にもバラックが建ち、十数人の朝鮮人慰安婦が日本軍相手に昼間から肉体をひさいでいた。海岸に近い若狭にも4~5人の慰安婦がいたという。台ノ瀬病院にも30人の朝鮮人慰安婦がいた。』

慰安所規則

 一、本慰安所は陸軍軍人、軍属(軍夫を除く)の他入場を許さず。入場者は慰安所外出証を所持する事。

 一、入場者は必ず料金を支払い、引き換えに入場券、サック1個を受け取る事。

 一、料金は左の如し。下士官、兵、軍属、金3円。

 一、入場券の効力は当日限り。

 一、指定された番号の室に入る事。但し時間は30分とする。

 一、室内において飲酒を禁ず。

 一、サック使用せざる者は接婦を禁ず。』

沖縄二高女看護隊・チーコの青春 創作ノート22 「オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦」より

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国立日帝強制動員歴史館が所蔵している日本のサック(コンドーム)の包装紙に「突撃一番」と書かれている。この包み紙は実物を模したもの=国立日帝強制動員歴史館提供//ハンギョレ新聞社

 

『1937~40年、日本で「ハート美人」という商品名のコンドームが発売されていた当時、日本人たちはコンドームをサックと呼んだ。1941年太平洋戦争が始まる前、日本の軍部が兵士たちに女性と性的関係を持つ時に使用すると軍需品として支給した。この時コンドームの名前は「突撃一番」だった。突撃一番は当時、日帝が戦争に動員される兵士に植えた思想で、弱者である女性を人格的に待遇せずに欲求を解決する対象に見ていた日本軍の認識を窺うことができる。

サックの「突撃一番」の文句は、日本軍が太平洋戦争期間に朝鮮人女性などを強制的に連れて行き性奴隷にした慰安所を、組織的に運営した事実を裏付けている。日中戦争に参加した日本軍の武藤アキイチ(1915-2006)が作成した従軍日誌(日記帳)に「慰安所に強制動員された朝鮮・台湾女性と性的関係を持った後、朝鮮と台湾を征服した」と記録した内容とも一致している。太平洋戦争に参加した日本軍医官が記録した戦場報告書をもとに日本で発刊された「軍医官の戦場報告意見集」にもサックが登場する。』

慰安婦の存在証明する「日本軍コンドーム」、釜山へ : 政治 : ハンギョレ 

「日曜日にもなると東花城の門まで兵隊が並んでいたという。使い捨てられたサック(避妊具)を付近の子どもたちが膨らませて風船遊びをしていたため、字の役員がかけあってサックの処理をきちっとさせたこともあった」南風原町沖縄戦戦災調査(88年)の報告書「津嘉山が語る沖縄戦」より)

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(写真)沖縄県南風原町の沖縄守備隊第32軍津嘉山司令部壕跡などの施設から出土した「避妊具南風原文化センター提供

社会リポート/沖縄 旧日本軍司令部など地下壕跡/大量の避妊具出土/周辺に軍専用の「慰安所」

沖縄の「慰安所」は民家を接収する場合も多く、住民の多くが「慰安所」の存在を知り、または、自分の家の近くに存在する「慰安所」の「慰安婦」と交流するケースもあった。沖縄で朝鮮人慰安婦」は、主に「朝鮮ピー」と呼ばれた。「ピー」とは中国戦線で使われた隠語で女性の性器を意味する。

住民にとって、朝鮮人慰安婦」は「風紀を紊乱」する「ピー」のような存在として見られ、日本軍の「慰安所」設置を反対したり、「強かん」を防ぐための「必要悪」として受け入れていったりした。しかし、一方、沖縄本土とは異なり、米軍の上陸がなかった離島、宮古島の住民にとって「慰安婦」は、「美しい(アパラギーミドォン(美しい女)」として見られ、親密な交流をしたケースもあった。』(29頁)

沖縄本島中部の慰安所にいた朝鮮人慰安婦は、嘉手納大通り近くの大山医院で定期的に性病検査を受けさせられていた。当時、看護婦として働いていた女性によると、10人から15人ぐらいの女性たちが、1か月に1回から2週間に1回の割合で憲兵に強制的に連れてこられた。その扱われ方は、まるで動物を追い立てているようなやり方だった。

朝鮮人慰安婦はみな美しい娘たちで、色白ですらりとしており、年齢は16、17歳に見えた。来院時の衣服は着物ではなく、ブラウスにスカートを着ていた。看護婦らは、「自分で望んで朝鮮から商売に来ている」と憲兵から説明されていたが、彼女たちの多くが暗い表情でうな垂れていたり、ある者はあからさまな反抗を示していたことから、腑に落ちないでいた。

特に薬も手に入らない時代だったため、大山医院では、性病が見つかっても患部を洗浄し、塗り薬をつけるくらいの治療を施す程度だった。そんな大山医院も1945年(昭和20)3月には解散となり、ある1人の看護婦は島尻に行くことになる。戦争が終わってから初めて、元看護婦は女性たちが強制的に慰安婦にさせられたことを知り、苦しい思いをしたのかな、あの地上戦のなか、皆、何処に逃げたのかな…と、考えるようになった。

実家のすぐ近くに「慰安所」の兵舎があったと語る女性は、そこに10名位ずつ朝鮮人が来て、一日中兵隊に遊ばれていたと証言する。「今考えて一番可哀想だったのは朝鮮人ですよ。私たちは朝鮮ピーと呼んでいましたがね、…若くてきれいな子ばかりでした。…その人たちは、きれいなシナ服を着て、私たちから見ればとってもきれい。だけど、兵隊相手だということを子供ながらに分かっていて、あれたちが通ると、朝鮮ピー、朝鮮ピーといって、何回もあれたちに追われました。…わざわざ日本兵を相手に沢山朝鮮から連れて来られて、本当に可哀想でした。殆ど死んだんじゃないですかね」(200-207頁)

《「沖縄戦場の記憶と慰安所」(ホン・ユンシン/インパクト出版会) / 29、200-207頁より抜粋、一部要約》

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戦場のうた / 元“慰安婦”の胸痛む現実と歴史 - Dailymotion動画

 

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