〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年4月28日 『米軍の部隊交替』

戦場の「結婚式」 / 南風原陸軍病院 / 取り残される高齢者

 

米軍の動向

部隊交替と海兵隊の南下

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Chapter 07 | Our World War II VeteransOur World War II Veterans

4月28日、バクナーは第3水陸両用車の第1海兵師団にたいして、3日以内に戦線の西翼をになう第27歩兵師団と交代するようにつげた。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 44頁より》

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第10軍司令官 サイモン・B・バックナー中将

Simon Bolivar Buckner Jr. - Wikipedia

4月の末日までには、前線の部隊交替は、日本軍の陣地が頑強で、しかも早急には陥落しそうにもないことから、どうしても必要だった。第96師団は、沖縄上陸のときから、すでに師団としては十分な兵力をもっていなかったが、戦闘でさらに大きな損害をこうむっていた。そのためどうしても休養が必要であり、また他部隊と入れ替わる時間も必要だった。これに反して、第77師団のほうは、慶良間列島伊江島で戦ってきたとはいえ、比較的フレッシュであった。また第27師団のほうは、もともとは沖縄戦に使うつもりはなかったが、第7師団と第96師団だけでは首里防衛戦を突破することはむずかしいことがわかったので、臨時として第24軍団に配属されていたのだ。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 276頁より》

屋富祖 (やふそ)

西海岸のほう、第27師団の作戦区域では、アイテム・ポケットの戦闘は、事実上は4月27日に終わっていた。そのため第165連隊は、その後は小湾方面を偵察していた。また師団左翼のほうでは、第105連隊が浦添丘陵の戦闘後、部隊を再編して、4月26日には仲間の南端まで進撃して散兵線をしき、5月1日に交替するまでそこで頑張った。師団中央線では第106連隊の第2大隊が前線を確保するため、屋富祖周辺で4月27日から28日にかけて猛烈な戦闘に従事していた。だが、米軍はあまりにもその兵線を広げすぎ、兵も疲れきっていたので、4月末ごろの戦闘では大した攻撃もできなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 277頁より》

前田 (まえだ) : 浦添丘陵

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

4月28日、第381歩兵連隊のK中隊は、浦添丘陵の日本軍の抵抗を弱めようと、第27師団の作戦地区を西方に進み、仲間村落を通って南西を攻撃し、校舎のほうに進んでいった。この校舎は、大きなコンクリートづくりで兵舎として使用されていたもので、日本軍の本部があり、仲間村落と前田村落の中間、丘陵の南側にあった。そこで半時間にわたる白兵戦のすえ、K中隊は多大な損害をうけて撃退され、生き残った兵は、煙幕のもとに退却せざるを得なかった。中隊で使えるものは、いまではわずか24名になってしまった。第381連隊では、K中隊、I中隊とも、多数の死傷者を出したので、ついに両中隊を合併して兵員70名、重機関銃4梃からなる、協力な1個中隊をつくった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 290-291頁より》

前田の建物と塹壕

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

幸地 (こうち)

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

4月28日、まだ夜が明けきらぬうちに、第17連隊の第3大隊は、幸地丘陵西側で第1大隊と交替し、リー・ウォレス中佐の指揮のもとに攻撃を開始した。ウォレス中佐は兵を丘陵とゼブラ高地のあいだの切り通しに入れるのが得策だと考え、背後から幸地丘陵の防衛線を攻撃しようと思った。

まずL中隊が西側丘腹づたいに南進している間に、K中隊を切り通しにひきいれることには成功した。しかし、中隊がひとたび切り通しにはいると、たちまち日本軍の機関銃弾をあびて4名が戦死し、8名が負傷した。その後もたてつづけに機関銃の攻撃をうけて、ついに撤退せざるを得なくなった。一方、L中隊のほうは峰に着くことさえできなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 282-283頁より》

 

沖縄島北部の米軍

米軍は沖縄島の北部地域を制圧した後、掃討戦を展開した。

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SMOKE MARKS THE SPOT---Marines of the 6th Div., pause at the edge of a scrubby group of pine trees on an Okinawan mountain top as they wait for artillery to blast a Japanese position that had been holding them up.

敵陣を示す煙---日本軍陣地を爆破するための支援砲撃を待ちながら、山頂のかぼそい松林で小休止する第6海兵師団。(1945年4月28日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

戦場の「結婚式」

4月28日、住民の59%が戦死した激戦地西原村棚原で二人の男女が投降した。第62師団歩兵第63旅団独立歩兵第11大隊機関銃中隊長の木村中尉と、その部隊に所属する従軍看護婦として働いていた当時17歳の役場職員の女性で、米軍は二人の捕虜の「結婚式」を4月30日におこない、その写真を5月6日の投降ビラ『琉球週報』第2号に掲載した。「白人語学将校」として尋問に関わっていたドナルド・キーン中尉によれば、この撮影は住民への投降呼びかけのため米軍が仕組んだプロパガンダであった。米軍が即席で作った後ろの鳥居、キャプションもプロパガンダとして読むべきである。

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Lieutenant Navji Kimura (Japanese Army P. O. W.) being married to Shizuko Arakawa by Chaplain Lieutenant Colonel Ruben E. Curtis, at 24 Corps Headquarters. This Jap officer surrendered to one of the G-2 officers of 24 Corps in the hills. He threw his sword and pistol from the cave he was in, and walked out to give himself up. He told the officer he was tired of fighting and wanted to get married.

日本陸軍捕虜木村直治中尉と新川シズコの結婚式。24兵団本部にて従軍牧師カーティス中佐による。この日本兵は24兵団のG-2に捕らえられた。彼は自分の銃剣とピストルを防空壕の中から投げ、「戦うのはうんざりだ。結婚したい」といって投降した。(1945年4月28日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

語学将校ドナルド・キーン中尉が友人にあてた手紙

「… こっちは泥まみれで戦っているのに、あの2人は結婚だと。結構なことだな。」その横でカメラマンが2人の日本人を取り囲む。「はい、笑って。そうそう、笑顔で。キスしてくださいよ、彼女に...おや、新郎はどうかしたのかな?怖気づいたのかな?」 新聞記者が悪態をつく傍ら、カメラマンたちはあらゆる角度から写真を撮り続けた。こんな状況じゃ、結婚式を報じた記事が救い難いほどデタラメになるのも不思議はないだろう?いつものことだが、記者たちはお互いの話に夢中になりながら、こんな結婚式は『おまけ』みたいなものだと言い張っている。ぼくに言わせばこうだ。つまり、自分が実際に見聞きした出来事について新聞記事を見てみると、いつも話がねじ曲げられたり、誤っていたりした。すなわちキムラ氏の結婚式をアメリカ人の途方もない気前よさの表れと報じれば、まさにそう思い込んでいる世間の思惑に合致するのだ。アメリカ人が世界を守る偉大な救世主だなんて、記者たちがでっちあげたデタラメに過ぎないのに。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版 2015年 124-125頁》 

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An American civil wedding ceremony is conducted for a Japanese Prisoner and his Okinawan sweetheart.
日本軍捕虜と沖縄女性の間のアメリカ式結婚式

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

ドキュメンタリー『よみがえる戦場の記憶~沖縄戦600本のフィルム』28分35秒から。

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よみがえる戦場の記憶 沖縄戦 600本のフィルム - 動画 Dailymotion

米軍の調書によると、男女二人の捕虜は部隊の退却時に棚原に残り捕虜となった。日本軍によってひどい状態に追い詰められている沖縄人を助けたいという思いが、米軍側に残された捕虜調書からも強く伝わる。シズ子 (17歳) は村役場の職員で、従軍看護師として部隊に従軍し、地元の住民が斬り込み隊などで犠牲になるのを見てきた。

当時17歳の従軍看護師「新川シズ子」の捕虜調書

「彼女によれば、米軍火砲により多くの負傷者が出たという。治療としては、止血のため包帯をまくことしか方法がなく、応急手当は、部隊の救助所 (包帯所) で行われた。移送可能な負傷者は、後方に転送され、さらに後方に下がる必要のある者や歩行可能な者は、前線から次の線まで移送された。しかし、重傷者はそのまま放置された。看護婦がいうには、(西原村の)民間人は、作業部隊として徴兵されたのではなく、斬り込み隊として動員されたという。これらの人々は、米軍が村に侵入すれば、斬り込みすることになっていた。また民間人は、米軍の砲撃のため山へと逃げなければならなかった」。 

新川看護婦が指摘するとおり、西原村からの防衛隊は歩兵第63旅団だけでも200人が配属され、さらに近隣の宜野湾村から同旅団への防衛召集者270人を加えると500人余が、西原村一帯に配置されている。特に西原村出身の防衛隊員は、第63旅団独立歩兵第14大隊に集中的に配置され、西原集落そのものの守備に任じていた。新川証言によれば、彼等は作業部隊ではなく、文字通り必死の「斬り込み隊」であったという。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版 2015年 122-123頁》

木村直治中尉 (独立歩兵第11大隊中隊長) の捕虜調書について

日本の将校は、後ろ向きで精神が偏狭で、現代世界の知識を持たないものがほとんどだが、木村中尉は彼らとは異なる将校だと記してある。その上彼は、英語をある程度話することができ、英語を読むことはそれ以上に出来るともある。彼は、正確に情報を提供しようと心掛けており、答えられない質問は妻がそれを埋めるため協力したという。尋問では、民間人の救出をどうするかに多くの時間を割いている。…

日本軍は、民間人の南部移動に際し、何も協力をしなかった。実際、 彼等は住民のために何もしなかった。日本軍は、住民を何ら気に咎めず、 住民が負傷しても手当はしなかった。日本軍は、島の防衛の遂行に多忙を極め、住民は取り残されてしまった。民間人の食料事情が懸念されているが、日本軍は何も住民を助けようとはせず、だれもが食料探しに苦しんでいる」。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版 2015年 127-128頁》

日本軍は陣地構築に住民を最大限利用したが、いざ戦争となると住民は足手まといとして壕から追いだされ、あるいは防衛隊として徴用されて爆弾を背負わされた。陣地が構築された多くの町は住民の半数かそれ以上が犠牲となった。

浦添の戦死率と一家全滅率

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『ハクソー・リッジ』の公開によせて | 浦添市

戦地から生還した捕虜を英雄とみなし叙勲する欧米とは異なり*1 、日本の「捕虜になるなら国のために死ぬべし」とする価値観は、戦後も二人を苦しめ孤立させた。米軍がプロパガンダのために設定した「結婚式」のプロパガンダ写真は、戦後の二人を決定的に社会から孤立させるに十分なものであった。

 

沖縄南飛行場の占領 - 牧港飛行場

沖縄南飛行場は、住民から労役だけではなく食糧も用具も供出を強い、軍刀を抜いて区長を脅しながら仲西飛行場の建設を進めたが、結局は使用されることなく放置された。

米軍は日本軍の南飛行場を占領し、牧港飛行場 (現キャンプ・キンザー) を建設する。

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牧港飛行場は1944年に日本陸軍「沖縄南飛行場」として建設。1830メートルの滑走路を持つ一人乗りの小型特攻機用の飛行場でした。「沖縄戦アメリカ軍戦時記録」によると、65年前のきょう4月28日は、アメリカ軍第24軍団が牧港飛行場を占領した日とされています。

その日の記述にはアメリカ軍は日本軍の激しい抵抗に会いこの日はおよそ360mしか前進できなかった。飛行場には地雷が多数敷かれていたと記されています。

そのおよそ1ヵ月後アメリカ軍は滑走路を300メートル拡張し、日本本土を空爆するための前線基地に作り変えます。65年前のきょう占領された、この飛行場は戦後、アメリカ軍の物資の集積所として使われるようになり現在ではアメリ海兵隊キャンプキンザーになっています。

65年前のきょうは1945年4月28日 – QAB NEWS Headline

 

第32軍の動向

北部戦線: 国頭支隊(支隊長・宇土大佐)

沖縄本島北部の山中には、本部半島を占領されて退却した宇土大佐率いる国頭支隊の敗残兵や途中から合流した日本兵や学徒らがいた。米軍の攻撃を受けるたびに、北上したり来た道を引き返したりした際に、東村福地付近で米軍の攻撃をうけ、死傷者が続出した。

 

鉄血農林勤皇隊・肉迫攻撃隊

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農林鉄血勤皇隊の運命 - 「死んでもここを守れ」

真部山に取り残された農林鉄血勤皇隊は八重岳から多野岳へ、そして4月27日には東村内福地に到着したが、そこで銃撃戦に巻きこまれる。

…その日の昼頃、ちょうど谷川べりで、飯を炊こうとした時だった。…突然パシッと、立木の幹を裂いた一弾が飛び込んだ。次には、ドドドドドという音に変わっていた。機銃弾が、不意打ちに飛び込んできたのだ。…硝煙が渦まき、迫撃砲が破裂した。…静かな光景が、一瞬にして、地獄と化した。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 316頁より》

 県立農林学校学徒の証言:

敵との距離はほんの20メートルくらい。武器は向こうの連射銃に対し、こちらは手投げ弾がたったの2個。結果は知れていました。投げた手投げ弾が近くの木に当たってはね返り、自爆した形で死んだ仲間もいます。とても歯が立たないと思い、敵に背を向けて夢中で丘を駆け上がりました。

肉体が、死体となって散乱した。他の処では擲弾筒で応戦したが、間に合わなかった。この騒ぎをよそに宇土大佐は山奥へ一人で逃げ込んだ。米兵の攻撃が止み、暮色が迫ると、山中では将校達が集まって会議を開いた。作戦主任の山本中尉は、「こうなっては、戦闘のしようもない」と力説したが、宇土大佐はその説を斥けた。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 315-316頁より》

 

中南部戦線

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1945年4月28日、爆撃前に撮影した首里の風景。

Aerial view of Shuri, Okinawa, Ryukyu Retto, photographed 28 April 1945, before bombed.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

27日、28日の戦闘は、日本軍は体勢が悪いながらも、猛烈なファイトでこれを補って善戦した。24師団の歩兵32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)や第2大隊(大隊長・志村常雄大尉)が勇名を馳せたのも、この戦いであった。前田仲間と連なるこの浦添高地帯の特徴は、ここから見ると首里方面の日本軍陣地が見おろせる上に、これを失うと、この稜線から北の米軍の様子が全く見えなくなることであった。飛行機を一機ももたぬ32軍としては、これからの作戦指導のために、どうしても手離せない要地であった。(238頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 238頁より》

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日本軍の機関銃砲座の銃眼。沖縄における日本軍地下施設はよくできていることがわかっている。(1945年4月28日撮影)

Firing slit in a Japanese machin gun emplacement. The Japanese installations on Okinawa were found to be well dug in.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

前田(まえだ)

前田高地にいた兵士の証言:

…途中で負傷兵ができて、それを、野戦病院に届けるように、小隊長から命令を受けて。その間、4~5日ぐらい遅れて行ったものですから、その間に、ほとんどやられてました800名から百何十名ぐらいに。ちょうど一線に出て行く途中で、アケラという一等兵が、朝、用を済まして、ヒエ畑で。帰るときに、艦砲の破片で股をえぐられましてね。それで小隊長が「それを病院に届けてくれ」と。「君は沖縄出身だから、それを届けてから、追ってこい」と。だから、防衛隊2人と私と3名で、その人を病院に届けて。軍病院に。それから、防衛隊連れて。1人はアケラ一等兵をそのまま残すわけにはいかんから、1人看護に残して。1人を連れて2人で島尻から前田(高地)までたどって行ったんですよ。

それから行ったら、もうみんな120~130人になっていました。前田高地の争奪戦で。前田高地を取ったり、取られたり、何回か繰り返すうちにほとんど、逝っちゃった。私が行った時期、その状況を聞いたら、もう戦友の誰々がいないよという話聞いてね。戦闘とはこんなもんだなと。

比嘉 恒吉さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

RBC 琉球放送】戦後70年の地平から「前田高地の戦い」

前田高地の戦い | 琉球放送

 

南風原陸軍病院

沖縄陸軍病院南風原

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ひめゆり平和祈念資料館 PDF

沖縄陸軍病院の衛生材料科に配属されていた男性の証言:

沖縄陸軍病院は、熊本病院から部隊長以下一部が来まして、開南中学校に本部が設置され、部隊受け入れ準備をいたしました。… 衛生材料は、手持ちを使いました。本隊は熊本から来る時に持って来なければならないものを、何も持たずに手ブラで来ました。そこで民間の薬局や薬店などからの徴発が唯一のものでした。

県内でも民間の開業の医薬品などは配給制で、医師会の需要をまとめて知事に申請し、ヨードチンキ20本、クレゾール10本などという具合にもらっていました。私は医薬品の卸業務に携わっていましたので、需要と供給の切迫した事情がよくわかりました。

陸軍病院開設後は、軍や病院の上官から「買い占めろ、買い占めろ」とせき立てられまして、軍と民間医療との板ばさみで、精神的に苦労が多くて困りました。10・10空襲の数日前に陸軍病院の器材が陸揚げされ、空襲の中を南風原まで運んでからは、医薬品、衛生材料の方は大分楽になりました。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 357、359頁より》

1944年5月に陸軍病院は開設され、10.10空襲後現在の南風原小学校に移動する。小学校の近くにある黄金森に米軍上陸にそなえて壕も掘られた。この周辺には南風原陸軍病院の本部壕、第一、第二、第三 外科壕があった。第三外科壕は現在の南風原町役場の後方に位置し、本部壕、第一、第二外科壕は黄金森に あった。炊事場は多少離れた場所にあり、森への坂道(写真中央の舗装道)を飯上げのためひめゆり学徒は登り降りした。1945年4月1日に米軍が上陸してからは負傷兵が次々に運び込まれるようになる。麻酔等はすぐに底をつき手術は麻酔無しで行われた。手術の間、患者が暴れないよう押さえること、切断した手足や死体の処分等も ひめゆり学徒の仕事であった。ひめゆり学徒は沖縄師範学校女子部と第一高等女学校の生徒で構成されていた。彼女らは15歳~19歳であり、法的根拠もなく動員された。1945年5月25日に南部撤退命令が出る。そのとき独歩患者(一人で歩ける病人)以外は青酸カリや手榴弾で自決する事を強要された。多数の人々が死亡した。

20号壕入り口

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これが壕の入り口、黄金森の反対側にある。ここの壕は摩文仁近くの鍾乳洞などの自然壕とは異なり 人力で掘られた物である。ひめゆり学徒が配置されたとき壕は出来上がっておらず 壕を掘りながらの看護作業であった。 壕内は縦横2M程の巾で掘られている、奥行きは2~30M程だろうか。直角に枝壕が掘られている。自然壕ほど通気が良くなく息苦しい。当時はここに二段ベットが作られており、その焼けた残った支柱が今も残る。当時の壕の様子はひめゆり資料館に再現されている。壕は浅く天井から木の根などが出ている 箇所がある。

南風原陸軍病院|那覇市公式ホームページ

ひめゆり学徒の証言:

戦争は日一日と激しさをまし、壕と壕との往来が次第に危険になってきました。…そのうち、第1線から移送されてくる患者が次第にふえ、生徒独自の壕もなくなり、生徒たちは患者の壕に割り当てられました。

…動ける患者は壕の入口近くにいて、奥にいくほど重傷患者がいました。壕に入ると、血や膿小便や大便、さらに汗臭い垢だらけのからだの臭いなど、さまざまな臭気がまざって壕内に漂い、気分が悪くなりました。

…肩から指先まで添え木を当てて包帯を巻いた兵隊、気管をやられて、たえず「ピー、ピー」とのどをならしている兵隊、火炎放射器で顔を焼かれ、目鼻と口だけを残して顔に包帯をぐるぐる巻いた兵隊、胸部を貫通され呼吸するたびに背中の傷穴から「ジュー、ジュー」と泡を出している兵隊、脳症をおこした兵隊などです。

《「私のひめゆり戦記」(宮良ルリ/ニライ社) 86-87頁より》

 

小波(こはつ): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

28日、敵の集中砲火は昨日よりも早めに開始された。第1線の銃声も、9時には聞こえてきた。「戦車が小橋川方面より大山隊方面に前進中!」監視兵が叫ぶ。続けて、情報係の曹長が監視所から走ってきた。「戦車をやっつけた!2台、大きなのをやっつけた!」彼らと一緒にいた樫木副官も引きあげてきて、声を弾ませながら報告した。

…大山大隊の陣地からは盛んな銃声が続いている。伊東は第1、第3中隊に命じて、擲弾筒各々1個分隊を大山隊の両側に出して支援させた。まもなく、西北方の翁長集落から出現した戦車を擲弾筒で撃退したとの報告があった。…しかし、陣地設備が不十分なため、猛烈な集中砲火を受けて損害を出すことになった。(137-138頁)

大隊本部の監視口から確認しただけでも、米軍は20両のトラックで死傷者を次々と後送していた。大山隊の報告によれば、肉薄攻撃により戦車2両を擱座させたという。(141頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 137-138、141頁より》

 

そのとき、住民は・・・

収容所生活

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お気に入りの幼児を手当する海軍所属薬剤師助手ダグラス2等兵。幼児は侵攻に先がけた爆撃の際、(炸裂した)榴散弾の破片でわずかに傷を負った。前方の少年は、日本人ガールスカウトの手当を受けている。(1945年4月28日撮影)

CHUBBY AND DOC-- Navy Pharmacist's Mate, Second Class, Loren Douglas, of Princeton, Indiana, treats his favorite patient who was injured slightly by shrapnel in the pre-invasion bombardment. The boy in the foreground is being treated by the Japanese equi

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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沖縄の子供たちにジープの複雑な内部構造について説明するバーデット一等兵(1945年4月28日撮影)

Marine Pfc. Robert O. Burdett, of O'Donnell, Texas, who has covered nearly 2,000 miles along the coast and interior of Northern Okinawa as the fighting continued. In this photo ”Tex” tries in vain to explain the intricacies of the jeep's insides to the Okinawan small fry standing besides him.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

置き去りにされた高齢者

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昭和20年4月下旬、避難の途中、沖縄本島北部の山中で見た光景。避難民が列を作って歩く道の脇で、置き去りにされたお年寄りたちが倒れていた。衰弱して歩けなくなり、家族が置き去りにせざるを得なかったのだろう。その中の1人のお婆さんが「芋ひとつ恵んでください」と哀願した。しかし、自分たちも食べ物はない。誰もが視線をそらして通り過ぎた。そうすることしかできなかった。飢えて死んだお年寄りたちと、それを助けられなかった若者たちのいずれもが悲惨な現実だった。沖縄戦での体験を風化させてはならないと、宮平さんは自らの戦争体験を40枚あまりの絵にまとめ、読谷村へ寄贈している。

置き去りにされた高齢者 【宮平良秀】|NHK 戦争証言アーカイブス

     

米国海兵隊: An old native Okinawan bows in supplication before a Marine asking for water. Pfc. Murray Spiller, 826 S. 4th Street, PhiladelphiaPa., pour water into the old man's cup from own cateen.
水を求める老人のカップに水を注ぐスパイラー一等兵 1945年 4月 1日

写真が語る沖縄 沖縄県公文書館

 

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4月28日『屈辱の日』の屈辱

  1. 戦時下の沖縄、捕虜が結婚式 京都出身の日本兵 : 京都新聞 
  2. 捕虜の結婚式、米軍の投降戦略か : 京都新聞
  3. 戦場での人間喪失 - 37軍が中国大陸でやってきたこと 近藤一

*1:POW 戦争捕虜の人権は1899年のハーグ陸戦条約などで保護された。生還した捕虜は国の英雄として扱われ、また捕虜勲章 (prisoner of war medal) は1944年に最初に提案され、1985年に議会で可決される。オバマと大統領選挙を戦ったマケイン上院議員の選挙陣営はベトナム戦争で捕虜となった経験を愛国者のあかしとしてアピールし、多くの国民の共感と支持を得た。また戦術的に見ても、日本軍のように捕虜を厳しく処罰する国は、逆に敵に捕らえられた捕虜が率先して情報を他国に提供する状況を生むため、米国は (少なくともアブグレイブ収容所などに代表される近年の捕虜収容所以前は) 捕虜収容所では懐柔策をとり、人道的に扱うことで捕虜から情報を引き出す戦術を多用した。結婚した木村夫妻は尋問に協力的であったが、米国内のトレイシー捕虜収容所などと同様に、夫妻の収容住居にも盗聴器が仕掛けられていた。