スパイ容疑・住民虐殺

1945年 6月24日 『敵は米軍ではなく友軍だ』

掃討作戦 夜間の敵の反撃を防ぐために日没直前に張り巡らされた有刺鉄線。これが敵の狙撃手の侵入を困難にさせる。(1945年6月24日撮影) The rolls of barbed wire, strung up shortly before dusk, will help prevent an enemy counterattack during the ni…

1945年 6月21日 『米軍の「沖縄作戦」終わる』

米軍の「沖縄作戦」終わる 『沖縄作戦は82日間にわたる戦闘の後、1945年6月21日に終わった。豪雨と困難な地形に加えて、狂信的な敵が複雑な洞窟網に拠って頑強に抵抗したため、この戦いはアメリカ軍にとって史上最大の激戦のひとつとなった。 ---「沖縄作戦…

1945年 6月20日 『方面軍からの感状』

後方で進む基地建設 米軍は、沖縄に上陸した直後から、前線では戦闘を、後方では基地建設をした。これは、日本本土への出撃基地とするため、また、沖縄での地上戦の足場として、航空基地建設、補給路確保のインフラ整備が必要なためである。 ピカピカの威容…

1945年 6月19日 『無敵皇軍参謀たちの最後の姿』

新・第10軍司令官 『バックナー中将の戦死は、第10軍参謀長からニミッツ元帥に報告され、…19日、第3海兵軍団長のR・S・ガイガー少将が中将に昇進するとともに第10軍司令官に任命された。海兵隊の将官が軍司令官に任命されたのはこれが初めてだった(ビーニス…

1945年 6月18日 『バックナー中将の戦死』

バックナー中将の戦死 『6月18日の昼すぎ、第10軍司令官バックナー中将は、真壁付近に布陣する第2海兵師団の前線観測所に立ち寄って海兵隊のさいごの進撃状況を視察中、日本軍の47ミリ対戦車砲の一弾が岩の下部に命中し、相次いで五発の砲弾がとんできた。砲…

1945年 5月28日 『最前線に戻った海軍部隊』

首里に迫る米軍 『5月の末、戦線が首里のまわりに固まるにつれて、首里の町にいちばん近くなったのが、北西部から進んできた第1海兵師団と、北および北東の方角から攻めてきた米第77師団であった。偵察隊の報告によると、日本軍の首里防衛の火力は、いささか…

1945年 5月14日 『“戦力”として必要』

米軍の総攻撃・4日目 第6海兵師団第22連隊第1大隊が防衛する前線での第10軍総司令官バックナー中将と第6海兵師団司令官シェパード少将。2人の司令官はこの地点から初めて、共に那覇の町を眺望した(1945年 5月14日撮影) LtGen Buckner, Command General of …

1945年 5月12日 『今帰仁村での住民虐殺』

米軍の総攻撃・2日目 西部〜中央戦線 シュガーローフ: (52高地) 『海兵隊がはじめて首里の東側、真壁との間にある高地シュガー・ローフの日本軍に遭遇したのは、5月12日であった。第22海兵連隊のG中隊は、戦車11輌を先頭に、安里川のほうに向けて南進してい…

1945年 4月26日 『前田高地の激闘始まる』

南進する米軍 城間(ぐすくま):「アイテム・ポケット」 『アイテム・ポケットでの死闘は、26日もくりかえされた。米軍はあらゆる方角から、このポケット陣地の心臓部めざして肉迫した。だが、それに応じて損害も大きくなる一方だった。第165連隊が攻撃を開始…

1945年 4月25日 『津堅島と北部山中の悲劇』

南進する米軍 幸地(こうち) 『西原村にある178高地から真南およそ3キロのところに、ひときわ高くそびえている円錐形の丘があった。日本軍はこの丘から海岸沿いの通路を守っていた。…翁長の西方2キロのところに幸地村落があり、この二つの村落のあいだに高台…

1945年 4月18日『戦場の女性たち』

本部半島制圧 『17日も八重岳の北側で激しい戦闘が続いたが、18日の掃討作戦でほぼ本部半島を制圧した。このとき、真部山陣地などから多くの日本軍文書を押収し、捕虜や民間人の尋問などと合わせて国頭支隊の構成を把握した。』(93頁)《名護市史本編・3「名…