軍政府病院 / 八原参謀「美しい」投降 / 通信隊 生死の境界
米軍の動向
掃討戦と整備
《AIによるカラー処理》USS SICARD (DM 21), damaged by Jap suicide plane while operating off Kerama Retto.
慶良間沖海戦で日本軍特攻隊により被害を受けた米艦船シカード号 慶良間 (1945年 6月26日)
無傷のまま読谷や嘉手納でろ獲された日本の人間ロケット「桜花」はコードネームで日本の馬鹿にちなんで "baka bomb" と呼ばれた。調査研究のため米国に送られる。
A Japanese suicide plane ”Baka” captured intact by U.S. Marines when they invaded Okinawa. The plane is being studied by experts at NAM Unit. Baka, has a fuselage nearly 20 ft. long and a 16 ft. wing span. Nose of plane carries a 2,645 pound bomb and back of the cockpit are three rockets which can be fired at same time or alternately. 26 June 1945.
海兵隊が上陸したときに鹵獲(ろかく)した日本軍の自爆機、いわゆる「バカ」。海軍航空機改修部(NAM)の専門家が調査中。全長約20フィート、全幅16フィートで、機首に2645ポンドの爆弾を搭載。操縦席の後方に3つのロケットエンジンがあり、同時または交互に作動させることができる。(撮影日: 1945年 6月26日)
米軍政府病院
米軍の野戦病院では軍医や衛生兵だけでなく収容された医師や日本軍の衛生兵、また看護要員として従軍させられていた女子学徒や元慰安婦も診療に従事した。
A native Okinawan woman bathing a young baby in the maternity ward of the U.S. Military Government hospital while Lt. (jg) M. D. Border, (NC) USN, watches.
地元の女性が、米軍政府病院の産科病室で赤ん坊を入浴させている。そばで見守るのは、ボーダー海軍中尉(下士官)。(1945年6月26日撮影)
X-ray tent at hospital for Japanese prisoners on Okinawa, Ryukyu Islands. Two recently arrived wounded Jap soldiers are outside on stretchers.
日本兵捕虜の病院にあるX線撮影テント。沖縄本島にて。テントの外にいるのは、先ほど担架で運ばれてきた、日本軍の負傷兵2人。(1945年6月26日撮影)
沖縄における看護師。日本軍の看護師(左)と地元民の助手。日本兵捕虜の病院にて。(1945年6月26日撮影)
Nurses on Okinawa, Ryukyu Islands. A Japanese Army nurse (left) with native assistants at the hospital for Japanese prisoners.
日本軍は米軍上陸に備え慰安婦として連れてきた朝鮮人女性にも救護法を教え看護助手として従軍させていた。米軍の捕虜となった後も、彼女たちは軍病院や孤児院・養老院で看護にあたった。
Nurses on Okinawa, Ryukyu Islands. Navy nurses at the hospital for Japanese prisoners talk with Korean nurse's assistants. (L-R): Lt. (jg) D. B. Williams, (NC) USNR; Lt. (jg) M. E. Williams, USNR; Lt. (jg) K. E. Tasker, (NC) USNR; Lt. M. E. Von Stein, (NC) USN; Lt. (jg) P. E. Toy, (NC) USNR.
沖縄における看護師。日本人捕虜の病院にいる海軍の看護師が、朝鮮人看護助手と話しているところ。左から、海軍予備役のウィリアムズ中尉(下士官)、海軍予備役のタスカー中尉(下士官)、スタイン海軍大尉(下士官)、海軍予備役のトイ中尉(下士官)。(1945年6月26日撮影)
米国海軍: US Navy nurses talk with two Japanese soldier-prisoners.
2人の日本兵捕虜と話をしている海軍の看護師。1945年 6月 26日
久米島へ上陸
米軍は、伊平屋島、粟国島など沖縄本島の外郭に位置する島々を次々と占領していった。
米軍はアイスバーグ作戦第三段階の変更により久米島に上陸。
6時44分、米軍が久米島に上陸。久米島には鹿山正海軍兵曹長(33歳) が率いる海軍見張隊 (電波探知隊) 35名の小隊が駐屯していたが、日本軍の抵抗は何もなかった。そして翌27日から鹿山隊による住民虐殺が始まる。
1945年 6月26日 アメリカ軍イーフ海岸に上陸。ジェームズ・ジョーンズ少佐指揮下、水陸両用偵察隊(艦隊付き海兵隊)第7海兵連隊A中隊など戦闘員742人、非戦闘員224人、計966人。
《「太平洋戦争と久米島」(上江洲盛元 編著/あけぼの印刷株式会社) 17頁》
第32軍の敗残兵
八原博通 - 沖縄戦作戦参謀の投降
6月23日、牛島・長両将軍最期の自死の後、沖縄戦の作戦参謀である八原博通は、持参の洋服を着て司令部壕を脱出し、海岸で兵士が身を潜めている壕を転々と移動して安全な場所を探す。やがて民間人5-60人程が身を寄せている具志頭の壕にやってくるが、26日ついに米軍に包囲された。
具志頭の壕で
一人のわが敗残兵が、小銃を手に皆の前に躍り出し、アメリカ兵がはいったらやっつけると大見栄をきった。それと同時に、この兵と懇意な娘であろう。襷鉢巻で立ちいで、竹箒を無暗に振り回し始めた。その動作があまりに芝居がかり、真剣味を欠くが如くに見えたので、私は思わず叱咜して二人を後方に退けた。いつの間にか、私は指導者の地位に立っていた。洞窟の外では、アメリカ兵が、「早く出て来い。出て来なければ、いよいよ攻撃を始めるぞ」と叫んでいる。
八原は軍人であることを隠すための設定を周到に計画しており、避難民の「自決」を制し、得意の英語で自ら米軍とすみやかに交渉し、民間人として安全に投降した。
最後の決断をなすべきときがきた。私は、私の前もって考えていた方針に従い、自らの掌握下にはいった難民をリードし、その一員として、今後の方途を策するに決意した。避難民の身の上を考えても、彼らは、敵手に落ちれば虐殺暴行されるものと思い込んでおればこそ、ここで憐れな生活に耐え忍んでいるのだ。
私は二年間の駐米生活で、アメリカ人の本質は承知している。今私の支配下にある数十名の難民を敵手に委しても、現在以上不幸な境地に陥るとは考えられない。彼らの生命を救うべきである。彼らは、潔くこの洞窟を出て行くのがよい。私は難民たちに呼びかけた。「諸君は、今やアメリカ軍の要求通り、洞窟の外に出て行くのが、最も賢明である。皆様が、もし賛成ならば、私が代わってアメリカ軍と交渉する」
私の提案に対し、ほとんど全員危険の色を浮べている。三人の年ごろの娘を連れた例の品の良い老夫婦は、「そのようなことは、なんとかせぬようにしてくれ」と哀願の態である。娘たちは泣いている。佐藤、新垣は当惑気である。「大丈夫だ。心配するな。私の言う通りにせよ!」と決然たる態度を示した。
恐怖のあまり判断力を失い、自失した人々を指導する急場においては、断固たる態度が必要である。私は、回廊の出口に立っているアメリカ兵に、「この洞窟の中には、数十名の老若男女が避難している。今から皆が私と一緒に出て行くから発砲するな」と英語で話しかけた。彼は「よろしい。一切の武器を棄てて出て来い」と答える。「射つな!」「武器を棄てよ!」と交互に繰り返しつつ、とうとう私は洞窟外に一歩を踏み出した。
八原作戦参謀は民間人に捕虜となることを許さず、軍民を砦として沖縄の持久戦を持続してきたが、二年間のアメリカ留学の経験がある八原は、そもそも米軍がジュネーブ条約に従って捕虜の人権を保障することを最初から知っており、自分の投降を「美しい場面」と記録した。
私とアメリカ兵の和やかな対談振りに安心したのか、私の声に応じて、老人、女、子供、そして負傷したわが兵士らしいものが、続々と出てきた。攻撃部署を解いた部隊の中から、多数のアメリカ兵が躍び出して、老人の手をとり、あるいは子供を抱えて一同を援助する。美しい場面だ。今や敵も味方もない。人間愛に充ちた光景である。かつて豪雨のある夜、フィラデルフィアの南郊外で、自動車を路外に暴走させて困却した際、付近に住む青年たちが、雨をおかして駆けつけ、助けてくれたことをつい思い出してしまった。
《八原博通『沖縄決戦 - 高級参謀 の手記』読売新聞社、1972年 電子版 》
数十名の捕虜と共に哨戒艇で具志頭から港川に到着する。地元民は、米軍が「鬼畜」ではなかった真実を知り、八原に感謝するが、日本軍の洗脳と非道を棚にあげ、八原はそれを「移り変わる人心」と悲しむ。
やがて難民と敗残兵との選別が始まった。… アメリカ兵たちは惜し気もなく、ビスケット、チョコレート、キャンデーなどを避難民に雨の如くばら撒いた。難民、特に子供らは、不安から安心へ、そして今や身も心も軽く、歓喜して先を争って拾った。
… 敗残のわが兵士たちは、奥武島の収容所に送られて行った。続いて我々難民の群れは、自動小銃を肩にしたアメリカ兵に誘導され、長い列をつくり、傾き始めた夏の陽を浴びつつ、憶い出多い糸数高地の麓を指して動き出した。私の前後を進む女たちや年配の男は、アメリカ軍が思いもよらず親切なのを喜び、具志頭の洞窟でリーダーをつとめた私を、英雄の如くに感謝してくれる。私は移り変わる人心に、もの悲しく、ともすれば涙が落ちそうなので、多く語らず、喉のかわくままに、路傍の砂糖黍を折りとり、摩文仁の軍司令部洞窟で慣れた器用さで、しゃぶりながら、痛む膝に力を入れて、とぼとぼと列に従う。
《八原博通『沖縄決戦 - 高級参謀 の手記』読売新聞社、1972年 電子版 》
19日に司令部壕を脱出した参謀は4人とも戦死しているが、このようにして八原は安全に民間人捕虜として収容された。
最年少の学徒兵 - 通信隊
旧制中学では上級生が鉄血勤皇隊に、下級生の14歳~16歳が通信隊に編成された。通信隊は年少で危険な任務を与えられ、弾雨の中を壕から壕へと伝令に走り、捕虜になることも許されなかったため、多くの学徒が犠牲になった。
第六二師団司令部の陣地壕は摩文仁にあった。二中通信隊の佐敷興勇、仲里祥一、山根文夫は分隊長七里伍長に引率されて、6月21日司令部の壕に着くと、無線小隊長金森少尉の指揮下にはいった。その翌22日、接近する敵戦車を発見、通信隊は肉薄攻撃の準備を整えて壕入り口付近に散った。そのとき金森少尉、松本一等兵および三人の歩哨が、つづけざまに撃たれて戦死した。やがて戦車のすさまじい火炎放射攻撃を受け、通信隊はほとんど戦死した。七里伍長、宇佐美上等兵は手榴弾で自決した。学徒兵真喜屋は急造爆雷を抱いて戦車に突進したが、ついに帰って来なかった。その夜、生き残った者だけで斬り込みを敢行しようと待機していると、爆雷攻撃を受けて壕の入り口がふさがれ、ほとんどが戦死した。約百人のうち生存者はわずかに数人であった。学徒兵佐敷興勇も、奇跡的に生きのびたうちの一人であった。
《山川泰邦『秘録 沖縄戦記』(1969年)》
米国海兵隊: Native boy who was held by the Japs for 22 days without food.
日本兵の下で、22日間も食糧もなく過ごした地元の少年 1945年 6月
沖縄水産学校の通信兵
司令官と参謀長は自刃し、作戦参謀は民間人になりすまして投降したが、多くの兵士や学徒隊、そして住民は生と死の境界を生きていた。
県立水産学校通信隊 (15歳) の証言
入り口付近に声がしたので行ってみると、何やら捜し物をしている兵隊がいる。兵隊は瀬底さんに気づいて驚いたが、「ばか、ここで何をしてる。司令部は玉砕したから、早く壕から去れ」と言う。そして、「奥の方にも学生がいるぞ」と教えてくれた。
奥にいたのは水産通信隊の上前寛市、当間嗣冠の2人と、爆風で失明した開南中学生だった。4人で脱出の計画を立てたが、開南中学生は「足手まといになるから3人で行ってくれ」と応じない。「行けるところまで行こう」の瀬底さんの説得も無駄だった。 やむなく3人で脱出したが、最後の1人が壕を出る時、「がんばれよ」と壕の奥の方から声がして、手りゅう弾がさく裂する音が聞こえた。「神州不滅」を信じながら、また若い命が自らの手で断たれた。
下の海岸は人であふれていた。安全な壕など探せない。波打ち際をよく見ると死体が無数に漂っている。瀬底さんらの目は、月の光に照らし出されたそんな死体より、その間に浮かんでいる果物、玉ねぎ、ニンジンなどに向けられた。米軍の捨てた残飯だ。手当たりしだいに拾った。死体の衣服も探してみた。安全な岩場は、すでに敗残兵が入っており、海岸を移動しながら3日ほど暮らした。米須海岸まで来た時、清水のわく絶好の場所を見つけたが、“先客”の兵隊らは3人を見るなり「どこかに行け」と怒鳴り、短剣を抜いて威嚇した。
その時、そばから「学生さん、こっちに来い」と誘ってくれる伍長がいた。3人に食事までくれる。谷島秀敏といった。聞けば、学生を率いて戦闘をしていたと言い、戦友も学生も多く失ったと話していた。「谷島伍長に今でも感謝するほどありがたかった」。当時、敗残兵らの食糧の奪い合いはすさまじかった。食糧を壕の中に大量に保管している敗残兵2人が、周囲の評判だった。ある日、この壕に手りゅう弾が投げ込まれ、2人は即死。もちろん食糧はなくなっていた。
そのうち瀬底さんら水産通信隊の3人は他のグループと合流、一緒に生活するようになった。民間人の娘3人、夫婦連れと知念という1等兵、それと工業1年生の具志堅と名乗った生徒。米軍と戦う軍隊などもう存在しなかったが、
敗北を信じることのできない集団が、海岸沿いに無数に生きていた。
そのとき、住民は・・・
知念半島の住民
無事に民間人収容所に収容された住民も、手に持てるものだけを持ち、炎天下のなか収容所を各所転々と移動させられた。米軍によって安全地帯と宣言されていた知念半島は、米軍の司令部が置かれ、基地化されていく過程で多くの住民が転々と移動を強いられた。7月には多くの被収容者が北部へと移送される。
知念半島の民間人収容所を転々と徒歩で移動
知念村海野の男性の証言
玉砕を覚悟していたが、生き残れたことが夢のようであった。字に帰ってからは、三度の食事も正常にとれるようになった。ある日、弟はMPに見つかって新里の収容所に連れて行かれた。弟が連れて行かれて間もなく、立ち退き命令が出て、三区(久原)へ移動させられた。三区の上の伊集(家内の父の妹の家)に行った。移動した日にブルトーザがやって来て整地作業を始めた。始めて見たブルトーザは、その名も知らなかったが、その作業を見てびっくりした。石垣やカジュマルなどいとも簡単にかたづけてしまうその威力を見て字民は皆、目を見はっていた。見る間に整地作業が進行した。…
日常生活がそのまま落ち着くと思ったが、また、移動の通知が区長に伝達された。通知を受けた区長は直ちに移動の準備をするよう住民に伝えた。住民は、行先も知らされない移動に大きな不安をいだきながら、移動の荷作りを始めた。6月15日、住民は区長の引率で、各自重い荷物を担いで、暑い太陽の照りつける道を汗をふきふき佐敷村の屋比久、佐敷を通って新里の馬場までたどり着いた。そこには、MPと二世の通訳がいて、日本兵や防衛隊の者がまじっていないかということで年齢、職業、その他いろいろなことについて尋問された。私は長男をおぶって尋問を受けたが、長男が尋問中大声で泣き出し、その上長くのびた髭面を見て兵隊や防衛隊とは関係のない者と判断して金網の中へは収容されなかった。馬場には金網が張りめぐらされて中には、日本兵や防衛隊が、収容されていた。尋問を終えて無事通過した時は「ヤレ、ヤレ」という気持ちであった。その日は新里の焼け残った民家に泊まった。その家の家族は避難して誰もいなかった。誰かが「カメ」の中に貯蔵されている籾(モミ)と大豆を見つけて、皆でとりあいをした。翌朝、米軍のトラックが来て荷物を積み込んで、その上に人を乗せて運ばれてるかと思っていると、与那原で降ろされた。今度はそこから船に乗せられた。…
《儀間朝松「沖縄戦の思い出」『知念村史第三巻戦争体験記』(1994)》
家を奪われ、着の身着のまま収容所暮らしを強いられる。
米国海軍: Native women salvage any usable articles from ruined homes on Okinawa, Ryukyu Islands.
崩壊した家屋から使えそうな日用品を拾い出している地元の女性。沖縄本島にて。 1945年 6月 26日
Civilians on Okinawa, Ryukyu Islands, leaving ruined village with their salvaged articles for U.S. Government Military camps
拾いだした日用品を持って廃墟となった集落を後にし、米軍政府の収容所に向かう地元民。沖縄本島にて。(1945年6月26日撮影)
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