1945年 8月6日 『ATROCITIES (残虐行為) in 広島』

米軍、原子爆弾を使用する

https://www.archives.gov/files/research/military/ww2/photos/images/ww2-162.jpg

1945年8月6日、広島に原子爆弾を投下した「エノラ・ゲイ」号の離陸前に手を振る操縦士のポール・W・ティベッツ大佐。

" Col. Paul W. Tibbets, Jr., pilot of the ENOLA GAY, the plane that dropped the atomic bomb on Hiroshima, waves from his cockpit before the takeoff, 6 August 1945." 208-LU-13H-5. National Archives Identifier: 535737

World War II Photos | National Archives

広島県広島市

『昭和20年(1945年)8月6日、月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。

深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。』

広島市 - 原爆被害の概要

https://cdn.theatlantic.com/assets/media/img/photo/2016/05/hiroshima-before-and-after-the-atom/h03_0292/main_600.jpg?1463075248

戦前の広島市内の様子

Looking northeast along Teramachi, the Street of Temples, in pre-war Hiroshima. This district was completely ruined. U.S. National Archives

Hiroshima: Before and After the Atomic Bombing - The Atlantic

『この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴りました。古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。

中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上がりました。』

広島市 - 原爆被害の概要

https://static01.nyt.com/images/2016/05/20/science/HIROSHIMA/HIROSHIMA-blog427.jpg

広島に原子爆弾を投下したB-29爆撃機エノラ・ゲイの機内からボブ・カートンが撮影した写真。

A photo taken by Bob Caron from the Enola Gay, the B-29 aircraft that dropped the bomb on Hiroshima. Credit George R. Caron, via Associated Press

The Hiroshima Mushroom Cloud That Wasn’t - The New York Times

『昭和20年(1945年8月6日 午前8時15分

人類史上最初の原子爆弾が、広島に投下されました。

原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。

爆発の瞬間、強烈な熱線放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。』

広島市 - 原爆被害の概要

https://cdn.theatlantic.com/assets/media/img/photo/2016/05/hiroshima-before-and-after-the-atom/h09_AP634550853410/main_600.jpg?1463072082

応急治療を待つ生存者

Survivors of the first atomic bomb ever used in warfare await emergency medical treatment in Hiroshima, Japan, on August 6, 1945. AP

Hiroshima: Before and After the Atomic Bombing - The Atlantic

被爆当時、広島には約35万人の市民や軍人がいたと考えられています。これは、住民、軍関係者、建物疎開作業に動員された周辺町村からの人々などを合わせた数字です。当時日本の植民地だった朝鮮、台湾や、中国大陸からの人々が含まれ、その中には強制的に徴用された人々もいました。また、少数の、中国や東南アジアからの留学生や、アメリカ軍捕虜などの外国人も、含まれていました。

原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていません。しかし、放射線による急性障害が一応おさまった、昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計されています

爆心地から1.2キロメートルでは、その日のうちにほぼ50%が死亡しました。それよりも爆心地に近い地域では80~100%が死亡したと推定されています。また、即死あるいは即日死をまぬがれた人でも、近距離で被爆し、傷害の重い人ほど、その後の死亡率が高かったようです。』

広島市 - 死者数について

http://assets.nydailynews.com/polopoly_fs/1.2286804.1436465036!/img/httpImage/image.jpg_gen/derivatives/article_1200/hiroshima-anniversary.jpg

広島第2陸軍病院が設けた救護テント内の様子(原爆投下の翌日)

Nuclear bomb victims are sheltered at the Hiroshima Second Military Hospital's tent relief center at the banks of the Ota River in Hiroshima, Japan, one day after the world's first nuclear bombing. (YOTSUGI KAWAHARA/AP)

U.S. drops the atomic bomb on Hiroshima in 1945 - NY Daily News

www.huffingtonpost.jp

 

沖縄県出身の被爆

米軍が広島に原子爆弾を投下する約1年前、沖縄に住んでいたある一家は、広島に疎開していた。

『…戦火が迫り来る沖縄から44年夏、息子と娘を連れて夫の郷里である広島へ疎開した。だが夫は年末に病死し、航空機製作工場に職を得て暮らしを支えた。

爆心地から約1.75キロ45年8月6日、(母親)は元安川に架かる南大橋で左半身を焼かれた。女学院高女1年だった(娘)は発熱のため吉島町(現中区)の自宅にいた。自力で何とかたどり着いた母を懸命に看護し、(息子)は…橋も流れ落ちたデルタを結ぶ渡し船で働くなどした。

親子がわずかな所持金を携え、地上戦で変わり果てた郷里に引き揚げたのは翌年秋。再会できた祖母と沖縄本島中部の石川市(現うるま市)に落ち着いた。

(母親)は左耳から首筋にかけてケロイドがひどく、人の目を避けていたが意を決して市役所に勤め、遺児2人を東京の大学へ送った

そして、本土から置き去りにされていた被爆者として声を上げるようになる。59年に起きた米軍ジェット機墜落事故を目撃したからでもあった。自宅と隣接する宮森小に墜落して死者17人、負傷者210人が出た惨事。操縦士は脱出していた。

… 「一瞬のうちに大火災となったのを見て、広島でのことが思い出され/基地あるために起きる私たちの被害は、いつまで続くのでしょうか」。(母親)が「宮城秀子」の名で寄せた「沖縄の被爆者」の一節である。県原水協理事長…が聴き取った証言66編からなる。被爆協が81年に刊行した。』

『広島・長崎から沖縄に戻った被爆者は、援護から切り捨てられた。原爆医療法が1957年に制定されても、政府は「適用されない」と除外した。戦後日本に主権を回復させた対日講和条約は一方で、沖縄を米軍の施政権下に置くことを認めていたからだ。 

この扱いに対して65年、(母親)ら沖縄在住の5人が法の適用を求めて東京地裁に提訴した。本土が東京オリンピックに沸いた前年、(母親)は、現在の沖縄県原爆被爆者協議会(被爆協)の発足に参加し、地元での原水爆禁止集会で初めて体験を証言していた。』

『(母親)の提訴から政府は67年、原爆医療法の準用を始める。72年の沖縄返還でようやく法が全面適用されるようになった。だが、「被爆者だと分かると仕事に就けなかったり、訴えは反米運動だとみられたりした」

…(娘)も記憶を押し込めて、米軍基地や司令部などで働いた経験を持つ。原爆と向き合うようになったのは93年。広島市の平和記念式典に沖縄県遺族代表として参列し、母校を訪ねた。建物疎開作業に出るなどして犠牲となった同級生141人の名前を刻む碑に手を合わせた。』

伝えるヒロシマ 被爆70年 紙碑 <8> 「沖縄の被爆者」 1981年刊 援護 置き去りだった | ヒロシマ平和メディアセンター

youtu.be

【戦後70年の地平から】「県内のある被爆者に戦後」

『8月6日は広島に原爆が落とされた日です。那覇市出身で広島で被爆し、終戦間もなく沖縄に帰郷したある女性の戦後を取材しました。』

県内のある被爆者の戦後 | 琉球放送 

www.nhk.or.jp

 

 

〝沖縄〟という米軍基地

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/14-31-1.jpg

このレーダー・バンには第6海兵航空警報中隊の270DAレーダー部隊の送信機、キーヤー、レーダー表示器が貯蔵されている。木陰にうまくカモフラージュされ砂袋で保護されている。基地は泡瀬飛行場近く東海岸を望む丘の頂上に位置する。(1945年8月6日撮影)

This radar van houses the transmitter, Keyer and radar scopes of the 270 DA radar unit of the 6th Marine Air Warning Squadron. It is well camouflaged under trees and protected by sand bags. The station is on top of a hill overlooking the east coast of Okinawa, Ryukyu Retto, near Awase Airfield.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/15-31-2.jpg

島司令部工兵隊で働く沖縄の女性たち。彼女らは軍政府管理のもとプエルト・リコ兵をボスに持ち、毎日30セントの給料に、2回の温かい食事とCレーション(軍用食)を受け取る。沖縄。(1945年8月6日撮影)

Okinawan women working for Island Command Engineer Depot. They were under the charge of the military government, bossed by Puerto Rican soldiers, and received 30 cents a day plus two hot meals and one can of ”C” rations. Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍野戦病院: 久志村

ある日の夕方、ベイツという看護兵が私のベッドに腰を下ろした。彼はCテントの係であったが、よく私のところへ顔を出した。そのベイツから「君は広島を知っているか」と聞かれた。「知っている」と答えると、彼は「そこへ爆弾が落とされたが、半径7.5マイル内のものすべてが死滅する新型爆弾」と言った。

原爆を知らない私は、まるでよそ事のように〝原爆〟投下のニュースを聞いていた。

ベイツについて忘れられないことがある。彼は全患者に「新約聖書」を配った。もちろん日本語版である。彼は言った。「アメリカからのプレゼント」であると---。それから、彼は、ライフ誌を持ってきてくれた。アウシュビッツの写真は、私たちに衝撃を与えた。』(114-115頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 114-115頁より》 

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http://livedoor.blogimg.jp/life_magazine_usa/imgs/d/3/d31fe56d.jpg

ATROCITIES (残虐行為)  

CAPTURE OF THE GERMAN CONCENTRATION CAMPS PILES UP EVIDENCE OF BARBARISM THAT REACHES THE LOW POINT OF HUMAN DEGRADATION』

(『残虐行為   ドイツの強制収容所における蛮行の数々は、人類の劣化が底辺に達したことを証明する』--- 投稿者訳

http://livedoor.blogimg.jp/life_magazine_usa/imgs/5/b/5bbb5f87.jpg

1945年 5月7日号 ホロコースト 死体写真

アメリカ ライフ誌 LIFE 写真雑誌 販売 取り寄せ

  

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月6日(月)

 

www.huffingtonpost.jp

hpmmuseum.jp

www.theatlantic.com