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1945年 4月29日 『それぞれの天長節』

南進する米軍 前田(まえだ) 『4月29日の未明から朝にかけて、日本軍は、第96師団前線の全面にかけて総反撃に出た。午前5時15分、第383連隊の第2大隊は、手榴弾や槍をもった日本軍の強襲をうけ、G中隊の一小隊などは、この戦闘で30名から9名になってしまった…

1945年 4月28日 『米軍の部隊交替』

南進する米軍 『4月の末までには、前線の部隊交替は、日本軍の陣地が頑強で、しかも早急には陥落しそうにもないことから、どうしても必要だった。第96師団は、沖縄上陸のときから、すでに師団としては十分な兵力をもっていなかったが、戦闘でさらに大きな損…

1945年 4月27日 『戦場の市町村会議』

南進する米軍 城間(ぐすくま):「アイテム・ポケット」 『4月27日、ポケット陣地の南へ着いた戦車隊の最初の2輌は、47ミリ対戦車砲に撃たれて簡単にやられた。そこで戦車隊のほうでは、歩兵と緊密に連携を保って残った日本軍陣地の攻撃に出た。 4月27日の午後…

1945年 4月26日 『前田高地の激闘始まる』

南進する米軍 城間(ぐすくま):「アイテム・ポケット」 『アイテム・ポケットでの死闘は、26日もくりかえされた。米軍はあらゆる方角から、このポケット陣地の心臓部めざして肉迫した。だが、それに応じて損害も大きくなる一方だった。第165連隊が攻撃を開始…

1945年 4月25日 『津堅島と北部山中の悲劇』

南進する米軍 幸地(こうち) 『西原村にある178高地から真南およそ3キロのところに、ひときわ高くそびえている円錐形の丘があった。日本軍はこの丘から海岸沿いの通路を守っていた。…翁長の西方2キロのところに幸地村落があり、この二つの村落のあいだに高台…

1945年 4月24日 『津堅島の悲劇・前夜』

南進する米軍 『4月23日の夜から24日にかけて、濃い靄が、やがて深い霧に変わって、沖縄南部をつつんだとき、日本軍砲兵はしだいに砲撃度を増し、全前線に対して猛烈な砲火をあびせてきた。夜も明けないうちに米軍前線部隊は、少なくとも1千回の砲撃にさらさ…

1945年 4月23日 『第1防衛線の崩壊』

南進する米軍 城間(ぐすくま):「アイテム・ポケット」 前日に城間一帯の偵察を強化した米軍は、得た情報をもとに作戦計画をたてた。計画は、日本軍の陣地を攻撃しながら城間南西に位置する牧港飛行場まで進撃するものであり、その作戦を遂行するために特別攻…

1945年 4月22日 『伊江島の集団自決』

南進する米軍 『日本軍の首里外郭防衛線は、中城和宇慶から牧港東方を北西に走る山脈の山塊にそって、根をおろしていた。この山脈の向こう側に、日本軍防衛陣西のとりでといわれるおそるべき浦添丘陵があるのだ。あたりをへいげいするように連丘がそびえ、そ…

1945年 4月21日『郷土沖縄を救え・郷土は自分で護れ』

南進する米軍 城間(ぐすくま): アイテム・ポケット 『4月21日午前6時30分、第2大隊はアイテム・ポケットの入口を横切って別の攻撃を開始した。部隊は対戦車砲を装備していたが、この砲は海岸に陸揚げされ、およそ900メートルを兵が手でひっぱってポケットの…

1945年 4月20日『後方で進む基地建設』

南進する米軍 総攻撃の失敗 『4月20日の朝が来た。米軍将兵のムードは前日の朝とはまるで違ったものだった。疲れきっていたし、前進しても日本軍陣地はなかなか突破できないばかりか、損害は大きくなる一方ということを知っているだけに気持ちはますます重く…

1945年 4月19日『米軍の総攻撃「耕す戦法」』

南進する米軍 総攻撃 艦砲射撃と空爆 『ホッジ将軍は、洞窟内の日本軍を駆り出すためには「一寸刻みに爆破するしかない」と4月19日午前6時40分を期して全部隊に空、海、陸からの「耕し戦法」による総攻撃を命じた。陸続と増援部隊も派遣され、沖縄作戦で最大…

1945年 4月17日『馬乗り攻撃と火炎放射器』

沖縄島北部を制圧 本部(もとぶ)半島・名護(なご) 『4月17日、ジーン・W・モーロウ中佐が指揮する第29海兵連隊の第1大隊が八重岳北東頂上を占拠する先陣となった。』(103頁) 《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 103頁より》 八重岳占領…

1945年 4月16日『伊江島の「六日戦争」はじまる』

日本機の攻撃 『九州にある飛行場は、米第58機動部隊がたたいた。だが、それにもかかわらず、日本機は15日と16日、ふたたび相当な数をもって沖縄上空に現れた。16日の空襲では、神風1機が、空母イントレピッドの飛行甲板に体当たりしたのをはじめ、他の特攻…

1945年 4月15日『北部の学徒隊 〜 県立第三中学校 〜』

本部(もとぶ)半島・八重岳の攻略 『海兵隊は堅固な陣地のある小島での戦闘には慣れていた。だが、沖縄での戦闘は過去の経験からではなく、それこそ「教科書のなかからそのまま抜き出した」演習のような戦術を使用しなければならなくなったのである。こうした…

1945年 4月13日 『生まれた疑心暗鬼』

北進する米軍本部(もとぶ)半島: 八重岳 『〝残存敵軍を掃討せよ〟との命令にもとに海兵第6師団は、4月13日、八重岳の日本軍陣地攻撃準備を開始した。作戦では海兵第4連隊の第1、第2大隊と海兵第29連隊の第3大隊が、アラン・シャプレイ大佐の指揮のもと、西側…

1945年 4月12日『「この島を守っているのは兵隊だ」』

日本機の大空襲 『特攻機の攻撃は、警備艦船や渡具知沖の船団に重点が移った。この日の空襲で艦船17隻が命中弾をうけ、うち2隻が沈没。駆逐艦 M・L・アベルも特攻機と〝バカ爆弾〟をうけて沈んだ。この〝バカ爆弾〟とは、双発爆撃機から発射されるロケット弾…

1945年 4月11日『激しさを増す神風特攻』

日本機の大空襲 『日本機の大空襲は、4月中、ずっと継続して行われた。彼らは、日中は、第58機動部隊や警備艦隊、それに陸上の対空砲火のおよばない距離にある船団をねらって襲撃してきたが、夜になると輸送船団は敵機が近づくと煙幕を張ってかくれたので、…

1945年 4月10日『米軍、津堅島に上陸』

北進する米軍 本部(もとぶ)半島 4月8日から11日にかけて海兵第29連隊は、本部半島一帯を偵察した。 『海兵第3大隊は、4月の10日に渡久地に着いたのだが、その途中、日本軍砲兵隊の砲撃を2回も受けたり、迫撃砲の猛襲にやられて16名の犠牲者を出した。 名護か…

1945年 4月9日『嘉数の戦い』

米軍部隊の増強 『新しい部隊がぞくぞく送り込まれた。予備軍として海上にいた第27師団は、4月9日、読谷村渡具知に上陸し、攻撃増援軍となり、第24軍団に配属されて、第96師団とともに西部を固めた。4月15日までには、第27師団は配置につき、攻撃準備態勢を…

1945年 4月8日『首里の攻防・第1線』

北・中飛行場 『上陸四日目から本格的に北・中飛行場を使用しはじめた米軍は、そこに戦闘機隊を駐留させ、4月8日からはC45型機が負傷者をマリアナ群島に運んだり、DDTを散布するまでになった。』(61頁) 《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報…

1945年4月3日『日米両軍の作戦変更』

米軍の作戦変更 沖縄島北部の侵攻を早める: 侵攻3日目 1945年4月1日、沖縄島の西海岸から上陸した米軍は東へと進撃し、上陸2日目には沖縄島東海岸の中城湾付近まで到達した。上陸地点の西海岸を東に向かって沖縄島を横断し、中城湾までの戦線を敷くことで島…

1945年4月2日『南北に分断された沖縄島』

姿を見せない日本軍 『米軍が実に簡単に上陸し、橋頭堡をあっけなく確保してしまったので、今度は、いったい日本の陸軍はどこにいるのだろうかということになって、噂は噂を呼んだ。そのなかで最も楽観的な見方は、日本軍は戦術で米軍に出し抜かれてしまった…

1945年 4月1日『米軍、沖縄島に上陸』

米軍の沖縄島攻略はじまる 『1945年4月1日、復活祭の日曜日の明けがた。沖縄近海に、まさに進攻せんとする1300隻からなる米大艦隊の威風堂々の姿が望見された。その多くは、西の方 ー 東支那海に浮かんでいる。その日、天気は晴れていたが、空気は冷たかった…

1945年 3月27日『米軍、慶良間列島を次々と制圧』

米軍、慶良間列島を次々と制圧: 侵攻2日目 3月27日午前9時11分、米軍は『慶良間で一番大きな渡嘉敷島に上陸し二日間かかって同島を制圧』、同じ日に『久場島、安室島、阿波連島を攻略』した。(18、20頁) 《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新…

1945年 3月26日 『米軍、慶良間列島に上陸』

住民を巻き込んだ地上戦の始まり 米軍の慶良間(けらま)攻略 慶良間列島攻略の理由 『沖縄戦は昭和20年3月26日、A.D. ブルース少将の率いる米第77歩兵師団の慶良間列島上陸で幕が切って落とされた。慶良間攻略のねらいは、つぎに来るべき沖縄本島上陸作戦にそ…

1945年 3月25日『慶良間列島への上陸作戦前夜』

1945年(昭和20) 3月25日は、 日本で唯一の「住民を巻き込んだ地上戦」が沖縄で始まる前夜だった。 空爆 / 艦砲射撃 / 掃海 慶良間列島 『米軍は1945年3月23日の空襲開始に続き3月25日、慶良間諸島に上陸前段の大規模な艦砲射撃をした。』(85頁) 《「沖縄 戦…