スパイ容疑・住民虐殺

1945年 9月7日 『第32軍の降伏』

第32軍の降伏文書調印式 琉球列島の「降伏」 ⑧ 『降伏調印式は9月7日午前11時20分から嘉手納の第10軍司令部前広場で行われる運びになった。広場の前にはシャーマン戦車、パーシング戦車、自動推進の155ミリ大砲が威容を誇り、陸軍と海兵隊の射撃部隊が整列し…

1945年 8月31日 『牛馬以下にあつかわれて』

降伏文書調印式までの動向 日本本土への進駐 ⑤ 『8月31日、厚木飛行場には1000名の連合軍将兵が到着し、横浜に進駐する。』(308頁) 『前日、関内に進駐した連合軍将兵の就寝は早かった。それでも山下公園に設営された幕舎には、自家発電装置による電灯が煌々…

1945年 8月20日 『見せしめのために殺す』

〝沖縄〟という米軍基地 夜間戦闘部隊の新生タイガーキャット飛行中隊(VMF(n)533)の副隊長、ビービー少佐(ミネソタ州出身)。彼は太平洋戦での2回目の遠征である。彼の強力な新生タイガーキャット(F7F)は、夜間パトロールの準備をしている。(1945年8月20日撮…

1945年 8月18日 『〝終戦〟3日後の住民虐殺』

〝沖縄〟という米軍基地 嘉手納B滑走路に停留するおよそ200機のダグラスC-54スカイマスター。南西太平洋地区及び米国にある全ての基地から飛来したもので、日本や満州からの捕虜を移送する任務を負っている。輸送機のスペース確保のため戦闘機は移動し、人員…

1945年 8月11日 『歓喜に沸く連合国』

日本の降伏に世界が歓喜 『日本政府の対外情報発信を担う「同盟通信社」が8月10日、対外放送で、日本の降伏受け入れ意思を表明した。翌11日のアメリカ新聞各紙には「日本、降伏受け入れ」の活字が大きく踊った。連合国は歓喜に沸いた。 しかしこのニュースは…

1945年 7月17日 『八原の脱出計画』

〝沖縄〟という米軍基地 泡瀬飛行場にある第14海兵航空群野営地の全景(北方面)。沖縄本島にて。着工から19日後。(1945年7月17日撮影) Panorama (north) of MAG-14 camp site at Awase Airstrip, Okinawa, nineteen days after breaking ground. 写真が語…

1945年 6月29日 『続く久米島の悲劇』

〝沖縄〟という米軍基地 1945年6月29日管制塔から眺める泡瀬飛行場。7月1日の作戦までの完成をめざして作業する第36海軍建設大隊のブルドーザー、スクレイパー、ローラー。(1945年6月29日撮影) Awase Airstrip as it looked from the control tower on 29 …

1945年 6月28日 『沖縄の基地化と収容所』

戦闘後の米軍 摩文仁の丘の星条旗 日本軍が司令部を置いていた89高地での国旗掲揚式。参加者は第10軍司令官スティルウェル将軍、第24陸軍兵団司令官ホッジ少将、沖縄海兵隊司令官兼第7師団・連隊司令官ガイガー中将。(1945年6月28日撮影) Flag raising cere…

1945年 6月27日 『銃殺された久米島住民』

戦闘後の米軍 第10軍首脳陣による視察 日本陸軍第32軍総司令部(牛島中将総司令官)の置かれた89高地の壕を視察した後、海兵隊や陸軍の司令官と話すスティルウェル大将(中央)。背後にその壕の入口が見える。(1945年 6月27日撮影) Gen. Stilwell (center)…

1945年 6月26日 『久米島の悲劇の始まり』

戦闘後の米軍 戦場の片付けと備品整備 沖縄戦終結後、要塞を取り壊し、砲脚を掘り出して砲座から105ミリ榴弾砲を移動する準備を行う米海兵隊の砲兵たち。(1945年6月26日撮影) Marine artillerymen tear down the fortifications, dig up the gun trails, and…

1945年 6月24日 『敵は米軍ではなく友軍だ』

掃討作戦 夜間の敵の反撃を防ぐために日没直前に張り巡らされた有刺鉄線。これが敵の狙撃手の侵入を困難にさせる。(1945年6月24日撮影) The rolls of barbed wire, strung up shortly before dusk, will help prevent an enemy counterattack during the ni…

1945年 6月21日 『米軍の「沖縄作戦」終わる』

米軍の「沖縄作戦」終わる 『沖縄作戦は82日間にわたる戦闘の後、1945年6月21日に終わった。豪雨と困難な地形に加えて、狂信的な敵が複雑な洞窟網に拠って頑強に抵抗したため、この戦いはアメリカ軍にとって史上最大の激戦のひとつとなった。 ---「沖縄作戦…

1945年 6月20日 『方面軍からの感状』

後方で進む基地建設 米軍は、沖縄に上陸した直後から、前線では戦闘を、後方では基地建設をした。これは、日本本土への出撃基地とするため、また、沖縄での地上戦の足場として、航空基地建設、補給路確保のインフラ整備が必要なためである。 ピカピカの威容…

1945年 6月19日 『無敵皇軍参謀たちの最後の姿』

新・第10軍司令官 『バックナー中将の戦死は、第10軍参謀長からニミッツ元帥に報告され、…19日、第3海兵軍団長のR・S・ガイガー少将が中将に昇進するとともに第10軍司令官に任命された。海兵隊の将官が軍司令官に任命されたのはこれが初めてだった(ビーニス…

1945年 6月18日 『バックナー中将の戦死』

バックナー中将の戦死 『6月18日の昼すぎ、第10軍司令官バックナー中将は、真壁付近に布陣する第2海兵師団の前線観測所に立ち寄って海兵隊のさいごの進撃状況を視察中、日本軍の47ミリ対戦車砲の一弾が岩の下部に命中し、相次いで五発の砲弾がとんできた。砲…

1945年 5月28日 『最前線に戻った海軍部隊』

首里に迫る米軍 『5月の末、戦線が首里のまわりに固まるにつれて、首里の町にいちばん近くなったのが、北西部から進んできた第1海兵師団と、北および北東の方角から攻めてきた米第77師団であった。偵察隊の報告によると、日本軍の首里防衛の火力は、いささか…

1945年 5月14日 『“戦力”として必要』

米軍の総攻撃・4日目 第6海兵師団第22連隊第1大隊が防衛する前線での第10軍総司令官バックナー中将と第6海兵師団司令官シェパード少将。2人の司令官はこの地点から初めて、共に那覇の町を眺望した(1945年 5月14日撮影) LtGen Buckner, Command General of …

1945年 5月12日 『今帰仁村での住民虐殺』

米軍の総攻撃・2日目 西部〜中央戦線 シュガーローフ: (52高地) 『海兵隊がはじめて首里の東側、真壁との間にある高地シュガー・ローフの日本軍に遭遇したのは、5月12日であった。第22海兵連隊のG中隊は、戦車11輌を先頭に、安里川のほうに向けて南進してい…

1945年 4月26日 『前田高地の激闘始まる』

南進する米軍 城間(ぐすくま):「アイテム・ポケット」 『アイテム・ポケットでの死闘は、26日もくりかえされた。米軍はあらゆる方角から、このポケット陣地の心臓部めざして肉迫した。だが、それに応じて損害も大きくなる一方だった。第165連隊が攻撃を開始…

1945年 4月25日 『津堅島と北部山中の悲劇』

南進する米軍 幸地(こうち) 『西原村にある178高地から真南およそ3キロのところに、ひときわ高くそびえている円錐形の丘があった。日本軍はこの丘から海岸沿いの通路を守っていた。…翁長の西方2キロのところに幸地村落があり、この二つの村落のあいだに高台…

1945年 4月18日『戦場の女性たち』

本部半島制圧 『17日も八重岳の北側で激しい戦闘が続いたが、18日の掃討作戦でほぼ本部半島を制圧した。このとき、真部山陣地などから多くの日本軍文書を押収し、捕虜や民間人の尋問などと合わせて国頭支隊の構成を把握した。』(93頁)《名護市史本編・3「名…