〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月23日 『片手に手榴弾、片手に白い布片』

ハイウェイ13号を走る / 閉ざされた民間人収容所 / 鉄血勤皇隊の終わらぬ戦場 / 平安座収容所

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設 - 勝連半島から知念半島まで

7月19日に知念地区の久手堅収容所で日本軍の敗残兵に襲撃された家族は重傷を負う。夫婦は米軍の救急車でハイウェイ13号を北上し、越来村胡屋 の野戦病院へと向かうが、その際、東海岸のすさまじい変わりように目を見張る。

7月19日に久手堅収容所で敗残兵に襲撃された男性の証言から

7月20日に米軍の病院に百名病院から運ばれてきた。百名からコザまで私たち家族三人だけアムブランス(患者輸送車)で運ばれたが途中窓越にみた道の周辺はすっかり変りつつあったことに驚いた。知名二区今の海野から与那原までの海岸地帯がすっかり港湾施設をつくっていた。岩をコンプレッサーで破砕する騒音、岩石の粉煙が周囲に立ちこめ、この白いゴミの中を私たちのアムブランスは通り抜けていった。海には破砕された石で突堤がつくられ佐敷の仲伊保海岸まで数ヵ所の突堤ができていた。与那原海岸は円い穴のあいた鉄板カリバートが砂の上に一面に敷きつめられてあって、軍需物資が一杯おろされていた。西原から泡瀬までの海岸平地は飛行場となり数条の滑走路が構築されていた。 

知念地区 久手堅収容所 ~ 日本兵の襲撃 ~ 胡座の野戦病院と孤児院 - Battle of Okinawa

米海軍は、勝連半島から知念半島まで東海岸を重点的に軍事拠点化した。

バックナーベイ (中城湾) をぐるりと囲むように北から、現在のホワイト・ビーチ地区泡瀬飛行場~久場崎桟橋~与那原飛行場~馬天港とバックナービル~知名崎桟橋まで。

1945年5月から12月まで北中城村の熱田キャンプに駐屯した第21海軍建設大隊メモリアルブックから

第21建設大隊メモリアルブック 1944-1945年 - Basically Okinawa

日本人が埠頭を建設中であった砂地の与那原港は、桟橋建設にはもってこいの場所に見えた。6月6日に我々は建設をはじめ、7月22日までに二重土手のポンツーンの桟橋が完成した。しかし早くも7月3日には桟橋の一部は使用開始され、7月12日から28日までせわしく稼働した。沖縄戦は勝利したが、島は日本に対する激しい攻撃を行うためにできるだけ早い建設が望まれた。その後、7月末に4日間、激しい強風があった。… ポンツーンは保持できず … 8月の後半に、桟橋を再び建設しないことが決定された。

与那原桟橋に11のLSTが並ぶ。しかし桟橋は7月末と8月1日の台風で破壊される。

第21建設大隊メモリアルブック 1944-1945年 - Basically Okinawa

与那原飛行場の建設

日本軍は住民を総動員して小型特攻機用の滑走路、西原飛行場を建設したが特攻機の到着のめどがつかず建設途中で放棄された。4月26日、米軍が西側で牧港飛行場を確保する頃、東側で西原飛行場に到達、5月15日から建設を開始し、3か月後の8月15日に重爆撃機用の米海軍「与那原飛行場」として完成させる。1959年には返還されるが、重爆撃機用の分厚い石灰岩舗装はそのまま放置され、跡地の回復に難渋した。

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LST's waiting to be unloaded at Beach at Yonabaru.

与那原の浜で陸揚げを待つ戦車揚陸艦(1945年7月23日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

日本陸軍西原飛行場」から米海軍「与那原飛行場」へ。

米軍 与那原飛行場 (Yonabaru Airfield) - Basically Okinawa

 

民間人収容所の運営

住民は彼らの土地から排除され北部の収容所などに強制収容されているなか、米軍による東海岸の基地化は進められ、被害をうけなかった住宅もその多くが破壊された。

軍政府がホームレスの民間人を民間人収容所に移送する。
沖縄作戦が進むにつれて、40万人の住民のうちますます多くの人々がホームレスになり、村や農場が破壊された。軍事政府は、道路沿いで彼らのわずかな所有物と格闘している難民たちを監督し、民間人収容所に移動させた。我々は6月頃から難民たちに我々の建設プロジェクトを手伝わせ始めた。彼らのぼろぼろで奇妙な外観は、興味深いものでした。

第21建設大隊メモリアルブック 1944-1945年 - Basically Okinawa

米軍は基地建設のため沖縄人を強制収容し、生活基盤を奪い、転々と北部への収容所に移送したため、膨大な数の食糧を被収容者に提供する必要があったが、それは困難を極めた。劣悪な民間人収容所の状況に関して、外部に情報が漏れて問題化することがないように情報統制していたことも記録されている。

米陸軍公刊史書が記録する収容所の食糧事情

しかし、沖縄戦が正式に完了(1945年7月2日)すると、軍政府チームは食糧事情の悪化に直面していることに気づいた。6月中、野戦部隊は1日平均19万6,000人の人口に食料を供給したが、輸入された食料はわずか22%だった。7月までにその数字は295,000人に上り、毎日の食糧の59%が輸入された。7月までに回収された食料は枯渇し、さらにかなりの被害が島の農作物に降りかかった。… 戦闘段階が終了すると、ブルドーザー、大型トラック、グレーダーが基地建設計画に従って、戦車と艦砲射撃によってすでに破壊されていた (農業インフラの) 破壊作業を継続した。… この必要な開発によって島の農業に与えられた損害は、米兵による窃盗や破壊行為によってさらに悪化した。第10軍司令部はこの状況を嘆いた。

軍事政府チームは民間人に作物を収穫させるために最大限の努力を払ったが、不十分な輸送、収容所から収容所への数え切れないほどの人口移動、民間収穫者を監督する軍事政府と憲兵の人材の不足により、多大な損失が生じた。… 食糧事情がこれほど急速に極めて悪化しているため、クリスト将軍は民政担当者に対し、収容所に言及する際に「強制収容所」(concentration centers) などの言葉を使用しないように警告した。第10軍職員らは、民間人収容所の状況に関する記述は本国への手紙では検閲されることを忠告された。

Arnold G. Fisch, Military Government in the Ryukyu Islands, 1945- 1950; Center of Military History U.S. Army, Washington, D.C., 1988. pp. 47-49.

また米軍は不足する住民の衣料を補うため、破壊された村落から回収された衣服を使用しようとしたが、多くが米兵の戦利品として奪われていた。

一方、米兵による戦利品探しは、民間人の衣類に深刻な被害をもたらした。… 慶良間列島座間味村でも、戦利品ハンターが第8-9分遣隊の回収した靴と衣類の倉庫の75%を盗んでいた。

Arnold G. Fisch, Military Government in the Ryukyu Islands, 1945- 1950;

 

第32軍の敗残兵

師範鉄血勤皇隊 - 命じられた遊撃戦

6月18日、第32軍最後の命令は、鉄血勤皇隊をひきいた遊撃戦を展開せよ、というものであった。後に沖縄県知事を務めた鉄血勤皇隊大田昌秀が投降したのは10月23日のことだった。

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7月も半ばを過ぎると、米軍は戦術を代えたのか、毎日のように、朝から舟艇を海岸寄りに浮かべ、神経戦を始めてきた。これ聞こえよがしにスピーカーから数々の懐かしいメロディを流すのだ。それが朝風に乗って容赦なく岩穴の奥まで伝わってきた。妙なる音楽の調べほど孤独な敗兵たちの胸をかきむしるものはあるまい。米兵め、うまい手を考えついたものだ。なじみ深い旋律が、空になった臓腑の隅々にまで、しびれを催すほどしみ込んでくると、私は物狂わしいほどの切なさに大声をあげて飛び出したくなる。

音楽の合間合間には流暢な日本語で、「皆さん。岩の下にかくれている皆さん。もう戦争は終わりました。今さら逃げ隠れしても何の役にも立ちません。早く出てきなさい。明るいうちに白い標識を掲げて、海岸を喜屋武の方へ歩いていきなさい。向こうでは、親切にしてくれます。米軍は決して危害は加えません。明るいうちに安心して出てきなさい」と透き通る声が朗々と岩山の上に放送されていった。そして再び明るいのどかなメロディが流れた。同じことを、米兵は毎日毎日繰り返すようになった。

時折り、大きな輸送船が、甲板に溢れるほどの投降者をのせて、これみよがしに航行してゆくのが見えた。太陽がさんさんとその上に輝き、一見しただけでは、平時と何ら異ならない風景だった。

「奴ら、あんなうまいことをいって。みろ、出て行ったが最後、あの船に乗せてどこへ連れていくかわかったもんじゃない」

近くの方で敗残兵同士が話し合っている声が聞こえた。しかし、どうやら敵の計画は成功したらしい。彼らは、戦車でやってきては、煙草や菓子類を海岸に置いて行った。そして例の舟艇からの誘導作戦で釣っていった。初めのうちは、毒が入っているかも知れないと疑って置土産に手もつけなかった敗残兵たちも、勇敢な者が毒味した結果無害だと知ると、争って食べるようになったばかりか、敵の来るのを待ちかねるようにさえなった。あげく、続々と手をあげて出ていく者がふえた。

餌物を前にした人間は弱いものである。私たちも片手に手榴弾を握り片手に白い布片を求める心苦しい日々が続いた。日に日に殖えていく投降者を見ても、ふんぎりがつかなかった。いや、そのことに考えが及ぶのを極力さけたのだ。

《「血であがなったもの 鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦」(大田昌秀/那覇出発社) 195-196頁より》

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While the prisoner in the background holds a loudspeaker over his head, First Lieutenant Frederick H. Van Brunt, of 1141 Mountain Avenue, Los Angeles, Calif. Who lived 17 years in Japan, listens carefully to the words of the second prisoner who is asking his former comrades to surrender.

後方にいる捕虜が拡声器を掲げている。手前の捕虜がかつての仲間に投降を呼びかけるのを注意深く聞くヴァンブラント中尉(カリフォルニア州出身)。中尉は日本に17年間住んでいた。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

沖縄県知事大田昌秀は19歳で学生部隊「鉄血勤皇隊」に動員され、摩文仁で戦った。終戦を知り投降したのは10月23日だった。

いっぱい亡くなりました。私たちは銃1丁と120発の銃弾と手榴弾2個を持たされて、戦場に出されたわけです。そのときに「絶対、捕虜にはなるな」「捕虜になるんだったら、この手榴弾1個は敵に投げつけ、もう1個で自決しろ」と言われていました。学友たちがその結果、たくさん死にましたよ。

「捕虜になるなら自決しろ」元沖縄県知事・大田昌秀さんに渡された手榴弾 | ハフポスト

生死のはざまで何度も学友に助けられたという大田昌秀さん証言

(摩文仁から) 僕も飛び込みました。そしてそのまま2日ぐらい記憶を無くしていました。気がつくと、私は砲弾の破片で足を怪我して歩くこともできず、死体がごろごろしている摩文仁の海岸で横たわっていました。そのような状況で2~3日が過ぎたころ、「大田じゃないか?」という声がするので見たら、学友の一人が立っていました。彼は、「俺はこれから“斬り込み”に行くから、おまえにこれをやる」と言って、かつおぶし1本と靴下に詰めてあった玄米を私に渡し、「元気でがんばれよ」と言い残して行きました。私は全てを諦めて寝ころんでいたのですが、地下足袋ともらったお米を交換してもらい、やっと立ち上がり歩くことができたのです。

マガ9沖縄アーカイブス(4)大田昌秀さんに聞いた(マガジン9編集部) | マガジン9

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少年兵、鉄血勤皇隊として経験した、あの沖縄戦摩文仁の丘の激戦。125人のうち生き残ったのはわずか37人。「なぜこういう事態に陥ったのか。もし生き延びることができたら、明らかにしたい」。戦後は研究者として沖縄戦と戦後史を研究。平成2年には沖縄県知事となり、米軍基地の整理・縮小に取り組んだ。「二度と沖縄を戦場にしてはならない」。

2017年6月12日 元沖縄県知事 大田昌秀さんの後ろ姿 - ~その時、沖縄は~

 

来間島山砲隊 - 島民を実験に

日本軍は宮古島で土地を強制接収、住民を総動員して3カ所の飛行場を建設していたため、島は連日のように連合艦隊の激しい空爆にさらされた。その一つの陸軍宮古島西飛行場 (洲鎌飛行場) は、沖に来間島があるなど地形上の難からほぼ使用されることがなかった。来間島に駐屯した山砲隊は、7月23日、島民を使って野戦用投射器の試作実験を行い、2名の犠牲者をだす。

葬式だけは部隊がやってくれたが、骨やら肉やら集めて火葬して箱に入れて渡したので、それをムト(先祖の墓)におさめたが、大工の使うハンマーで、豊式なんとかを試運転するといって自分たちはかくれて、薬莢の先に木をとりつけて南の方へとばそうと、それ (信管) (住民に) たたかせたと聞いているのに、隊長は詫びにも来ない

「夫の死」『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 3 - Battle of Okinawa

信管を叩くよう軍に命じられた青年は

もっと残酷に思ったのは、その二日後の夜です。死んだ高原秀雄さんの裏の道を、兵隊たちが、何事もなかった様に、大声を張り上げて歌を歌って行くのです。軍歌でした。兵隊たちは島に来た当初から耳にたこができるくらい「お前たちの島を守りに来た」と云っていました。

「防衛隊」『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 3 - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

平安座収容所 - 与勝諸島の収容所

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米軍は12の民間人収容所地区を設置した。

米軍は4月7日に与勝諸島に到達、6月には与那城村屋慶名住民の一部と宮城、伊計両島の住民を平安座島に強制収容、平安座収容所に7千人余りが収容された。

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Reconnaissance and Capture of the Eastern Islands  6-11 April 1945

日本軍のいなかった宮城島。疑似砲台も、逆に米軍の標的になるので、打ち壊していたため、津堅島のような激しい攻撃は免れた。

十・十空襲後、民家や学校に駐屯していた部隊は引き揚げて、島には友軍は一人もいなくなりました。友軍は、島の高台のあちらこちらに、松の木を切り倒して、擬装大砲を設置してありましたので、「こんなもんをおいていかれたら部落が爆撃されて、村民が殺されてしまうだけだ」ということになり、警防団の人たちで、取りこわしてしまいました。ですから、宮城島には、日本軍の陣地はなくなったわけで、アメリカ軍の艦砲射撃を受けることはありませんでした。しかし、津堅島には、日本軍の強固な陣地がありましたので、むこうは相当たたかれました。

戦争証言「日本軍に抗議」中部離島『沖縄県史』 - Battle of Okinawa

 6月、強制収容が始まる。過密状態で慢性的な食糧不足が続く。

我々の本当に苦しい生活がその日から始まった。たいして農作物のない島に沢山の住民が住むようになったわけですから、みんなひどい目にあいました。

戦争証言「伊計島守備隊」中部離島『沖縄県史』 - Battle of Okinawa

その頃、平安座島は、石川と同様に住民の収容所になっていました。おそらく、島には米兵が120~130名はいたと思います。昔の小中学校の敷地には、米軍が駐屯していました。米軍によって、いつの間にか平安座集落は「平安座市」になり、「平安座市長」も任命されました。当時、平安座島には8,000名くらいの人がいたと思います。近隣の宮城島や伊計島の住民も収容されていました。浜比嘉島の島民は、浜比嘉島だけに収容されていました。平安座島の収容所には、当然、対岸の屋慶名の住民もいました。与勝半島一帯から住民が収容されていました。那覇から島に避難していた方々も、大変な思いをしていました。食料もなく、避難民は狭い場所に詰め込まれて生活していました。平安座島は畑も少なく農作物を作る場所もないので、食料には大変困っていました。… 当時は漁業もできませんでした。人々はみんな捕虜になっていましたから、拘束されて自由に活動ができませんでした。… ただ幸いなことに、平安座島には日本兵はいませんでした。もし日本兵がいたら、大騒動になっていました。

奥田良正光「平安座市」と私の戦後 – 戦世からのあゆみ

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平安座島 - Wikipedia

食糧を求めて島を越境する女性達を米兵が狙う。

私らは、女性ばっかりでしたので、こわくなって、みんな一緒に、木の繁みの中へ逃げ込んで様子をみていました。アメリカ兵三人のうち、一人が上半身、はだかになって、銃は持ったまま、娘を追いかけ回わして、つかまえては、また歩けと背をついて娘が逃げだすと、また銃を置いて、追いかけ回わしてはつかまえるということをくりかえしておりました。二人のアメリカ兵は、丘の上の方から、それをじっとみつめていました。その娘は、「アヤーヨ、アヤーヨン(お母さん、お母さん!)」と泣き叫びながら、逃げまわっておりましたので、私は、それをきくと助けてあげたいが私たちもみんな女ばっかりだからどうにもならないでしょう、と心の中でそういいました。私たちが、ひそんでいるところからは、見えないところへ追い込んだかと思うと、突然「ズドーン」という鉄砲の音がしたので、娘を強かんするつもりで、あんなに追いかけているものと思っていたら、殺してしまったんだと思い恐ろしくなって、島の東側の海岸近くにある「グスク(城跡)」の方へ逃げて、夕暮れまで、みんな隠れていました。

戦争証言「ある娘の虐殺事件」中部離島『沖縄県史』 - Battle of Okinawa

… 実際の戦時下の平安座島住民の戦争体験は、他のどの戦闘と比較しても悲惨で残酷なものであった。島の住民のほとんどは、沖縄戦の直前に沖縄本島疎開し、働き盛りの男子は徴用・徴兵され、各部隊に配属された。幸いにも、同島に日本兵がいなかったため、地上戦は戦われなかったものの、米軍は近隣の島々の住民を同島に移動させ、平安座島に大収容所を建設している。そのため、人口は最大12,000人にまで膨らみ、平安座市と一時は呼ばれるまでになっている。平安座島の住民が経験した沖縄戦は、他の沖縄住民の戦争経験と少しも違わず、重い戦争体験をしたのである。

《保坂廣志『沖縄戦のトラウマ: 心に突き刺す棘』(2014年) 紫峰出版 pp. 40-41. 》 

アメリカの石油大手ガルフ社(後にシェブロンに合併)は沖縄へ進出するため、1966年頃から予定地の選考が始まる。

父は、口グセのように「海アッチャーヤ、ヤードーラダョ (宮城島では、漁業に専念する者は、成功しないという意味) 」といっていました。それで私は、(農業を大切にし) 農業のあいまに海へは行っていました。しかしそれも1967年以来の、ガルフ石油進出に伴う土地闘争が始まって以来、海にも出るひまがなくなり、クリ舟も売り払ってしまいました。

戦争証言「日本軍に抗議」中部離島『沖縄県史』 - Battle of Okinawa

 
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