〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月30日 『〝沖縄〟という米軍基地の建設』

爆撃作戦の前線基地 / 第24師団 / 曾根一等兵の脱出 / 御真影奉護隊の解散

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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1972年沖縄の施政権移行当時の沖縄島の米軍基地

1972年「沖縄返還協定」全基地リスト ~ 日本はどのように沖縄と向き合ってきたのか - Basically Okinawa

沖縄の米軍基地は多く日本軍の土地接収と基地建設にその起源がある。米軍はまず4月1日に読谷と嘉手納の基地を占領し、次々と日本軍の基地を礎にして更なる基地建設を進めた。1945年の沖縄戦に米軍は11の飛行場20あまりの小飛行場を建設した。

1945年4月1日から7月31日までの激戦を経て確保された沖縄は、日本本土への最終攻撃のための広大な空軍、海軍、地上軍の基地となることが期待されていた。上陸直後、GHQ 太平洋陸軍 (AFPAC) * の主任技師が偵察を行い、すでに予定されていた大規模な飛行場建設計画に超重爆撃機の基地を追加することを提案した。全部で26の航空工兵大隊が降伏前に沖縄に到着し、陸軍建設部隊とシービーズとともにAFPACの指揮の下で任務に就いた。

Army Air Forces in WWII: Volume VII: Services Around the World [Chapter 10]

 

ボーロー飛行場: 米軍はB-29 (スーパーフォートレス) 用滑走路として新規にボーロー飛行場を建設した。

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左: 1945年1月に米軍が撮影した日本軍の沖縄北飛行場と、沖縄中飛行場

右: 米軍上陸から8ヵ月後、1945年12月の空中写真。嘉手納飛行場、読谷飛行場、ボーロー飛行場が完成している。

FAC6021 ボロー・ポイント射撃場 / 瀬名波通信施設 (Bolo Point Training Range) - Basically Okinawa

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Aerial view of Bolo Airstrip under construction by 72nd, 78th, 82nd and 87th Naval Construction Battalion. Okinawa, Ryukyu Retto.

第72、第78、第82、第87海軍建設大隊によって建設中のボロ読谷飛行場(1945年6月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

生き残った住民が収容所に強制収容されているあいだ、多くの住居が破壊された。家財は戦利品として持ち帰られた可能性もある。

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建設のための破壊。この素朴な故郷の家は、幹線道路からキャンプ・ボーローまでの緊急に必要な道路のすぐそばにありました。大隊の大工たちが使用可能な木材をすべて回収した後(戦利品やノミの集団も一緒に!)、「ビッグ ジョン」ワインは すでに砲撃を受けたこの住居にブルドーザーを打ち込んだ。多くの住民の家は軍事上の必要性から取り壊されなければなりませんでしたが、決して島司令部の許可なしに取り壊されることはありませんでした。すべての住民はずっと前に収容所に集められていました。

読谷飛行場やボーロー飛行場建設に携わった海軍第87建設大隊のメモリアルブックより

 

普天間基地は6月15日に建設が始まり9月1日に完成の予定。スーパーフォートレス用の滑走路は重爆撃機に耐えうる規定の厚さに舗装する必要があった。 

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B-29 “Superfortress“ strip being cut out of the crub covered hilly terrain at Futema on the west side of the southern half of Okinawa, Ryukyu Retto. This super bomber strip was constructed by the 806 EAB's on 15 June 1945. The runway was 7,500 feet long and 200 feet wide and the surface was made of crushed coral with coral rocks for the base.

沖縄の南寄り普天間の西海岸沿いのくずで覆われた丘を切り取って作られたB-29スーパーフォートレス専用滑走路。長さ7,500フィート、幅200フィート、石灰岩で覆われたこの重爆撃機滑走路は1945年6月15日に第806工兵航空大隊によって建設された。(1945年6月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

第 2 巻には、1945年6月に他の25の航空工兵大隊とともに第806部隊が沖縄に派遣されたときの様子が記録されています。彼らの仕事は、日本侵攻に向けてますます活発化する爆撃作戦の前線基地として、沖縄全土にB-29スーパーフォートレス用の飛行場の建設を開始することであった。沖縄での戦闘はすでに4月1日から続いており、第806部隊が施設や飛行場の建設に取り組み始めた後もさらに2か月続くことになった。アルバムは、戦闘でかろうじて生き残った柔道殿や、唯一生き残った那覇電力灯会社の発電所など、破壊された那覇市の写真で始まります。第806大隊の補給事務所、発電所、車両、その他の構造物の写真もあります。このアルバムは、工兵隊によってもたらされた沖縄の変化を詳述するとともに、生き残る沖縄の先住民と文化に重点を置いています。そのような変化には、普天間滑走路の建設のため、何十年にもわたって慎重に剪定された樹木の撤去の画像や、第806部隊によって建設された管制塔が含まれる。

第806航空工兵大隊 (806th Engineer Aviation Battalion) - Basically Okinawa

 

牧港飛行場 (現在のキャンプ・キンザー牧港補給地区): 米軍は日本陸軍南飛行場(仲西飛行場) を接収し、スーパーフォートレス用滑走路を専門とする工兵航空大隊が拡張工事にかかわった。

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On the west coast of Okinawa, just north of the ruins of Naha City, the 874th & 1906th Engineer Aviation Battalion started to cut an airfield out of the hilly terrain for the 7th Air Force. The sub-case had been graded and dump trucks were bringing in coral sand and rock for the base and surface of the srtip, when this photograph was taken. Construction was begun on 1 June and the completion date was the end of July 1945. Okinawa, Machinato.

本島西海岸、廃墟那覇の北に第7空軍のための滑走路を建設する第874及び第1906工兵航空大隊。でこぼこは平らにされ、ダンプカーは土台や仕上げ用の石灰岩を運び入れる。工事は6月1日から7月末日までの予定。沖縄、牧港(1945年6月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

ホワイト・ビーチ地区 - 勝連半島をはじめ東側は与那原まで海軍の拠点として基地化される。

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Constructed by the NCB's, to facilitate unloading of LSTs and LSMs, coral built road jetties were built into the water to enable trucks to move up to the ships for unloading of their cargo. Okinawa.

上陸用舟艇や中型上陸艇からの荷揚げを容易にするために建設された上陸用桟橋は、船の近くまでトラックを寄せられるようにと海に突きだして作られた。沖縄。(1945年6月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

那覇兵站基地

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The Quartermaster Class I dump on Tare Street has a conveyor line in operation to facilitate the movement of supplies.

物資の運搬を容易にするコンベヤラインを持つタレ通りの物資補給所のクラスI集積所。(1945年6月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

楚辺部隊第4474兵站部隊

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Rows of gas and oil drums in the supply area from which they were issued by the 4474th QM Depot Company, and formerly by the Bulk Service Battalion, started 30 June 1945. 60-80 octane gas and 10-30-50 lubricating oil was issued to all outfits. Okinawa.

1945年6月30日から始まったガソリンやオイルの補給地区。ここから以前は積荷役大隊、現在は第4474兵站部隊によって、60-80オクタンガソリンと10-30-50潤滑油が全部隊へ分配される。沖縄。(1945年6月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

掃討作戦

狙撃手「エース」の眼

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Five 96th Division Texans are considered ”Aces” by their buddies in Company ”I”, 383rd Infantry Regiment, an ace being anyone who killed five or more Japs. From bottom to top: S/Sgt. Vernon Z. Wilkins, 101 Chicago St., Delhart; Pfc. Albert Welfel, El Campo; Pfc. Richard S. Groce, 318 Lafitte St., San Antonio; Pfc. Roy D. Clapper, Florey; and Pfc. Russell Linnard, Pharr. All are from Texas.

第383歩兵連隊I中隊の仲間から“エース“と見なされている5人の第96師団のテキサス出身兵士。“エース“とは5人以上の日本人を殺した者のこと。下からウィルキンス2等軍曹、ウェルフェル上等兵、グロース上等兵、クレッパー上等兵、リナード上等兵(1945年6月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

掃討戦は、6月30日、予定より早く、成功裡に完了した。この作戦で、米軍はまず、南部の第1作戦地域で、いまは組織もなく、孤立化した日本軍の陣地をいくつか片づけた。洞窟は火炎放射器や爆破隊のために、幾百人の日本兵が中に入ったまま、そのまま入口を封鎖された。ところが、一方、武装した日本兵が、米軍前線を突破して、北部に抜けようとして、数回にわたって血みどろな戦闘が展開された。米軍は大がかりな偵察隊をくりだし、キビ畑や水田にひそんでいる日本兵1人1人を狩り出した

米軍が進撃方向を北に変えてからは、日本兵はしだいに少なくなり、最後である第3期作戦も、比較的容易に達成することができた。

月末までに、この掃討戦で米軍はおよそ8975人日本兵を倒し、また2092人を捕虜にし、906人の労役兵を狩り集めた。

その他、莫大な量の物資や兵器を戦利品として捕獲した。米軍の損害は、6月23日から30日までのあいだに783人だったが、そのほとんどは、掃討戦を開始して最初の3日間で起きたものだった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 515頁より》

鉄血勤皇隊「千早隊」大田昌秀 (元沖縄県知事) の記録

…米軍は、ダニのように海岸の岩山にへばりついている敗残兵に対して、摩文仁台上からの攻撃では功を奏しないと見て、海岸から水陸両用戦車を乗りつけてきた。しかも火焔放射器をはじめ手榴弾や黄燐弾まで動員してせん滅戦に打って出た。勝者にとって、敗残兵狩り最も愉快なスポーツだろう。身を危険にさらすことなく、遊び半分に、標的を探しては腕だめしをすることが可能だからである。

《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 194-195頁より》

… 毎日、僕ら殺しに敗残兵掃討でアメリカさんが来るんですよ、毎日、銃を持って、もう僕らを追いかけて。そうだよ、僕らは戦負けたのをわからんわけですよ。日本軍がまだ、降伏しているのを知らなかった

伊禮進順さん証言|NHK 戦争証言アーカイブス

敗残兵掃討作戦 - 米軍は大がかりな偵察隊をくりだし、潜伏する敗残兵を掃討した。喜屋武半島に到達すると今度は逆方向の北にむいて掃討を始めた。

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米陸軍 1945年6月30日  No Caption.

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

糸満: 陸軍第24師団 雨宮巽師団長の自決

6月、与座から宇江城の自然壕クラガーに後退していた第24師団司令部では、6月30日に雨宮中将が自決、陸軍第24師団は消滅する。しかし最後の訓示にあるように、生き残った兵士は「国頭突破」して北部でのゲリラ戦を目指した。

陸軍中将 雨宮巽 明治25年~昭和20年〔山梨〕 - 防衛省防衛研究所

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沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken)

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糸満市宇江城にあるクラガー。もともと集落の水汲み場として使われていましたが、第24師団が後退してきてからは、その司令部がおかれました。糸満市史には住民の犠牲者について、アメリカ軍の攻撃だけでなく、日本軍によるガマからの追い出しや虐殺があったことが記されています。「入り口にいた老婆が方言まじりで返事をしたら、すぐに老婆は軍刀で首を切り落とされたのです」

65年前のきょう (1945年6月30日) 第24師団司令部は周囲をアメリカに包囲され、雨宮巽師団長が自決。しかし、雨宮師団長は師団の解散前にこう訓示していました。

「最期の一兵に至るまで敵に出血を強要すべし。いやしくも敵の虜囚となり、恥受くるなかれ。最期の忠誠を全うすべし」

最期の一兵まで敵と戦い、捕虜となってはいけないという雨宮師団長の言葉は、師団の解散後も兵士や住民たちを死へとおいやることになったのです。

65年前のきょうは1945年6月30日(土) – QAB NEWS Headline

歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一)の記録

…数日間、大隊本部の壕は敵の掃討を受け続け、昼は各隊が洞窟の入口で激しい銃撃戦を繰り広げつつ、辛くも陣地を保持していた。夜になると、各隊から連絡があった。敵は夜になると引きあげていくようで、遮二無二になって攻撃してくることはなかった。

聯隊本部と連絡が途絶えて1週間が経った頃、聯隊長以下70名も伊東たちと同じように洞窟で戦闘をしていることがわかった。伝令を派遣し、全般の状況と師団長の様子を尋ねたが、「わからぬ」との返事だった。(不明なら不明で、伝令を派遣して確かめるべきでないか)

伊東は次いで樫木副官を派遣した。聯隊付の将校に、師団司令部と速やかに連絡をとり、全般の状況を確かめてほしいと具申した。しばらくして、聯隊本部から斥候が来て報告した。「司令部の壕は破壊され、黒焦げになっていた。師団長は戦死されたらしい」6月30日のことだった。

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 250-251頁より》

 

渡嘉敷 - 曾根一等兵朝鮮人軍夫の脱出

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渡嘉敷島の「集団自決」赤松嘉次隊長の沖縄戦

海上挺進第3戦隊(戦隊長: 赤松嘉次)

渡嘉敷島では3月28日に島民の約半数380名が集められ「集団自決」を強いられるが、その後も島を支配する赤松隊によって住民や朝鮮人軍夫が次々と「処刑」されていく。

4月15日、集団死で生き残り米軍の治療を受けた16歳の少年2人が赤松隊によりスパイとして殺害される。他に島民男性2名がスパイとして処刑された。

6月26日朝鮮人軍夫3名が食糧窃盗したと処刑して処刑された。

6月30日曾根一等兵朝鮮人軍夫20人と朝鮮人慰安婦2人 (日本名キクマルとスズラン) を連れて島から脱出した。

7月2日、伊江島から米軍によって送られた男女6人を処刑、渡嘉敷小学校訓導の大城徳安を脱走で処刑。

7月5日、曾根脱走事件とは関係のない朝鮮人軍夫を3名処刑。

6月30日に10人以上の軍夫が集団で脱走する事件が起きた。主導したのは第3中隊に所属していた曾根一等兵であった。手口が鮮やかだったために、炊事班長として軍夫を使っていた元防衛隊員の大城良平氏や軍夫の捜索隊長だった知念朝睦氏は曾根が堪能な朝鮮語を駆使して福田軍夫長と綿密な打ち合わせをした上で実行したと思っていたが、実はそうではなかった。

《伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』(2020/2/1) p. 224》

もはや、二三四高地で生存も危ういほどの飢餓に耐え、砲弾の下をかいくぐって任務を遂行することに何の意味も見出せなかった。犬死にしたくはなかった。今、米軍に投降すれば生命を落さずにすむ。戦友にもそう呼びかけたかった。だが、徹底した皇国思想、軍国教育を叩き込まれている日本兵に米軍への投降を呼びかけるのは危険だった。この期に及んで、未だに神国日本は必ず勝つ、と狂信している者も少なくなく、客観的な見通しをおくびに出すことさえはばかられた。実際、誰れが密告したのか、中隊長に呼び出されて、「貴様、悲観論を吹聴しとるというではないか」と、鼻先に軍刀をつきつけられたこともあった。日本兵には明かせない。けれど、なるべく多くの者と、ともに生きたかった。…(中略)... 

6月29日夜、曾根氏は芋や芋の葉の入った袋を背にした軍夫らを率いて阿波連を発った。一キロほど行くと、渡嘉志久(とかしく)の浜が見える峠にさしかかる。「決行は今夜だ」そう決意したのは、暗がりの中で鈍くたゆたう海を峠から見下ろした時だ。…(中略)... まず、軍夫長フクダに決行を打明けた。そして、軍夫たちへの呼びかけを依頼した。曾根氏は朝鮮語がまったく分らなかったし、軍夫も日本語が通じる者はごく少数だった。また、軍夫個々の気性も、どのような考えを持っているのかも、知らなかった。あまりつき合いのない曾根氏が直接呼びかけたのでは軍夫はかえって警戒する。時間もなかった。…(中略)... フクダとは肝胆相照らす間柄というわけではなかったが、以前からつき合いはあった。そして、その日、同じ糧秣運搬の任務を負い、曾根氏の指揮下にあった。フクダは朝鮮人であったが、日本語が堪能だったため軍夫長に選ばれていたのだ。フクダが自分の配下十数名を連れて来るまで三十分もあったかどうか。その中に女が混っていた。…(中略)... 軍夫長と軍夫だけでは歩哨線は通過できないが、日本兵である曾根氏が引率していたため、歩哨は何の疑念も抱かなかった。一行は難なく監視哨を通過した。その後も追手は来なかった。…(中略)... 本部ではまだ、曾根氏と軍夫らの逃亡には気づいてはいなかったのである。曾根氏が率いた一行、軍夫長と軍夫約二十名、それに慰安所にいた女は、米軍の上陸用舟艇に無事乗船した。

《川田文子『赤瓦の家』(2020/6/17) 》

第三戦隊が6月22日、沖縄本島軍司令部からの「最後の斬り込みを敢行す」の電報を受けてからわずか二週間の間に、明らかにされているだけでも、沖縄住民に対する″処刑″が2件、朝鮮人軍夫に対する″処刑″が1件計8名が日本軍の手によって生命を奪われた。これに「逃亡者4名」を加えると、その数は12名になる。この他にも、日時は不詳であるが、軍夫の″処刑″が阿波連の斥候連下隊に於いて行なわれたことを知念氏が証言している。

《川田文子『赤瓦の家』(2020/6/17) 》

 

 

そのとき、住民は・・・

御真影奉護隊の解散

6月30日、御真影奉護隊が解散する。

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名護市源河地区の「大湿帯」と呼ばれる地域に、ひとつの壕があります。沖縄戦で、この壕には、「御真影」と呼ばれた歴代天皇の写真が集められ、「御真影奉護壕」と呼ばれました。戦前、天皇は現人神とされ、歴代天皇の写真や御真影天皇と同一視され、全国の学校で、もっとも神聖なものとして扱われました。
のべ1000機のアメリカ軍機が沖縄本島を攻撃した十・十空襲をきっかけに、戦火から御真影を守る先生たちの部隊、「御真影奉護隊」が結成されました。アメリカ軍の攻撃が激しさを増すと、学校ごとに保管していた御真影は、この壕のなかに集められました。アメリカ軍の上陸が始まり、御真影奉護壕の周辺にもアメリカ兵の姿が現れるようになりました。奉護隊は、神聖な御真影アメリカの手に渡すまいと、
奉護隊は、神聖な御真影アメリカの手に渡すまいと、昭和天皇以外の御真影を壕のなかで燃やしました。さらに御真影の台紙や入れ物の柄の箱を近くの神社の境内に埋めました。最後まで守り続けた昭和天皇御真影も、日本軍の組織的戦闘が終わった直後、壕の近くにある河原で燃やされました。そして6月30日御真影奉護隊は解散しました。

名護市 御真影奉護壕|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

御真影とは、昭和天皇・皇后の写真のことです。全国各地では、米軍の空襲が来る度に校長先生や教員たちは、この御真影を焼失から護るため、担いで右往左往しているのです。当時の文部省からは、まずは御真影を護ること、教育勅語を護ること、これが一番の校長たちの任務でした。その次が生徒・児童を護ることだったのです。護る順序が、今考えると信じられない。当時は、真面目にそれを考えていました。 

沖縄本島の場合は御真影奉護隊」が結成されます。9名の校長・教頭で編成され、それ以外にも志喜屋孝信さんとか、他の先生たちもいました。その家族も一緒で、総勢30数名でした。4月7日には、名護湾に米軍が到着し、早くも大湿帯には4月9日から10日にはすでに来ています。したがって、米軍が7日に上陸して10日には、この御真影奉護壕を放置します。放置する際に、明治天皇大正天皇の写真を焼いて、昭和天皇だけはまだ生きているからと、写真を抱えて山のなかを80日間さまようのです。その間の30数名分の食事をどうするかが大きな問題でした。飢餓寸前になりながらも任務を続けました。

《『沖縄県史 各論編6 『沖縄戦』 : 刊行記念シンポジウム『沖縄戦』を語る』沖縄史料編集紀要、沖縄県教育委員会、2018年03月23日 》

最優先事項として教育の現場に求められたもの。

10・10空襲の日は、あわてて学校に向かった。「御真影を奉遷奉護することしか頭になかった。幸い学校は無事だった」と言う。しかし、若狭町にある自宅は、その日の空襲で焼失してしまった。…

… 比嘉さんの荷物は風呂敷包みが1個。黒塗りの箱に入った教育勅語戊申(ぼしん)詔書(明治41年の戊申の年、上下一致や勤倹などを説くため出された詔書)を包み、首から前につるしていた。「御真影を奉遷してあとは校長として一番に守らなければならないものとなった」と言う。

《「戦禍を掘る」取材班1984年11月27日掲載》

 

 

 

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沖縄の今日

1959年6月30日『宮森小学校ジェット機墜落事故』

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